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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
青春18切符の旅2011夏、8月19日(金)に伺った証言の概要です。
大学生メンバーが安曇野に滞在した折、たまたま近所にお住まいだということがわかってお邪魔したという状況だったようです。
昨年のメーリングリストより転載します。


◎矢口元貞さん(93)
取材日:平成二十三年八月十九日
所属:歩兵第三十連隊~原田部隊【※歩兵第二百十五連隊?】~中支の独立大隊~【百五十二師団?】
兵科:歩兵(重機関銃)
戦地:中支~ビルマ~中支
―――――――――――――

○大正七年十一月二日、長野県生まれ。

・農家出身。
・青年学校で教練を受けた。
・徴兵検査で甲種合格。

○昭和十三年十二月八日、現役兵として高田歩兵第三十連隊に入営。

・この時には雪が降っていた。
・第一機関銃中隊。一中隊は四班まであって、一班に入った。
・雪の中三カ月雪中演習場で訓練した。
・寒さで手が凍傷になってしまった。
・ある日、外地に派遣するということで軍装検査があった。背嚢を背負っていろいろ持って中隊長の検査を待っている間、凍傷で手が震えていた。すると、中隊長が自分の前に来た時に「お前のその手は何だ。ちょっと衛生兵を呼んで来い。この兵隊を見ろ、凍傷をおこしたる」と言い、それから練兵休になった。

○昭和十四年四月、高田から新潟まで汽車で行って、新潟で輸送船に乗船。

・どこにいくかわからない。日本海は荒れていた。
・船は揚子江をどんどん遡って行き、武昌に上陸。破れた学校に駐屯した。
・「どこにいくんだあ」と話をしながら、二晩か三晩泊って汽車に乗り、”咸寧”へ到着。
・咸寧には六師団の連隊本部があってそれと交代し、第一機関銃中隊は分散して駐屯・警戒に当たった。
・”咸寧”に行った時はこれが戦地かと思うほど静かな所だった。敵が出始めていたが、戦争にはならなかった。
・約一カ月連隊本部の護衛任務。それから暑い中行軍で咸寧から南の方に十里くらい離れたところに行って、そこで警戒に当たった。
・六師団の歳をとった古兵と交代した。その古兵達はどこでガメたかしらないが豚を背負っていた。
・第一機関銃なので、何かあるとすぐに命令が下された。
・しばらくして三中隊へ配属になって場所は忘れたが移動した。そこには新しい軍服を着た一つ星の兵隊が大勢いたので、支那人の兵隊に「少年義勇軍」と馬鹿にされて毎晩のように夜襲があった。
・小隊長は気合のある人だった。
・ちょっとした丘が監視所になっていて、中隊は民家にいて交代で警戒していた。
・交代になって陣地に着いて、仮眠しろと言われても夜襲を食らうので眠れない。
・敵が手榴弾を投げつける所まで来る。そこに重機をぶっ放すと逃げてしまう。むこうもおっかない。明るくなると敵が逃げて行くのが分かる。そういうことを何回か繰り返した。
・機関銃は九二式。装填手だった。
・九二式重機はむこうもおっかながった。
・機関銃は当たる当たる。けれど戦場に行くとそれほど当たらない。
・射撃場では十発撃って十一発当たるくらい当たった。
・明るくなってくるとわかるけれどもそう当たるものじゃない。
・夜襲にもちゃんと対応したのでちょっとでもとられた陣地はなかった。すると、「少年義勇軍は強い」と中国軍の方で名前が出て、それからは状況がいくらかおとなしくなった。
・このときに写真をとったが、疲れてやつれて顔つきが変わってしまっていた。

・大きな作戦があると武漢三鎮にいって、あちこちに行った。
・鉄砲をもってはじめて戦場に行くとガタガタ震える。
・夜、重機関銃を尾根に据えて休憩している時にパパパーンと音がした。このとき初めて体が震えた。あわてて機関銃に飛びついたが自分一人だけ。後の者はガタガタ震えていた。
・初年兵の頃、ある山を占領しようと、日本軍が日の丸の旗を立てて登る。そこにむけて敵が手榴弾を投げてきた。投げ込む敵に重機関銃で掩護射撃。弾薬手をしていた。小隊長が張り切って「よし!あの山を占領しろ!」と言って、重機関銃を背負って駈け出した。分隊長の後ろについて走る。敵が逃げた後の峰に着いた。四番の銃手が来たので弾を装填したが、目の前に丘があり撃てなかった。
・分隊長が「おいおい、銃を前出せ」。頭上をビュービュー弾が来ている。初年兵の自分がすぐに前に出て重機を設置。同年兵が弾薬箱を持ってきて、蓋を開けて弾を出して重機に装填すると、「やられた!」。その同年兵の横腹に兆弾が当たった。
・すぐに敵の掘った壕に引きずり込んで包帯を出したがやりようがないので、山をひきずっておろして後の人に任せた。その人は今も生きていて元気。
・内地から送られてきた米が主食。朝鮮のものだという米が送られてきて食べた記憶がある。青い小粒なものだった。
・おかずはあったりなかったり。前線へ行くほどおかずがなくなる。
・後方から物資は送られてきていて、足りない物を徴発していたのではないかと思う。
・炊事場で苦力を使っていた。
・戦闘に行く時は苦力を捕まえてきて徴発する。そして弾薬や食糧の運搬をさせていた。戦闘部隊のすぐ後ろで運ぶ。
・ご飯時になると兵隊は飯盒炊爨するが、苦力はどうしていたかわからない。民間の家に入って泥棒していたのか。お金を払っていたのかはわからない。
・纏足の女の人が子どもを連れてよぼよぼ歩いてやってきて、日本軍の残飯をあさっていた。
・戦場に行くと殺伐とした気持ちになる。自分でも疲れてくる。なにくそという気持ちもあるし、望めば誰しも鬼になる。
・捕虜を捕まえたし殺した。

○昭和十六年のある日、九江から輸送船に乗り、揚子江を下ることになった。

・輸送船は貨物船を改造したもの。一番底には馬、その上にはいろいろな道具、その上に兵隊が乗り込んだ。
・南京には「大東亜戦争勃発」と書かれたアドバルーンが上がっていた。「おいおい、こりゃ南方へ行くのかな」
・南方は光線が強いということを聞いて色眼鏡を買った。
・台湾の澎湖島で日本の輸送船が集結して南方へ。
・えらい船団。輸送船が数えきれない大船団。
・船はタイに着いて、河をどんどん進んだ。そして名前は忘れたがタイのどこかで下船した。
・降りてから薪を焚く列車に乗った。乗っていると火ぼこりが舞って来た。
・二晩か三晩北上した夜、どこかに着いた。夜だというのに大歓迎で、現地人が椰子の木に登って椰子の実をとってきて飲ませてくれた。
・ここから橋を渡ってビルマに入って順に山に登った。一週間くらい山を通ってビルマに入り込んだ。山を下ると平原へ出た。平らな道があって、そこには大きな川が二筋も三筋もあって、小さな船で渡るところもあった。
・ビルマに入り込んでいったが、いよいよ戦争がはじまるというところになって、下痢を起こしてしまった。これでは第一線にはいけないので、中隊と分かれて荷物監視に残ることになった。
・そのうち「いろんなことがあるから上等兵を出せ」という命令が来て、それに選ばれてしまい、前線へ出されずに分隊と別れてせつなかった。その後、分隊長は戦死して初年兵も二人戦死した。
・それからは野戦倉庫の管理や警備。
・倉庫には籾を山ほど積んであった。それを精米にして玄米にして送ったことがある。
・ビルマは平凡なところ。
・娼婦が公然と自分から兵隊に体を売りに来ることがあった。
・食べ物は日本からくる。まれに日本酒もきた。
・そのうち、現役四年は気の毒だからということで、除隊になった。ビルマから高田へ帰って召集解除。
・除隊してからは農業に従事。

○一年三ヶ月後、再び召集。

・南京のちょっと上にいったところにあった独立大隊へ。第一線に出る部隊ではなかった。
・揚子江に背嚢を背負った日本の兵隊が流れてきて、「おい、こりゃえれえところにきたなあ。こりゃえれえことだ。こんなことはねえと思っていたが」と友達と話した。
・長沙のすぐ前まで歩いた。【※湘桂作戦か?】
・道路が切断されていて、それを直したりする役目をやった。
・長沙の手前までいった時に下痢を起こしてしまい、バラックみたいなところに入院することになった。
・下痢を起こした患者が二十人いた。
・自分で飯盒炊爨して薬を飲むが、いい薬はなかった。
・しばらくして病人を後送することになったが、衰弱して一人で歩けなかった。軍医に「お前、しっかりしなけりゃ参っちまうぞ。なにしろお前が一番指揮していかなければならんのだから」と言われた。
・担架にのったり歩いたりして、長沙にいった。
・長沙にいってみたら瓦礫っきり。人なんか一人もいない。
・中に入るとおばあさんと子どもが何を食べているのか知らないが自炊していた。そういうみじめなざまだった。
・船が出されて、やっとやっと乗って同庭湖に出て武昌に退がった。
・腹が膨れてしまっていて、軍医に「でっかい腹してるな~」と言われた。
・伝染病棟に看護婦二人に運んでもらった。
・病棟に着いて看護婦に「俺は何て病気なんだ」ときいたら「班長さん、気を付けなければいけない、心臓脚気だよ」「心臓脚気はこんなもんかい。死ぬかい?」「班長さんは元気がいいねえ。持つかな。」と言われた。
・伝染病棟の穴あきベットで寝ろと言われた。どうしても嫌だったので「俺は俺でもってやるよ」と言って通した。「いい心臓だねえ」と言われた。
・心臓脚気は大根おろしとか野菜の新しい物を食べればいいと言われて、やっとのことで伝染病棟の婦長さんに頼んで、大根おろしを食べた。体力がないから薬が効かなかった。
・夜中に自分の病状があぶないと誰かが申し入れて、衛生兵が探しに来た。「ここだ、まだ死なねえ」と言ったら「おいしっかりしろよ。お前は元気がいい」と言われた。
・一週間くらいしてから小便が出るようになった。
・芸術家が踊りや歌などの慰問をしてくれた。
・約二ヶ月くらい入院して、武昌の病院から南京の病院に後退した。それから戦況が悪化したので、患者は内地に送られるようになった。
・南京に一週間、奉天に四日五日、担送で送られて九州に上陸。金沢の病院で退院。
・退院して松本五十連隊に復帰。ここで”ごたく”部隊が編成されて編入。千葉県へ。【※百五十二師団か】
・千葉で穴掘りをして、さんざん土方をやった。
・分隊長になっていて、部下に六、七人いた。
・分隊ごとに農家に泊まって、農家の離れで生活していた。
・土地の人と仲良くなった。泊まっていた宿舎の爺さんが面白い爺さんで、「どうだ班長、隣の鍛冶屋は刀を打つのが上手だ。班長も一本打ってもらったらどうだ」と言われて刀を作ってもらったことがあった。
・東京の大空襲を利根川からみた。曳光弾が見えた。

○昭和二十年八月はじめごろ、軍曹に進級。

○昭和二十年八月十五日、終戦の時はトンネルを掘っていた。

・終戦になると弱兵はすぐに家に帰した。分隊からも一人帰した。煙草がない時で煙草の葉っぱを見つけて持たしてやった。
・若い将校は「俺の荷物を山に持って行け」と力んだが、力んだだけで助かった。
・終戦から十日ぐらい残っていろいろ手伝いをした後、もらえる物をリュックにつめて帰った。

○昭和二十年八月、復員。


●終戦時、陸軍軍曹。
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