FC2ブログ
あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
青春18切符の旅2011夏、8月23日(火)午前に伺った証言の概要です。
関西キャラバンの一環に入れるべきかもしれません。大学生メンバーが関西キャラバンと合流していた時期です。
去年のメーリングリストより転載します。


◎田中善三郎さん(87)
取材日:平成二十三年八月二十三日
所属:中部36部隊~独立歩兵第一旅団教育隊~第十一独立警備隊【※独立警備歩兵第55~60大隊のどれか?】
兵科:歩兵(擲弾筒)
戦地:北支(山東省)
―――――――――――――

○大正十二年十二月十二日、滋賀県生まれ。

・農家出身。
・小学校卒業後、青年学校へ。
・軍隊を満期で除隊した人から軍事教育を受けた。軍事色一色。

○昭和十九年五月、徴兵検査を受け甲種合格。

・草津で徴兵検査。
・検査は二日間で、初日は学科といろんな体力検査。二日目がいよいよ裸になって全部調べられて、最後に徴兵官の一番偉いさんのところへ行って質問を受ける。それから甲乙丙にわけられる。
・甲種合格だった。
・六十名受けて甲種合格は十八名。
・しばらくして入営の通知が来た。

○昭和十九年九月十九日、壮行会

・同じ村から入営する者が六名いて、氏神様のところで壮行会を開いてもらって、村長から激励してもらった。
・列車で移動。

○昭和十九年九月二十日、現役兵として敦賀中部36部隊入営

・滋賀県と福井県の壮丁が千二百名くらい入ったと聞いた。
・一週間で外地へ出発するということで、服を貰ったり予防注射を受けたりいろいろ忙しかった。
・明け方に出発し敦賀の駅まで歩いて、下り列車に乗った。
・列車で着いたところは博多だった。ここから船に乗った。

○昭和十九年十月一日、釜山港到着。

○昭和十九年十月七日、北支山東省えん州両下店、独立歩兵第一旅団教育隊到着。

・初年兵教育を受ける。
・中国軍の捕虜は収容所に入れた。
・スパイや密偵ばっかり。捕まえて連れて帰って、時たま初年兵に肝試しで突かせることもあった。
・四年兵は神様、五年兵は仏様。三年兵が親父で仕切っていた。

○昭和十九年十二月暮れ、本隊を追求することに。

・出発前に靴ずれで足が化膿してしまった。隊長に「これから何百里と歩かなければいけない。この足では無理だから、治してから追求してこい」言われて病院に入院することに。
・若いから一月余り入院したら治って来た。
・この時には本隊はすでに作戦に出てしまい追求の手立てがなくなってしまっていたので、最寄りの部隊へ転属することになった。

○昭和二十年一月、山東省臨ぎ市ぎ州、第十一独立警備隊に転属。

・一個旅団で四個中隊。
・第二中隊で清水隊長。
・大隊長の名前は”ふくだ”。
・城内に本部があり、中隊本部に百名あまり。
・他に六十名ほどが四か所に分遣されて、それぞれ十五名程度いた。
・中国軍と戦争して部隊同士で突撃するのかと思っていたら、あたり一帯は聞いたことのない部隊、いわゆる中国共産八路軍の支配下だった。
・警備隊だったので警備するだけ。
・八路軍の戦い方は戦争は三分で、後の七分は政治や経済・民衆に溶け込む作戦。
・たまに山あいの方からバーッと撃ってきて身を伏せたくらいで、戦いにならなかった。
・作戦に行っても五日ほどでまた兵舎に帰って来た。あまり戦果もなかった。
・作戦が始まって三日四日したら集落へ野営をしたり飯を炊いたりするようなことばっかりやっていた。
・城門を開けて討伐に出発する時には、すでに敵に情報が回っていて、すべて見抜かれていた。
・目的地に着いても皆逃げていた。
・治安地区、準治安地区、敵性地区によって討伐の程度が違った。
・最下級の初年兵なので討伐に行っても、偉い人の荷物を持って、突撃して、飯を作って、偉い人の世話をして、歩哨に立つ。
・死に物狂いでやらなければいけない。
・青年学校で習った教練と戦地で習った戦法はほとんど違った。苦しい苦しい泥沼のような戦闘。
・討伐に行った時に貧しい集落に入った。その中に一か所だけ仏像を祀ったお寺のようなところがあって、お偉いさんはそこに入って休んだ。残りの者は飯のこしらえ。
・ニワトリを探してつぶす。豚も探して捕まえてきて、吊るしあげて皮をむいて食べる。
・古年兵は経験者だからどこに抜け道があるか分かっている。
・むこうのニワトリは野生に近く、大勢で取りに行くとブワーッとはねて飛んで行ってしまう。うまいこと捕まえなくてはならない。
・めぼしい物はみんな徴発。
・食糧は現地調達という命令。みんな掠奪。
・向うの家は木がない。土を練ってかためた家。
・飯を炊かなければいけないので、入り口の僅かな戸をぶち破って薪にしていた。
・集落に残っているのは年寄りの病人だけ。その病人を外へ放り出して家の中に入る。
・井戸があって、ロープに壺がついてて(?)それですくう。うまいことすくわないと水が入らない。よくわからないので困っていたら、放り出したよぼよぼのおじいさんが這ってやってきて、手真似で汲み方を教えてくれた。
・翌朝、出発の時に軒先のおじいさんを見たら目があって、手を振ったらむこうも振返してくれた。
・集落を出る時には「焼け。焼け」と言って焼いて出る。
・中国人は家を焼くのを嫌った。
・一度休止した集落は三年は元に戻らないと言っていた。それほど貧乏なところ。
・戦死者はあんまりなかった。ただ、討伐に行ったときなどに何名か亡くなった。
・指とか髪とかを持って帰って来た。

○昭和二十年四月、五月、平和でのどか。

・城門の望楼に歩哨に立っていると子どもがいた。
・歩哨なので子どもとしゃべってはいけないが、寒いのに半ズボンでかわいそうだと思って、ポケットに忍ばせた甘味品をあげていた。
・子供は歩哨に立つたびに待っててくれて、だんだん心を開いてくれた。
・ある時、ちょっと手を怪我をしたら化膿してしまった。それを見た古年兵に「田中、お前こりゃあかん。軍医に診てもらえ」と言われて、治療を受けた。
・患部を切開して(?)白い骨が見えた。そこにヨーチンを塗るのが関の山。
・包帯をつけて歩哨にでたら、子供がそれを見つけた。すると、歩哨を交代するときに子どもの母親が帰り道に立っていて、家に連れてってくれた。家のかまどでは青々した草をグツグツ煮ていて、それで手当をされた。
・軍律とかを考えるとありえないこと。

○昭和二十年七月

・「なんかちょっと変だなあ」という気配を感じた。
・集落の住民の態度が変わった。
・部落に行く途中、現地人に「日本は帰れ」とかいろいろ言われた。だんだん歓迎しなくなった。

○昭和二十年八月、八路軍が攻勢に出た。

・まず分遣隊がやられた。その情報が入ったので行ってみたが、もう手遅れで全部やられた。
・八路軍は日本の兵器・弾薬を捕り、若い兵隊を捕まえて共産思想を入れる。
・分遣隊は全滅。
・猛反撃だった。

○昭和二十年八月十六日、北支派遣軍の司令部から旅団に「一時休戦」という連絡が来た。

・夕方に敗戦を知ったらものすごい泣けてきた。たまたま隣に大隊長がいて「悔しいやろうけど泣くな。これからお前たちのがんばる時だから」と話しかけてきた。「部隊長殿、悔しいであります」と言った。
・この時はじめて話したが、大隊長は年配の召集でやって来た人で、温厚な人だった。

○昭和二十年八月十七日、棗荘の旅団本部へ集結のため、ぎ州出発。

・持てる物を全部持って出た。
・敵が全部囲んでいて、城門をでた途端にポンポン撃ってくる。
・炎熱の中、二日三日百キロ余り歩く。
・携帯口糧を持った。
・第二中隊は後衛尖兵。
・棗荘に着いた時はみんなへとへと。
・足の裏が全部血豆になっていた。
・ここで、「日本軍は連合軍に降伏した。中共軍に北支派遣軍は降伏したんじゃない。重慶軍以外にはどこの軍隊にも降伏するな。重慶軍の命令に従え」と言われた。
・たくさんの邦人も引き揚げてきて鉄道が混乱。さらに八路軍が重慶軍を阻止するために鉄道を破壊し始めた。
・鉄道警備を命じられた。あちこちの砦や鉄橋の警備をして過ごした。

○昭和二十年十二月二十日、重慶軍により済南にて武装解除を受ける。

○昭和二十一年一月十五日、済南より青島に向かう。

・引き揚げる途中、現地の住民は日本軍の徴発にあったりしたために、薪一本でも井戸水一杯でもただでくれなかった。
・地方人だったら済南を出て一、二分で着ているものをみんな掠奪される。
・丸腰だったけれどまだ部隊には秩序があった。
・ちょっと汽車に乗るとすぐまた降りる。線路がズタズタになっていた。みごとなほどに破壊されていた。
・青島について収容所に入る。
・倉口収容所。(※倉にさんずい)
・戦犯など、いろいろ選別された。
・アメリカの上陸用舟艇に乗船。
・どっかから海水が漏れてきて、しまいには座っていられなくなった。困った。

○昭和二十一年三月二十五日、佐世保上陸。

・桟橋に上がったらアメリカ兵がいてDDTをまいてくれた。
・収容所に入って、そこから逐次別々に帰宅。

○昭和二十一年四月、自宅帰郷。復員。

●復員時、陸軍上等兵
スポンサーサイト



コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://senjotaikenhozontabi.blog2.fc2.com/tb.php/1108-e311102e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック