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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
青春18切符の旅2011年夏、2011年8月18日(木)に行った聞き取りの証言概要です。


◎赤羽秀男さん(86)
取材日:平成二十三年八月十八日
所属:電信第一連隊~第五軍司令部【※第一方面軍司令部?】
兵科:通信兵
戦地:満州(牡丹江)~シベリア(タイシェット地区)
―――――――――――

○大正十四年二月十日、長野県生まれ。

・電気の技術屋さんになって長野県を歩き回った。

○昭和十八年おわりごろ、電信第一連隊へ入営。

・すぐに九州の特別幹部候補生の教育隊へ移動。
・三週間くらいいた。
・ここから朝鮮に渡り釜山の教育隊へ移動。
・モールス信号を覚えた。

○昭和十九年、満州へ。

・第五軍司令部へ。
・山下大将が南方に行ったあとに喜多誠一大将がやってきた。
・機密保持のために”通信隊”というものはなかった。原隊から派遣されただけ。
・無線機で外国無線を傍受して解読していた。
・みんな暗号文。
・東京空襲の話や原爆投下の話も傍受した。ひどい話だと思った。戦争に負けると思っていた。
・ポツダム宣言を聞いた時に、日本は敗けたなと思ったが、まさか言えない。
・人間が人間を食べたというような悲惨な南方の電報も入って来た。
・無線隊は情報を漏らすと困るので、外出はさせられなかった。兵舎の中で生活するだけ。
・ソ連軍がどんどんヨーロッパから引き揚げてきた。
・ソ連もあれだけの戦争をやったので、当時何にもなかったんだと思う。
・あやしいなあと思っていたらソ連軍がどんどん北の方へ動いていく。

○昭和二十年八月九日、ソ連対日参戦。

・とうとうソ連軍が満州に入って来た。
・想像外のすごい戦力。自動車より早い戦車がやってきた。
・軍司令部から牡丹江の北の方のトーチカ陣地に移った。この陣地は難攻不落だという話だった。しかしソ連には問題じゃない。
・無線隊は一番深いところにいたので外のことはわからない。眼鏡からのぞいたりしていた
・大変なことだなあと思っているうちに、飛行機でビラを撒きだした。捕虜が食事を貰っている写真が載っていて、「日本の兵隊さん、何のために戦っているんだ。さっさと札を持って投降しなさい。そうすれば身は安全だ」という内容だった。
・日本の軍人は「死は鴻毛より軽し」、「生きて虜囚の辱めを受けず」、死んじまえってことを教育されているので、紙をもって投降するわけにはいかない。
・そんなうちにソ連軍が心理作戦で、スピーカーから「夕焼け小焼け」を流し始めた。そうすると年をとった兵隊さんはダメ。涙ボロボロだった。
・道路のタコツボに爆弾を抱いて入っている兵隊さんはみんな召集兵だった。かわいそうで、この中の一人でも抜け出したほうがいいと思っていた。
・向うの戦車は悠々たるもの。「この放送が終わった時に攻撃を開始します。その前にこの札をもって逃げてこい」ということだった。
・攻撃が始まるとみたこともないくらい弾が飛んでくる。助かるわけがない。これは逃げるよりしょうがないとなった。
・トーチカ陣地は砲でやられると、たちまち壊滅してしまう。
・陣地もすっとんで、無線も壊れて逃げた。どうやって逃げるか、どこに行けば食い物があるかだけを考えていた。
・一番かわいそうなのは子供を連れた女性。爆風がすごい。赤ん坊は爆風だけで亡くなってしまう。
・子供が死んだことも忘れて必死で逃げていくおかあさんを見た時、これは絶対に戦争はだめだと思った。
・逃げる最中に、子供が倒れていた。もう死んでいたが、お腹が動く。息があると思ったが、とっくにだめ。お腹の中に虫がいっぱい入っていた。
・ただ逃げるだけ。
・陛下の玉音を聞いた時、戦争が終わってホッとした。しかし、これから先はどうなるのか。大変なもんだなあと思っていた。
・武装解除をされて国境の方まで随分歩かされた。たしかにウラジオストックの方に向かっていた。
・階級は外して捨てた。上の人ほど捨てた。
・ソ連の大型トラックがどんどんやってきて、根こそぎ持って行ってしまった。
・シベリア鉄道は広々軌なので貨物がいくらでも乗る。なんでも持っていってしまった。
・ソ連の女性は日本と違ってすごい大きな機関車を動かしていた。これはとてもかなう相手じゃないなと思った。

○昭和二十年八月のおわりか九月のはじめ。

・日本人は帰るんだというのでその気になっていたら、シベリア鉄道の貨車に放り込まれた。いつまでたっても止まる気配がない。どんどんどんどん走る。走る程北へ行く。とても帰る話じゃない。
・四日五日走っててバイカル湖のところに出た。
・食べ物がないので大変だった。
・そのうちにいろんなうわさが出だ。日本の兵隊は戦争の賠償の代わりにシベリアに連れて行って働かせるという約束が出来ている。もうあきらめざるを得ない。
・シベリアがどのくらいひどい所かわからないので、ちょっと列車が止まったりすると逃げ出す者がいた。逃げたって逃げれるものじゃない。すぐ射殺。

○昭和二十年十一月、タイシェットに到着。

・第九ラーゲリ。あちらこちらに雪が降っていて寒いところだった。
・ここは大きく、本当に悲惨だった。毎日死ぬ。
・最初は悲惨だった。毎朝起きると誰か死んでいた。毎日死ぬので誰が死んだか今でも覚えていない。
・死体はすぐにほっぽり出した。零下三十度で凍る。
・死者は春になると大きな穴に入れていた。
・食べ物がない。
・自分の飯盒に米粒が三つ四つならんだものに、黒パンが一切れ。
・寒いし栄養不足。だから助かるわけがない。
・一番かわいそうなのは召集兵。年をとっているから弱るのがわけない。
・着いた時はオカ(病人)扱い。ところが病人でも働かせる。大した仕事は出来ないが、収容所の中で川から水くみをしたりした。
・川が凍っているので水を汲むのも大変。氷を割るだけでも大変。
・皆いわゆる栄養失調で皮と骨だけだった。
・現役で行った若い兵隊さんは割と持つ。
・満蒙開拓義勇軍が本当にかわいそうだった。西も東もわからない。バイカル湖を見て「海だ!海だ!」と騒いで、ウラジオストックだと思っていた。
・頭がおかしくなる人もいた。食い物の話ばかりする。秋田の人が「今頃はうちできりたんぽがうまい」とか、そんな話ばっかり。悲惨。
・自殺をする人もいたが、そんな元気もない。ただ生きているだけ。
・家のことを言っているうちはいい。飯がくいてえと言うだけになったら終わり。
・将校でも階級を捨てる人がいた。いつまでも階級に頼ってもどうにもならんという先の見えた人。中には先の見えない人もいて、その代わりに袋叩きにあっていた。
・収容所から脱走する人のうわさを聞いたことがあった。助かりっこないなと思っていた。零下何十度、シベリアの大地は氷と水。川が凍っていて自動車が走っていた。
・毎日伐採。十センチや二十センチの木を切るわけじゃない。それをろくに食事もしないでやる。
・大きなのこぎりを二人でひいて切る。ところがどっちの方向に倒れるかは分からない。ここにいれば大丈夫と思っていても、きが大きいのですっとんでくる。破片も飛んでくるし大変なことだった。大木の下敷きになって死んだ人もいた。
・全部松。しかしあんなに切っていいのかなあと思った。
・鉄道建設。シベリア鉄道のレールは広々軌の鉄道だから重さが日本のものと全然ちがった。五十人くらいいないともちあがらない。どこかで力がゆるむとたちまち倒れて下敷きになってしまう。
・電線の敷設作業。零下三十度でも仕事をさせる。電柱にあがっても、寒いからろくに仕事にならない。ロシア人の監督が「お前は下にいてしっかり火を焚け。俺が上へ上るから」と言った。どうしてそんなことをするのか聞くと、「お前も家へ帰ったら、妻や子供がいるだろう。だから丈夫で帰らなければいけねえんだよ」。どこの国でも働いている人間は同じだなあと思った。みんないい気持ちを持っている。
・普通の市民と一緒に作業することもあった。そういう人たちは普通の人間。
・兵隊さんはどこの国でも別。
・収容所のマヨール(少佐)。これは偉い人だった。
・日本人を信頼していたのはせいぜいキャピタン(大尉)まで、その上になると何を考えているのかわからない。つきあいもなかった。
・ソ連兵と作業をしているうちに片言のロシア語がしゃべれるようになった。しかし、憲兵や特務機関に間違えられて戦犯にされるかもしれないので話さないようにしていた。
・二年目になって、憲兵や特務機関が連れて行かれた。通訳できる人がいなくなって、むこうも都合が悪くなり、仕打ちがひどくなった。
・ハルピン学院でロシア語を勉強した九州出身の男と一緒にいた。この人も電信兵でロシア語や情報をいろいろ教えてくれた。
・ピアドコフという非常に人間味の強い少尉がいた。
・二回目の冬が終わって春が来た。それでも寒い。ピアドコフ少尉が「今朝は寒いな!」と言った時、ついうっかり「そうだなあ」とロシア語で話してしまった。それから「どこでロシア語を習って来たんだ。ちょっとこっちにこい」と連れて行かれた。
・収容所の少佐の技術官の所に連れて行かれ、内地にいた時何をやっていたのか尋ねられて、「電気屋だ」と答えると、少佐は発電所の図面を持って来て、「これから一緒に発電所を作ろうじゃないか」と言った。発電所を作るならおもしろそうじゃねえかと思った。
・行く先々で自家用ディーゼル発電所を作った。
・発電機を見つけて来るのが大変。戦争でやられちゃって全然ない。小さいディーゼル発電所といっても、それこそ自動車のエンジンみたいなもの。これを探すのが仕事だった。
・どこにでも行ける腕章を貰って、収容所や機械屋さん機会がころがしてある場所を歩き回った。たくさん見つけてくればよかった。帰って報告すれば「ハラショー!」と言われる。
・カタコトしか話せなかったが、ロシア人は日本人をおもしろがっていた。ロシア人が行くより日本人が行った方がくれた。
・発電した電気は製材の為に使ったり、兵舎の明かりをつけたり、監視哨の投光器につかったり。
・それで五年間おかれた。やはり帰りたかったが、戦陣訓があるので、本当に家に帰っていいのかなあと思っていた。もし生きて帰っても親戚一同にどういう挨拶をしたらいいのかなあと、こんなことまで考えていた。
・三年目のおわりごろからソビエトも落ち着いてきて、食べ物もそんなに悪くはなくなってきた。
・徹底した思想教育が行われた。
・「今度はこそは帰る」とさんざん騙された。
・便利に使われた。

○昭和二十五年、信濃丸乗船。

・船に乗ってからも半信半疑。ロシア人の言うことなんて信用できない。また騙されるのかなという感じ。

○昭和二十五年八月お盆、舞鶴上陸。

・日本が見えた時に「あ、やっぱり日本に来たんだな」という感じ。
・捕虜なので、家に帰った時にどう挨拶するのかと思った。
・県の税務課長が県を代表して迎えにきていた。
・舞鶴についてびっくりしたのは、教育された人に「これだけの賃金をもらわなかったら船から降りるなよ」と言われて、海員組合がストライキをやっていたこと。
・共産主義者の洗脳を受けてる人がいて、日本の官憲がどうのこうの、嫌った人がいた。
・長野県の集団長だった課長は、頭が丸坊主だった。「どうして丸坊主にしたんですか」と聞くと、「今まで迎えに来たが、みんな追い返されてしまった。私はなんとしても一緒に帰りたいと思って、頭を丸めてきました」。
・舞鶴から家へ帰らないで共産党の本部に行った人がいっぱいいて、始末にならなかった。
・「帰ってから本部に行こう。とにかく一旦家まで帰ろう。その責任があるんだ」と課長が涙しながら訴えた。
・感激して課長について行ったら、ものすごく待遇が良かった。
・一緒に来た人はみんな帰った。それからどうするかは自由。
・長野県に入ったらどんどん差し入れがあった。一番ほしかったのは味噌汁。
・婦人会の人に「ご苦労様でした」と言われて、「ああ、日本に帰ってよかったなあ」と思った。
・松本駅には日本共産党の人が来ていて挨拶をしろと言う。そのことは大変だった。どんな話をすればいいのか。とにかく帰れてありがたかったという話以外になかった。
・帰ると家族はみんな喜んだ。
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