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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
青春18切符の旅2011年夏、2011年8月12日(金)に行った聞き取りの証言概要です。
昨日につづいてメーリングリストの順番で掲載しています。

◎浅川吉富さん(83)
取材日:平成二十三年八月十二日
所属:横須賀海兵団~横須賀海軍砲術学校~軽巡洋艦「五十鈴」
参加作戦:レイテ沖海戦・二号作戦ほか
――――――――――――

○昭和二年十一月十四日、長野県生まれ。

・ポスターなどを見て水兵に憧れ、海軍に志願することに。まだ子供だったのでお国のためだとかはは考えずに、ただ憧れていた。
・役場の兵事係に行けば即海軍に入れたが、家族に言ったら反対されるので、父親に内緒でハンコをつけて書類を持っていった。
・軍国主義の時代だったので、結局父親も大目に見てくれた。
・地元の氏神様のところで壮行会をやってもらい、英雄気取りで海兵団へ。

○昭和十八年五月、横須賀海兵団入団。

・最初は良かったけれども、二・三日すると「こんなところにどうしてきたのか」と思うくらいしぼられた。
・月月火水木金金で休みがない。そのくらいの教育。
・三カ月訓練。
・志願兵も徴兵の兵と一緒に教育を受けて、「志願兵が徴兵の年取った者になんで負けるんだ」と、いろいろな競技で気合いをかけられた。
・釣り床を作るのは一番早かった。
・夜、ハンモックの中で泣いている人のすすり泣く声が聞こえた。そういう人は、みんなただ憧れてきた人だった。
・志願兵で若かったので割に可愛がられた。

○昭和十八年八月ごろ、横須賀海軍砲術学校入学。

・測的の訓練。砲のことは全然やらなかった。
・直径三十センチで長さが六メートルもある双眼鏡のお化けみたいな測距儀を使って訓練。
・水平線の向こうまで見えて、焦点が合うと距離が分かった。
・主に船の測的をしていた。
・責任が重かった。

○昭和十九年ごろ(?)、海軍砲術学校卒業。軽巡洋艦「五十鈴」乗り組み。

・その時五十鈴は呉にいて、呉まで行って乗った。
・五十鈴は山本長官も艦長をしたことのある三本煙突の古い艦だった。とにかく古い。甲板も平らで「なんてまあ古い船だ」と思った。
・一分隊に所属。一分隊は測的や全般の管理。艦橋の防空指揮所で測的と、ほかに高声伝達機を使って命令を艦内に伝えていた。二分隊は25ミリの機関銃。
・上甲板には単装の対空機関砲があって、主砲も高角砲になっていた。
・船の中でちょっとでも欠礼したら両側からビンタを受けるか、「足を広げて尻を出せ」と精神注入棒で殴られる。班で一人でもいけない者があれば全員叩かれた。見張りの当番が終わって艦内に帰ると制裁があった。
・階級が上がってやれやれと思ったが、航海で日本へ寄らないので部下が入ってこなかった。ちょっとでも言われたことを復唱しなかったら殴られる。
・吉田という一等兵曹が厳しい人で、どのくらい叩かれたかわからない。
・今考えてみたらいい人生経験になったと思う。大変なこともあったが満更悪いことばっかりでもなかった。
・軍港から航海で外へ出てしまうと制裁はなくなった。
・船での食事の時、当番がお椀に盛るのをみんなで見ている。誰が少ない、多い。そのくらい食べることが楽しみだった。
・カネの茶碗にカネの箸。それに麦飯で味気ない。
・農家出身で麦飯なんて食べたことがなかったので最初は喉を通らなかった。
・武蔵や大和と一緒に航海したことがあったが、五十鈴の二倍も三倍も大きかった。
・測的のために備え付けの大きな双眼鏡を見ていると上官が手を出して「なんかみえるかー」と聞いてくる。それから「何も見えるわけねえじゃねえか、手を当ててるんだぞ」とハッパをかけられた。
・下関海峡で作業中に安曇野の有明村出身の兵隊が海に振り落とされてしまったことがあった。下関海峡は潮の流れが早く、そのまま流されてしまった。当時は海軍にも一人や二人という気持ちがあったと思う。

○昭和十九年十月二十三日~二十五日、レイテ沖海戦。第三艦隊(小沢艦隊)の一員として参加。

・レイテに行くと聞いた時は「これで終わりかやー」と思った。
・敵機が何機もきて空襲でやられた時が一番危ない。船の一番上にいるので逃げることができなかった。
・たまに編隊を組んで敵機がやって来る。飛行機が船スレスレに飛んでくるので上甲板は危なかった。
・一番恐ろしいと思ったのは空襲。スピードをあげてジグザグで通るので、船の上にいる者は海に投げ出されないように体をロープで縛っていた。

○昭和十九年十一月十九日、マニラ湾コレヒドール島付近で米潜水艦「ヘイク」(USS Hake/SS-256)の魚雷攻撃を受け、船尾・舵を損傷。

・昼間で、艦橋から雷跡が見えたので「右何十度雷跡ー!!」と叫んだ。
・一発はうまくかわして「よかったわい」と思ったら今度は二発目。それが後部にドカンと当たり、後甲板の三連装の機関砲の射手が甲板と一緒に吹っ飛ばされた。
・アメリカの魚雷は頭が赤く、日本の魚雷より短かった。

・この後、修理のためにシンガポール向かったが、修理をする船が満杯で間に合わないということでインドネシアのスラバヤへ。
・半年くらいスラバヤにいた。この間が面白かった。
・年も若いから彼女は出来るし、員数外の衣類といろんな食べ物を交換することができた。
・日本人はどこに行っても歓迎され、衣類を持っていくと最高に喜ばれた。
・当時は色が黒かったので、「インドネシアサマサマ」と言われた。「サマサマ」は「同じ」という意味。
・日中はとても暑いので、涼しくなるまで木の陰でみんなごろ寝していた。
・とてもじゃないが暑い。
・野生のバナナ、野生のパパイアなど食べる物はいくらでもあった。。
・十人くらいで網を担いで海に行った。遠浅で百メートルは歩いていけて、網を張ってみんなで引っ張ると魚がいくらでもとれた。とれた魚は即フライに。それをどのくらいやったもんだか。
・慰安所もたくさんあったが、若かったので行かなかった。食べるのが楽しみだった。

○昭和二十年四月~、二号作戦参加。

・チモール島にいた陸軍将兵一万五千人を十回に分けて撤退させる作戦。
・一回目は成功した。
・千五百人の陸軍兵が上甲板、中甲板、下甲板にフル装備で乗っていた。

○昭和二十年四月七日、ロンボク島東方海上で米潜水艦「ガビラン」(USS Gabilan / SS-252)、「チャー」(USS Charr /SS-328)の魚雷攻撃により「五十鈴」沈没。

・この時は上甲板で25ミリ機関銃の弾運びをしていて、魚雷が当たると同時に海に投げ出された。
・投げだされた時は無意識。「ああこれで人生終わりだ」と思った。
・六時間漂流。救助されるまではまったく覚えていない。
・スラバヤからやってきた救助艇に拾い上げられ、そこで背中にカツをいれられてやっと気が付いた。「ああ、これで助かったわい」と思った。
・亡くなった人のほとんどが陸軍。
・陸軍の人は長靴を履いて、脚絆を巻いて、帯剣をつけての完全装備。対して海軍は作業服と運動靴だけの身軽な格好。
・一番かわいそうなのは陸軍。
・今でも彼女の手紙とか自分の私物が船と一緒に海底に沈んでいる。
・救助されてからスラバヤに行き、カトリック病院という大きな病院に収容された。
・元気になった者から原隊に戻るようなった。
・ひと月以上入院してから原隊に戻った。
・艦がないので陸戦隊になった。五十鈴の生き残りの将兵で編成されて、隊の名前も特になかった。
・現地で造った刀一本と拳銃を貰って、明けても暮れても切り込み隊の練習をしていた。

○昭和二十年八月、火山のふもとで切り込み隊の夜間演習をしていると、途中で即演習をやめて帰れという命令が出た。

・「おや、どうしたろう」と思って帰ったら、日本が負けたということを聞かされた。
・その時は半信半疑で信じられなかった。「どうして負けたんだろう」と思った。そのあとに「我々はどうなるんだろう」と心配になった。
・それから武装解除で丸裸に。
・軽井沢のようなオランダ人の別荘地プジョンで各分隊ごとに別れて半年くらい生活。
・ここでも員数外の衣類と野菜などを交換した。一番喜んだのは分隊長だった。
・終戦後は英軍とオーストラリア軍の管理下に置かれる。強制労働などは一切なかく、魚を捕りに行くか、野菜を作る以外にする事がなかった。
・ナスなんかを育てれば、たちまち背丈くらい大きくなった。
・ただ気をつけなければいけないのがマラリア。蚊帳にしっかりくるまって寝た。
・飯田市出身の川嶋という名前の軍医中尉に良く面倒を見てもらった。
・軽井沢のようなオランダ人の別荘地プジョンで各分隊ごとに別れて半年くらい生活したことがあった。
・ここでも員数外の衣類と野菜などを交換した。一番喜んだのは分隊長だった。
・いろいろな所を転々として最後に管制本部というところ配属されて、ここで藤山一郎に会って、身の回りの世話をする事になった。
・藤山一郎は背の小さめ、偉ぶらないおとなしい人だった。
・そのうちレンパン島に移動。
・食糧に困ったことは一度もなかった。ただ、オランダや英軍配給の洋食ばかり出るので、「日本のお米が食いたいなあ」と思った。
・終戦後も階級は残っていた。いつだったか忘れもしないが、山田という中尉に気合いを掛けられたことがあって、その時は本当に頭に来た。「終戦でもう階級なんかないのに、なんでこんなことをするんだろう」と思った。

○昭和二十三年、レンパン島から空母「葛城」に乗艦。

・艦に乗った時、「これで内地に帰れるかや」と思った。この時ほど安堵したことはなかった。
・船の中で藤山一郎が「慰安の夕べ」という歌を歌ってくれた。

○昭和二十三年七月、大竹上陸。

・上陸すると真白になるくらいDDTをかけられて徹底的に消毒された。
・お金はもらわず、復員列車に乗った。
・復員列車に乗って、「ああこれでやれやれ」と思っていると、同期生が「あんなもの(中尉)、ここでぶっ殺しちまおうかなあ」と言った。結局、そんな話が出ただけでやらなかった。
・松本あたりまで来た時に、「えらい若いに、どこまで行ってきたい」と聞かれていろいろ話をした。
・松本駅で途中下車してみると、「星の流れに」という歌のレコードが聞こえてきて、「やっと内地に帰った」と思った。今でも宴会の時には歌っている。
・それから連絡もせずに自宅に帰ったところ、家中大騒ぎ。
・父親がうんと驚いて、まず最初に「お前足あるかや」と言ったことが今でも忘れられない。
・先に帰ってきていた近所の人が、家族に五十鈴が沈んだことを伝えていた。
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