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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
青春18切符の旅2011夏、9月3日(土)に伺った証言の概要です。
今年の長泉町のイベント「戦争の悲劇伝えたい展」でもお話しされた方です。
去年のメーリングリストから転載します。

◎前田 喜六さん(93)
取材日:平成二十三年九月三日
所属:二十六師団独立歩兵第十三連隊(泉5316)第三機関銃中隊
兵科:歩兵(重機関銃)
戦地:蒙古~中支
―――――――――――――

○大正六年十二月十七日、静岡県生まれ。

・農家出身。
・二年間、東京の中央電新局に勤めた。

○昭和十六年四月十一日、結婚。

○昭和十九年六月一日、召集。

・二十八歳で、二人の子供とお腹にもう一人いた。
・汽車で下関に行き、船に乗り釜山へ。ここから部隊のある蒙古へ。
・北支十三連隊第三大隊第三機関銃中隊に入隊。
・機関銃中隊で小銃中隊より後方で戦うので運が良かった。
・馬の背に銃身を付けて引っ張って歩く。
・現役の兵隊も多かったので教育は厳しかった。
・農家出身だったので行軍でもなんでも恐くなかったが、ペンより重たいものを持ったことがなくて兵隊に来た人は大変だったと思う。
・八路軍から鉄道沿線を守る警備任務につく。
・八路軍が出た時に撃ち合いをした記憶がある。
・撃ち合いをしてる時に近くに弾が飛んできた時が一番恐かった。
・中国の警察官も一緒に共産軍と撃ち合った。
・分遣隊のいた所の村長が自分たちを呼んでごちそうしてくれたことがあった。
・敵が来なければのんびりしていた。
・食事には豚肉が多く出た。
・はじめて中国に入った時、黒い豚がいたので可愛がっていたが、外にあるトイレの排泄物を豚が食べているのを見てびっくりした。「いやあ豚肉食えないかなあ」と思ったけれど、まあ食べていた。

〇昭和十九年八月、二十六師団はレイテ島へ。

・本隊がフィリピンに移動する時に「自分も行きます」と小隊長に直訴したが、以前肺の写真を撮った時に影が映っていたことがあって「結核患者はだめだ」と断られてしまった。
・その後上海に移動して陣地構築作業に。
・米軍のM4戦車に小銃や軽機を撃っても跳ね返ってしまうので、ビール瓶に爆薬を詰めて身体ごとキャタピに突っ込む訓練をしていた。
・ソ連参戦に伴って張家口に部隊が移動することになった。

〇昭和二十年八月十五日、部隊の移動で揚子江を渡り、昼飯を食べているときに玉音放送を聞く。

・「命拾いした」と思って安心した。
・それから糧秣庫に入った。そのためうんと給与が良かった。
・天津が近かったのですぐ帰れるかと思っていたが、大陸の奥地から引き揚げてくる日本兵を復員船に乗せるのを手伝うことになって帰るのが遅れてしまった。
・本部にいたので直接は行かなかったが、終戦で一回返納した帯剣などをまた持ち出して、鉄道沿線の警備に二、三回行っていた。共産軍はハエのようにうるさくて、たちが悪かった。
・復員船は米軍の上陸用舟艇。天津か乗船して佐世保に上陸。
・佐世保から汽車に乗る。すし詰めでいっぱい乗っていた。
・静岡に来て富士山を見た時に、田舎に帰ってこれた実感がわいた。

○昭和二十一年三月三十一日、復員。

・戦争に負けてしまったので肩身が狭いような感じで帰って来た覚えがある。
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コメント
この記事へのコメント
祖父は今年1/1に100歳で亡くなりました。
最後まで辛抱強く頑張って生きました。
2018/01/09(火) 18:38 | URL | ごまお #ofxKis3k[ 編集]
ごまお様

コメントありがとうございます。
お孫さんでいらっしゃるのですね。

お祖父様のご冥福をお祈りいたします。
100歳、本当にがんばって生きてこられたのでしょうね。
お元気なときにお話を伺えてよかったと思います。
2018/01/09(火) 19:44 | URL | しょうみー@ブログ係 #sCdCES4I[ 編集]
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