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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
本日、戦場体験史料館で択捉島の体験を伺いました。
体験者の方は、90歳とは思えない若々しい方で、まず驚きました。

太平洋戦争の当時は、旧制中学進学のためほとんど旭川にいらっしゃったということで、真珠湾攻撃前の時期の択捉島のことは直接はご存知ありませんでした。
ただ、ちょうどその時期、時化を避けるため単冠湾に寄港しようとした船が追い出されたという話は聞いているそうです。
1945年3月、中学を4年で繰り上げ卒業し、東京の大学を受験するために、3月下旬に浅草橋の辺りを訪れられており、東京大空襲で焼け野原になった一帯に、戦争とはこういうものかと強く感じられたそうです。
そのため、進学は断念し、故郷の択捉島に帰ろうと思いますが、6月までの間、勤労奉仕で荷物の梱包などされていたということです。
7月に、ちょうどお父さんが村の用事で根室に出てこられたため、妹と3人で一緒に択捉島に帰ろうということになりました。
それで乗船して沖で停泊しているときに、根室空襲が起こります。
2等船室にいた父と村の助役、医者はみんな亡くなり、ご自身と妹さんだけが生き残ります。
機銃を受け、船室の中の人たちが亡くなっている様が悲惨でしたが、お父さんは見つけることができないまま、妹さんと船倉に逃げます。が、爆撃で水が入ってきて梯子を上がったときに、人が殺到し、妹さんとはぐれてしまいます。
どうにか泳いで少し沖の無傷の船にたどり着き、根室に戻ってからも空襲が続いていました。
憲兵に聞いて金毘羅神社に避難し、被弾して燃えるドラム缶の火にあたりながら夜を明かしました。
そのときには、恐怖よりも敵愾心で頭がいっぱいになっていたということです。
翌日、将校が妹さんを見つけて連れてきてくれたので、それから合流して、前の日お世話になったかたの家にまたお世話になり、8月頭に択捉島に帰りました。

敗戦は、唯一通信の通っている郵便局勤めの近所の人に聞いて知りましたが、8月29日にソ連軍が入ってくるまで、この島がどうなるかという情報は一切ありませんでした。
一度中尉他2名がやってきた後、10月に入って、住んでいる蘂取(しべとろ)の村にも軍隊が入ってきました。
ひっそりと窓から覗いていると、まず貴族のような中尉他2名が入ってきて、それから20名ほどの軍隊でしたが、自分と同じぐらいの若い兵士たちで、顔も着ているものも垢で真っ黒で、ソ連の苦しい様子が伝わってきました。
家にある銃などを提出する武装解除のあと、家宅捜索があり、大きな商店だった自宅は目をつけられて、その後も何度も品物を取りに来られることになります。(一応、いくらだ?と聞いてきたが、敗戦国なのだから笑って渡そうと思い、ソ連も金がないだろうからと、お金はとらずに渡していたそうです。)
そういうことはあったものの、この軍隊は統率が取れており、略奪や身の危険を感じるような出来事は起こらず、この中尉のおかげで備蓄米をもらってくることもできました。
ソ連人はフレンドリーで、物々交換などもちかけてくるのはいつもソ連の人々でした。
そのうち、最初の軍隊に代わって国境警備隊が入ってくると、すぐに身分証が交付され、これでついにソ連の支配下になったと認識しました。
国境警備隊の将校などはみんな家族を連れており、村の大きな家に入って住むようになりました。
自宅にも、軍医の一家が入りました。関係は良好だったということです。
翌1946年から、漁労班や薪の伐採の強制労働をすることになりました。漁労班でタラやマスを捕るのは、強制労働とはいえけっこう楽しくもあったそうです。
1947年も同じように過ごしていると、8月30日に引揚げ命令が出て、30時間以内に荷物を持って港に集まります。なかなか船が来なかったが、9月に入ってようやく船が来て、樺太に連れていかれました。
そこで収容されてルーブルなども全て没収された後、しばらくして函館に引き揚げることができました。

1つ1つのお話がとても詳細で、あっという間に4時間以上が経過していました。
ほとんど休みなしに話し続けられたエネルギーにも圧倒されました。
択捉島の占領は不当な行為であり、解決に向けて動いてほしいという思いを語られていました。
故郷を取り上げられたことはやはり悔しいという思いとともに、正当な形として4島を日本に取り戻してほしいということを語られました。
大変濃い聞き取りでした。
明日になりましたので、もう一度書いておきます。
戦場体験史料館で、択捉島の体験者の方のお話を伺います。

【日時】1月26日(土)13時~
【証言】Yさん(昭和3年生まれ 90歳)
 択捉島出身
 根室空襲で父が死去
 1945年8月28日ソ連軍が進駐、混住状態が続きYさんもソ連軍軍医と同居
 1947年強制退去により島を離れる
  ※公益社団法人 千島歯舞諸島居住者連盟 紹介
明後日、択捉島の体験を伺うので、真珠湾攻撃ごろの択捉島について確認しておこうかと思いました。

wikipediaによると、1941年11月20日に、突如情報統制が始まったとあります。真珠湾攻撃当日の12月8日まで。
「海軍により突如、あらゆる船の島への入出港が禁じられ、また島唯一の紗那郵便局は通信業務を停止させられて電信機には常時、水兵の見張りがついた。」
そして単冠湾に南雲忠一中将率いる航空母艦6隻を含む軍艦30隻の機動部隊が秘密裏に集結、真珠湾攻撃のため11月26日にハワイへ向け出港。
このあたりについては、真珠湾攻撃に参加されたパイロットの故城武夫さんからお話を伺いました。
明後日のお話で、このときの択捉島の住民側から見た状況を伺えればよいと思います。

真珠湾攻撃の奇襲が成功したのが、この結集が米国に気づかれなかったからだとしたら、情報統制は功を奏したことになるのでしょうか。
ソ連も近いわけですが、全く気付かれないものなのでしょうか。
海戦を見ていくと、本当にお互いに気づかないものであるようで、現代の目から見ると不思議な気がします。

華々しい勝ち戦のスタートを切った場所ですが、戦争が終わりに近づくにつれて、兵力は本土決戦要員に引き抜かれていきます。
日本の降伏調印がなされる日、ソ連が侵攻してきて、そのまま実効支配が続くことになり、その問題はいまだに解決されずにいるのです。
保存の会の2019年総会&交歓会のお知らせ第一報が少し前にメーリングリストに出ていましたので、掲載します。
特に首都圏の会員の皆様には、ご案内はがきをお送りしますので、届きましたらご覧いただき、出欠の返信をお願いいたします。

◆◆◆

皆様へ

今年の総会&交歓会は3月10日(日)に決まりましたのでご案内します。
浅草の会場は取れなかったのですが、GWの10連休に別会場で
茶話会を開催する方向で調整中のため、例年より早い開催としました。

なお会員の皆様には原則として、ハガキやFAX申込用紙を
1月末~2月頭に送ろうと思います。

【戦場体験放映保存の会 2019年度総会&交歓会】
【日時】 3月10日(日)
 総会:11時~12時過ぎ
 交歓会:12時15分~14時15分

【総会会場】 文京シビックセンター 26F スカイホール
  東京都文京区春日1-16-21
  文京区役所の入っている大きな建物の最上階です(例年と同じ)
  http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.45.19.5N35.42.16.5&ZM=9
【交通】 東京メトロ丸の内線、南北線  後楽園駅徒歩3分
      都営地下鉄三田線、大江戸線 春日駅徒歩3分
  共に地下鉄改札口からシビックセンターに直結する連絡口(地下2F)があります


【交歓会会場】 メトロ・エム後楽園6F 「北海道」 〈一昨年までの会場に戻しました〉
  東京都文京区春日1-2-3 メトロ・エム後楽園
  総会会場から徒歩3分ほどの移動をします。
【交歓会会費】 3000円 (総会のみ参加の方は不要です、学生さんは半額)
【交歓会申し込締切】 3月6日(水)必着

【当日の連絡先】 090-4281-4731(清水義仁)
  上層階のため電波の届きにくい場合があります
検索ということでいうと、当ブログは全文検索タイプになると思います。
カテゴリ分けと、タグによる都道府県分けをしていますが、それぞれがけっこう膨大な記事数になってきたので、どこにどんな証言があったか、検索しないととても見つけられません。

私は特に、人名と事件名を検索するのに、お世話になることが多いです。
さすがに8年半以上毎日書いていると、実際に書いたのか、書こうと思っただけだったのかも、記憶があやふやになってくることがあり。
同じことを何回書いてもいいのでしょうが、何回か書くのなら、関連記事をリンクしたいと思いますので。
これは、なかなか精度が高くて助かります。

事務局メンバーは、やはり体験者の方の名前での検索のほか、どのキャラバンで誰を聞いたのかというのを調べることがあって、左サイドの証言一覧も利用しているようです。
その点では、体験者の方のお名前が必ずしも出ているわけではないのは、不完全ですが、最初はお名前を出さずに聞き取り当日を迎えることが多いので、報告が上がってこないと、お名前が出ないまま、ということもあるわけです。
それでも、一応、データを取ったりするのに利用できているようなので、単純に蓄積の力は大きいものだと思います。

もうちょっとどうにか検索しやすい方法もあるといいなあと思いつつ、もともとは、目の前に掲げた旅の情報収集をするために始めたものなので、イベントのお知らせや今後の計画などが目立てばいいのかもしれないとも思います。
やるのであれば、まだ全体についての記憶がなんとなくでもあるうちのほうがいいのでしょうが。
当面は全文検索で使っていくことになるでしょう。