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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
第2回山陰キャラバンが9月22日(土・祝)に伺った証言の概要です。
メーリングリストより転載します。
史料館・電子版に掲載することを意識した構成になっているようです。ブログ仕様としては、いつものとおり一行文字数を決めずつめた形にしています。

◆◆◆

◎坂口栄さん(旧姓:倉岡)

取材日:2012年9月22日

1923(大正12)年11月15日生まれ
当時の本籍地:鳥取県

陸軍
所属:歩兵第63連隊
兵科:歩兵

6人兄弟の末っ子の五男

1940(昭和15)年 満蒙開拓青少年義勇軍に志願
 10町の土地をもらえると聞いていた。
 最初の1年は大訓練所、匪賊の襲撃を受け関東軍の1個小隊が来て助けてくれたのがきっかけで義勇軍でも軍事教練を行うようになった。
 後の2年は小訓練所、主に南満州鉄道の沿線警備にあたり開拓団としての農業訓練は殆ど無かった。
 これからは兵隊が必要だと訓練所の所長に言われ志願することに。

1943(昭和18)年1月 帰国して鳥取連隊に入隊(志願)
歩兵第63連隊(満州、留守部隊:松江)第3大隊第9中隊に編入。
 ※千田川以東は鳥取連隊、以西は松江連隊に入った。

延吉の第2教導学校で下士官教育を受ける、伍長に任官、3番で卒業したと中隊長が喜んでくれた。
連隊の幹部候補生教育の助教に。
 尋常小学校しか出ていないので高学歴者を相手に無理だと思ったが、教官に「頭はこちらで教育するから身体はお前が教育しろ」と言われた。
 候補生と自分とどちらが先に倒れるかだと思ってやった。
 のちに甲種幹部候補生は内地に戻ったが乙幹はフィリピンで全員戦死した。

1944(昭和19)年1月 台湾に 陣地構築を

同年12月 フィリピンへ
同年12月23日 フィリピン・サンフェルナンド港上陸直前に魚雷攻撃を受け輸送船が沈没
 輸送船には3個中隊が乗船していた。
 6時間泳いで救助される。
 同じ中隊では29人が亡くなった。
 駆潜艇が1隻いて魚雷を打ち油が浮いたので艇長が「お前らの敵を討ったぞ」と言った。

5~6日野戦病院で休んだのち原隊を追いかける。

1945(昭和20)年1月10日頃 連隊はバレテ峠近くまで引いて陣地構築に入る
 私の中隊はバレテの手前のプットラン(※要調査)に前進陣地を構築していた。
同年3月8日 米軍との戦闘で負傷
 中隊から2個分隊・20名を任されてこの山を守れと言われていた。
 双眼鏡で見ているとフィリピン人を道案内に米軍が来た。
 陣地構築はうまくいっていて、上空から見ても下から見ても分からないと友軍の飛行機から通信筒を落として貰っていた。
 深く誘い込むつもりだったが他の小隊の兵が撃って仕舞い米軍はどんどん集結。
 米軍はまず煙幕を作り近づいてくる、煙幕が薄くなると鉢合わせしていた。
 迫撃砲で左前腕と頭部に負傷を負う。
 敵が下がると分隊は殆どやられていた。
 中隊長に報告に帰ると「何で帰った、あと2個分隊やるからすぐ戻れ」
 衛生兵がヨーチンだけで処置をして包帯をして「戻ります」と報告すると、中隊長は「負傷した兵隊を前線に出す将校はおらん。2週間もすれば治るから帰って来い。それまで陣地はしっかり守るから」
 なぜ中隊長が方針を変えたかは今も分からない。
 それが同じ中隊の人に会った最後。

野戦病院に入院
 野戦病院と言ってもバレテ峠よりは前、最前線から一つ下がったところ。
 天幕もベッドも毛布もあるわけではない。
 空爆があるので固まっていると危険、握り飯を1個貰ってジャングルの中で銘々過ごす。
 軍医と治療をするところだけ横壕になっていた。
 誰かうちの兵隊が入らんか入らんかと毎日受付に行って待ったが誰も来なかった。

自己退院して大隊本部へ、中隊の全滅を知る。大隊本部付きに。
 中隊の最後の様子を伝えた軍曹も他の陣地に送られ戦死していた。
 (この最後の報告をまとめた連隊副官のお手紙を写させて頂きました)
“妙高”(日本兵が付けた名前)にいた。
 米軍は戦車で山に入り戦車砲で攻撃してくる。
 日本軍の速射砲は当たっても受け付けないので速射砲を撃った後出て来る兵隊を重機関銃で攻撃した。

 あるとき連隊本部に帰ると大隊長のいた壕が分からなくなっている。
 迫撃砲で壕が潰れていて生き埋めになった大隊長を掘り反して引っ張り出した。
 これ以降大隊長はほかの下士官を切り込みに出しても私を指名することはなかった。

同年5月頃 “南妙高”が落ちた。
 時期を見て脱出しろという連隊命令が出た。
 ある日土砂降り、今日が良いのではないかと退却(転進)を試みる。
 米軍には気づかれなかった。
 この頃には連隊(約3000名)は100名以下になっていた。

ジャングルの中を移動
 そこからが大変、人が通った道ではない、地図にはある地名を目標誰かいるはずだと行く。
 衰弱して体力が無い、 「班長、僕は行けません」
 「そういわずに1歩でもいいから抜けなきゃいかんで」と言っても殆ど行けない。
 森林を抜けた所に川があって、竹を切って筏を作り下ろうとした者たちもいたが急流があって淵に落ち込み殆ど亡くなっていた。
 私は筏を作ろうと言う大隊長を止めて牛車で下がった。
 木の実やニイナ(カヤの一種)、カエルを食べた。
“妙高”からの転進以降米兵を見ることは無かった。

ピナパガンに到着、ここで暮らすことに。
 部落があり住民は逃げていてそこで生活をする、畑も残っていた。
 マンゴ、パパイア、ドリアン、ミカン、米粒の入った壺やアメやさとうきびを見つけることもあった。

1945(昭和20)年9月 敗戦を知る
 師団司令部から軍使が来て敗戦が伝わった。
 武装解除で上陸以来ほぼ初めて現地人を見た。(双眼鏡で道案内を見た以外)
 トラックでマニラに移動、現地民が「パタイ、パタイ」と首を切られる真似をしたが、フィリピン人の護衛が付いて空砲を撃ってくれた。(米兵ではなくフィリピン人だったと)
 バレテ峠を通るとき皆で泣いた。
マニラの収容所に収容

1946(昭和21)年9月 名古屋に復員

最終階級:軍曹
写真資料:教導学校、幹部候補生の助教時代の写真複数
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