あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
中之島証言集会第2部シンポジウムのパネリスト2人目が決定しました。
ノンフィクションライター、城戸久枝さんです。

講座に行ったとき、メンバーがちょっと相談をしていたのですが、OKをいただけたということです。
中之島証言集会のシンポジウムは、この集会で戦場体験証言を聞いて関心を持ったところで、もっと身近なところで証言を聞く機会を見つけられるようにというのがコンセプトになっています。
家族の間での聞き取り、それによってどう関係が変わるのかというのはメインのテーマであり、お父さんの聞き取りを続けてこられた城戸さんには、ぜひお話をお願いしたいと思っていたのでした。
ライターというと身近な職業ではなさそうですが、お子さんのいらっしゃるアラフォー女性なので、子育て真っ最中の方々にも親しみが持てるのではないかと思います。

パネリスト3~4人+司会のシンポジウムになる予定で、映像や音声資料など、どのくらい入ってくるのかも気になるところです。
個人的に(当日のポジション的に)、その辺は特に気にしているというのもありますが。
聞き取りでこういうこともできる、という面でも参考になるところが多いと思うので、ベストな形を実現したいと思います。
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70年前の昨日、1946年7月29日のことです。
憲法改正の小委員会で、第9条についての修正案が提示されました。芦田均委員長の名前をとって、「芦田修正」と呼ばれています。

日本国憲法第9条は以下のようになっているわけですが。

第2章 戦争の放棄
〔戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認〕第9条日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

この第2項の「前項の目的を達するため」という部分を挿入したのが、芦田修正です。
「前項の目的」というのは、国際紛争を解決する手段のために武力を行使することであり、自衛のための武力を持つことはその限りではないという意味を持たせたものであるということです。
いかなる武力も持たないのではなく、限定条件をつけた形です。

これは、GHQや極東委員会に受け入れられるのですが、いずれもこれが日本が「自衛力」を持つことを明確にするものだと認識しました。
それで、GHQは極東委員会の要請を受けて、「国務大臣はすべてcivilians(文民)たることを要する」という「閣僚のシビリアン要件」を指示します。それを受けて、第66条第2項に、内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならないとする条項が加えられることになるのです。

芦田修正が加えられても、政府は、第1項が侵略戦争を否定するものであって、自衛戦争を否定するものではないが、第2項が戦力の保持および交戦権を否定する結果として、結局、自衛戦争をも行うことができないことになるのに変わりはないという立場をとってきているようです。(この辺、国会図書館の電子展示会「日本国憲法の誕生」に書かれています。)
GHQや極東委員会でも、もともと、国の「自衛権」というのは自然権であり、ことさら明記すべきものではないと、考えられていたという見方もあるようです。そこに芦田修正が入ったことで、むしろ内容が曖昧になったという説も見かけました。
憲法に「戦争放棄」条項を入れようとマッカーサーに提案したのは幣原喜重郎だったということですが、幣原は、自衛のため、特に大戦の勝者である連合国の今後の戦争に日本から戦力を出さないためには戦力を持たないことが有力だと考えて提案していたという話もあり、芦田修正が後に芦田均との確執の原因になったという話も。
その少し前に、「憲法9条は自衛戦争も放棄するもの」と答弁した吉田茂も含め、思惑はいろいろあったのでしょう。

そんなこんなで、「戦力」を保持しないということには変わりないため、自衛隊は「自衛力」ではあっても「戦力」ではないという位置づけで長らくやってきたわけです。いろいろな「解釈」を試みながら。
昨今、憲法そのものを変えてそこに直接修正を加えようという話がでてきている状況というわけでしょう。

最近、沖縄の東村高江でヘリパット建設に反対する住民に対し、東京・大阪・福岡から機動隊が投入されたというのを見ていると、「国際紛争を解決する手段として」ではない力が、国民の一部に向けて発動しているような気が、個人的にはしているのですが。(今回の機動隊は「自衛力」とは呼ばないと思いますが、自衛隊はもっと何年も前から、沖縄の基地反対運動をする住民に向けて動員されています。)
大阪で沖縄戦展をやり、これから中之島公会堂での証言集会をひかえているところ、偶然の一致としてはかなり強烈だなと思ったものです。私は福岡に行ってきたところでしたし。
というのは余談です。憲法9条の成り立ちには、日本側の思惑が様々にあったらしいということが、今日の本題でした。
とか言っているうちに、中之島公会堂証言集会のチラシ、「戦場体験史料館・電子版」に上がっていました。

中之島証言集会チラシ表 中之島証言集会チラシ裏

第5回あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い

日時:2016年9月4日(日)午後1時開始(12時開場)  
会場:中之島公会堂(大阪市中央公会堂)【入場無料】


第2部のパネリストなど、未決定の部分はまだ載っていません。
決まり次第、もっとちゃんとした告知記事を書きたいと思います。
ちょっと前に、中之島公会堂証言集会に向けてこれから一気にいろいろなことが進んでいくと書きました。
実際進んではいるのですが、あまり宣言してやるようなことではないので、広報としてはちょっと困ります。
登壇者の方々とのやり取りが主に進行中です。
一昨日の城戸さんの講座のときに、チラシの原案は見せてもらったのですが、とりあえずの最終形態がまだ回ってきていません。
昨年のより、小さい写真が多くてにぎやかなかんじになっていました。

とはいえ、今週末から、関西でのチラシ配布開始です。
いや、そろそろ出発しているメンバーもいるかも?という状況です。
分担を決めようとしているところをちょっと見ていたのですが、どういう日程になったかはわかりません。
ともかく、保存の会メンバーがときどき関西に出かけて行きます。ぼちぼち関西で、チラシが手に入るようになるはずです。
直接まとまった数がほしい方、宣伝してくださる方、戦場体験放映保存の会事務局までご連絡いただけると幸いです。
イベントやお店でチラシを置いていただけるとさらに助かります。
戦争展などの情報もぜひお寄せください。

広報と並行して、登壇者の方の聞き取り(兼打ち合わせ)も入るかもしれません。
切れる自腹が辛うじてあるメンバーには、特に暑い夏が訪れそうです。
昨日、城戸久枝さんの講座の1回目に行ってきました。
会場先着3名が全員保存の会のメンバーだったので、変なところで大うけしてしまう、なんてこともありつつ。

今回は、城戸さんのお父さんの半生と、その聞き取りをされた城戸さんの体験についてが中心でした。
お父さんは、1970年まで中国で暮らした残留孤児です。ただ、「残留孤児」という言葉もできる前、日中の国交正常化前に日本赤十字社に手紙を書き続けて日本の両親を探し、1970年にほとんど自力で帰国されています。
講演のときはいつも上映するのだという、お父さんが暮らしていた中国の村を城戸さんが訪ねて撮影された映像からスタート。
ドキュメンタリーを撮りたいと思っていたということで、音楽や字幕の入った、短時間で雰囲気の伝わるものでした。
最初はお父さんが中国育ちということをいやだと思っていたのが、大学の第2外国語で中国語を取ってから中国の文化に興味を持ち、留学するまでになったこと、そこでお父さんの暮らしていた過去と今そこにいる自分がつながっていると感じる瞬間があったことなどから、お父さんのことを書きたいと思われたそうですが。
「お前には何もわからない」と言われても説得し続け、少しずつ聞き取りを進め、出版の道を探し、10年かかって『あの戦争から遠く離れて』を形にされたのだそうです。
ノンフィクションライターというのも、この本を書くために名乗るようになったのだそうで、それまでいろいろな仕事をしてこられたようです。
本を出して、それがさらにNHKのドラマになると、大変な反響があり、お父さんと一緒に講演をするようなことも出てきて。
そんな中、自分がお父さんの傷に触れるようで聞けなかったようなことを質問されるようなことも出てきて、よかったのかどうかと悩みが生まれたとのことです。
それでも、お父さんは常に前向き。城戸さんも本やテレビをきっかけに届く手紙や電話の中から、会いたいと思った人に会いに行くようになり、次につながっているのだそうです。
身内だからこそ、終わりのない取材になっているところもあるようです。

ある親子の場合、というかんじで、きっかけや話を聞いていく間のお互いの変化など、興味深いことが満載でした。
お父さんの体験や言葉等、もちろんとても心に響くものでしたが、それを媒介する映像や生の音声の威力も感じました。お話の間にいろいろな素材が組み込まれていて、動きのある講座になっているというのでしょうか。確かに、ちょっとドキュメンタリーを見ているような気分になりました。
とにかく各場面で説得されているというのを聞くにつけ、家族の戦争体験を聞くことのハードルというものも見えました。この辺が、これから証言を聞こうと思った場合に課題になるのかもしれません。

それにしても、戦後70年で戦争を忘れる方向に向かうのではないかと気になっていたというのを冒頭で話されたとき、それはやっぱりあることなのだなあと思うのと同時に、城戸さんにさらに親近感がわきました。
城戸さんのお父さんとうちの父は同じ年生まれというのもあって、なんとなく我が家との比較の視点も入ってきます。
「聞き手の立ち位置」というのは、そういうところでも出てくるのかもなあ、と思ったのでした。

2回目は8月9日、長崎原爆の日の夜です。釜石艦砲射撃の日でもありますが、城戸さんにとっては、ソ連軍の満州侵攻が一番リアルに感じられることかもしれません。