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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
第2回山陰キャラバンが9月26日(水)に伺った証言の概要です。
だいぶ前のメーリングリストより転載します。

◎品川始さん

取材日:2012年9月26日

生年月日:1923(大正12)年9月19日
当時の本籍地:島根県
陸軍
所属:歩兵第232連隊(藤6865)


◎三人兄弟の長男
 小さいころから絵を描くのが好きで、映画看板の絵師になろうと広島に出て就職。
 1年ぐらい見習をしていたが、そんな仕事は非国民のすることだと両親は猛反対。
 家に戻ることになった。

1943(昭和18)年12月10日 現役兵として浜田連隊に入営
歩兵第232連隊所属に
 10日後には中国へ、南京、武昌を経て当陽に

◎国民党軍はちょろちょろ撃っては逃げていく。
 追いかけると山の中に入り込まされ、地形を利用して上から一斉に攻撃される。
 連隊本部に応援を要請しても増強される事は殆どなく「大和魂で戦え」と言われたが、当時は「よし、大和魂でやるんだ」なんて思っていた。
 向こうの装備は次第に良くなっていき、米軍機や中国の飛行機から機銃掃射を受けることもあった。
◎“難民区”と呼んでいる地域があり(宜昌(ぎしょう)の近郊)、ここでは強盗や火を付けたり強姦など何でもやっていた。
 この地区には立派な家はなく土塀に萱ぶきの屋根で燃えやすく、「金貨を出せ、出さないと火を付けるぞ」と松明を屋根に近づけると中国人は仕方なく土壁の中に隠した金貨を出す。
 金貨を出しても火は付けた。作戦とかではなく面白半分でやる。
 軍旗祭の時は早朝に行って市場へ持っていく魚や酒を奪う。
 こらえてくれと頼むのをタバコの1~2本を渡して取り上げていた。
 宣撫地域ではそんな事はしない。米を安く買い上げるぐらい。
 “難民区”は軍閥の抗争などで住まいを追われた人たちで日本軍が難民にしたわけではなかった。
◎米は後方からはあまり来なかった、日本酒は送られてきていたが。武器弾薬は十分にあった。
 慰問袋は来る途中でキャラメルや金平糖など良いものは抜かれ草履や下駄が残って入っていた。
◎捕虜や集めてきた農民を使ってトーチカ作りを手伝わせた。
 食糧はおかゆに何か青いものを入れたような粗末なものを渡していた。
 働きが悪いとすぐに殴る、日本人は手が荒い、ロシア人の方がそんなことは少なかった。
 捕虜を帰っていいぞと放して少し歩いたところを撃つ、これも面白半分。
 捕虜も知っていて「帰っていいぞ」と言っても喜ばなかった。
◎慰安婦は中隊単位の駐屯地ならどこにでもいた。
 将校は日本人、それ以外は朝鮮人、中国人はあまり見なかった。
 1~2年兵は行けなかったが。
◎私が入隊する前の事だが天宝山の作戦と言うのがあった。
 来たばかりの隊長が戦果をあげようと非常呼集で作戦に出たが、兵たちはいつもの演習の非常呼集だろうと思って弾薬を持たないまま出かけてしまい壊滅的な戦死者を出したと聞いている。

1945(昭和20)年3月 満州に移動することに
 当初は沖縄に行くと言う噂が流れたが行けなかったのではないか。
同年7月終わり 本隊は満州・四平街に、中隊は西安に駐屯。

同年8月
 ソ連の参戦はよく分かっていなかった。
 敗戦は噂が流れた後数日たって部隊で告げられた。
 「どげんなるんだろう。帰れるんだろうか」とは思ったけれど、「これだけ全部は殺さないだろう」と言っていた。
 喜びはあった、私だけではないと思う。
 西安武装解除の時初めてソ連兵を見た、赤白い顔をして青い目で髪が赤かった。

同年10月1日ブラゴエチェンスクを経て、10日タイシェットへ。
 最初は帰るための汽車の石炭が足りないのでそれを半月ほど堀りに行くと聞いていた。
 黒河で対岸にブラゴエチェンスクを見たとき駄目だなと思った。
 それでもソ連は「日露戦争もあったから国民に日本兵を見せてやるんだ。ヨーロッパまで横断して向こうから船に乗せる」と言っていた。

タイシェットの第7地区第4ラーゲリーに収容
◎収容所は監獄を空けて入った。南京虫がすごい。
 8月中ごろには薄い氷が張り出し、毎年誕生日の頃に初雪が降る。
 寒いよりは痛い、夜は白夜で10時ごろまで暗くならず3時ごろには明るくなる。
◎作業は材木の伐採や貨車への積み込み。
 タイシェットから分岐した鉄道を新たに敷設する枕木にするためだった。
 特に積み込みは大変で直径1mぐらいの材木を高く積み上げていく。
 綱も凍って折れる事があり事故が多く常に危険だった。
 一つの貨車が終わるとすぐ次の貨車が来て、8時前に仕事が始まり夜中の12時過ぎまで働くこともあった。
 最後の頃コルホーズで働いたこともある。
◎作業中ロシア人は殴らないがむしろ日本軍の将校が殴る事があった。
 将校は作業はしなくて良いがソ連も監督として利用していて、自分の待遇があがるのかしばしば兵隊を殴った。
 2年目ぐらいまでは将校には当番兵もつけていた。
 自分も10人ぐらいでモミを盗んだのが見つかって帯革で頬を20回ほど殴られた。
 殴られている時はまだ良いが廻ってくるのを待つ時間が恐ろしい。
◎食事は黒パンと塩汁、昼のおかゆは朝一緒に食べてしまう。
 夏になるとオオバコやタンポポ、セリなどを塩ゆでして食べた。
 東北出身の兵隊は食べられる草をよく知っていてシベリアうど、シベリア豆など名付けて食べた。
 野生のにらは元気がつく。
 3年目ぐらいからは魚も釣りに連れて行ってもらえ、馬の尾をテグスにして釣った。
 たとえば豆が出されるとひと月ぐらいは豆ばっかり出る、麦飯は麦ばっかりで米が入っていない。
 食事の量はノルマの達成率で変わる、70%を切ると黒パンはマッチ箱の様な大きさ。
◎病人や年配者から最初の冬が越えられず亡くなった。
 遺体は裸にして埋めるが地面はコンクリ―ようにカチカチで深く掘れない。
 遺体もカチカチでポロッと折れる。遺体を運ぶ時そりでかけていた毛布を埋める時にもかけたいと頼んだがソ連兵に駄目だと言われた。

1947(昭和22)年頃 病気など仕事の出来ない者から帰国が始まった。
◎このころ病気になって帰るグループになった事がある。
 200人が帰ったのに最後になって名前を呼ばれ1人だけ残された。
 誰か技術を持った人と間違えたらしかったが1人部屋に戻ってとても寂しかった。

2年経った頃から民主化運動が始まる。
◎将校の収容所が分けられ兵隊だけが残された。
 これでぐっと精神的に楽になった。
 一方でそれで早く帰れたのかどうかは知らないが、作り話のような密告もあったようだ。
 以前は満州で警官だたとか自慢していた人が言わなくなった。
 中国や満州での行状よりは
◎日本新聞が来るようになり、みな赤旗の歌を覚えた。
◎漫画のコンクールで一番に選ばれたりして収容所の中に絵のうまい人間が4人ほど、京都の柄絵を描く本職が1人いてその人の手伝いをする。
 壁新聞の挿絵を描いたり、メーデーや記念日のプラカード書き。
 壁新聞は3か月に1度程度所内で発行していた。
 クレムリンの絵を描けと言われても見たことがないので困っていたら京都の絵師が見本を描いてくれた。
 写真を渡されてスターリンやレーニンの肖像画も描いた。
 この肖像画は労働成績が良かった者が休暇を与えられて泊まる「いこいの宿」にかけられた。
 ロシア人将校に妹の肖像画を頼まれた。この絵が気に入られたようで、ロシア語もわりと話せたので2~3か月この将校の当番を命じられた。
 この間はソ連兵の兵舎で宿泊出来、外出に同行して食事もさせて貰い大変良かった。

1949(昭和19)年8月半ば 帰国する事に
 ある朝突然「今日、全員帰る」と告げられて慌てて荷物をまとめ部屋を片付けた。
 教育は怖いもので復員船の日本人の船員が敵のように思え、なんでもかんでも話してはいけないと感じていた。
同年9月1日 舞鶴に復員
同年9月5日 帰宅
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