あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
昨日、スラバヤ沖海戦、バタビア沖海戦を振り返ってみて、言ってはなんですが、ぐだぐだな戦闘だなあという印象を持ちました。
お互い、敵状がよくわからず、味方との連携もうまくいかず、撃ってもなかなか当たらないかと思ったら同士討ちのようなことが起こってごたごたしているうちに勝負がついた、というような。

しかし、これも間違いなく戦闘であり、死傷者が出ています。
現場では、誰もが混乱しながらも必死で戦っていたはずです。
そうした中で、仲間や知っている誰かが死んでしまうのを見た方もいらっしゃったと思います。
「なんでこんなところで命を落とさなければならないのか」とは、戦闘のさなかには思う余裕もなかったのではないでしょうか。
後になってみると、同士討ちで味方の艦の砲撃が当たって死んでしまった人たちは、特に無念だったろうと思います。亡くなったご本人は、真相を知らないのかもしれませんが。

そうやって亡くなった方でも、戦死公報には、「勇ましく戦い壮絶な死をとげた」と書かれていたことでしょう。
それは、ある意味思いやりであったかもしれません。
真相を知ったら、遺族はさらに悲しむことになり。ゆえに、戦友としてそれを語れないという場合もあったのではないかと思います。

そして、戦時中であれば、「戦果」だけが大々的に報じられ、勝利に沸くことになるのです。
戦いを命じた上層部は、その戦闘の詳細を振り返り、苦々しく思っていたでしょうか。それとも、勝ったのだからよしとしたのでしょうか。いずれにしても、そこで亡くなった1人1人のことは、顧みられなかったのではないでしょうか。

大戦とその前後として出来事を振り返り「ぐだぐだ」だと思ってしまったことについては、思って然るべきだろうと思うのですが、それで現場の1人1人の状況を考えるのを忘れてはいかん、と、自分に警告の意味で、あえて深く考えてみました。
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75年前、1942年2月27日~3月1日にかけて、ジャワ島攻略に向けての海戦が展開されました。
スラバヤ沖海戦とバタビア沖海戦です。

ジャワ島東部を巡る2月27日か~3月1日の攻防がスラバヤ沖海戦。
対するのは、英国軍とオランダ軍中心に、米軍とオーストラリア軍が参加したABDA艦隊。シンガポール陥落のときには、すでに多くの艦を失っていたため、寄せ集めだったこの艦隊の指揮官たちはほとんど脱出済みだったということです。

日本軍の側も、当初魚雷がなかなか命中しなかった他、状況の見誤りやヒューマンエラーも多発し、お互い混乱した戦況だったようです。
27日の2回にわたる昼の戦闘、夜の1回目の戦闘では、お互いにあまり命中弾が出ず。
その後、一旦日本軍を回避してジャワ沿岸を進んでいた敵艦隊は、オランダ軍が敷いた機雷原に誤って突入。慌てて海域を離れ、再び日本軍との戦闘へ。
夜の2回目の戦闘は砲撃戦が繰り広げられましたが、その中で密かに発射されていた日本軍の魚雷が敵に到達。敵司令官が戦死。
その後3月1日にも日本軍の掃討戦ともいえる戦闘が発生。
大戦の中でもまれな、3日間にわたる長期の海戦となりました。

一方、ジャワ島西部の攻略を命じられた側では、3月1日、バタビア沖海戦が展開されました。
こちらは、敵艦の情報を得た日本軍が優位の戦闘となり、2時間ほどで決着。
しかし、日本軍の誤爆により、味方輸送船や陸軍病院船が沈没しており、こちらも混乱が見られました。

この2つの海戦では、日本軍の艦が漂流する敵兵の救助を行っています。
中には、敵とお互いたたえ合った例もあったということです。
救助にあたらなかった艦、救助したもののやはり海に突き落とそうかという話が出ていた艦もあり、指揮官によって大きく違っていたようですが。

海戦というと迫力があるイメージですが、こういう混沌に満ちた戦闘もあったのですね。

なお、昨年、海戦75周年行事を準備中の国際調査団により、これらの海戦により沈没した艦の消失が確認されて問題となりました。
大戦の記憶は、体験者の死去だけでなく、こうしたところでも失われているのです。
昨日の「東京大空襲資料展」のことと関連するイベントのチラシが保存の会事務局に来ていたので、そちらも紹介します。

全国空襲連 院内集会

日時:3月9日(木)15時~17時
場所:衆議院第2議員会館 1階・多目的会議室

主催:戦争被害の全て解決を!実行委員会
連絡先:全国空襲被害者連絡協議会

民間空襲被害者を救済する特別措置法制定の動きが、昨年から少し見えてきたというところ。

「全国の大空襲から72年 無視されてきた“空襲被害者への補償” 皆さんの支援のおかげで・・・超党派空襲議員連盟んの努力で いま動き始めました」ということばで、チラシが始まっています。
先日保存の会事務局に届いていたイベント情報です。

被災72周年
東京大空襲資料展
~ふたたび空襲を繰り返さないために~

とき 2017年3月9日(木)~12日(日)
    午前10時~午後5時
ところ 浅草公会堂ギャラリー
入場無料

主催:東京大空襲犠牲者追悼・記念資料展実行委員会


特別企画展示 小池仁氏原画展

イベント
9日(木) DVD上映「知られざる東京大空襲」など
午後1時から
第3集会室

10日(金) アコーディオンで歌おう
午後2時30分から
第1集会室

11日(土) 浅草deトーク vol.6 企画 和・ピースリング
名前の在り処―2015年 千葉市空襲の刻銘碑は建てられた―
講演:伊藤章夫さん(千葉市空襲と戦争を語る会)、榎本喜久治さん(東京空襲犠牲者遺族会)
~人の記憶から空襲を知る「名前の朗読会」~
午後1時から第3集会室

12日(日) 平和寄席
落語:寝床屋道楽さん・ペロ中島さん
バイオリン演奏:楽四季一生さん
午後1時から
第3集会室

追悼集会
3月10日(金)午後1時~
東京大空襲犠牲者追悼碑前(隅田公園言問橋際)

浅草戦績跡巡り
9、11、12日開催
11:00~、12:00~、13:00~、14:00~
展示室入口受付集合
昨日の謎はまだ解けません。現在特別何かが盛り上がっているのかというと、最近ニクソンが初めて訪中して45年というのを聞いたというところですが、これもどのくらいの盛り上がりだったのかよくわかりません。

1945年に目を向ければ、3月には東京大空襲はじめ、各地で大規模な空襲が繰り広げられるという時期です。
72年前の明日、2月25日には、関東地方全域が空襲を受けています。
また、72年前の昨日は、米軍が硫黄島のすり鉢山を占拠した日です。
さかのぼって1944年2月17日にはトラック島大空襲、昨日は米軍機動部隊がマリアナ諸島に来襲。
その1年前、1943年2月19日には米軍がアッツ島を砲撃しており、そのころから、最初の「玉砕」への道のりが始まっていたことになるでしょうか。
さらに1年前、太平洋戦争が始まって約2ヶ月半たった1942年2月24日、75年前の今日は、戦時災害保護法が制定されました。
まだ勝ち戦の頃、本土が戦時災害に見舞われることが、どこかで予想されており。しかしその法律では多くの人々が救われずに、戦後も苦難を背負うことになった、というのが感じられるのがこの時期であるかもしれません。

戦時災害保護法制定のことは昨年もう少し詳しく書いたのですが、1年たってみて、私の勉強はあんまり進んでいないのを反省しなければならないでしょう。
戦時の1年であれば、本当に大きく戦況が動いているわけで。
こんなことで、戦時中じゃなくてよかった、と言ってもなんとなく情けないかんじがついて回ります。
まあそれでも、実は本屋で大戦の本のコーナーを見た瞬間に戦時災害保護法制定を思い出したのは、1つの蓄積ではあるのかなと思います。

東京大空襲の時期に合わせての何か、というのは、その跡地に生き、そこでイベントなどやっているものとしての礼節のようなものなのかもしれないと、勝手に考えるあたりは、日々の自分の生活の中に、戦争の記憶がある意味根付いているということでしょうね。