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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
今年のゴールデンウイークに行った群馬・栃木キャラバンで聞き取りをした方の証言概要です。
4月28日(土)にケアハウスでの聞き取り後、5月6日(金)に再訪しての聞き取りだったようです。


◎山田三七吉さん(92)
大正八年生まれ
取材日:平成二十四年五月六日
所属:騎兵第一旅団騎兵第十三連隊(横田部隊)第三中隊~在青島・北京・天津領事館警察
兵科:騎兵
戦地:蒙古(ハイラル)~北支
―――――――

○大正八年八月十四日、群馬県生まれ。

・実家は農家。
・小学校卒業後、青年学校に。

○昭和十一年、騎兵連隊に志願。

・少年航空兵になろうと思っていたが、親戚の陸軍中尉から騎兵を進められて志願することに。

○昭和十二年二月、騎兵第一旅団騎兵第十三連隊第三中隊へ志願入隊。

・広島から乗船して大連へ行き、鉄道でハイラルへ。ここで教育を受ける。
・横田部隊尾高隊。
・隣には十四連隊が駐屯していた。
・騎兵連隊は四個中隊で二個大隊。
・一中隊が「イ」、二中隊が「ロ」、三中隊が「ハ」で軍服の左腕にマークが縫い付けてあった。
・班ごとに厩があり、それぞれ厩当番が二人いて、朝昼晩と馬の手入れをする。
・「群越」という名前の馬に乗っていた。自分以外の人が乗っても動かなかった。
・馬糧が山のように積んであり、その裏で制裁を受けた。
・四四式騎兵銃を使用。

○昭和十三年六月、北支出動。

・北京まで鉄道で行き、徐州の方へ行った。
・帰徳に連隊が一時駐屯。
・敵がいると言う情報を聞いて駆けつける。強力な敵がいたり、いなかったり
・”たいこう”、”たくじょう”あたりで残敵掃討をしながら帰徳に戻った。
・黄河の堤防が破壊されて洪水になっていた。
・食糧がなくて三日四日食べれなかった。草を食べる馬がうらやましかった。

○昭和十四年二月、内蒙古へ。

・中隊ははじめ”さらち”。それから保塁へ。
・”さらち”の先に包頭があった。
・”しゅうてんびょう”という国境に近いところに交代で警備に行った。
・敵は傅作義軍。正規軍で日本軍と同じような装備。五原にいた。

○昭和十四年五月、第一次ノモンハン事件。

・連隊から人員が抽出されて編成した「東部隊」が出動。班長がこの部隊に配属されてノモンハンに行った。

○昭和十四年十二月~、国民党軍の冬季攻勢。

・日本軍部隊が作戦に出た間に敵が包頭を包囲。その救援に出動する。
・自動車で陰山山脈を越えて向かい、包頭への途中で包囲していた敵に遭遇して三日間の激戦に。
・このときが大変だった。
・城門も占領されていてそこに向かって行く。
・白兵戦で取っ組み合いで戦死している者もいた。
・食事なんかできなかった。
・恐ろしくて、民家の竃の中に入って助かった人もいた。
・飛行機ががんばれと通信筒を落として行った。
・作戦に出ていた日本軍部隊が帰ってきて、国民党軍は引き揚げた。
・戦いが終わると死体がいっぱい。
・友軍の遺体は火葬しする。正常な人間の感覚がもうない。死体を焼くそばでご飯を食べた。何も感じない。
・敵の死体はそのままで、あっちにもこっちにも山になっている。
・新聞には包頭の敵を掃討したと小さく書いてあったが本当は逆。
・当時日本は勝った勝ったと言っていたが本当に勝っているのかと思った。
・分隊で無傷だったのは二人。慰霊祭をやった時には遺骨の方が多かった。


○昭和十五年一月、五原作戦。

・傅作義軍の本拠地を叩くために五原【※現内モンゴル自治区バヤンノール市五原県】へ。
・一部では激しい戦闘があったようだが、包頭のような戦いはなかった。五原の近くの兵舎で何人か捕まえたくらい。

○昭和十五年二月、除隊。

・青島を経由して日本に帰る。
・青島は想い出の町。青島で働きたくなった。
・一カ月二カ月して外務省警察官の試験を受ける。
・夜、街灯の下で勉強していた。
・多くの人が受けていてこれはだめだと思った。
・何百人受けて三百五十人が合格。三百五十人中一番の成績だった。
・渋谷で一カ月間準備教育。
・成績の上から三番目までは特別昇給がでた。

○昭和十五年七月ごろ、青島へ。

・領事館警察は在留民を保護する。当時は日本に治外法権があったから警察の仕事ができた。
・検事事務取扱刑事がいて逮捕してきた容疑者を内地に連れて行って裁判する。
・日本人も中国人も逮捕していた。
・青島では刑事係の巡査だった。
・日本人居留地と競馬場を結ぶバスに張り込み、中国人のスリを捕まえたことがある。
・日本人が殺された事件もあったが犯人は捕まらなかった。中国人がやったのだろうと思う。
・給料は月120万(円?)くらい。
・軍隊にいた人が多かった。軍隊と同じ装備。警部あたりは小隊長、警部補は分隊長くらいにあたる。

○昭和十六年十二月八日、大東亜戦争開戦。

・青島にいたアメリカ人やイギリス人を上海まで送った。

○北京大使館警務部へ転勤に。

・教習所の助教になる。
・休憩時間になると教習生に流行歌を教えていた。これが戦時に不謹慎だと問題になった。ずっと緊張してばかりいると何か起きた時に大変なことになると反論して上司と喧嘩に発展。これが原因で天津に飛ばされることになった。

○天津領事館警察功績調査係に。

・警察官一人一人の功績表を作っていた。
・最初は「とんでもない奴がきた」という風に見られていた。

○昭和二十年八月十五日、終戦。

・くやしい気持ちでいっぱい。こんな戦争はやるべきじゃなかったと思った。
・負けたとは思っておらず、天津に駐屯している若い将校たちと連絡をとって、米軍の集結地に爆竹を鳴らしに行った。
・引き揚げ者が天津に集まった。芙蓉小学校が集結場所で、そこから塘沽の貨物廠へ車で運ぶ。
・ガソリンがなくなって、八路軍がたくさんいる中を完全武装し、河の近くに集積されたガソリンを運んだ。このことで総領事館の一番偉い人に「よくやった」と褒められて、証書までもらった。
・共産軍がいる中、重慶軍が徐々にやって来た。
・中国人の態度が変わった。露天で買った子供用の粉ミルクが偽物だったので文句を言ったら襲われかけたことがある。

○昭和二十一年五月、塘沽から引き揚げ船に乗船。

・日本に二人を連れて帰った。一人は天津の憲兵隊長。もう一人はおじいちゃんで、汪兆銘の部隊の顧問。日露戦争の時にロシアに潜伏して鉄道爆破を行った沖、横川ら特務機関の関係者。迎えに行った時、「内地に帰っても仕方がない。このままでいいから」という。なんとか連れて帰った。
・佐世保に上陸。アメリカ兵が近づいてきた。戦犯で逮捕されるのかと思ったが、「いいヒゲだな」と褒められた。
・汽車で帰郷。
・帰ってきてから警察に就職。戦犯渉外係になり、戦犯を探すことになった。
・自分が戦犯だと思っていたので、あまりやりたくなかった。
・戦時中、某所で米軍飛行士を殺してその人肉を食べたという事件の重要戦犯だったTの捜査にをあたる。
・Tは遺書を自宅にのこして青森で身を投げたということだったが、長々と書かれた遺書がどうも怪しいと直感。調べると東京にいた。
・部隊長の命令でやっただけだから大丈夫だと説得して連れていった。思った通り罪にはならなかった。

●除隊時、陸軍軍曹。
●終戦時、巡査。
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