あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
「松村幸子さんの戦争展 夫と、父と、私の戦争」、いよいよ明後日5月2日(月)から開催です。
明日は松村幸子さんと保存の会の面々は会場設営に行っているため、不在の時間が長いです。
戦場体験史料館も臨時休館状態となります。
当日お問い合わせ先など、確認してまたお知らせします。

松村幸子さんの戦争展 表 松村幸子さんの戦争展 裏

「松村幸子さんの戦争展 夫と、父と、私の戦争」

【日時】
 2016年5月2日(月)~5月8日(日)
 10:30開場~17:00まで(最終日は15:00まで)
【会場】
 港区赤坂1-1-1細川ビル3階ギャラリー
   地下鉄銀座線・南北線「溜池山王」駅8番出口より徒歩3分
【入場無料】

【展示内容】
 ○東京蔵前で育った夫・酒光章夫の東京大空襲の記憶
  ・東京大空襲の絵画(吉野山隆英さん・提供)
 ○福井で育ち戦争遺児となった私・松村幸子(旧姓)の父と家族の記憶
 ○子育てを終えた私が取り組んだ遺骨収集の活動
 ○平和を祈る遺影(ご遺族による展示)
 ○ニューギニアの戦場で起きたこと
  ・元兵士たちが語る戦場体験のパネル展示(戦場体験放映保存の会・提供)
 ○私と同時代の子供たちが犠牲になった対馬丸について
  ・パネル展示(対馬丸記念館・提供)

【同時開催】
 ニューギニア戦体験者と遺族によるミニ証言会
 ①13:30~ ②15:00~
 5月2日(月)
  ①映像上映
 5月3日(火・祝)
  ①堀江正夫さん(陸軍 第18軍参謀)
  ②宮本一美さん(遺族 東部ニューギニア)
  ②林千春さん(遺族 ブーゲンビル)
 5月4日(水・祝)
  ①宇多田正純さん(陸軍 第一遊撃隊/マノクワリ)
  ②秋葉万里子さん(遺族 西部ニューギニア)
 5月5日(木・祝)
  ①谷澤晃さん(陸軍 第18軍司令部管理部自動車班)
  ②今井勝祥さん(遺族 東部ニューギニア)
 5月6日(金)
  ①映像上映
 5月7日(土)
  ①酒光章夫さん(東京大空襲)
 5月8日(日)
  ①酒光(旧姓・松村)幸子さん(遺族 東部ニューギニア)
 ※5月3日~5日は、佐々木彗さん(他2名)によるギター演奏あり

【主催】
 酒光章夫・松村(旧姓)幸子
 電話:03-3919-4194
【協賛】
 戦場体験放映保存の会
 電話:03-3916-2664
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今日は昭和の日。昭和天皇の誕生日です。
戦時中は、この日に合わせて作戦が考えられたこともありました。
それだけに、敗戦後も尾を引くことになります。

1946年4月29日、極東軍事裁判(いわゆる東京裁判)の起訴状が提出されました。
訴因は大きくは、以下3つにわかれました。
第一類「平和に対する罪」(訴因1-36)
第二類「殺人」(訴因37-52)
第三類「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」(53-55)

極東委員会の構成国それぞれから代表検事が出される形の法廷です。
上記の罪について、連合国側のそれぞれが誰を被告人にするかを出し合いますが、戦時中の恨みが反映されている場合も多く、最終選定までにはいろいろ悶着があったようです。
オーストラリアは最後まで天皇を訴追すべきと主張していました。英国がそれを阻止します。
一方、マッカーサーは国際裁判に否定的で、戦争を「犯罪」化するのではなく、アメリカ単独の法廷で東條英機を裁くことを主張したということです。

この日起訴されたのは以下の28名。
関東軍関係:板垣征四郎、南次郎 -、梅津美治郎
特務機関:土肥原賢二
陸軍中央:荒木貞夫 -、松井石根、畑俊六、木村兵太郎、武藤章、佐藤賢了、橋本欣五郎
海軍中央:永野修身、嶋田繁太郎、岡敬純
総理大臣:広田弘毅(外交官)、平沼騏一郎(司法官僚)、東條英機(陸軍)、小磯国昭(陸軍)
大蔵大臣:賀屋興宣
内大臣:木戸幸一
外務大臣:松岡洋右、重光葵、東郷茂徳
外交官:大島浩(駐ドイツ大使):白鳥敏夫(駐イタリア大使)
企画院総裁:鈴木貞一、星野直樹
民間人:大川周明(思想家)→その後精神異常が認められ、訴追免除となる。

結局、日本統治のやりやすさということが、被告人の選定、法廷の形等に大きく影響したようです。
後に、連合国側でも、この裁判は間違いだったのではないかという議論も起こることになります。

軍事法廷の開廷はこの年の5月3日。日本国憲法が施行される1年前です。
そして、処刑が執行されるのは1948年12月23日。当時皇太子だった今上天皇の誕生日です。

ちなみに、1945年4月28日にムッソリーニが処刑され、4月30日にヒトラーが自殺しています。
これはまったくの偶然ですが、それだけに、昭和天皇の誕生日、なかなか因縁めいたものを感じます。
64年前の今日、1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効しました。
前年9月8日に調印されて7ヶ月と20日。こういうのは、半年後に発効とかではないのですね。

日本にとっては、正式に国際社会への復帰ができた日であり、占領政策が終わり戦争状態が完全に終わった日です。
一方で、沖縄・奄美は米国施政権下のまま。沖縄では「屈辱の日」と呼ばれています。
沖縄を差し出して日本が国際社会に復帰した形になります。これ以後、本土の米軍基地の大多数が沖縄に移動します。

速やかに国際社会復帰をということが考えられる中で、昭和天皇によるいわゆる「天皇メッセージ」が出されていました。
1947年9月、宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルト連合国最高司令官政治顧問に伝えられた天皇の見解をまとめたメモということです。
メッセージの主な内容は3点。
(1)米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。
(2)上記(1)の占領は、日本の主権を残したままで長期租借によるべき。
(3)上記(1)の手続は、米国と日本の二国間条約によるべき。
ある意味、昭和天皇から米国への入れ知恵のようにも見える内容です。
共産主義勢力への牽制という意味もあったようです。近隣の国家との関係で、米軍の力が必要だという考えもあったのかもしれません。

いずれにしても、この措置が、沖縄と本土の間の断絶を決定的なものにしたのは確かです。
サンフランシスコ講和条約が締結され、発効したこの時期は、朝鮮戦争のころです。
戦後経済を立て直すための矛盾は、朝鮮特需によって解消され、日本は高度経済成長に入っていきます。
沖縄は、その恩恵からも切り離されていました。沖縄への補助金に対して批判がありますが、沖縄の経済発展が遅れたのは、本土に責任があるのです。
一方、朝鮮戦争は1953年7月27日に休戦となりますが、現在も「終戦」ではありません。南北朝鮮の間では、戦争を終わらせる条約が結ばれていないのです。
講和条約が必要だったことは間違いありません。

終戦の日は、8月15日なのかという議論で、そうではないという中には、ポツダム宣言を受諾した8月14日だという意見、9月2日の降伏調印だという意見と並んでサンフランシスコ講和条約発効のときだという意見もあります。
手放しで喜んでお祝いできるものではない気がします(お祝いすると国内で矛盾が起きることになります)が、8月15日を思い出すのと同じように振り返るべき日ではあると思います。この日を避けて通る限り、「日本は一つ」にはなれないのではないかと。
『戦場体験史料館通信』第21号が、我が家にも届きました。
総会のことは比較的少な目で、今年のイベントと、それを迎えるにあたって頭に置いておくこと等がメイン。それと沖縄キャラバン2016の報告という内容です。

首都圏近郊仕様で、「松村幸子さんの戦争展 夫と、父と、私の戦争」のチラシが入っていましたが、さらに300人委員会の登録カードが入っていました。
日比谷証言集会は、500人委員会を募って開催しました。その形は、今回も継承するようです。
大阪は300人委員会。現実的なところで、会場費が日比谷よりだいぶ安いということもあり、西日本だと東京より来やすいはずの九州方面は今それどころではないということもあっての300人でしょうか。前回会議に出ていないので、あんまりよくわかっていないブログ係であります。

今回も、義務はないけれども、当事者のほうに一歩踏み込んで応援してくださる方を求めています。
参加するぞという意思表示としてもどうぞ。
本家大阪方面で手に取りやすくするのがまずは課題です。
そのうち画像も載せます。
配布にご協力いただける方、ぜひご一報ください。
ニューギニアの戦いの主な経過です。
5月2日から始まる「松村幸子さんの戦争展 夫と、父と、私の戦争」に合わせ、まずはニューギニアの戦いについて。

●1942年(昭和17年)
3月8日 - 日本軍が東部ニューギニアのラエとサラモアに上陸
5月8日 - 日本軍(南海支隊)はポートモレスビーを海路攻略するためラバウルを出港していたが、珊瑚海海戦の発生により海路攻略を中止
7月21日 - 日本軍の南海支隊先遣隊がポートモレスビーを陸路攻略するためブナに上陸
8月24日 - 日本軍(海軍陸戦隊)がニューギニア東端のラビの攻略を開始。攻略は失敗し9月初旬に撤退
9月16日 - 南海支隊がポートモレスビーの灯が見えるイオリバイワまで進撃したものの、米軍ガダルカナル島上陸部隊撃滅が頓挫したことを受け撤退を開始。ポートモレスビー陸路攻略を断念する。
11月9日 - 日本軍はニューギニアを管轄する第18軍を新設(これまでは第17軍がソロモンとニューギニアの両方を管轄)
11月中旬 - 連合軍がブナの攻略を開始
12月18日 - 日本軍がマダンとウェワクに上陸(日本軍がフォン半島の西側に初めて進出)

●1943年(昭和18年)
1月2日 - 日本軍のブナ守備隊が玉砕
1月中旬 - 日本軍がサラモア南西の山間部にあるワウの攻略を開始。攻略は失敗し2月に撤退
3月2日~3日 - ラバウルからラエに向かう日本の輸送船団が壊滅(ダンピールの悲劇)
3月18日 - 秋風事件
4月7日~14日 - い号作戦 (ソロモン諸島と東部ニューギニア方面で日本海軍が行った航空作戦)
6月30日 - サラモア周辺のオーストリア軍が積極攻勢に出るとともに、アメリカ軍がナッソー湾(サラモアの南30Km)に上陸。(連合軍のカートホイール作戦に基づく進撃の始まりで、同日、中部ソロモンでもアメリカ軍がレンドバ島に上陸)
8月17日~18日 - 連合軍がウェワクとブーツ(ウェワクの西)の日本軍飛行場を奇襲空襲。日本軍は約100機(半数以上)の航空機を失う
9月4日~5日 - オーストラリア軍がホポイ(ラエの東側)に上陸、アメリカ軍空挺部隊がナザブ(ラエの西側)に降下
9月11日 - 連合軍がサラモアを奪還
9月16日 - 連合軍がラエを奪還
9月中旬~10月末 - サラモア、ラエの残存日本軍(第51師団ほか)が山を越えてキアリに撤退(サラワケット越え)
9月22日 - オーストラリア軍がフィンシュハーフェン(フォン半島先端)に上陸
10月中旬~12月 - 日本軍(第18軍第20師団)はフィンシュハーフェンを攻撃するが失敗し撤退(12月19日に撤退命令が出る)
10月30日 - 西部ニューギニアを含めた豪北方面を第2方面軍の担当とする組織変更が行われる。第2方面軍の下に第2軍を新設
12月15日 - アメリカ軍がニューブリテン島西部(ダンピール海峡を挟んでフォン半島の対岸)のマーカス岬に上陸。続いてグロスター岬に上陸(12月26日)
12月25日 - 日本軍(第2軍第36師団)がサルミに上陸。12月27日に第36師団ビアク支隊がビアク島に上陸

●1944年(昭和19年)
1月2日 - アメリカ軍がマダンとキアリの間のサイドル(グンビ岬)に上陸(連合軍がフォン半島の西側に進出)
1月下旬~2月下旬 - キアリ等のグンビ岬以東の日本軍(第18軍第20師団、第51師団)が山の中を行軍してマダンに撤収
2月29日 - アメリカ軍がアドミラルティ諸島(ニューブリテン島の北西)に上陸。島の日本軍は玉砕し、アメリカ軍は5月6日に作戦終結を宣言。アドミラルティ諸島は連合軍の基地として整備され、さらに西へ進撃する連合軍の重要拠点になる。これで連合軍のカートホイール作戦の目標の「ラバウルの無力化」が達成される
3月25日 - 第18軍と第4航空軍を第8方面軍配下から第2方面軍配下とする組織変更が行われる(ダンピール海峡の制空、制海権が完全に失われラバウルからニューギニアを指揮できなくなったため)
3月中旬~6月 - マダン等のウェワク以東の日本軍が大湿地帯を行軍してウェワクに撤収
3月30日~31日 - ホーランジア上陸の準備として近隣の日本軍の航空、海上戦力を排除するためにアメリカ軍空母部隊がパラオを空襲
3月30日~4月3日 - 連合軍がホーランジアの日本軍飛行場を空襲。日本軍は100機以上の航空機を失う
4月22日 - アメリカ軍がホーランジアとアイタペに上陸(連合軍の飛び石作戦の始まり)
5月17日 - アメリカ軍がサルミ(ホーランジアとマノクワリの間)に上陸。翌18日にサルミの沖合のワクデ島に上陸
5月27日 - アメリカ軍がビアク島に上陸
6月4日 - 渾作戦でビアク島に向かっていた日本軍(海上機動第2旅団)がソロンに上陸(ビアク島に向かっていたが果たせず、ソロンに上陸)
6月20日 - 第18軍を第2方面軍配下から南方軍配下とする組織変更が行われる
7月2日 - アメリカ軍がヌンホル島(マノクワリの東方沖)に上陸
7月10日~8月 - 日本軍(ウェワクの第18軍)はアイタペを攻撃するが失敗し撤退(8月4日に撤退命令が出る)
7月30日 - アメリカ軍がサンサポール(マノクワリとソロンの間)に上陸

●1945年(昭和20年)
9月9日 - 日本軍(第2軍)が降伏
9月13日 - 日本軍(第18軍)が降伏


どちらかというと「大戦とその前後」を書くうちに必要になって来たので、各戦地の年譜をいつでも見られるようにしようと思いました。
といいつつ、今回のこれはwikipediaからの丸写しです。
1時間余り、家にある戦争関係の本をあさりましたが、どうも戦地ごとのちゃんとした年表を作れそうではなかったので、ネットの民の力を借りることにしました。
5月の展示では、こういう方面はどのくらい展示物としてあるのか、まだ私は知りません。
ともかく、まずは他力本願ですが、今後この方面は充実させたいです。まず自分のために。