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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
静岡・愛知方面に出かけていた一人キャラバンから取材報告が入っていましたので、掲載します。
8月20日(月)に伺った証言の概要です。

◎渡辺四郎さん(89) ※旧姓:溝田
取材日:平成二十四年八月二十日
所属:中部十三部隊第三中隊~陸軍機甲整備学校~陸軍憲兵学校~静岡地区憲兵隊~浜松憲兵分隊~沼津憲兵分隊。
兵科:輜重兵~憲兵
戦地:内地
――――――――――――

○大正十二年三月十五日、静岡県生まれ。

・実家は農家。
・田方農業学校卒業後、税務署に就職。

○昭和十六年十二月、兄が応召され、家業をやる人が誰もいなくなってしまったので、税務署をやめることにした。

・所長に告げると、「だめだ!そんなことされたら税務署もこまるじゃないか、父親を呼んで来い!」と言われた。

○昭和十六年十二月八日、父親と所長に会いに行った。

・さんざん揉めて、結局休職扱いにしてもらった。
・この日大東亜戦争が開戦。
・九日から翌年三月まで休んで、それから徴兵されるまで家業を手伝った。

○昭和十八年、徴兵検査。

・甲種合格。

○昭和十八年十二月一日、名古屋の中部十三部隊第三中隊入営。

・輜重兵の部隊。
・子供のころ、脱穀機で右手の人差し指を怪我したために輜重兵になったらしい。
・牛しか使ったことがないので、馬はこまったなあと思っていたが、第三中隊は自動車隊だった。
・ラバウルへの補充要員だったが、戦況悪化で取りやめになった。
・初年兵教育を三ヶ月。
・雪やみぞれが降るので、寒いなんてものじゃない。自動車に乗っていても寒い。
・三か月後、甲種幹部候補生になる。
・成績で甲と乙にわけられた。

○昭和十九年四月ごろ、陸軍機甲整備学校へ。

・東京の渋谷。【※世田谷】
・幹部候補生の教育を受けた。
・第一区隊。
・食べ物は高粱。
・忙しくて40kg代に痩せこけた。
・御殿場にも演習に行き、千石原へ下る操縦訓練を行った。
・ダブルクラッチをやらないと減速に入らない。下りで急こう配で曲がりくねった道を、ニュートラルにしてふかして進むのがおっかなかった。
・教官に頭を叩かれながら下った。下ると、ブレーキが焼けて大騒ぎになった。
・ガソリンをつかっていて木炭ではなかった。戦後免許をとった時、なにかアクセルが左にあった気がして、運転さばきは分かるが、足はピンとこなかった。
・日本の戦闘機がB29を攻撃して、逆に撃ち落されるのを見た。いい気持ちははしない。人間が降りて来るのを見てしまった。あれはかわいそうだった。
・学校で習ったのは上陸作戦への対応訓練。千葉の海岸線に敵が上陸したという想定で行った。作戦をどうするとか勉強した。
・自動車の整備もやるので手はあかぎれだらけ。
・号令調整をうんとやって声がかれた。その後からいい声が出るようになる。昔の下士官がマイクを使わないでも大きい声がでるのは、声を鍛えているから。
・今でも印象に残っているのは、作戦要務令にものっている「状況判断」と「遅疑逡巡」。状況判断して、いいと思ったらすぐやるということ。世の中にでても通用した。
・卒業間近の頃、「お前は憲兵はどうか」と言われた。「なんで憲兵なのかおかしいなあ」と思ったが、嫌とは言えなかった。後から考えると、入営前に税務署の経験があったからだと思う。

○昭和十九年十二月ごろ、見習士官に任官。

・曹長の階級章で将校勤務。准尉よりえらいので、軍隊はややこしい。
・憲兵学校は一月からなので、原隊の十三部隊に戻った。
・今までしぼられていたのに、衛兵が将校喇叭を吹いていて驚いた。食堂も将校食堂。軍隊とはこんなにかわってしまうものかなあと思った。
・あかぎれだらけの手だったので恥ずかしくてしょうがなかった。
・軍刀や服を全部偕行社から買った。
・二年兵は硫黄島に送られたと聞いた。

○昭和二十年一月、陸軍憲兵学校入校。

・東京の中野にあった。
・三ヶ月教育を受ける。
・主に憲法や民事訴訟法などの法律の勉強をした。スパイとかの勉強はしなかった。
・本来兵隊を取り締まるだけだったが、思想関係も入ってきて、憲兵は軍国主義の手先になってしまったんだと思う。
・一番印象に残っているのは教官だった中佐が、「日本は重大時局にある」といっていたこと。その時には負けることが分かっていたのかなあと思う。

○昭和二十年三月、憲兵学校卒業。静岡地区憲兵隊に配属。

・本憲兵は憲兵の徽章がつくので腕章はつけない。補助憲兵だけ。
・地区隊本部のある静岡に行った。
・戦争で国民が動揺していたので、警察の上を行く治安維持を行った。

○昭和二十年五月、浜松憲兵分隊配属。

・分隊長は大尉。その下に自分。
・飛行場の近くにあった。
・お寺に下宿していた。
・どこかの部隊の准尉が横領かなにかをして、はじめて取り調べに立ちあった。
・捕まえたアメリカ兵を護送したことがあった。
・浜名湖のちょっと上で日本が原爆の研究をしていた。そこを警備しに行ったこともある。
・よく共産党員を引っ張ったとか言われるが、そういうことをやった記憶はない。
・自分ではそんなに思っていなかったが、周りの人は憲兵をおっかながっていた気がする。
・隊のすぐ近くにあった河合楽器が、プロペラを作る軍需工場になっていた。そこを狙ってB29が爆弾を落としに来た。上空を見ていると、B29が爆弾を落とした。サササーッと竹のような音がした。
・P51が飛んできて飛行場の機銃掃射を行っていた。ちょうど自転車にのっている時に来たので、慌てて隠れた。おっかなかった。
・飛行場を使っていた重爆隊の大佐の飛行機が、戦闘機に撃ち落されたと聞いた。

○昭和二十年六月、浜松空襲。

・夜、まず照明弾を落としてから、油脂焼夷弾を落とした。
・市街にいた人は助けられない。
・庁舎も焼け始めて、机に置いておいた軍刀を燃やしてしまった。
・煙がすごい。苦しくてとても立っていられない。目もやられた。
・浜松全体が大火災。
・ちょっと低い所にあった道路でしのいだ。
・空襲が終わってから集合をかけると、憲兵軍曹が一人来なかった。
・「どこいっちゃたかなあ、弱ったなあ」となって、とにかく下宿先を探してみたが、焼けていて跡形もない。
・調べてみると、防空壕に家主が畳で蓋をしていたことがわかった。そこで、軍曹と奥さんともう一人が窒息して死んでいた。
・火葬場は死体だらけ。空襲はひどかった。
・空襲が終わってから地区隊に戻った。
・もう東京の憲兵学校では教育が出来ないから各地区隊で訓練することになり、その教育隊長に選ばれた。
・三十名位を、静岡は焼けて教育ができないので、三島で訓練することになった。

○昭和二十年七月、三島に行く途中で実家に泊った。

・この時沼津が空襲を受けた。
・B29が沼津を爆撃して、頭の上を旋回して戻っていく。気持ち良くない。浜松にいる時はなんともなかったが、家にいるとダメだった。身内がいるところにいるとまずいと思った。
・空襲が終わり、教育にもどった。
・三十人くらいに隊列を組ませて軍歌を歌わせたりしていた。

○昭和二十年八月十五日、終戦。

・憲兵隊は大騒ぎ。
・下士官あたりが一番動揺した。外地の憲兵は殺されているから、もうだめだということだった。
・山奥に逃げようとなったが、結局やらなかった。
・終戦で国民がどういう反応をするか心配だった。幸いにも混乱はなかった。
・沼津の憲兵分隊長の頭がおかしくなったので、代わりをやることになった。
・ここで残務整理をした。

○昭和二十年九月、憲兵少尉に。(ポツダム少尉)

○昭和二十年十月ごろ、復員。

・戦後、公職追放で税務署には戻れなかった。

●復員時、憲兵少尉。
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