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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
青春18切符の旅2011夏、9月2日(金)に伺った証言の概要です。
静岡県長泉町の方々が続きます。
昨年のメーリングリストより転載します。


◎土屋貞雄さん(95)
取材日:平成二十三年九月二日
所属:野戦重砲兵第三連隊~?
兵科:野戦重砲兵
戦地:南支~千葉
――――――――――――――

○大正五年一月十三日、静岡県生まれ。

○昭和十三年四月、静岡銀行入社。

○昭和十三年五月ごろ、徴用で沼津兵器へ。

・機関砲を作る会社。

○昭和十三年六月ごろ、召集。

・三島の野戦重砲兵第三連隊へ入隊。
・徴兵検査の結果は第二乙だった。
・厩に藁を敷いて生活して教育を受けていた。
・十五センチ榴弾の二番砲手。
・当時は食糧が少なかったので、近隣の畑を借りて各班から三四名くらい出て耕していた。
・戦地に行く前に炊事をやっていた古い兵隊が「送別会をやれ」と言って米とニワトリをくれた。

○昭和十三年暮れ、三島出発。

・広島に泊まって、ここから輸送船に乗船。
・飛行機がついてきて護衛してくれた。

○昭和十四年正月、南支広東到着。

・一月二月は何もなかった。
・歩兵は時速四キロ行軍、重砲は馬でひいて時速六キロ行軍。

○昭和十四年二月末、敵が広東を奪回するために集まっているという話が出て、それを攻撃に行く作戦に参加。

・敵を重砲で撃つために二日間昼夜ぶっ通しで歩いて、山の陰に砲列を敷き、命令を待っていた。
・砲列の横にアンベラを敷いて寝泊まりしていた。
・ここに着いた時に、目が霞んでよく見えなくなって、さらに足もむくんで歩けなくなってしまった。そこで野戦病院に行って診断を受けた所、肺浸潤と脚気だと言われて即日入院することに。
・診察を受けた野戦病院に一カ月、さらに別の野戦病院に一カ月入院して、それから内地還送になった。
・内地までは台湾を経由。台南に一カ月、台中に三カ月ばかり、台北に五日ばかりいた。
・病院生活は街に見学に出るとか買い物に出るとかそういうことは一切できない。囚人のようなもの。それでノイローゼになって頭が変になってしまうのか、台中の病院で二人首を吊って自殺した。二人とも三十を過ぎた女房子供がある人で、写真を胸に置いていた。
・台中の病院にいる時に現地の学校の子どもがよく来た。その子供と手紙のやりとりをしたりしていたら、いつの間にか妹が代わって手紙のやりとりをするようになっていた。
・台湾から船で広島に帰って、名古屋の陸軍病院に三カ月入院。

○昭和一五年一月、三島の陸軍病院に入院。

・そのうち歩ける者は吉奈の療養所へ移動に。
・療養所に二月いてから原隊の三島の陸軍病院に戻る。

○昭和一五年五月半ば、召集解除。

・傷痍軍人の証明書を貰った。これがあればもう召集はないということだったので内面で喜んだが、病気が治った者は再び兵隊にいくことになった。
・一度除隊してからは農業をしていた。

○昭和十九年十月、再召集。

・再び重砲隊。
・千葉の海岸に上陸してきた敵を零距離で撃つために、大砲を隠す穴を掘った。
・海岸で蛸壺を掘って、敵の戦車が来たら破甲爆雷を抱えて戦車に飛び込む訓練ばっかりしていた。

○昭和二十年八月十五日、終戦。

・三島の連隊に帰ったところ、三島付近の出身者は残務整理に残れということで色々な残務整理をさせられた。

○昭和二十年十月、復員。

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