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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
ひきつづき、静岡・愛知方面に出かけていた一人キャラバンからの取材報告を掲載します。
8月19日(日)に伺った証言の概要です。

◎土屋喜一郎さん(91)
取材日:平成二十四年八月十九日
大正九年生まれ
所属:騎兵第四旅団騎砲兵第四連隊(成5356)第二中隊
兵科:砲兵(騎砲兵)
戦地:北支(洛陽攻略戦~老河口作戦)
――――――――――――

○大正九年十一月二十七日、静岡県生まれ。

・鉄道員だった。

○昭和十五年春、徴兵検査。

・今の三島の市役所で受けた。
・甲種合格。
・騎砲兵になる人は全然いなかった。

○昭和十五年十二月二日、入営。名古屋に集合。

○昭和十五年十二月五日ごろ、大阪港から輸送船に乗船。

・貨物船だから遅かった。
・中国の連雲港に夕方着く。翌日の夕方まで船にいて、上陸。
・夜、貨物列車に乗って出発。朝、徐州に到着。そのまま帰徳に行って降りた。

○騎砲兵第四連隊到着。

・第二中隊。
・帰徳で初年兵教育を受ける。
・電燈も水道もなく、夜は石油ランプで過ごした。
・同年兵は静岡、愛知、岐阜出身。その上は長野、栃木、群馬出身。下は、大阪、奈良、和歌山出身。
・一個中隊に四門
・一緒に行動するけれども騎兵と騎砲兵は別。騎兵は軍刀を持っている。
・四一騎砲を使っていた。
・馬には全部名前がついている。
・五十頭くらいの馬の名前を覚えなければならなかった。覚えないとビンタ。
・「北昌(きたまさ)」という馬に乗っていた。くせの悪い馬だった。しかし、一癖あるような馬が作戦に出ると強かった。
・教育で一番嫌だったのは内務。戦陣訓を読まされたり、洗濯物がどうだこうだと言われたり。
・三年兵が「初年兵はおとなしいなあ」とか言うと、二年兵が初年兵に集合をかけて気合を入れられる。
・床の上にアンペラがあって、毛布を2枚重ねて、寝袋のようにして寝ていた。
・観測だった。今言うと測量みたいなことをやっていた。
・厩の使役でクーリーを使っていた。何を持っていくかわからないので、出て行くときは身体検査をする。
・中国人はあきらめもいいのかなあと思った。
・中国は一夫多妻。

○昭和十六年四月十五日か十六日ごろ、一期の検閲。

・検閲が終わると”たくじょう”や”わんよう”などの前線警備に1年程配属される。
・”わんよう”に行った。ここは水が塩水のようで、うんと悪い。飲んじゃいけないと言われても暑くて飲んでいた。このためか、腸チフスにかかって、すぐ入院することになった。

○昭和十六年末か十七年正月ごろ、退院。

・原隊に戻ってきてから大東亜戦争の開戦を知った。

○昭和十七年・十八年、中国軍の正月攻勢でそれぞれ討伐に行った。

・周りは敵、情報が入ると襲撃を受けないうちに討伐に出ていた。
・輜重隊のフォードの自動車は性能が良く、長いので騎砲が積める。
・一台に砲、もう一台に弾薬・食糧を積んで討伐に出た。
・朝、日が上がったか、上がらないかのうちに敵襲を受けた。車から降りてはいけないと言われていたが、降りた兵士がいて、やられて亡くなってしまった。
・白兵戦はなかなかやらない。
・秋の討伐はおっかない。高粱の背が高く、どこから撃たれるかわからないので怖かった。
・満期が近い人が討伐に行くとよく死んだ。「どういう加減だかなあ」と皆言った。
・戦死者は討伐くらいだと、部隊へ運んで焼く。作戦中は引っ張って行くわけにもいかない。腕を切って、体を捨てる。せいぜい埋めてこれればいいほう。
・作戦中は食糧がないので探しに行く。大阪出身のある兵士が、敵の集落に迷い込み、焼き打ちを受けて、生きたまま焼かれてしまった。翌朝、腕をとってきて体を埋めた。
・捕虜は歩兵が度胸試しに初年兵に突かせていた。
・くしゃみや涙が出るガス弾を使っていた。国際法では禁止されていたが、実際には使っていた。
・夜襲を受けた時、敵兵がクリークに梯子をかけてのぼってきたことがあった。手榴弾もなくなって来たので、梯子を敵兵ごと落としたことがある。

○昭和十九年二月十一日~、京漢作戦。洛陽攻略戦。

・鉄道六連隊が架けた橋で黄河を渡って、洛陽攻略に行った。
・騎兵旅団が一番乗りするということだった。
・洛陽の近くの山の上で、夕方襲撃を受けた。
・言葉では言わなかったが、夜を待って退却して、後続の師団が来るまで待った。一番のりはできなかった。
・洛陽の飛行場はきれい。
・来たとき使った橋は落とされてしまっていたが、浅い河だったので渡れた。
・対岸から砲撃。
・敵地で食糧を探す。たけのこ汁をつくったり、さつま芋をたべたり、小豆をゆでて食べたり。
・寒い時は家財道具を壊して燃やしたりしていた。

○昭和十九年九月の末頃、作戦が終わって”ぶよう”で四カ月ほど警備。

・馬の運動をやったり、兵器の手入れをしたり、保養。
・被服もボロボロだったので新しいものに交換。
・冬出て行けば中に裏地がある。夏になると暑くて裏地をとる。それが嫌ならば中国人の服をかっぱらってくる。被服の補給はない。
・馬のえさを収集に行く。駐屯地から二里ぐらいのところが中心。これには主計も行く。
・収集に行ったある日、夕方になって土匪と取っ組み合いの戦闘になった。夜、部隊へ伝令に行く事になった。夜中に二里もあるところを一人で戻るのは怖かった。
・関東軍の一部が警備にやってきた。関東軍の将校が欠礼したという話があり、「なにいってんだ?欠礼した?弾は前ばっかりこねえぞ、後ろっからもいくぞ」と脅かしていた。
・作戦間は敬礼しない。中隊長も寝床は一緒。食事も兵に作ってもらう。
・将校が兵隊に嫌われるとろくな食事をくれなくなる。「あいつにはこれだけくれときゃいいや」となる。
・古参兵から評判の悪い少尉が長靴と軍刀に醤油をつがれていた。
・もう一人嫌われていた将校がいて、作戦間に馬ごと堀に落っこちた。兵隊は「ざまあみろ」といって通って行った。嫌われているとそんなもの。

○昭和二十年四月~、老河口作戦。

・約ひと月半、夜間ばっかり歩いた。部隊についていくのがやっと。
・中隊長もどこに行くのか知らない。
・中隊から行方不明になった者もいた。「誰だれがいません」と報告しても、そのまま出発してしまう。そうしないと前の部隊についていけない。
・老河口につくと薄暮攻撃を行った。師団命令で二十門くらいの砲が釣り弾の照明弾を撃った。それがものすごくきれいだった。それから騎兵の援護射撃。どんどん撃つ。
・弾は何発か残して置かなければならないがそれまで撃った。
・攻撃は成功したが、突入した騎兵は大分やられていた。
・この作戦のあと、また戻った。
・この頃から飛行機が空襲に来るようになった。

○昭和二十年八月十五日、”なんよう”の郊外で終戦。

・無線で各部隊へ通知していた。
・「日本もやっぱり負けたなあ」と思った。
・内地にいる女も男も金抜きされてしまうと噂された。
・「どうなるだろう」ということが心配。復員しても元いた職に就けるのかわからない。
・なぜ講和しなかったのかと兵隊はみんな言っていた。
・一週間ほど”なんよう”にいて、それから帰徳に戻った。
・毎日何もしない。馬の運動をやったり。兵器も何もない。帰る身の支度。
・軍足をチョッキにして持っていた。
・貨車で帰徳から上海に行った。
・上海から乗船し、復員。


●終戦時、騎兵伍長。
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