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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
青春18切符の旅2011年夏の8月6日(土)の聞き取りの証言概要です。
忘れたころに、というかんじですが、本当にわからなくなる前に順次掲載していきます。
今年6月にメーリングリストに流れていました。かなりの大作です。まとめるのに大変な時間を要したことがわかります。
旅の途中の報告を見ると、紙芝居形式でお話しいただいたようです。

◆◆◆

◎種田修さん(92)
大正八年生まれ
取材日:平成二十三年八月六日
大正八年生まれ。
所属:呉海兵団~戦艦「扶桑」~横須賀第七特別陸戦隊松谷隊~佐世保第五陸戦隊
戦地:ソロモン諸島(バンガ島~コロンバンガラ島~バラレ島~ブーゲンビル島)
―――――――――――

○大正八年八月四日、岐阜県大垣市生まれ。

・小学校卒業後、農業を営む。

○昭和十四年六月、徴兵検査。

・敦賀連隊区から検査官が来ていた。
・約三百名が受けた。海軍はその中から十二名。
・海の様子は、小学生のころ伊勢神宮へお参りに行った時に見たくらいで、海軍に入り船に勤務するなんて夢にも思わなかった。
・陸軍の兵役は二年だったが、海軍は三年。驚くばかりだった。

○昭和十五年六月二十八日、大垣駅で歓呼の声に送られる。

○昭和十五年六月三十日、呉海兵団入団。

・釣り床は幅九十センチ、長さ百五十センチ。重さは約二十キロ。これを四、五十秒でしまえるように訓練した。
・カッタ―訓練。櫂は樫の木で約五メートルの長さで、右に鉛がつけてあり、十二人で漕ぐ。失敗すると教班長に爪棒で殴られる。
・班は十二班ある。しばらくすると班で競争するようになる。最下位に近くなると教班長の機嫌が悪くなり、昼飯抜きで訓練をさせられた。この次の時には一生懸命になり、必ず一番か二番をとった。
・水泳は平泳ぎ。千メートルの検定がある。
・百五十名の中には平泳ぎが堪能な者もたくさんいる。堪能な五、六人が先頭を泳いで、その後についていった。
・岐阜県人は海を見たこともないので、水泳は中々上達しない。
・千メートルの検定の時には、ゴボゴボ溺れて、三回目くらいにようやくボートに上げてもらった。陸上にあがると酒に酔ったかのようにフラフラで、まともに歩けなくなった。
・罰直も様々。体で覚えさせる。一番軽いのが牛ころし(デコピン)。次が手箱の上に座らせられる。それから食事取り上げ。そして衣嚢支え。支えられなくなると精神注入棒で叩かれた。
・海兵団卒業前に、入団して初めて花村で、紅白に別れ二泊三日の野外演習が行われた。昼夜を通して行われるきついもので、倒れる兵隊もたくさんいた。

○昭和十五年十月十五日、海兵団卒業。戦艦「扶桑」乗艦。

・艦砲の操砲訓練、舷門の取次ぎ、番兵、艦橋での見張り、従兵を毎月変わりに行った。
・艦が停泊していて快晴の時は、毎日上甲板掃除を行った。
・中甲板はリノリウムが張ってあるので、少し油をつけて、「回れ、回れ」の号令で磨く。
・艦上では真水が不足のため、洗濯は決まった日に一斉に行った。
・六つある砲塔の先頭にある一番砲塔の照尺機械を操作するのが仕事だった。
・Sという下士官がいた。年齢は同じくらいだったが、十八歳で志願入隊して、優越感があったのか本当によく鍛えられた。
・主に夜間、十五人くらい並べられて精神注入棒で殴られた。
・楽しいこともあった。港に停泊している時は、将校は毎日、下士官は二日に一回、兵隊は四日に一回入湯上陸できた。兵は四分の一、下士官は二分の一、将校は当直以外が上陸していた。このほかに土、日曜日にも半舷上陸があった。
・上陸前に当直将校から軍紀・風紀の維持のため、注意事項が言い渡される。「鉄かぶとを忘れるな!元気にやってこい!」。
・呉の町に出ると周りに上官ばかりで、新兵のうちは敬礼してばかり。一番いいのは映画館に入ること。
・呉にいた知人の女性に何かと世話になった。日曜の度に面会に来てくれるので、班長に「種田!お前どういう関係や!」と問いだたされた。説明すると、「よし!」と言ってくれた。

○昭和十六年九月十四日、操法検定に参加し優秀な成績を収めたので、第一艦隊高須四郎司令長官より賞状を貰う。

・これをもらったのはS下士官に絞られたおかげだと思う。

○昭和十六年十二月八日、大東亜戦争開戦。

・機動部隊の掩護部隊として出撃。

○昭和十七年四月、ドーリトル空襲。米機動部隊追撃。

○昭和十七年五月二十九日~、ミッドウェー作戦のため出撃。

○昭和十七年十一月二十三日、「扶桑」退艦。

・残る戦友・上官に見送ってもらった。
・ボートから二年二カ月乗艦していた「扶桑」の武運長久を祈った。

○昭和十七年十一月二十四日、横須賀第七特別陸戦隊松谷隊に転属。

・呉から横須賀まで汽車で二十四時間かかった。
・実家に電報を打っておいた。叔父さんが駅員をしていて、大垣に何時につくか検討がつくだろうと思っていた。
・大垣に近づくにつれて夜になっていった。駅員さんに聞いてみると「大垣は通過や」ということだった。ひょっとしたら米原に来ているかもしれないと思って、洗面所に入って窓から見ていると、プラットホームに家族一団が来ていた。四、五分だったが涙の別れだった。
・朝になると横須賀へ着いた。
・松谷隊は百三十名ほど。大正八年製の十二サンチ砲が四門、それに測距儀が二台、重機関銃が二門、擲弾筒が六問、小銃は全員が持って、それぞれの弾薬が多数。
・兵員はあちらこちらからの寄せ集めで訓練も何もしていない。当局もあわてているんだなあと感じた。

○昭和十七年十二月八日正午、潜水母艦「千代田」乗船。横須賀港出港。

・しばらくすると富士山が綺麗に見えた。「あ~これが最期やなあ、見納めやなあ」。母国よ幸あれというのが当時の心境だった。
・航海中は昼夜警戒していた。夜間だけいつでも撃てるように大砲に補助に行った。
・「扶桑」では一番砲塔にいたので、すぐに上甲板に出られたが、千代田では二番砲塔に配置された。それで錯覚したのか、砲塔から飛び出たところ、甲板にぶち当たってしまい、前歯二本を折ってしまった。

○昭和十七年十二月二十三日、ラバウル入港。

・花吹山が噴煙を上げていて、湾口の様子は内地の軍港と一つも変りがなかった。
・二、三日たって上陸した。一番初めに青臭いようなにおいを感じた。
・水が変わったためか下痢になってしまったことを覚えている。

○昭和十八年一月一日、米軍の爆撃で朝を迎える。

・原住民とタバコや缶詰とバナナやパパイヤとを交換した。今考えると原住民はすごい目をしていたなあと思う。

○昭和十八年一月中旬、せいあ丸(?)に乗船。ラバウル出港、コロンバンガラ島上陸。

・輸送船が空襲を恐れて、四門あったうちの最後の一門を下ろす前に十二名の兵員と共にラバウルへ引き揚げてしまった。
・港は前日に米軍の艦砲射撃を受けていて、所々で不発弾がボカンボカンと爆発していた。いよいよ危険な戦場にきたという感じ。
・島の真中に富士山のような山があり、裾野が広がっていた。裾野には椰子の木が碁盤の目に植樹されていて、たくさんの牛がいた。
・ウシバエがたくさんいて、ご飯を食べようとするといっぱいたかってきた。

○昭和十八年ニ月五日ごろ、夜間寝付いたころ、米軍の艦砲射撃を受ける。

・あわてて警備につく。一万発の砲撃で身震いがした。

・大砲を一門据えつけたところでバンガ島に移動命令が下る。


○昭和十八年二月中旬、バンガ島上陸。

・松谷隊長以下約百名が上陸。
・十二サンチ砲二門、測距儀一台、重機関銃二挺、軽機関銃三挺、小銃は全員、擲弾筒三門、銃弾・手榴弾多数。
・島の一番南のさきっぽに布陣した。
・中隊本部、指揮小隊、弾薬小隊、射撃小隊、それぞれの陣地を作った。
・弾薬庫多数、ほかに食糧庫、井戸、風呂も作っていた。
・陣地作りは三十日くらいで終わり、あとは野菜を作る者、魚釣りをする者などそれぞれ。
・バンガ島にも野生化した牛がたくさんいた。小銃で撃ちとって牛肉をたべた。

○昭和十八年六月二十五日、命令により弾薬小隊から中隊本部付きになる。

・中隊本部は優秀な兵隊がたくさんいた。そこに選抜された。
・配属されるとすぐ、ニュージョージア島ムンダで通信教育をうけさせられた。
・マラリヤで一人が戦病死し、上等水兵が一人病気で後方へ送られた。

○昭和十八年六月三十日朝、米軍のレンドバ島上陸。バンガ島にも駆逐艦が二隻砲撃にやって来た。

・松谷隊も果敢に十二サンチ砲で応戦、駆逐艦を撃退したが、測距儀一台をやられ、福井上等水兵が戦死してしまった。

○昭和十八年七月五日ごろ、レンドバ島よりバンガ島へ米軍の砲撃が始まる。

・双眼鏡でレンドバ島を見ていた兵隊に砲弾が直撃し、五人が一度に戦死してしまった。
・松谷隊にレンドバ島を砲撃せよとの命令が下ったが、情けないけれども十二サンチ砲を撃っても届かなかった。
・この日から毎日毎日撃たれた。朝八時から始まって十二時ごろに止む。そしてまた一時ごろからはじまる。お茶の時間だなと思っていた。
・だんだんと砲弾の飛んでくる音で自分の近くに落ちてくるかどうかわかってくる。毎日砲撃を受けると慣れてくる。
・弾薬小隊の戦友が昼食を食べながら将棋を打っている時に砲撃が始まった。班長が防空壕の中から「入れ!入れ!」と叫んだが、その戦友は「ちょっと待って、もうすぐ勝負がつく」と聞かなかった。そこに砲弾がボカーンと炸裂し、戦友の腹に直撃した。戦友がやられたと聞いて中隊本部から駆けつけると、班長が「俺があれだけ言ったのに貴様らは入らんで」と怒っていて、戦友は謝っていた。戦友の腹から昼食の糸こんにゃくが出ているのが見えた。その後戦友は戦死してしまった。
・砲弾は木に当たると破裂し、木は吹っ飛んでしまう。
・中隊長が砲を見に行って、年をとった東北出身の応召兵と留守番をしている時に砲撃を受けたことがあった。東北は仏教がさかんな場所で、その応召兵は「ナムアミダブツ!ナムアミダブツ!」と叫んで伏せていた。つられ念仏で自分もナムアミダブツを叫んで伏せたことを覚えている。
・米軍はムンダを攻撃していた。バンガ島からも土煙が上がっているのが良く見えた。だんだん近づいてくるのが分かった。

○昭和十八年八月四日ごろ、米軍ムンダ占領。

・星条旗の旗があがり、海岸線をジープが走っているのが目の前に見えた。
・ムンダが陥落してから米軍も島の北に上陸してきた。北の方で戦闘の音がきこえた。
・今度はムンダを砲撃せよとの命令が下った。大砲の向きを変えて砲撃した。砲撃を終えて壕の中で飯を食べていると、米軍の砲撃が始まった。この時の砲撃は本当に絶え間がないくらい撃ちこまれた。
・だいたい古い兵隊から壕の奥に入る。
・たまに地面にもぐりこんでから破裂する弾があった。その弾が指揮小隊がいる壕にたまたま当たった。生き残った十七、八の志願兵が本部の壕にかけずりこんできて「たった今全員死んでしまった」と半泣きになりながら報告した。
・戦死した弾薬小隊の小隊長は、一度病気になってコロンバンガラの病院に送られたが、「部下を置いていけない」と言って帰って来た人だった。
・剣道二段で度胸の座ったA先任伍長が戦死者の遺髪を取りに行った。

○昭和十八年八月十七日、バンガ島撤退命令が下る。

・幕舎内を掃除して、持てるだけの弾薬・食糧を持って夕方・夜に出発することになった。
・隊長の命令を伝えるのが任務。
・夜の戦闘は危ないので、陸軍との間で「松」と「竹」という合言葉を作ってあった。
・島の真中に桟橋があった。桟橋付近は敵味方入り乱れる混戦状態。味方同士で撃ちあっているのではないかという錯覚を覚えた。命令されて「松!松!」と叫んだが、そのうち英語で話をしているのがわかった。
・指揮しなければいけない中隊長はどうしたらいいかさっぱりになっていた。皆伏せている中でA先任伍長が重機関銃の指揮し始めた。伍長は軍刀を振り上げながら「やれー!」とやっていたが、眉間を狙撃され即死した。
・中隊長に「A先任伍長戦死!」と伝えると、「遺髪をとれ」と命令された。命令を伝えると「遺髪はとれません」と返って来た。中隊長は「そうか、じゃあ遺品を取れ」と命令して、抜き身の軍刀をなんとか回収した。
・その数分後に重機関銃の射手だったY一等水兵も戦死。
・それから二人の遺体も重機関銃も収容することも出来ず、じりじりと逃げて行って陸軍と合流した。
・島伝いに歩いて行ってコロンバンガラ島へ撤退した。
・撤退中、隊長から陸軍の連隊長がいるから報告に行けと命令された。連隊長は快く会ってくれた。この時にはじめて陸軍の連隊旗を見て感激した。

○昭和十八年九月上旬、コロンバンガラ島上陸。

・空爆は度々あったが、地上戦はなかった。
・コロンバンガラ島撤退命令が下り、島の北側に集合して、寝転んだりしながら迎えを待った。

○昭和十八年九月下旬の夜、大発に乗り込む。

・付近には小さな島がいくらでもあった。大発に乗り込む前に各自が木を一本ずつ持って偽装した。
・そこに米軍機がやってきて照明弾を落とし、昼間のように明るくなった。その時は「今に、今に、撃ってくるんじゃねえか」というような心持だった。
・遠方では曳光弾が飛び交い、海戦を行っているのが見えた。
・そこに駆逐艦が三隻近づいて来た。敵か味方かわからない。吹き流しが見えてやっと日本のものであることがわかって安心した。
・駆逐艦からおろされた綱ばしごを命がけで登った。持っていた小銃や手りゅう弾は船に捨てていった。
・登ったと思ったらすぐ船が発進した。
・夜が明けて見ると、艦艇八隻がならんでラバウルに向かっていた。「やれやれ助かった」という心境だった。

○昭和十八年十月上旬、ラバウル上陸。

・前線帰りということで大歓迎された。
・花吹山のふもとの温泉に入って安心した。
・兵員は六十人くらいになっていた。
・その中から三十名ほどがブーゲンビル島ブインへの転勤命令を受けた。
・昼にまたラバウルを出港。


○昭和十八年十月中旬、松谷隊と離れブーゲンビル島ブイン佐世保第五特別陸戦隊へ合流。

・合流してすぐに戦車攻撃の演習を行った。この時はじめて戦車を見た。
・撃墜されて捕虜になった米軍機搭乗員二人が木に縛り付けられていて、その前で肉弾攻撃や銃剣術の訓練をさせられた。銃剣術が下手な者は実際に二人を突かせるということだったが、その後どうなったのかはわからない。
・一週間もするとバラレ島の三明隊に行けと命令され、先遣隊が十五名選ばれた。
・上層部が油断したのか、先遣隊は昼間に大発に乗って出発した。桟橋から見送っていると、突如米軍機がやってきて襲撃をはじめ、目の前で沈められてしまった。
・このあたりの海はサメが多く、浮かんでいる者も血のにおいをかぎつけたサメにひきずりこまれてしまい、全員が死んでしまった。
・二、三日して、後発隊は夜に出発した。

○昭和十八年十一月上旬、バラレ島上陸。三明隊(高角砲隊)に合流。

・第一印象は蚊が多くて多くて。上陸しようとすると蚊に襲われた。
・桟橋を警備している兵隊が頭の上から蚊帳のようなものをかぶっていたり、手足を包帯のようなものを巻いている。こんな負傷兵まで、なにに使っているのかなあと思った。
・三明隊は九月十三、十四、十五日の戦闘で多数の戦死者を出していた。そこに十五名が加わったので大歓迎をしてくれた。
・米軍機は編隊で島のまわりを回って、太陽を背に機銃を撃ち爆弾を落としてくる。そこを高角砲で撃つ。
・高角砲は掩体で覆われている。三明隊長は戦闘中、この掩体の上で軍刀を振り上げて指揮していた。この姿を見て、「この隊長だったらついて行ける!」と思った。
・バラレ島の真ん中に飛行場があった。
・島には松谷隊でも使っていた大砲が一門あった。最初はそこに配属された。ところが敵艦が攻撃にくることがないので仕事がなかった。そこで、飛行機の残骸から機関銃を取り外して、飛行場の北側に陣地を作って、戦闘を行った。
・しばらくしてアメーバ赤痢にかかってしまった。今便所にいったと思うとまた行きたくなる。本当に便所にまたぎ通しだった。ジャングルの中の病院に入院してみると、食糧も薬もなかったので、コプラを焼いて炭にしたものを渡され、絶食だった。なぜ炭なのかというと赤痢は体の水分を取るのが一番だからということだった。この時はもう死ぬかと思った。
・入院中、他部隊の兵だったが、同じく入院していた大垣出身のAという兵隊と仲良くなった。赤痢が治って退院して、椰子の実をぶら下げてAを見舞いに行ったが、どんどん衰弱して、かわいそうだがとても全快の見込みはないと思った。「A君よ、俺は凱旋できるか帰れるかわからんけど、帰ったらお父さんやお母さんになんぞ言うたることはないか」と聞いてみると、Aはしばらく考えてから、「はあ、大垣の水と銀飯を腹いっぱい食べたい」。そのうちやはり戦病死した。
・内地からの補給も来なくなって、戦地ではサツマイモ、、サツマイモの葉、茎、カボチャ、サゴ椰子デンプン、タピオカの根、椰子の実、椰子の木の芯、魚、貝、カニ、エビ、ヤシガ二、シャコ貝、この中の一品か二品で飢えをしのいでいた。
・風呂はドラム缶。


○昭和十九年三月下旬ごろ、バラレ島に一つしかない桟橋の警備、及び夜間大発艇の入港の誘導、小事務を行う長となる。

・桟橋勤務は夜が多く昼間は暇なので、隊の農園のカボチャを育てていた。隊長に持っていくと大変喜ばれた。
・ある朝、本隊からついてきた猫が一匹の大きなネズミを捕っているのを見つけた。早速猫を追い払ってネズミを食べた。動物性たんぱくがなくて、どうしても生きるために食べた。
・猫にあげるエサはなかった。いつも猫は兵舎の裏で寝そべっていた。ちっとも本隊へ帰ろうとしない。戦友に「おい、猫たべてしまおうやないか」と聞くと、その戦友は「猫は化けてくるぞい。種田さん、殺しなさい」と言った。「おう!猫殺すくらいわけねえがや」。
・考えて、衣嚢に猫を入れて、水のたまった兵舎の後ろのドラム缶風呂に放り込んだ。一時間してみると、猫は水死していた。
・本隊からついてきた猫なので、他の兵隊にみつかるとやばいということで、戦友がさばき、二人で穴を掘って、飯盒を二つ並べて焚いた。
・猫は昔から焚くと泡を吹くと言うが、非常に泡を吹いた覚えがある。
・ある日、兵舎のとなりの廃屋に蔓がのぼっているのをみつけた。「あれはひょっとしたら長芋の葉やないかなあ」と思って行って見たら、まぎれもなく長芋の葉だった。その時の喜びといったら、年末の宝くじで百万円があったったくらいのもの。

○昭和十九年八月ごろ、桟橋勤務がてらに塩焚きを行うようになった。

・塩焚きの方法は大発の艇長が教えてくれた。
・ドラム缶二つを横割に切って四つにならべ、そこに海水を入れて、約二日間炊き続ける。そうすると約一升くらいの塩が出来た。
・最初のうちは焚く燃料がいくらでもあったが、しばらくして不足した。
・塩焚きをやっていると、様々な兵隊が塩を求めて物々交換にやってきて、タバコなどが手に入った。
・芽の出た椰子の木は中がちょうどリンゴのようになっている。
・椰子の木はほとんど採りつくされてしまったが、時たま爆撃の跡に芽が出ているのを見付けていた。
・椰子の中身を針金にゆわえつけてジャングルに放置して、夜見に行くとカニがたくさんたかっている。それをとっていた。ジャングルの夜は静かで道に迷うのでめったにいかなかった。& lt; br>・戦友がつけているのを見て、千人針がほしくなった。手紙でその旨を家族に伝えたところ、最後の便で届けてくれた。

○昭和十九年十二月、米軍機が三機やって来た。

・なにかフラフラしていておかしい。25ミリ機銃を撃ってもフラフラしている。ついに掩体にドカーンと落ちた。
・見てみるといい加減な作りで、飛行兵も乗っておらず、爆弾だけ積んだ無人機だった。

・隊の中から魚とりのうまい者を五、六名集めて漁労班を作っていた。
・この中にいたN兵曹は横須賀出発以来一度も、ヒゲを剃ったことがなく、ヒゲがもじゃもじゃだった。
・N兵曹は面白い兵隊で、右腕に枕崎、左腕には自分の名前を彫っていた。今も昔も刺青は嫌われる。徴兵検査の時、検査官に「おまえ刺青をしているじゃねえか」と叱られて、「私は瀬戸内海で砂利運搬船の船員をやっております。右腕の枕崎は私の母港、左は私の名前で、砂利運搬船が沈んだ時に、私の死体が故郷の枕崎にすぐにつれてかえっていただけるようにやっております」と答えると、徴兵司令官に「よし!お前は海軍に入れ」と言われて海軍に入ったと言っていた。
・N兵曹はよく笑わせる。「おい、種田よ。俺は凱旋したらなあ、枕崎にスーちゃんがおんのや、それと一緒になんのや」、「N兵曹、あんたにもスーちゃんおるのかい」、「俺にもおるわい!」。こんな笑い話をよくした。
・ある朝、となりの島で米軍機の銃撃音がした。それから二日目、白木の箱が戦友に抱かれて桟橋に帰って来た。N兵曹は戦死した。

・島には蚊とブヨが多く、農作業の際は腰に火縄をつけて燻していた。
・爆弾の穴の水にボウフラが発生していたので、防蚊作業で重油を穴にいれて周った。
・三明隊長は赤犬を二匹飼っていたが、だんだん余裕がなくなったので、自ら拳銃で殺して、全員に肉を食べさせてくれた。
・風土病で下腿潰瘍があった。足の皮膚が一晩か二晩で腐ってしまう。最初の内は治療薬のリバノールをガーゼにしみこませていたが、しまいにはガーゼもリバノールもなくなって、ヤシ油を洗濯して使いまわしたガーゼにつけて使っていた。
・患部が大きくなると膿がたまる。膿をとらないことには治らなかった。そこで看護兵が患者を海につれていって、タワシのようなものでこすりとっていた。患者が痛さで暴れるので、二、三人で押さえつける。膿をとると不思議に患部が小さくなっていった。
・マラリヤにかかると、はじめの二時間くらいは寒くてブルブルする。毛布をかぶって辛抱していると、そのうち四十度くらいの高熱になる。熱も二時間くらいするとさめる。これを毎日繰り返す。熱が下がらなくなると戦病死してしまう。

○昭和二十年五月、三明隊に十五名ほどをブインに転出させる命令が下った。

・隊長も人選には苦労したようだが、結局補充でやってきた元松谷隊の十五名が選ばれることになった。

○昭和二十年五月十五日、三明隊と別れブーゲンビル島ブインへ。

・夜、小さい船に乗って出発した。
・その時に船内で、ふと大垣祭(恵比寿様や大黒様の山車が出る)を思い出し、「あ~今頃はなあ、八幡さんの前で山が出てにぎわっとんのやなあ」と思った。

○昭和二十年五月十六日、佐世保第五陸戦隊大隊本部に転属。

・十五名全員を受け入れてくれる隊はなく、副官の命令で各隊に配属され、戦友とばらばらになってしまった。
・足に潰瘍を患っていたので、休業幕舎に収容された。
・休業幕舎の患者は全員で六名。四名が風土病の潰瘍で、後の二名は内臓が悪い患者だった。
・二名のうち一人は下士官で、八月早々にいつもと違って二時間くらいうわごとを言っていたが、朝になってみたら死亡していた。
・もう一人は佐世保管轄だったが同年兵で、親しくしていたT。
・患者でも芋掘りの軽作業に出なければならなかった。
・ある夜、ふと目を覚まして隣に寝ていたTを見ると、顔や手が血まみれでびっくりした。「何した!」と聞いてみると、「今日昼寝をしていた頭元へ鶏が上がって来たので、捕まえて今生で食べた」。ただただ驚くばかりだった。
・鶏は隊長が自分の為に飼っていた。
・Tは腹膜炎で、腹水がたまって腹がはちきれるくらい大きくなっていき、ついに堪え切れなくなって「腹水を抜いてくれ」と頼むようになった。腹水を抜くといいことがないと聞いてためらっていたが、看護兵を呼ぶことにした。看護兵が注射針を腹に刺すと水がドバッとでた。洗面器で受けていたが、約一杯分くらい腹水がたまった。Tは「あ~すっとした。あ~すっとした」と喜んでいた。四、五日してTは戦病死した。

○昭和二十年七月、ポツダム宣言発表。

・無線隊が即傍受した。
・これを聞いた隊長は皆を集めて「我々は最後の一兵まで戦うんだ!皆その覚悟でおれ」と話した。

○昭和二十年八月六日、広島に原爆投下。

・これも無線隊が傍受して知っていた。驚いていた。

○昭和二十年八月十五日、終戦。

・玉音放送を聞いた。
・翌日になると豪州軍の飛行機がビラを撒いたり、尾翼に「日本降伏」と書いた幟をつけて低空で飛び始めた。
・「畜生!残念やなあ!」という気持ちだった。
・オーストラリア軍の指揮官と隊長が会談を行うので、机や場所などの設定をした。
・武装解除に応じて、連日兵器を飛行場に山のように積んだ。豪軍は使えるものだけ持って帰って、いらない者は火炎放射器で焼いてしまった。
・平和になりジャングルの木を切り倒して太陽の光をいっぱいに浴びた。束の間だったが心の中ではホッとした。

○昭和二十年九月、オーストラリア軍管理下の捕虜収容所へ。

・将官・士官は別の島へ送られた。
・所属部隊は出身県別に再編成された。
・豪軍は全裸にして持ち物検査を行った。
・しばらくすると、豪軍は日本兵を使役に呼び出した。
・日本兵は土片作業、豪州兵は機械作業。この時はじめてブルドーザーを見た。見る間に爆弾の穴を埋めてしまった。「これでは負けるはずや」と直感した。
・十六回作業に行った。その一回はゴミの清掃作業で、ふとみるとジャガイモが二つ落ちていた。豪州兵の目を盗んで、ちりとりにジャガイモを入れた。焼き場に持って行って埋め、しばらくして食べた。ほっこりして本当においしかった。「家へ帰れば縁の下にジャガイモくらい転がっているのになあ」と思った。おいしいやら情けないやら。
・豪州兵の作業監視兵と手鏡や万年筆などの物品とタバコを交換した。むこうもだんだん慣れてきて監視より物品交換に来るようになった。
・豪州兵は立派な服装で白人。体格も大きく、のんびり屋していて、日本兵の数さえ間違えるくらい幼稚な兵隊が多かった。大きい腕に馬の顔や、得体のしれない刺青を彫っていた。腕に四つも時計をつけて「ウォッチ!ウォッチ!」と見せびらかしたり、ポケットには七八本の万年筆を入れて大喜びしていたり、日本兵には大変おもしろい幼稚な兵隊に見えた。

○昭和二十一年一月二十一日、日本の船が迎えに来た。

・各収容所からぼつぼつ乗船が始まった。しかし、その日も作業で百名ほど呼ばれ、、意を決して烹炊所の薪割りをしたが、迎えの船が万が一出港して置きざりにされたらと思うと気が気でなかった。
・この時なにか食物をくれといったら、チンケースに半分ほどの乾燥ニンジンをくれた。四、五人の兵隊で相談して、それに水を入れて煮ることにした。その汁が甘くて甘くて。ニンジンも甘かった。
・作業が終わって乗船する前、ニンジンを食べてお腹が緩くなったので便所に入った。ズボンのバンドを緩めた時、便所の中にお守りをポトーンと落としてしまった。「しまった!」。お守り袋の中には、小さい時に亡くなった母親の髪やお札が入っていた。心残りではあったが、「今から戦争が終わって内地に帰るんだから、その代わりにこの地にに残るんだぞ」と思って乗船することにした。

○昭和二十一年一月二十一日夕方、復員船「葛城」乗船。

・「こんな大きな船が迎えに来てくれたか!」と感無量だった。
・元空母で中甲板、下甲板は飛行機の格納庫で、たくさんの機関兵を乗船させるには都合がよかった。

○昭和二十一年二月はじめ、もう少しで母国につくというところで、戦友のBが熱い艦内でついに耐え兼ねて病死した。

・水葬にするから甲板に集まってくれという放送があった。
・後甲板から毛布にまいた遺体をドボンと落とした。こんな痛ましいことはない。

・東京湾に入ると戦艦が一隻見えた。後で戦艦「長門」だと知った。
・船の中に日赤の看護婦が入ってきて、「兵隊さん、長年ご苦労様でした。衰弱している方は手を引っ張りましょう。肩につかまってください」。
・三年あまり女性のを見ていなかったので、看護婦を見てポーッとした。

○昭和二十一年二月七日、横須賀上陸。

・久里浜の元工作学校に入って来た。
・町は敗戦から立ち上がる活気に溢れ、あちらこちらで蒸かした饅頭、銀飯、女性が溢れていた。
・兵隊の中には学校の元烹炊所に行き、空いた米俵をたたいて残っていた米を集めている者もいた。
・いよいよ身体検査が終わって復員することになった。
・家族に電報を打とうとしたところ、「兵隊さん、この頃はすぐ着かないよ。あんたが帰ったほうが早いよ」と言われたので、連絡せずに帰ることにした。
・臨時列車に乗った。大垣と関ヶ原の間は勾配があるため、大垣で機関車を連結するため必ず停まるだろうと思った。ところが、停まらなかった。
・大垣で降りる予定の三人と、次の駅で降りてみた。そこは関ヶ原で、時間は午前三時頃、一面の雪で寒かった。
・駅員がすぐに駅舎の中に入れてくれた。その駅員は大垣出身で、「大垣は空襲でなあ。あそこも焼けたぞ。ここも焼けたぞ」と話をしてくれた。数時間後、上りの一番列車に乗せてくれ、朝六時に大垣駅に着いた。
・降りてみると一面の焼け野原。東と南の方が一部残っていた。

○昭和二十一年二月十一日、自宅へ着き復員。

・家へひょっこり帰って、「おはようございます」と言ったら、父親が「修やないか!帰って来たか~」と抱きついて喜んだ。
・それを見ていた妹たちはびっくりしていた。

・戦後三十年たって、やっとバラレ島で戦病死したAの遺族に話を伝えることが出来た。

●終戦時、海軍水兵長。
●復員時、海軍上等兵曹。
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