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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
四国キャラバン3日目、11月24日(土)の様子です。
午前午後とお一人ずつお話を伺っており、それぞれ簡単な報告メールが来ました。
午前の分はそのまま転載、午後については状況を記載します。

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午前
野口カネ子さん、炎の中を逃げるみたいなめにはあってませんが、徳島時代の軍隊用乾燥芋づくり、徳島ではろくな徴用先もないしとお姉さんのいた大阪に出て市電の車掌や運転手。運転中空襲で、電車を折りた兵隊がその途端焼夷弾が足にささるも出発、車庫に戻ると寮は全焼、その足で帰郷する前後に祖父母宅が市場の飛行場に接収。敗戦で進駐軍が来るので山奥に逃げ、戻った後市場飛行場の爆弾処理で避難と、どこを切ってもいい?感じでした

午後
4月にこの体験者の方に会ってきた紹介者が驚くほど、記憶が薄れてしまっており、かなり困難な聞き取りとなりました。
証言としては不十分なものですが、体験者の方にしかない迫力や雰囲気というものはあります。
四国キャラバン3日目、11月24日(土)の日程です。

11月24日(土)
訪問地:徳島県阿波市
体験者の方
午前
◎女性。大阪市電の運転手として大阪空襲を経験
午後
◎南満州鉄道勤務、現地召集~シベリア抑留

連休は明日までですが、キャラバンは本日が最終日。
メンバーは夜行バスで帰京します。
四国キャラバン2日目、11月23日(金・祝)の様子です。
聞き取りの内容についてのメールが届きました。
少し砕けた感じはありますが、公開可能な内容と思われるので、そのまま転載します。

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国本さんは逓信省の専門学校を出ていたため、すぐに師団司令部、軍司令部の通信に。
司令部の通信だから物資はあるし、戦闘はないし、中国人との関係も悪くなく、機密に触れるほど上の兵隊じゃないし、内心やや苦戦しましたが、戦争の話を聞くのはあんたが初めてと本人にはいたく喜ばれました。。
細々エピソードはいろいろ。裕福な家で隠してあった塩壷を見つけて現地の人に配ったり(感謝されたと言われても微妙だが)、武装解除で通信機を揚子江に捨てたり(笑)、敗戦は米軍の無線を傍受して知ったり。
1946年6月まで残って各部隊の引き上げを見届けてから最後に復員しているので、そこは苦労でもあり、良い仕事とも思えるそうで何度も繰り返しておられました。
四国キャラバン2日目、11月23日(金・祝)の日程です。
以下の聞き取りです。

11月23日(金)
訪問地:高知県高知市
午前
体験者の方
◎昭和17年入隊、第20軍司令部で中国に。

四国キャラバン1日目、11月22日(金)の様子です。
特に内輪向けな内容はなさそうだったので、行っているメンバーからのメール転送を試みてみました。
どうやらうまく行っている模様?

香川県から高知県への移動中に送られてきたメールです。
リアルタイムで投稿できていないのは、ブログ係のせいです。すみません。

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同席した地元遺族会の方々が、最寄り駅ではなく、便の良い多度津まで送ってくれたので、予定より一本は早い電車に乗れました。
政本さんは昭和18年から東部ニューギニアマダンの兵たん病院に所属、野戦病院からの傷病兵の輸送が主な任務だったようです。最初はバラオへの輸送もやっていますが、そのうち病院自体が撤退でさ迷うように。
遺髪を取ってはカルテに貼っていて、それを最終的に持ち帰り、自作の木彫りの仏さんと一緒に遺族に送っていました。
絵手紙もやるので、戦争をテーマにした絵手紙があり、先の遺族会の事務局長がこれを引き延ばして紙芝居にして、一緒に学校を回っています。
写真は木彫りの仏さんと持ち帰った衛生兵用のカバンなど。
それから絵手紙に埋まった土間。建具屋さんだったそうで、土間的な空間が広い部屋になっていて、そこが絵手紙や木彫りや、戦争関係資料のギャラリーみたいでした。