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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
第2回山陰キャラバン3日目の9月24日(月)の様子です。
旅の最中にメーリングリストに流れたため、旅の途中のかんじが出ています。文中の日付はブログ係の方で入れました。
メーリングリストより転載します。

◆◆◆

都会人間という事になるのでしょうが、キャラバンに来ると列車の乗り降りに結構ハラハラします。
目的地が観光地でないので、ワンマンカーは1両目の前しか扉が開かないとか、自分でボタンを押すと前方の扉は開くとか列車ごとのルールがいろいろあって、地元の人にはどうという事のない事が思わぬドキドキの原因になります。
運転席の側に座っていると間違いはないのですが、そもそもどちら向きに走り出すのか分からず(単なる方向音痴?)
結局大きな荷物を持って走り出すはめになったりします。

もう一つ困るのは特にお昼時の便数が限られている事で、昨日は午後の聞き取りを入れるには午前の聞き取りを終えて11時37分の列車に乗るしか選択肢がなく、結果お一人目のお宅には8時過ぎに伺うことになってしまいました。
快く迎えてくださった居川さんには感謝あるのみです。


居川伊勢松さん(92歳)は満州からハルマヘラ島へ、(ハルマヘラ島はセレベス島とニューギニアの間に位置しています)更にそのそばの小島モロタイ島へ渡りました。
当初米軍の飛行場を奪取しようと激しい戦闘が行われ、指揮官が皆いなくなるような戦闘も経験しておられましたが、奪取は不可能で、そのうち米軍も前線を移していく中、中心は食糧をどう確保していくかという事に変化していきます。
それでも満州時代から強いと言われていた部隊は食べ物を自分のものとせず部隊のものにするという事が徹底されたようで、お話に殺伐とした感じが無かったのが救いでした。

中隊史(歩兵第211連隊12中隊)を作っておられましたが、皆が寄稿したものを時には分解して時系列に並べなおした手作り感溢れる力作で、173名中61名が亡くなられたそのおひとりおひとりの亡くなった状況がよく分かり、ご遺族にそれを伝えるために制作したという事が伝わってきました。
(お借りしてコピーさせて頂くことになりました)

いささか慌ただしく聞き取りを終えた後は、キャラバン恒例の92歳が運転する軽トラ! で無事予定の列車に。

午後の井上平夫さん(91歳)はNPO「十人十色」の福島さんにご紹介頂きました。
体験者の親族たちを若手語り部”カタライザー”として活躍させている団体で、甥の井上光弘さんはその中心の存在、郡家(こうげ)駅まで迎えてくださいました。

井上平夫さんは17歳で志願、兵隊さんにあこがれて入ったものの初日にいきなり欠礼で殴られ「えらいところに来た」と思ったそうですが、成績も射撃も抜群で陸軍中野学校に行くよう命令されます。
ご本人の意思や選択の余地はなく、行くまで詳しいことは知らされていなかったようで、師団長命令で連隊で選抜されたという事のようでした。
中野学校卒業後は主にモンゴルで情報収集に務め、敗戦はモンゴルの村の長老から聞かされました。
その後11年余のシベリア抑留、一番最後の船で復員された方です。
「こんな田舎者が何で中野学校に選ばれたのか」と話しておられましたが、そのことが大きく運命を変える事になりました。
あと1~2年早くお目にかかれていたらもっとたくさんのお話を伺えただろうと申し訳なく思うところもありましたが、光弘さんがたくさんの資料を用意して助けてくださいました。
以前ご本人の書かれたかなり分厚い手記があって、百冊だけ作りお手元にも最後の1冊だったのですが県内の図書館にはありそうなので何とか再会を果たさねば(今回は無理そうですが・・・)と思っています。
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