FC2ブログ
あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
青春18切符の旅2011夏、8月23日(火)午後に伺った証言の概要です。
大学生メンバーが関西キャラバンと合流していた時期です。
去年のメーリングリストより転載します。


◎佐野岩男さん(86)
所属:第八航空教育隊(中部九十八部隊)~第一錬成飛行隊(紺520)
取材日:平成二十三年八月二十三日
兵科:航空兵(整備)
戦地:内地
――――――――――――

○大正十四年二月八日、滋賀県生まれ。

・工業高校卒業。
・六カ月間鈴鹿の海軍工廠にいた。
・第一期特別幹部候補生に志願。
・早く軍隊に行こう。と思っていた。

○昭和十九年四月十日、第八航空教育隊入隊。

・中部九十八部隊が教育隊。一期の検閲が終わった人が第八航空教育隊”はちきょう”に入る。
・八日市では戦闘機や重爆撃機などに分けられ、それぞれの教育を受ける。
・戦闘機の整備。
・教育に使っていたのは97戦。
・八教では九個中隊あって、爆撃機だとか偵察機だとか通信などに分かれていて、二個中隊が戦闘機だった。
・朝鮮からきた隊員が五人ばかりいて、優秀な人が多かった。戦後朝鮮の軍の幹部になっていた。

○昭和十九年七月、転属。

・東北へ。
・ちょうど東北で大水害があった直後でひどい状況だった。

○昭和十九年九月、第一錬成飛行隊(紺520、東部百三十三部隊)に転属。

・神奈川県中津村。
・「一錬飛」と呼んでいた。
・少年飛行兵の十四期、一五期、一六期までがかかわって訓練していた。
・特別操縦見習士官の学徒兵も訓練に来ていた。
・戦闘機の構造だとか、機能だとか基礎教育を三カ月くらい叩きこまれる。
・基礎教育が終わると、それから戦闘機の機付けになる。
・機付長に加えて二人付く。
・錬成飛行隊では中隊ではなくエンジン、電気、通信と専門で分かれていた。
・兵舎は分散していて、一つの兵舎に七人か八人くらい入っていた。
・配備されていたのは四式戦闘機「疾風」。
・エンジンももちろん大きい。
・ハ45、9気筒複列、18気筒。
・1気筒にプラグが二つ付いていて、プラグの数は36個になる。
・プラグが配電盤で順番に点火していく。
・プラグは質も大分落ちていた。
・プラグが痛むと、エンジンの調子(音)が変わる。
・気づいて分かるくらいだったら、二つ三つも痛んでいた。
・エンジンの試運転をさせても、どのプラグが悪いのかはわからない。
・ベテランがドライバーをエンジンに当てて音を聞いて、「シリンダーの何番目くらいがあかんなあ」と診断する。熟練するとわかるようになる。
・調子の悪いプラグは分解して、部品を寄せてまた組んで使う。
・稼働率は落ちていた。
・飛行機に余裕がない。
・調子が悪いと寝るどころではなかった。
・特に整備する飛行機は決められていなかった。試験飛行をして調子の悪い機体を扱う。
・始動車を使ってエンジンを始動させる。エンジンを始動させたらすぐ離れなければならない。
・入隊したばかりの新兵で、まだ心構えの十分出来ていない者が、エンジンをかけた直後に離れずに始動車に轢かれて、すぐに東京陸軍に送ったが肝臓破裂で亡くなった。
・いつでも動かせるように掩体の前で一日一回必ず試運転をする。
・整備している飛行機はしょっちゅう訓練に出る。
・「今日は何号機と何号機と何号機は訓練に出す」と言われると、すぐにパイロットが走って行った。
・錬成飛行隊なので事故が多い。
・離陸する時にその距離や速度をミスしたりしていた。
・訓練中に亡くなる人も多かった。
・飛行場を離陸してすぐ墜落した人も何人かいたし、悪天候で操縦を誤って八王子の山に突っ込んだり、東京湾に落ちた人もいた。
・教官はほとんど第一線帰り。

○昭和十九年十月ごろ、

・本部から邀撃命令が出て、訓練機でも戦闘に必要なものを積んで飛びだすようになった。
・このころから飛行場に飛行機を置いておけなくなって、周囲の桑畑の中にを作ってその中に飛行機を入れていた。
・綾瀬の海軍の飛行場を米軍機が攻撃していて、その流れで中津飛行場も攻撃された。
・硫黄島からやってきたP51の攻撃を受けた。
・バリバリ撃って来る。
・飛行場を歩いていたらやられて、地面に伏せたことがあった。
・24、5歳の兵隊が完全にやられて、コンクリの側溝に身体を突っ込んで倒れていたこともあった。
・空中炸裂弾で攻撃される。その破片が剃刀のようで、破片でも当たると危ない。
・飛行機の操縦席に入ってエンジンを試運転している最中に近くに爆弾が落ちてきて、破片が操縦席の左から胴体を突き破って膝に当たったことがあった。

・沖縄特攻に行った操縦士もいた。
・訓練の時には顔を合わせていた。
・出撃の命令がかかると、パイロット達が整備兵のところまで挨拶に来る。
・「お世話になった」と必ず来ていた。
・落下傘を手ぬぐいよりちょっと大きめに裂いて、いろんな整備兵達が各自「必中」「必沈」「成功を祈る」などと自分の血で書いて、血染めの鉢巻きをこしらえて隊員に渡した。
・一錬飛から編成された特攻隊は、その後都城の飛行場に移動してから出撃した。

○昭和二十年八月十五日、終戦。

・地下にあった通信本部から連絡があって、民間の家の庭でラジオを聞き終戦を知った。
・若かったので「くそ」という感じ。頭が真っ白になるという状態。
・敗戦を聞いて何をしていいかわからない。
・飛行機は格納庫の前に並べて飛べないように全部タイヤをパンクさせて、ガソリンを抜いておいた。
・綾瀬の海軍部隊が「蜂起しようと」暴れ出して海軍の戦闘機が何機か来た。
・暴れられたら収拾がつかないからできるだけ早く帰そうということになったのか、帰れることになった。
・兵舎に行って帰る支度をした、
・兵器庫や銃器庫に見にいってもすでに何もなくなっていた。将校が使う拳銃などがずいぶんあったが何もなかった。
・食料品などの資材を民間の蔵を借りて分散していた。本部ではそれを何人かで責任を持って処理させていた。
・持って帰れるだけ持って帰れということで、航空食のチューブのチョコレートや水分のあまりいらないキャラメルを適当に持って帰った。
・同じ滋賀県出身の兵隊と二人で帰ることに。
・中津飛行場から軍用トラックに乗り小田原まで行った。
・石炭箱を二十箱くらい持っていて、駅に着いたら客車の中に窓から突っ込んで、その上に座って帰って来た。

○昭和二十年八月二十日ごろ、復員。

●復員時、陸軍伍長。
スポンサーサイト



コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://senjotaikenhozontabi.blog2.fc2.com/tb.php/1109-125eb830
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック