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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
秋田キャラバン1班が、9月10日(月)に伺った証言の概要です。
秋田市内で立て続けにお話を伺っていました。
メーリングリストより転載します。


◎川井金光さん(91)
取材日:平成二十四年九月十日
所属:36師団歩兵第223連隊(雪3524)第六中隊
兵科:歩兵
戦地:北支(山西省)
―――――――――――――――

○大正十年六月二十六日、秋田県生まれ。

・実家は農家で八人兄弟。
・高等小学校を出てから、鉱山の鉱石を運ぶ馬車引きをしていた。上等兵で除隊した人と一緒に働いていて、「なあ川井、兵隊さいくなら、軍人勅諭は五箇条だけでねえよ。全文暗記していけ」と教えられた。これが大変だった。ほとんど全文暗記する人はいなかった。
・兄が徴兵検査で不合格になってしまった。「あそこの家から誰も兵隊に行っていない」というとになるので、憧れもあり航空兵に志願することに。

○十八歳の頃、埼玉県所沢の陸軍少年飛行学校に合格。

・学校へ行ってから体育のテストを受けたところ、不合格になって帰されてしまった。
・翌年、秋田の十七連隊に入隊するよう命令された。

○昭和十四年十二月、秋田歩兵十七連隊に入営。

・毎日ビンタで軍隊教育はすごいと思った。

○昭和十五年一月十五日、中国の歩兵第223連隊へ移動。

・塘沽に上陸し、山西省の路安の連隊本部へ。
・その近くの白村という部落で初年兵教育を受ける。
・明日誰が死ぬかもわからないので、内地にいるより教育は楽だった。
・大きな作戦が始まって、古兵がほとんど行ってしまった時に敵襲を受け、対峙して撃ちあいをやった。友軍の山砲が後ろから撃ってくる。それがどういうわけか敵ではなくこちらに落ちてきた。こりゃ大変だ、なんとかせねばとなって、「誰か日の丸持ってねえか!日の丸!」、。鉄兜の中から出征の時にもらった日の丸をだして、銃に結んでやったが、敵の格好の標的になって狙撃された。持っていた銃の木の部分を撃たれて、左手の小指がポロンと落ちた。青森出身の山田班長が「このクソ!来いこの馬鹿!なにやってんだお前!敵の目標になるだけだ」と言って、指を拾ってきてヒモで巻いてくれた。おかげで指が助かった。
・また別の作戦に古兵が行っている時、山の頂上の廟から敵が撃ってくるので、友軍の機関銃の援護を受けながら登った。日本軍はどういうわけか突撃するのが好き。とうとう上に行くと、日本軍にやられた死体がものすごい。ひどいもの。昼だからご飯を食べようとなったが、とても喉を落ちていかなかった。生臭いにおい。
・ある兵隊が実を食べるため、たこつぼを飛び出して桑の木を上り始めた。「降りてこい!今、今弾が当たる!」と言っても下りて来ない。そこに敵の迫撃砲が撃って来た。砲弾は彼のいた穴に落ちて、彼は助かった。この時は笑った。
・なにを聞いても答えない捕虜を、見習士官が自分の軍刀で試し切りをすると言って、水筒の水を軍刀にかけて斬ってしまったことがあった。
・ 初年兵教育が終わってから、盧溝橋の教導学校で下士官教育を受け、伍長に任官。
・汽車で盧溝橋を通った時、墓標が多く建っているのを見た。これだけの激戦があったんだなあと思った。
・任官後、”とんりゅうけん”(※屯留県?)で警備をしながら初年兵教育、下士官候補者の教育、幹部候補生の教育を行った。
・学校での成績が良かったから教育係になったらしい。
・中隊の周りには歩哨を立てる。一時間おきに交代するが、そこにいく途中がまずかった。中国の地形は日本と違い、角ばっている。崖の上から中国兵が手榴弾を投げてきて、怪我をしたり、亡くなったりがちょいちょいあった。
・蒋介石軍と八路軍と日本軍の三つどもえ。
・”とんりゅう”にいるとき、五、六人の住民が衛兵の前にやってきた。土に膝をついて「大人!」と言って、なにかをお願いしている。満州の学校で中国語を習った兵隊が通訳するところでは、「女の人が子供を産めなくて死ぬところだ。何とか助けてもらえないか」ということだった。中隊長は軍医少尉に「おい、せっかくこうして住民が来ているんだから、行ってやれよ」と言った。軍医少尉は外科で産婦人科ではないと断ったが、中隊長は笑って、「うんそうか、だけれども、何か助けになる程度でいいからどうだ」。
・軍医が行けば護衛もいかなければならない。自分の班が選ばれてついていくと女性がウンウン唸っていて人がいっぱいいる。これは手術するよりしょうがないとなって、軍医が帝王切開をして、子供も母親も助けた。三日くらいたって帰ると、中隊長が軍医に「お前今度は産婦人科の医者になったらどうだ」と言っていた。
・住民はお礼に酒と鶏三羽を馬車に積んで持って来た。翌日も持ってくる。それが四、五回も続いたので、反対に米を持たせて返した。
・幹部候補生の教育が終わり、連隊本部から帰ってきて一週間ほどたつと、当番兵がやってきた。「中隊長殿がお呼びです」。中隊長のところへ行くと、「ここ座れ、お前は教育畑ばかり歩いてきて、こんどおもしろい作戦があるからいってみないか」と言われて、「そうですか、ぜひ一つ」ということになった。

○昭和十八年、十八夏太行作戦参加。

・兵隊を二個班三十名くらいを連れて、ほかにも各中隊から集まってきていた。
・青森、山形、秋田の連隊が参加。
・山西省を治める中国の将軍を捕まえに行く作戦。万里の長城のふもとの町に中国軍の司令部があって将軍がいるということだった。
・捕まえるのが目的なので、戦争はしない。
・路安を出発。昼は小高い所で眠って、夜だけ歩く。
・敵に見つからないように布の靴を履いて、月の光が反射しないように、銃剣には袋をかぶせた。
・ある夜(夕方頃)、中国軍の本部のある一キロほど手前の所で、小高い丘に立っている敵の歩哨に誰何された。ハッと思ってみんな伏せた。その歩哨がおもしろいことに、あちこちをぐるぐるまわって「誰!誰!誰!誰!」と早口で連呼する。これは最近生活に困って入隊した兵隊で、まったく訓練されていないなと思って、「よし!こいつを捕まえよう」となった。
・歩哨のそばへ近寄って、「誰!」と言って飛び出した。すると歩哨は叫びながら夢中で走って行った。追いかけたが、背嚢を背負っていたので中々追いつけなかった。
・「これは仕方がない。小哨があるから深追いしちゃいけないな。背中を銃剣で突いても死なないし、場所が聞ければいいから転べばこっちのもんだ」と思いながら、鉄砲を掴もうとすると、バーンと飛ばされてしまった。ハッとすると右足が痺れていて、間接のところから血が噴き出していた。
・敵の分哨からチェコの軽機関銃三挺が一斉に撃ちだしていて、その一発があたってしまったらしい。
・手榴弾を持っていたので、これを使えばあの軽機をとれるんじゃないかなと迷っていたら、中国兵が突然叫び声を上げ、後ろに走っていなくなってしまった。なんだろうなと思って見ると、五十メートルくらい先に山形の部隊が大量に散開して進んできていた。
・伏せていると、「あ!敵だ敵だ」「敵じゃねえおれだよ」「どこやられた」「足やられちゃった」。みんながやってきて、持ってくれて、下の低い場所まで運んでくれた。
・朝七時頃担架に乗せられて、十三時頃野戦病院に着いた。その間上空を飛行機が護衛してくれ、一個班が代わる代わる担架を担いでくれた。
・野戦病院に着くと、手術台の上に乗せられた、軍医大尉だったと思うが「いや~、ご苦労であったねえ。ここへきたら心配ないよ。大丈夫だからな。随分と難儀したねえ。よし、あれ持ってこい」。「あれ」ってなんだろうと思っていると、衛生兵がコップにチャンチュウを入れてもって来た。「ご苦労であった。まずこれ一杯飲めよ」とごちそうになった。
・ごちそうになったはいいが、酔っぱらってきた。「軍医殿、酔っぱらってきて、歌っこ歌いたくなってきました」「ああ、良い良い、秋田音頭でも歌えや」。みんな笑っていた。
・この時、太い注射器で肉と骨とを離すために空気を注射された。
・一週間ほどして路安の陸軍病院に送られることになった。トラックに高粱殻を敷いて、その上に担架を載せ、悪路を吹っ飛ばしていく。「なんとかならねえか」、「いやあ我慢して下さい。近くに敵が来てるって情報が入ったから」。あんな痛い思いをしたことはなかった。
・路安の陸軍病院で本格的な治療を受け、それから太原の陸軍病院、北京の陸軍病院へ送られた。北京郊外の元蔣介石の別荘が陸軍の保養所になっていて、ここに一年近くいてから、大阪の陸軍病院、金沢の陸軍病院へと送られた。
・金沢の陸軍病院で「院長がお呼びですよ」と呼ばれて行ってみると、「いやあ、川井、お前も知っている通りいよいよ本土決戦だ。お前のように敵の前で経験豊かな兵隊が、ぜひもう一度指揮してやってくれ」と言われた。それから、垢だらけの軍服を貰って秋田の十七連隊へ帰った。
・十七連隊に着くと、連隊長に「よかあ帰って来たなあ。せっかく来ただから、家へ行って少し静養して、親戚達もいるだろうしゆっくり一週間も遊んでこいよ」と言われた。
・期限のない外泊証明書をもらって、家へ帰ってどぶろくを飲んだり毎日集まっていた。ところが三日目、朝起きてくると父親に「なあお前、こんなことしたって駄目だよ。いつ軍隊さ帰るんだ」と言われた。これじゃあまずいとなって、駅から十七連隊に電話をかけると、
「お前の留守隊は秘密だとよ。そうか、わかったじゃあ来るか」ということになって部隊に行った。

○昭和十九年、秘密の部隊に。

・部隊に着くと連隊長に、秋田なまりのズ―ズー弁で「良く来たねえ」と笑われた。
・秋田から静岡の浜名湖へ移動した。
・浜名湖にはよく日本の飛行機が米軍機に撃ち落とされてくる。それをはしけを使ってロープで引き揚げて中の遺体を収容するということをやっていた。
・しばらくして、九州に敵が上陸するということで宮崎県の延岡へ移動した。
・近くに飛行場がある町。飛行機はなかったが、毎日米軍機が爆撃に来る。朝、暗いうちちから板で飛行機を作った。塗料を塗って並べておく。するとまた爆撃をされる。爆弾を消耗させるためだった。、
・初年兵教育で射撃訓練をやっていると、敵機の編隊が来て機銃掃射した。芋畑で蔓をかぶっていたが、初年兵は動く。「たすけてくれー!」と叫んでバタッと倒れる。機銃掃射はひどいもので、内臓が吹っ飛んでしまっていた。
・そばにあった爆弾庫もやられてしまった。こういう情報まで敵に筒抜けだった。

○昭和二十年八月、終戦を口づてで聞いた。

・あ~よかったなあと思った。
・秋田へ帰る汽車は人がいっぱいで乗れない。窓にロープを通してぶら下がっていた。トンネルか電線にぶつかって死ぬ人もいた。
・戦後、戦友の遺骨収集にニューギニアへ行った時はすごかった。遺族のお母さん方が夢遊病みたいに歩いて、椰子の木にぶつかって額から血を流したり、遺児の人が「おとー!どこにいたか!どうしたかー!」と叫びながら、あちこちを素手で夢中で掘っていた。

●終戦時、陸軍歩兵曹長。
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