FC2ブログ
あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
◎飯島勇三さん(92)
取材日:平成二十四年八月二十九日
所属:陸軍軍医学校~第百師団司令部(拠10620)軍医部
陸軍軍医
戦地:ミンダナオ島
―――――――――――

○大正九年八月二十七日、長野県生まれ。

・実家は蚕種製造業。
・叔父が海軍の軍医、兄が医者。
・召集を受けてしまうので現役志願することに。

○昭和十五年、中学校卒業後金沢医科大学入学。

・陸軍の依託生に合格して軍から給料をもらっていた。
・夏休みになると兵営に入って二週間訓練があった。

○昭和十六年十二月八日、日米開戦。

・何か中途半端な戦争をしているなという感じだった。

○昭和十八年九月、半年繰り上げ卒業。

○昭和十八年十月、医師免許証を貰う。

・すぐ軍医学校に入校。二十四期。
・軍医は診療が半分、作戦が半分。診療ばかりやっているわけではない。戦うことを中心として最も重要な人的確保をする。総合的な見方をするのが軍医の本職。
・内科・外科とそれぞれ専門の軍医が教官になっている。それを全部マスターする。
・軍医学校は東京新宿の早稲田の森の第一高等学院の脇にある。立派な三階建の白い壁。
・婦人科を除いた軍事医学、戦傷医学、そのほかに、伝染病の予防、師団長になった場合どうするかという戦術、防疫給水、野戦病院の配置をどうするか、兵站病院をどこに置くか、第一線の軍医をどこにどれくらい配置するかということを勉強した。
・日曜祭日は休み、下宿生活。
・軍医でも刀を持つ。
・家の刀を持ち出したところ、母親に「よしておくれよ。この刀は我が家の刀だから」言われたが、「我が家の宝が帰るか俺が帰るか」と言って刀を持って、母親を泣かせて軍刀にした。

○昭和十九年八月二十二日、軍医学校卒業。

・家へ帰ることは許されず、ただちに前線に赴くことになった。
・三百二十人の卒業生のうち、その半分145名が南方に配置。そのうち四十五人がフィリピン。
・大島海運の橘丸でマニラへ。百四十何人も乗った。
・百師団の場所はマニラで聞けといわれて、これは唯ごとじゃないと思ったけれども、マニラに着くと、真っ先に「ご苦労さん。ミンダナオ島のダバオにあります」と言われた。

○昭和十九年九月一日、ミンダナオ島カガヤン港着。

・ダバオに上陸できず、カガヤンに上陸。
・阪大出の谷という軍医と宿舎にいた。どうやってダバオにいこうか、四百キロのみちをあるいていくわけにもいかないし、飛行機の便を探そうということで十日間宿舎にいた。
・旅館にいるみたいで上げ膳さげ膳のいい待遇。

○昭和十九年九月九日、空襲。

・谷軍医が戦死。親指をとって蒸し焼きにした。
・このあと司令部から迎えの車がきた。

○昭和十九年九月十七日、第百師団軍医部に赴任。

・司令部には軍医予備員で見習士官の佐藤軍医が一人。
・原田次郎師団長。五十になるかならないかで師団長になった才能のある人。
・ダバオの西20キロのミンタルに司令部があった。
・右を見ても左を見ても日本人。その七割が沖縄出身。
・ダバオの邦人が二万人。現地召集が四千人くらい。その一部が患者収容隊にきて訓練した。
・聴診器と心臓の薬をいつも持っている。白衣は着ない。
・検血するときは顕微鏡で見る。マラリア検血をしたら100%が陽性だった
・司令部にいるといろんな情報が入ってくる。ミンタル病院の丸山という外科のお医者さんが、戦闘が始まる前後に、憲兵隊にスパイ容疑で銃殺されてしまった。一回だけ挨拶したことがある。実際にスパイだったのかはわからない。
・ミンタルの病院は四年間務めると四万円もらえるということで、たくさんの人が赴任しに来ていた。
・軍医部もミンタル病院に居住していて、院長の寺尾博士と非常に親しくなった。
・ゲリラも何十万といた。襲撃を受けたという患者を診たことがある。
・肝臓療法を行った。薬の代わりに牛の肝臓を食べる。煮込んでしまうよりも生で食べる方がビタミンがある。これで失敗して。えらい目に遭った。血便七十回。最後には陸軍病院に入院することになってしまった。

○昭和十九年十一月三日、入院

・やがて一日に三回くらいになって、「もういい具合がいい」と無理やり退院した。

○昭和十九年十二月十日、退院。

・各地区にある衛生材料を集めることになった。
・これが大変でワニ河を渡ることもあった。
・途中の傷病兵を収容して、イカダをくんで下ったりした。
・足かけ二ヶ月、丸七十四日、使って衛生材料を全部集めた。
・それが戦力で非常に大きな力を発揮した。マラリアで倒れる者が誰もいなかった。
・衛生材料はマラリア剤を中心に全部ある。このおかげでマラリア対策ができて、この後からマラリアで倒れる者は一人もいなくなった。
・薬はたくさんあった。

○昭和二十年三月、軍医中尉に。

・デゴスに30師団の傷病兵がいた。衛生材料を集められたのは30師団の車のおかげだということで、デゴスに行って患者を収容した。
・この時現地の住民の治療もした。熱帯潰瘍で足腰が腐っていたが、サルバルサン注射をするとケロッとなおってしまった。「ドクターイイジマ!」「ドクターキャプテン」と、たらふくごちそうを食べさせてもらった。
・貴重なサルバルサンを使って治療した。フィリピンの住民も日本軍のお陰で随分助かっている人もいると思う。


○昭和二十年四月二十三日夕刻、司令部から副官が車でやってきた。

・「すぐに帰れ、敵の戦車がすぐそこまで来ている」、地面に伏せて耳をあてたが、キャタピラの音が聞こえないので、「戦車なんか来てないよ」と言ったが、「もうそこへ来てるんだ!」。
・車で引き揚げようとしたら、ノースアメリカンの飛行機が二十メートル先に爆弾を落として爆発した。
・前照灯を消して、海岸線の明かりを頼りにダバオに戻った。
・ダバオで戦闘準備。三日間昼夜寝ないで、後方に物資を運んだ。
・戦いが始まってからは転進また転進。
・参謀が命令を出すが、それも斬り込みで、三回参加した。
・切り込みは五人とか二十人とかその時の具合による。
・木の上で砲弾が破裂して、経理部の中尉が戦死した。治療なんか出来ない。
・何が成功か。斬り込んで、米軍の食糧をとることはほとんどできなかった。
・米軍はおおらかなので食糧が投げ捨ててあり、陣地に近づくと落ちている。それを拾った。
・食べなかったものは大便と人の肉。人の肉を食べようといっても骨と皮で肉がなかった。
・戦傷患者を数えきれないほど診たが、ほとんどみんな戦死してしまった。
・いざとなったら運ぶ人も担架に乗る人もみんな戦死。
・患者が亡くなっても燃やすゆとりもない。そのまんま。第一線に患者を収容に行った者も死んでしまう。
・餓死、戦死。
・最前線は戦死。竹下大隊は1200人いて74人しか生き残らなかった。
・サルが落としてった木の実、芋畑の芋、掘りつくして、木のやわらかいところをみんな食べてしまった。
・誰が命令したのか、「前線の竹下大隊の救護の状況が不明であるから、飯島は前線に赴いて、負傷者の救護状況を視察して報告せよ」と言われて、すぐに前線の栃木旅団長のところに出かけた。
・栃木旅団長は士官学校で原田師団長の一期先輩。
・旅団長に「命令によって前線の視察に来ました」と申告すると、旅団長は「お前は前線に行くな。前線は極めて深刻である。俺は軍医がほしい。前線に行ってはならん」。「師団長命令で来ています。明日は前線に赴きます」と言ったら、旅団長は涙した。
・翌朝は晴れて、前線へ行くと静かだった。
・カッという音がした。発射音。それから近くの壕に飛び込んだ。スポーン、スポーンと弾が飛んでくる。一分間に何十発の迫撃砲。
・壕の遮蔽物吹き飛んで裸になってしまった。いよいよ最期だなと思ったら、スコールが降って来た。砲撃も止んだので司令部へ帰った。

○昭和二十年五月十三日、陸戦の最中、パサッと米軍の砲撃が止んだ。

・日本の陣地から「バンザーイ!バンザーイ!」。「なんだ?」と聞いたら、「ルーズベルトが死んだ。日本が勝った」。
・米軍の砲撃がない。しかし、考えて、「民主主義の国は民意で戦が行われているから、戦は終わらないよ」と言った。すると「飯島軍医はバンザイやらない」ということで、憲兵隊が飛んできて、「なぜバンザイやらないか」「バンザイなんかできやしない」「飯島軍医は頭がおかしい」。「飯島軍医はけしからん」ということになった。
・ジャングルの奥へ行くと、小川という高級副官が寄ってきて、「軍医さん、あ~苦しい。あ~苦しい。支那はよかった」と言った。その夜、高級副官は砲撃で戦死してしまった。
・負傷して、兵隊の返り血かと思ったら、自分に砲弾の破片が当たっていた。
・師団長は餓死して行く兵隊の横を通って見て見ぬふり。
・鬚が一ヶ月にわたって全然伸びない。爪ものびない。食えないのは悲惨。傷病兵も診なければいけないし切ない。
・兵隊も食糧を取りに行きますといって出て行っても自分のもので手いっぱいで帰って来ない。

○昭和二十年七月二十五日、師団長が「陸軍で一番大事なことは何か。戦う気力だ」と言っていた。

・軍医部長に「それは間違いだ」と言ったら、軍医部長も「俺もそう思う」。部長が言ってくれるならいいなと思って、やれやれと思っていると、「お前が閣下にそう申し上げてこい」。よろつく足でよろよろしながら閣下に申し上げたら、「飯島軍医、その件は確かか。師団長命令違反である。軍法会議にかける必要なし。飯島軍医を死刑に処する」と言われた。軍法会議にかけるというのは名文だけで何もなかった。
・その三日後、師団長の側近達が米を持って逃げた。師団長は憲兵隊に射殺を命じて追いかけさせたが、食べていない憲兵隊よりも、米を持っている方が足が速い。そのまま捕まえられず憲兵隊が帰って来た。
・師団長は食べるものが無くなったので、転進命令を出した。
・転進が始まったら砲爆撃がなくなった。
・師団長は馬に乗って転進したが、自分は大黒を連れてよっこらよっこら歩いて、四日かかって二キロくらい歩いた。一日に五百メートルくらいしか歩けなかった。

○昭和二十年八月十八日午後二時頃、師団長が馬にのってやってきた。

・ダバオ川から三十三キロ山の中に入ったバシアオというところ
・師団長は自分の顔を見て、「状況が変わった」と言った。
・副官代行の中元少尉が「日本は敗けた」と教えてくた。
・「あ~、よかったなあ。俺は助かった」と思った。
・戦が終わっていたから砲撃がなかったということだった。
・小田原中学を出て東大の農学部を卒業した軍医部の兵隊で大倉という一等兵がいた。砲兵だったが、砲がなくなったので軍医部で採用していた。中学校で大和田参謀と同級生。歩行不能になってしまって、食べるものが無いけれど、なんとか食べさせて、自分で便ができるくらいに回復した。

○昭和二十年九月三日、師団長が米軍に投降。

・永井副官が命令を持って来た。
・永井副官は慶応大学の経済学部を卒業した人で実に商売上手で弁解がうまい。絶妙の人生観を持っていた。
・命令には「飯島軍医はバシアオにおいて兵団の負傷者の救護をやれ。最後まで一兵も残らず負傷者の救護をしろ。なかんずく、治療の重点を大和田参謀に指向せよ」と書いてあった。
・大和田参謀は腹水がたまって、腹が大きくなって、起きられない。起きれば冷や汗が出る。朝昼晩てのひら療法で、患部をさすっていた。
・参謀は命令書を呼んで、「飯島軍医、俺の治療だけすれば後は一緒に投降しよう」と言った。勝手なうまいことを言う
・「こんな命令、永井副官と叩き斬る」と言って軍刀を引き抜くと、拝むようにして持って来た食糧を全部出して、食糧を前にして永井副官の言うとおりになって大和田参謀を治療した。
・大倉一等兵が起きれるようになって食事を作ってくれるようになったので少し楽になった。
・兵隊が「軍医殿、大倉はいつ死にましたか」と聞きにやって来たので、本人を呼ぶと、みんな抱きついて泣いた。

○昭和二十年九月末、バシアオ出発。

・途中で傷病兵を収容して一緒に歩いた。
・二十数名の団体になっていた。

○昭和二十年十月六日、米軍に投降。

・刀をとり上げられた。
・続々戦犯が出た。住民が収容所に来て、「あれは俺を殴った。こいつも殴った」と指をさされた者はみんな戦犯に引っ張られた。
・デゴスの住民もきていて、自分の顔を見て「やー」と言ってきた。米兵が捕まえようとやってくると、住民が「ドクトール!」「キャプテン!キャプテン!」と言ったので、米兵も驚いた。
・将校収容所は懲罰で、朝ご飯にぶとうの種が九つ。みんな残飯をあさって、将校たるものが泥棒根性であちこちあさった。収容所の中で。
・自分としては、動かなくても食事をくれるので、こんなありがたいことはないと思っていた。食糧不足は不満ではあるけれど、食糧を探さなくてもいいので、じとしていればもらえるので、こんなにありがたいことはなかった。
・収容所に邦人病院ができた。日本人の軍籍がないものを収容していた。その院長がミンタル病院の院長だった寺尾博士で、自分を待っていてくれた。

○昭和二十年十月末、ミンタル邦人病院勤務に。

・ごちそうが山ほどあった。朝から晩まで御馳走をたべて診療。
・病棟を二棟担当。死者は一人も出さなかった。危ない患者は全力で助けた。

○昭和二十年十二月、病院船高砂丸に乗船。

・台湾の義勇軍も乗っていた。
・患者をのせる時、台湾人を使ったが、彼らは解放感に満ち溢れて怠けていた。患者を運搬するのにまともでない。だから彼らをたしなめた。
・海軍の軍属四人と陸軍の軍医三人の七人が同じ部屋になった。すると、台湾の兵隊が海軍の軍属が一人一人よばれて、帰って来ると顔中こぶだらけ。三人ともなぐられてへとへとになって息もできない。
・海軍の軍属は台湾の義勇軍に差別をしたらしい。四人目は俺かなと思ったが、呼び出しはなかった。

○昭和二十年十二月九日、大竹上陸。

・古びた夏服をもらった。ガタガタ震える。
・とにかく寒かった。

○昭和二十年十二月十一日夜中、帰宅。

・母親が出て来た。顔を見て「幽霊じゃないかなあ」。まだ幽霊のような顔をしていた。いかにひどい栄養失調だったか。
・帰ってきてから、師団長に「あの時俺に死刑をくれたが、師団長は人間としても立派なのか」と質問状を出した。すぐに返事が来て、「あの時、食えば士気自ずから揚がるとは、蓋し名言である。師団長は人間としても立派なのか、反省しておる。以上終り」。それから師団長が94歳で亡くなるまで親交をあつくした。
・四十五人がフィリピンに行って、戦後名簿を作ったら、自分一人だけ生きて他はみんな戦死していた。
・戦後ダバオに慰霊碑を立てる時に、現地人が河で拾った軍刀を持ち帰って叩き直した。

●終戦時、陸軍軍医中尉。
スポンサーサイト



コメント
この記事へのコメント
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2019/01/28(月) 23:16 | | #[ 編集]
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://senjotaikenhozontabi.blog2.fc2.com/tb.php/1033-7871db85
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック