あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
開催が近づいてきたので、改めてお知らせします。
福島県白河市表郷で毎年この時期に開催されている表郷戦争回顧展、ついに10回目を迎えます。
今週金曜日から開催です。

ちょうど、ナガサキピースミュージアムのお知らせにも、今日登場したようです。
http://www.nagasakips.com/archives/7399

交流を深めてきて、ナガサキピースミュージアムが全面支援、だそうです。
長崎原爆と「戦場に行った馬たち」のパネルが出展されるそうです。
「原爆と人間」のパネルが展示されていた回もありましたがそれとはまた違うのでしょうね。
馬のコーナーは全国版になっていたりするのでしょうか・・・?

地元で地道にやってきた、なかなか気合いの入った戦争展が、今年はさらに広がりを見せる模様です。

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第10回表郷戦争回顧展

第10回 表郷戦争回顧展

【日時】
 2016(平成28)年6月3日(金)~6月5日(日)
  6月3日(金) 13:30~17:00
  6月4日(土) 9:00~17:00
  6月5日(日) 9:00~16:00

【会場】
 白河市表郷公民館
  福島県白河市表郷番沢桜下23
※昨年までと会場が変わり、新しい公民館での開催となっています。

【講話】
 6月4日(土)13:30~ 「馬たちの戦争~軍馬慰霊碑にみる戦争と平和~」
 6月5日(日)13:30~ 「三度(みたび)許すまじ原爆を~71年目の夏 長崎からの報告」
 講師:増川雅一氏
     NPO法人ナガサキピーススフィア貝の火運動 「ナガサキピースミュージアム」専務理事

【主催】
 表郷戦争回顧展実行委員会
【協力】
 ナガサキピースミュージアム
【後援】
 白河市教育委員会 白河市表郷遺族会 NPO法人表郷ボランティアネットワーク 表郷読書連絡会 福島民報 福島民友新聞社

お問い合わせ
 080-5577-4949(緑川)
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祖父の軍歴表はまだ見つけていませんが、5月27日あたりのことを。
1946年5月22日の吉田茂内閣成立(内閣交代)に伴い、枢密院に提出されていた憲法改正草案は一旦撤回されました。
5日後の5月27日、若干修正が加えられたものが改めて諮詢されます。
そして、5月29日から枢密院、草案審査委員会が再開されます。6月3日まで3回開かれたということです。
4月22日からの1ヶ月の間に8回開かれており、その間にだいぶ審議が進んでいたということでしょうか。6月8日には、枢密院本会議で可決します。再審議が始まってからはけっこうあっという間です。

選挙が行われても、極東委員会は憲法改正への関与の意思があったようで、4月10日の投票日には、憲法改正問題に関する協議のためにGHQ係官を派遣するようマッカーサーに求める決定をしていました。米国代表を含めて全会一致での決定だったようです。
これを、5月29日、マッカーサーは拒否します。
すでに日本では憲法改正案の審議は進んでおり、今からいろいろ言われても困るという状況になっていたのは確かでしょう。「若干の修正」で審議の続きが始まったのはその表れといえそうです。
憲法改正案を長く練ってきた幣原喜重郎はもともと吉田茂に推されて首相になっていたということもあり、党派が違っても基本は同じ方向性を維持した面もあるでしょう。
ただ、国内にも、憲法改正の審議は帝国議会ではなく特別の機関を設けて行うべきという主張もあったようです。(民主主義科学者協会等)

6月20日から、審議の場は帝国議会に移ります。
沖縄戦の組織的戦闘終結から約1年後です。
5月27日からというと、1年前は沖縄戦が南部に展開していった時期でした。昨年はその辺りのことを書いていました。
また、1945年5月末には、マッカーサーが日本本土上陸作戦の準備命令を出しています。
そのころには、どのくらい、日本の民主化を計画していたのか。・・・もっと余裕ができたら調べてみたいものです。
一昨日オバマ大統領が広島を訪問して被爆者と交流したのを受けて、今度は首相が真珠湾を訪れるべきという声が米国に出てきているということ。首相は慎重姿勢。
真珠湾攻撃75周年式典に出てほしいということですが、真珠湾が踏み込みがたいところというのはさておき、首相がそのころも同じ首相なのかということに突っ込みたいのはきっと私だけではないと思います。
任期満了で必ず交代することがわかっているオバマ大統領より、日本の首相の半年後は不安定です。

それはさておき。
オバマ大統領が折り鶴を贈ったことから、昨日サダコ鶴の話をしました。
サダコ鶴の3羽目が真珠湾のパールハーバービジターセンターに寄贈されたことも。
その続きのようなものになります。
2012年9月22日に、この3羽目の折り鶴寄贈の記念式典が行われました。
これは、ビジターセンターの常設展示の1つにされることになり、1年後にその「禎子の鶴展示」の除幕式が行われました。2013年9月21日です。
いずれも土曜日。おそらく平日でなく土曜日にするために、寄贈の記念式典は9月22日だったのではないかと思います。
9月21日は国際平和デーであり、この日に合わせて式典を行っているようです。

この9月21日、現首相の誕生日です。
偶然の一致というのか、因縁というのか。
ご本人もどきっとするのではないかと思いますが、首相はこの3羽目のサダコ鶴のことはどのくらいご存知なんでしょうか。

首相が行くべきなのか行かないべきなのか、私はわかりません。
真珠湾攻撃に参加した元日本軍パイロットと真珠湾の関係者は、後に交流を深めたそうですが。
前線の将兵たちと国の指導者では立場が違います。だから行くべき、なのか、そうでないのか、私にはわかりません。

ただ、すみません、正直、平和への祈りを伝えるという点では、サダコ鶴のほうが、首相より、真珠湾に渡った意味があるような気がしてしまいました。
オバマ大統領の折り鶴は心を動かしただろうと思うけれども、日本の首相が真珠湾に折り鶴を持っていくのはどうなんだろう、と考えてみてそう思ったわけです。
それほどに、戦争を起こす力のある人の立場というのは難しいと。
銃後も戦争を支えた存在だったけれども、自分でその戦争のある社会をどうすることもできない子どもの立場というのは、その責任のなさ、弱さゆえに、ストレートに平和へのメッセージとなるということなのでしょう。
そういう子どもたちも、生きて大人になったら、それからの時代に対して責任が生じ、折り鶴だけではない何かをしていくことを求められるわけで。
それが、亡くなった人と生きている人の違いなのだなということも考えます。
伊勢志摩サミットに出席したオバマ米大統領が、広島を訪れ、自分で折った4羽の折り鶴を贈呈したのだそうです。
そして、平和記念資料館で、サダコ鶴に関心を持っていたというニュース。
これだけでは、その関心の持ち方がわかりません。「サダコ鶴」を知っていて、これがあの・・・というかんじだったのならいいのですが。

千羽鶴が平和の象徴やお見舞いとして広まったのは、広島で被爆し、12歳で白血病で亡くなった佐々木禎子さんがきっかけです。
広島の平和公園には、禎子さんをモデルにした「原爆の子の像」があります。
禎子さんが闘病中に折った鶴は千羽を越えていたようですが、残っているのは広島平和記念資料館に展示されているものと、お兄さんである佐々木雅弘さんの手元にあった5羽だけになっていたのが10年ほど前のこと。
佐々木さんははじめこの5羽を、5つの大陸に寄贈しようと考えられていたようです。(6羽と書かれている情報もありますが)
北米は、原爆投下の指揮をとったトルーマン大統領のお孫さんに、と考えていたところ、いろいろなつながりから、1羽目は、9.11テロで破壊されたワールドトレードセンター跡地の「トリビュートWTCビジターセンター」に寄贈されました。
この「いろいろなつながり」について、その当事者の方が書かれた日記をネットで読んでいたのですが、それが見つからなくなりました。それは、本になったからであるようです。
本を手に入れたら、これについてはまた何か書きたいところです。
トルーマン大統領のお孫さんへの贈呈は、昨年11月に実現しています。米中西部ミズーリ州インディペンデンス市の「トルーマン図書館」に寄贈されました。
2012年には、真珠湾のパールハーバー・ビジターセンターに寄贈されていました。これが3羽目。

2羽目はオーストリアの「ASPRライブラリー/ヨーロッパ平和博物館」。

2013年9月7日には、沖縄市にも贈られています。沖縄市民会館において行われた沖縄市民平和の日を定める条例制定20周年記念行事のオープニングセレモニーで贈呈。
これは、広島平和記念資料館から佐々木さんに返還された1羽ということです。6羽のうちの1羽ではないのでしょうか。
沖縄慰霊の日に向けて平和月間に入ろうとするこの時期に、米大統領と折り鶴が話題になるのは、いいタイミングかもしれません。

検索すると、他に、チェルノブイリ原発事故の関係でウクライナに寄贈されたのと、ブラジルの被爆者に寄贈されたのとがひっかかってきます。
佐々木さんの手元の5羽とは違う場合もあるようですが、3つの大陸には届いているようです。

ハワイ含めて米国に3羽渡っています。
原爆を落とした当事国への、恨み言、ではなく、平和を願うメッセージです。
ハワイの場合は、日本が戦争を仕掛けた場所なわけですが。

ともかく、何があったのかをそのまま受け止めて、これからにつなげてほしいという願いの形ということになるでしょう。
一人の被爆者の人生と遺品のもつ力であり、そして周りの人たちの力です。
本日、祖父の命日です。
当ブログの何周年と併せてカウントが進んでおりますが、ぼちぼち何回目か忘れてきています。長く続けているとそうなってくるものなんですね。

せっかくだから1946年と見比べてみようと思ったのですが、軍歴表をどこに入れたか失念しました。(おい)
復員がいつだったのか、70年前の今日より前だったのか後だったのかも、これを見ないとわかりません。
目下沖縄戦展前のとある締め切りで探している余裕もないので、見つかったらやることにしましょう。復員前か後かで、書く内容がだいぶ変わるはず。
なんというか、資料管理が雑すぎ。じいちゃん、ごめん。

そういえば、今月の拡大事務局会議の中で、保存の会の情報センターとしての役割について話が出ました。
同じ戦場を体験した人を探している方からの問い合わせがしばしばあることについて。
そこで、まず軍歴表を取り寄せて、どの部隊かを明らかにしましょうというところからスタートするんだけども、その取り寄せ方を説明するのに、当ブログの記事を紹介すると言ったメンバーがいました。
もうだいぶ前になりますが、帰省ついでに祖父の軍歴表を取り寄せようとしたことがあって、その経過をわりとリアルタイムに近いかんじで書いたことがありました。見直すと、ご丁寧に必要書類の写真までつけています。
意外に長いこと役に立っていることにびっくりしました。
今後、戦場体験史料館・電子版の方で、そういうコンテンツをつくろうかという話も出たのでした。

祖父の軍歴表を取り寄せようとか、保存の会に入ってなかったらやらなかっただろうと思います。
というのは、私も、そういえばそういうことができるとか考える発想がなかったから。家族がそういうのに熱心で詳しくないと、出征した人の軍歴表というものの存在さえ知らないものだったりするのは確かです。
これは、確かに、今後に生かしていきたいところです。資料館・電子版より、当ブログのほうが、何か先にやるかもしれません。

それと。私の場合は、祖父が無事に帰って来て、一緒に過ごす時間があったから、この人のことを知りたいと思ったのだと思います。
親・兄弟が戦死された方だと、顔も知らないからこそ気になるという場合があるでしょう。
孫にしても、そういう場合はけっこうあると思います。関心の持ち方はさまざまです。
が、私の場合、祖父が長いこと元気でいたことと、元兵隊だったこともわりと何度か聞いていたこととが、後で大戦のことに踏み込んでいく要素になっていた気がします。
戦死していて、会うことがなかったら、「祖父が亡くなった戦争」に興味を持ったでしょうか。落ち着いて考えてみたら、その可能性もだいぶあると思いました。小学校のころから、戦争や原爆に関心があるほうだったので。
ただ、そうすると、なんとなく、「戦争に巻きこまれた」という感覚だっただろうと思います。
一緒に過ごした祖父が、戦争中はどうだったのか。祖父と戦争、その隔たりと、一方で連続した感じとが、私を戦争の話に深入りさせたのだろうなあ、と。
少なくとも、第2回日比谷証言集会に足を運んだのは、祖父が倒れ、亡くなったタイミングだったからで。「戦争の話をもっとちゃんと聞いておけばよかった」というのがなければ、あのチラシを見ても日比谷公会堂まではいかなかった可能性が高いです。もともと直接話を聞きようがなかったら、そこまで気にならなかったのではないかと。

そういうわけで、私が今保存の会にいることと、祖父と一緒に過ごした日々と祖父の死は、切っても切れない関係なのです。
そして、何年経っても毎年命日をはっきり思い出すことになるのは、ブログを書いているからでしょう。
同時に、やはり生前戦争の話を聞いておかなかった後悔も、毎回よみがえります。
人生って・・・という気分になってきますが、ともかく、戦場から生きて帰って来た祖父と、その幸運に感謝します。