あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
沖縄キャラバン2018、5日目3月28日(水)の様子です。
最終日は、メンバー1人が渡嘉敷島に渡りました。
当日夜のメーリングリストからの転載です。

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皆様へ

本日は集団自決から73年目の渡嘉敷島の慰霊祭に海を渡りました。
渡嘉敷に行くのは3回目、慰霊祭は昨年に続いての参加で、
本当は昨年同様、集団自決を生きた金城恵美子さん(86歳)たちと
ご一緒する予定だったのですが、金城さんに急なことがあり結局一人旅に。

その代わりにと、一昨日久しぶりに南城市にある金城さんのご自宅に
大城号で運んでいただきました。海を見下ろす丘の上のお家です。
金城さんはお母さんと5人の弟妹を失い、お姉さんも大けがを負いましたが
ご本人は見知らぬ女性に連れ出され無傷でした。
そんな話を会うたびにするわけではないので、この日は昔部落から見えた
クジラの話などに花が咲き、「『お母さんも、お姉さんも、弟、妹、みんな寄ってらっしゃい。
恵美子さんの代わりに来たからねえ』と言ってくるからさあ」と
大城さんが締めてお開き。

前回は車を用意してくれる人がいたのですが、今回は完全一人旅なので
少々ドキドキ。渡嘉敷はグーグルマップで見ても殆ど何も出てこないしなあ…。
役場から慰霊祭への無料バスが出ると聞いていたので、とりあえず役場を目指すと
「12時半から慰霊祭です、12時に阿波連の〇〇商店前から
12時10分に役場前からバスが出ます」と全島放送が流れます。

まだ30分ほどありましたが島内をうろうろする知識もないので
役場の向かいのベンチに腰かけていると、おばあたちが次々と
庭から切った赤いハイビスカスと濃いピンクの慶良間つつじの花束を手に
集まってきます。ベンチに腰かけたおばあたちの話題は、
次第に当時の話に。
「自決場の方はかえって死体は少なかったよ。むしろ川沿いが全部死体でさあ」
「私は自分の壕から西山に移らなかったから皆何もなかったよ」
「そう、皆自分の壕にいたら良かったのさあ」
話しはどんどん具体的かつ激しくなるのですが、ここで自己紹介などしたら
ふっと皆さん黙ってしまわれるのだろうなと思って聞くともなく聞くそぶり・・・。

やがてバスに乗りこみ、慰霊祭のある白玉之塔へ
昨年は気が引けて参加しなかったお焼香も、
今年は恵美子さんの分と蛮勇を振るってさせていただきました。

そのあと公民会でお茶会があったのですが、これは半年間渡嘉敷に移住して
フィールドワークをしておられた岩手大学の先生が数日後に島を去るにあたって
感謝を込めて開催されたもので、図々しく参加させて頂きました。
さながら体験者にほぼ私一人が囲まれた茶話会状態で
先のバスを待っていたおばあたちにも自己紹介。
「あの人誰かねえと思ってたのよ」と知らない人がいない島ではもっともな話。
90歳の女子青年隊だった方に後日聞き取りをさせていただくお約束をいただく一方
88歳のおばあは「戦争の話はすっかり忘れた」(今あんなに話してくださったのに!)

でもグランドゴルフにおいでと誘われたので何とかなるのかな。
近日、泊りがけで島を再訪したいと思います。

帰りのフェリー、3年間島にいた先生たちが島を去る日らしく
港には子供たちが溢れ、太鼓が打ち鳴らされて紙テープが舞いました。
また島には高校がないため、今日島を出る子も乗っているようで
逆に手を振りながら付いてくる先生らしき人を乗せたモーターボートも見かけました。

「(妹弟たちは)みんな健康で明るい子たちだったから、元気でいたらどんなことでも

出来ていたのにと思ってさ。これが悔しいのよ」よいう恵美子さんのお話しを
思い出しながら島を後に。
明日朝、帰京します。
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沖縄キャラバン2018、4日目3月27日(火)の様子です。
翌日28日の朝メーリングリストに流れたものです。そのつもりでお読みください。

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皆様へ

昨日も瑞慶山法律事務所をお借りしての聞き取り。

知念勝盛さんは左手の小指がありません。
1歳の時、伊江島で母におぶわれたまま後ろから撃たれ
皮一枚でくっついたものの成長しても
赤ちゃんの時の指の大きさのままだったので
25歳で切除しました。

(当時1歳の)僕の体験は軽いんだよ、という知念さん
指はあったらあったで説明しないといけないし
無かったら無かったで暴力団なのかとか聞かれるし
面倒で戦争の話はしたくなかった
手を出すときそこを隠しながら振舞っていました。

「でも撃たれて良かったと思う」
5歳以下の子供は泣くから殺せと日本軍から言われていたそうで
泣いたら殺そうと父が言っているのを兄は聞いており
「撃たれてぐったりしていたから静かにしていた
それでなければ泣いて殺されていたと思う。
何が幸いかは分からないさ」

集団自決が起こったアハシャガマにも偶々場所がなく
入れてもらえなかったということでした。

記憶がはっきりあるのは、慶良間諸島での収容を経て
伊江島に戻った頃からですが、当時の米軍の様子やガソリンの臭い
山のように不発弾を積み上げて導火線をひいて爆発させ
島全体が揺れるような不発弾処理を繰り返し行っていたこと、
その時住民はガマに避難をしていたことなど
写真で見る伊江島の艦砲射撃の激しさを改めて実感するお話でした。

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大城政子さんは当時4歳、
石に座らされ米兵からひしゃくで水をもらったことをなんとなく覚えています。
南部へ逃げる途中、母は政子さんをおぶったまま砲弾の破片で即死
祖母と叔母さんはおぶいひもから政子さんを石の上に下ろし
隠れる場所を探しに行きますが祖母はその途中即死
叔母さんも戻れず、政子さんは米兵に拾われたようです。

右膝の上に爆弾の破片を受け、左足には貫通銃創のある政子さんは
そのあとの野戦病院で寝かされていた記憶もぼんやりと。
孤児だと思われ看護婦さんに引き取られていましたが
沖縄の門柱の屋号と名前は言えたそうで、噂を聞いた
母方の叔母さんたちが探しに来て引き取られました。

お父さんは海軍で戦死、叔母さんたちのもとで過ごしますが
その後フィリピンから父方の祖父が帰国して引き取られます。
小学生時代から頭に野菜をのせて売りに出るなど苦しい生活でしたが
お祖父さんは優しかったからと不満は言わない政子さん。

野菜売りの最中に先の看護婦さんと再会をしており
なぜかお互いに分かったとか。

小柄で愚痴を言わない政子さんが、自分のケガのことなどはどうでもいい
母と父が亡くなったことを一言詫びて欲しい、私は母の顔も知らないと
そこだけ強い口調で口にしたのが印象に残りました。

沖縄キャラバンもあと1日、今日は渡嘉敷島に渡ります。
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沖縄キャラバン2018に行ったメンバーが全員帰ってきました。
お土産に、じゅーしー(沖縄の炊き込みご飯)や紅芋タルトをもらいました。

一日に3名の方にお話を伺ったり大移動したりで、充実という名のハードスケジュールだったらしい旅。
渡嘉敷の慰霊祭では、ちょうどフィールドワークの先生が半年の交流を終えて帰るにあたっての大お茶会を開かれていて、そこにお邪魔したりということもあったということです。
お互いには話をしても、改めて聞こうとするとぴたっと話が止まってしまうということもあるようです。
一方では、よそから来た人にだけしか話せない場合もあり、本当に人それぞれなのだと思います。

4日目5日目のレポートも上がっていますので、おって転載します。
最終日に半分倒れたように疲れ果てたメンバーもいたということで、本当にハードだったようです。
参加したメンバー、お疲れ様でした。
ご協力いただいた沖縄の皆様、充実した旅をありがとうございました。
沖縄キャラバン2018、5日目3月28日(水)の日程です。
最終日となります。

◆◆3月28日(水)◆◆
渡嘉敷島・慰霊祭

当初、体験者の方と一緒に参加の予定でしたが、身内に不幸があったとかでいらっしゃれなくなりました。
保存の会メンバーだけで渡嘉敷島へ向かいます。

最終日もよろしくお願いいたします。
沖縄キャラバン2018、3日目3月26日(月)の様子です。
レポートが届くのが翌日朝、ブログ係が仕事に出た後なので、さらに1日遅れでお届けしています。

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皆様へ

毎日充実した沖縄キャラバンを過ごしておりますが
そこは沖縄、ほとんど予定通りに進むということがありません。
瑞慶山法律事務所~沖縄事務所をお借りした昨日も、
リーガルビルの下で明らかにお話を伺う相手と思える方と出会い
「金城さんですか」と伺えば「大城です」
慌てて明日の予定者の資料をカンニングしつつ聞き取りをしていると
次の男性が登場!
午後の予定の知念さんが早く来たのかと思えば「金城です」・・・
そんなことにはさほど驚かずやっています。

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大城勲さんは昭和17年生まれで沖縄戦の記憶はありません。
父は移民先のフィリピンで召集され戦死、
母は勲さんをかすった銃弾が直撃し、勲さんを抱いたまま即死したと
聞いています。
小さいころは親は戦争で死んだと言われたけれど戦争の意味が分からなかったと。

勲さんがしきりに繰り返すのはお母さんが生きていたらなあということ。
お母さんの顔が分からんさ、写真も焼けてなかった
母方の叔母さんたちがいてどの叔母さんが似てるよと言われるけれど
やっぱり見たいのはお母さんの顔さ。

母の違う20歳離れた長兄がフィリピンから片腕を無くして帰国
力はあるけれど片腕ではさとうきびの束を縛ることも出来ないので
勲さんは小学生時代から早朝から深夜まで農作業に使いまわされ
「その時の使われ方は奴隷だった」
「なんで反抗できなかったね、それが悔しい」
支援金が払われなくなる18歳で無一文で家を出されました。

その後仕事を転々とし、22歳でベトナム戦中の米軍基地に雇用
戦地で壊れ銃弾のあとが生々しい車を修理しては
戦地に送り返す仕事をしていましたが
また日本は戦争に巻き込まれるのかなあという感じがして
自分のような子供を作りたくないと子供を作りませんでした。

お話の途中何度も、お母さんさえ生きていたらと繰り返す
勲さんの心の澱のようなものを何かで取り返す術がなく
辛い思いの残る聞き取りでした。戦争時の記憶がなくても、
まさしくこれも戦争体験だと思いながら伺いました。

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金城眞徳さんは当時首里に住む6歳
お父さんは防衛隊で戦死、首里から南部に逃げる時に置いていく
ことになった祖父母もその後死去、
壕を兵隊に追われることを繰り返しながら真壁まで南下
そこで砲弾の破片で兄と姉が即死
眞徳さんも頭蓋に負傷し朦朧としながらさまよい
その後また壕を追い出された直後に妹が爆弾の破片で即死
弟もその時の傷がもとで数日後亡くなりました。
6月22日に捕虜になったとき10人いた家族は3人になっていました。

逃避行のとき、自分よりさらに小さい子供たちが
一人きりになり「アンマー」(お母さん)と泣き叫んでいる光景を
2~3回見たこと、
月夜の夜に畑の真ん中で美しい高らかな歌声を聞いて
沖縄民謡ではなかったので兵隊さんが自分の故郷の歌を
歌っているのだろうと思ったことが特に印象に刻まれています。

戦後こどもたちも加わっての遺骨収容のお話なども伺いました。

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お二人の聞き取りを終えて今度は海が一際美しい南城市に、
そのお話は後日報告します。