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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
青春18切符の旅2011夏、8月11日(木)に伺った証言の概要です。
長野県安曇野市にて、現地で聞き取りをされている女性のお世話になりつつの取材です。


◎井口武雄さん(89)
取材日:平成二十三年八月十一日
所属:横須賀海兵団~海軍航海学校~第四輸送隊
戦地:小笠原諸島ほか
―――――――――――――――

○大正十一年一月十六日、長野県生まれ。

・実家は農家。
・いろんな仕事をやっていた。

○昭和十七年七月、徴兵検査。

・甲種合格で海軍に。
・海軍だったおかげで入団まで一年二カ月家にいることが出来た。

○昭和十八年九月一日、横須賀海兵団入団。

・すぐに横須賀海軍航海学校へ。
・特五分団へ入れと言われた。
・”特”がつくので何をやるのか分からない。特別陸戦隊か何かじゃねえかと思っていた。
・ここでは信号兵としてモールス信号や手旗信号などのて教育を受けた。
・呉や佐世保からも兵隊が来ていて、十個分隊、三百三十人づつ、三千三百人いた。
・一番びっくりしたのは、呉や佐世保の兵隊が横須賀の兵隊より一カ月先に入って教育を受けていたこと。自分達より何もかも出来ていた。彼等と一緒に勉強させられた。
・入団して三日目に入浴があった。イモを洗うようなもの五列から十列に並んで一列目から風呂に入った。その時に何列目からか無理をして飛び込んで風呂に入った者がいた。教官はそれを見ていて、隊に帰ってから「隣の者は誰が飛び込んだか手をあげろ」と皆に聞いたが、薄暗い所で、しかもまだ顔も良くおぼえていない時だったのでわかるわけがない。これでその時初めて尻を叩かれた。
・やっぱりハンモックで寝る。もちろん動作が遅いと殴られる。
・海軍は殴るところ。けれども殴られてためになったこともあった。

○昭和十九年二月、卒業。

・成績のいい人はすぐ配属が決まるが、決まらないとそのまま海兵団に居候になった。
・このままいてもしょうがないので、第四分隊に志願。【※第四艦隊?】
・第四分隊の本部はトラック島にあった。

○昭和十九年五月末か六月の初め、トラック島へ移動に。

・船がないので150トンくらいの木造の徴用船「ながしまさん丸」に乗船。
・浦賀からの船が六隻、佐世保からの船が六隻、合計十二隻で横須賀から船団を組んで出港。
・船員が多いところが七、八人。兵隊が三人四人。
・水はほとんど積んでいなかった。スコールが見えると寄り道してでも行く。海水を汲んで石鹸を体につけて待っている。二回ぐらい回るときれいになる。シャワーみたいなもの。
・食事は船に乗っている若い船員(かしき)が作ってくれる。食糧は一ヶ月分くらい積んでいた。
・船には無線も何もついてない。駆逐艦でもない小さい船が無線を持ってついてきてくれたが、三日ばかりたったらいなくなってしまった。
・太陽の場所を見て位置を測定していたが、時計なんかを持っておらず、徴用船の時計も壊れていて位置が出なかった。どこにいるのかわけがわからない。
・隊長は少佐だった。その人が場所を分かっていた。
・十一日たった朝、サイパンの手前の小さい島がみえた。
・朝に見えたが海流の関係で夕方まで島に着けなかった。
・その島に着いたと同時に爆撃をうけて、十二隻中乗っていた船ともう一隻以外の十隻が沈没。
・これはいけないということで内地に戻ることに。
・位置が分からないが、西へ行けば小笠原にぶつかるという話で十二、三日だか航海した。非常に心細かった。
・船は五ノットくらいしか出なかった。

○昭和十九年七月ごろ、父島到着。

・本部と連絡を取ってもらった。すると、そこの隊へ所属して仕事をしろという命令が来た。
・第四輸送隊所属に。

○昭和十九年八月ごろ、父島から硫黄島へ物資を運べということで船で出て行った。

・食料品を運んでいた。
・二日か三日して硫黄島について荷揚げ。
・島民が使役をしていた。
・硫黄島から父島への帰りに北硫黄島と母島の間で空襲を受ける。昼間の十一時ごろだった。
・機関銃を積んでいたが、そんな物は役に立たない。
・船に爆弾が命中し火災を起こしたので、積んでいた伝馬船をおろした。その時に何かあったかいような気がすると思って腕を見たら血がでていた。良く見るとあっちもこっちも血が出ていた。
・十三人乗っていて六名が生き残った。
・次の日の十一時ごろ、北硫黄島に辿り着いた。岩場につくと同時に船がひっくり返った。
・しばらくして、この島に部落があることが分かった。夕方部落に辿り着くと、海軍の分遣隊がいた。
・分遣隊に看護兵の伍長がいて、手当てをしてもらったが、麻酔も何もない。傷口に突っ込んだら鉛が出てきた。
・生傷でウジが湧くので、外に出るときはハエがつかないように傷口に手ぬぐいを巻いていた。
・そのうちに海軍の輸送船が来てくれて、それで父島へ帰った。
・父島に二カ月ばかりいたが、負傷していたので何もできなかった。
・右腕を吊っていたので、最初はご飯が食べられなかった。一ヶ月たって左腕だけで普通に食べられるようになった。
・食事のおかずには乾燥肉が出た。はじめは良く見ないで食べていたが、良く見ると白い物が動いている。肉にウジが湧いていた。気持ち悪くて食えなかったので、防空壕に貯蔵してあった乾パンを盗み出して食べていた。
・昼の食事時に空襲される。ちょうどごはんをもりつけた時に来る。そのまま置いて逃げた。空襲が終わると食べに戻る。
・そのうち台風がやってきて輸送船が父島に避難してきた。その船に乗せてもらって内地に帰った。
・その途中、暴風雨で海が大荒れ。船倉に水が入って来た。
・横風を受けると船が転覆してしまうので、横風を受けないように台風の周りをぐるぐる回っていた。
・その時に父島に行く輸送船とすれ違った。一日半台風を回って横須賀に到着すると、すれ違った船が先に横須賀に戻っていた。台風をよけて帰って来たという。
・到着後、横浜の第四輸送隊の本部要員になった。
・高島桟橋の臨港警察の横に本部があった。
・隊長はよぼよぼの少佐。
・本部要員は二十五名で、他は各地に分散していた。
・下宿住まいをしていた。
・ 隊には徴用の船が二十隻近くあったらしい。みんな北の方の船で、南の方は佐世保で徴用になった。
・横浜には一万人くらい海軍の兵隊がいたらしく、運動会もあった。その時に一万メートルに出て一等になったら隊長から厚い辞書を貰った。

・横浜から千葉へ行く予定で船に乗って出発したら途中で船が攻撃を受けた。
・この時は救助隊が来てくれて、海岸へあがって無事に帰った。

○昭和二十年五月二十九日(?)、横浜空襲に遭遇。

・当時は見張りに立っていた。
・兵舎のとなりに体操をする空き地があって、ここをとおれば山下公園へ近道できたので、町民に「ここを行け―」と言ったが、町人は兵隊のいるところだと遠慮して通らなかった。
・兵舎に火が移って、貯蔵していた弾薬が炸裂し始めた。そばにあった”じゅうぜん病院”(十全病院?)の窓ガラスにポンポンあたって、一時間くらい手がつけられなかった。
・それまでにも弾がくるとこにいたので恐くはなかった。
・兵隊三人で伝令に出た時、道端にトタンがあって、そこに腰をかけて持っていたにぎり飯を食べていると、「おい!銅像に腰かけているぞ」と言うので良く見たら焼け死んだ人だった。
・街の中心部はやられたが、港の方はあまりやられなかった。本部も無事だった。

○昭和二十年(夏ごろ?)、横須賀へ軍需物資を取りに連絡に行くことになり、よその船に便乗した。

・横須賀の港で空襲を受ける。あっちもこっちも敵の飛行機が飛んでいた。
・甲板に出ていたら爆弾が命中。気がついた時には海の中にいた。そばにもう一人がいて、二百メートルくらい先に陸が見えたので、着てる物を全部脱いで、ふんどし一丁で陸へ泳いだ。
・正味二時間くらい泳いで、、ちょうど金沢八景の海岸沿いにある銭湯にたどりついた。
・銭湯で風呂に入れてもらい、そこの親父さんから服を借りて、金沢八景から電車に乗って横浜の本部に戻った。
・泳いで一番苦労したのはこの時の二時間。必死に泳いだ。

○昭和二十年八月十五日、玉音放送を聞く。

・何を言っているのか分からなかった。一時間たってはっきり負けたことがわかった。
・敵の捕虜になりゃしねえかという気もあったけれど、家に帰れるという一つの安心感もあった。
・部隊は解散になったが、本部要員だったので戦後も残ることになった。
・他の人員は海兵団に戻ることになり送別会をやった。ところが要領のいい者は横浜から海兵団へ行く途中で家へ帰ってしまった。その穴を埋めるために急遽海兵団に戻ることになった。
・武山の海兵団へ。
・流言飛語がとんだ。
・捕虜になるということで航海歴などを全部燃やしてしまった。
・ここで大和の乗員だった同期生に会った。聞いて見ると「ここに居候していて何にもしないから遊んでた」と言っていた。大和が沈んだことは公表されなかったので、沈没後どこにも配属されなかったらしい。
・武山に10日くらいいて、家へ帰ることになった。この時に七百円もらった。
・列車で自宅に帰り、復員。

●終戦時、海軍二等兵曹。

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