あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
うるう年の要、2月29日です。4年に1度なので、大して意味がなくても「この日何の日」をやっておいてもよいでしょう、きっと。次回という機会があるのかどうか、当ブログ的にはわかりませんので。
戦場体験放映保存の会的にはずっとあると思っていますが。
保存の会は2004年12月26日発足で、うるう年の終わりごろ生まれです。それゆえ、発足から11年経っていますが、2月29日を迎えるのは3回目です。
4月に6周年になる当ブログは、2月29日を迎えるのは2回目なので、比べると何か変なかんじがします。

さて。
2・26事件が終わったのが2月29日でした。80年前ですので、4の倍数の年月なのですね。1936年のことです。

その4年前、1932年の2月29日、リットン調査団が東京に到着しました。
前年の柳条湖事件に端を発する日中間の紛争を調査するため来日、日本、中国、満州地域の現地調査を開始します。
しかし、翌日3月1日には、満州国建国宣言が出されます。
調査報告書が出されるのはその年の10月。満州国は住民の自由な意思により成立したものではなく、日本軍が勝手に作ったものであると結論されていました。
この報告を受けて、1933年2月の国際連盟の総会に満州国の問題が図られ、満州国は日本の傀儡政府であるという決議案が賛成多数で採択されます。これを不服として、日本は国際連盟を脱退することになるのです。

1940年2月29日には、大本教教主・出口王仁三郎が不敬罪・治安維持法違反で無期懲役になっています。
この辺りは、ちょっと見ただけでは難解です。皇族内閣をつくろうとしたり、早々に防空運動を展開したりと愛国を掲げており、海軍の中で広く布教が進んだときもあったようです。一方で、日米の戦い、都市の焦土化、天皇制国家の滅亡まで予言していたとか。国家神道と違う神話解釈と革命思想・実行力を恐れて政府が逮捕に動いたということのようです。調べてみると、尋常ではない勢力による騒ぎのように感じましたが、あまり日本史としては出てこない内容のように思います。実際のところ、どのぐらいの影響だったのでしょうか。

1944年2月29日、閣議が海上輸送力非常動員実施方針要領を決定。
米軍がアドミラルティー諸島のロスネグロス島に上陸(ラバウル地区は米軍の背後に孤立し、1944年2月までの南東方面の損害の合計は死者12万人・飛行機8000機)、という記述がありました。連合艦隊司令部、パラオ島に進出、というのもありました。裏付けはとれていません。
戦況としては、2月上旬にマーシャル諸島が陥落、このころから、マリアナ諸島が米軍のターゲットとなってきます。

15年戦争と言われますが、2月29日は、1932年、1936年、1940年、1944年と4回訪れています。これもなんだか変なかんじです。

1952年2月29日、沖縄では、アメリカ民政府布告「琉球政府の設立」が公布されます。
同年の4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本と連合諸国の戦争状態が正式に終了するほぼ2ヶ月前のことでした。
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先日の拡大事務局会議の内容についてもう少し報告したほうがよいと思うのですが、なかなかうまくまとまりません。
中之島公会堂証言集会については、特に込み入った議論が展開されており、それを全体として公開するのがいいのかどうかよくわからないというのもあります。今回、メモもとらなかったので、「こんなかんじの話」というのになりますし。
総会後の「第1回実行委員会」から逐次報告ということにするかもしれません。

さしあたり、沖縄戦展については、やるべきことがある程度決まっているので、作業に入りつつあります。
昨年の沖縄戦展でパネルにしたものについて、改めて全文テープ起こしをし、証言概要をまとめます。そして、関連する資料や写真があるものは追加して、展示パネルとセットでつけたバーコード(予定)を読み込むことで、「戦場体験史料館・電子版」の該当ページを開いてみることができるように整備します。
昨年の時点ですでに全文起こしているものについては、形式をそろえて史料館・電子版に上げます。どこかの時点でまとめてやるのか、随時公開していくのかは、まだ確認できていません。これは、電子版にアップする作業の行程が分担可能な形になってからということになります。
証言映像をそれぞれ冒頭10分ぐらい公開するという案もありますが、それも証言概要の進捗次第です。
沖縄戦展の前に控えるニューギニア戦展への協力と併せて、試行錯誤していくことになります。
70年前の昨日のことです。
1946年2月26日の閣議で、日本政府はGHQ草案に基づく日本案の起草を決定、開始します。
3月2日には案がまとめられ(3月2日案)、3月4日にGHQに提出、そのまま翌日まで双方で修正が重ねられ、3月5日の閣議で、この修正された案(3月5日案)を採択することが決定。
3月6日、日本政府が「憲法改正草案要綱」発表し、マッカーサーは即日それを承認する声明を出します。
また、2月25日の閣議で、4月10日に総選挙を行うことが決定されていました。総選挙後の帝国議会で、憲法改正案が審議される道筋ができたわけです。

同日、2月26日、ワシントンでは極東委員会の第1回会議が開催され、活動を開始しました。
極東委員会は、連合軍が日本を管理するために1945年9月に設置され、当初は米国単独の機関でした。その年の12月開かれた米・英・ソによるモスクワ三国外相会議で、極東委員会は米・英・ソと中華民国、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、フランス、フィリピン、インドの11カ国代表で構成することが決定しました。
やがて始まる極東軍事裁判では、この11カ国それぞれから判事を1人ずつ出す権利も持っていました。
日本国憲法の制定に当たっては、新憲法草案の最終採決には、委員会の承認を必要とすることとされました。

その決定が効力を発揮する前、極東委員会が正式に始動する前に日本政府に憲法改正案を作らせておこうと、GHQやマッカーサーやホイットニー民生局長は動いており、その過程でGHQ草案を日本政府に提示したのでした。
2月26日の第1回会議では、英・ソ・オーストラリアが天皇制廃止を主張しました。天皇制廃止の議論が起こるのは予想できていたため、GHQでは天皇制を維持した形の民主的な憲法を日本に作らせたかったのです。
2月18日にホイットニーがGHQ草案を受け入れるか48時間以内の返答を強く求めたのは、時間がなかったためでもありました。
極東委員会の始動の時点で、GHQ草案をもとにした日本政府の憲法改正案がなかったとしたら、そこから1年ほどで天皇制は完全に廃止されていたかもしれません。
そのほうがよかったという向きもあると思いますが、戦後の日本にとってどうだったのか、そこは、天皇制維持によって日本の混乱は防がれていたのかという話になってくるでしょう。
翌2月19日から始まった昭和天皇の巡幸が、国民から熱狂的に迎えられたというのを見ると、確かに天皇制が廃止となり、さらにその後の極東軍事裁判で天皇が処刑されたとしたら、それなりの混乱が起こっただろうと思われます。

2月26日以降、GHQ草案をもとにした日本政府案をつくらせたことは、極東委員会からマッカーサーの逸脱行為とみなされ、極東委員会とGHQの間で攻防が始まります。
マッカーサーは、ときに極東委員会からの要求をはねつけ、予定通りに4月10日総選挙~帝国議会で憲法改正(日本国憲法の制定)を実現させ、日本政府から感謝状を受けることになるのでした。
今日は、1936年2月26日に起きた2・26事件から80年です。

2・26事件について、詳しく調べたことはこれまでなく、今回検索していろいろと読んだのですが、関係する人物が多く、混乱しました。
状況としては、皇道派の青年将校約1400人が決起し、内閣の要人や天皇の侍従を殺害、首相官邸、警察庁などを占拠したというものです。内閣や天皇の侍従を、天皇の名を利用し天皇の本意を邪魔する者とみなし、彼らを排除して「昭和維新」を起こそうという考えだったということです。
尉官を中心としたグループが部下を巻きこみ力を得て起こしたクーデター。
青年将校たちが天皇に対する強い敬意から起こしたことだったのですが、当の昭和天皇は信頼する側近を殺害されて激怒、「賊軍」鎮圧を厳命。事件後の法廷では、首謀者に対し厳しい判決が下され、通常あり得ない人数の銃殺刑を出すことになりました。
そして、この事件の後、皇道派は一掃され、統制派が圧倒的な力を持つようになります。後の首相東條英機は、統制派の主要人物でした。

決起した青年将校に一定の理解を示していた軍人が、この事件以降、中央の役職から遠ざけられたこともありました。
山下奉文軍事調査部長(当時)もその一人で、その後、太平洋戦争のマレー攻略で戦果を上げるも東條英機との確執で転属されるということも起きています。

wikipediaを見ただけでも、大戦の時代の重要人物の名前が相当出てきます。
それぞれの人物が、この事件のときどうであったのかということと併せて大戦でのことを見ると、流れがよりいっそうよく見えてくるように思います。
今日1日で何かまとめるというにはあまりに私が力不足ですので、この程度でとどめておきます。
80周年として多数出るであろう各メディアの特集にいろいろな視点から触れるというのがよいと思います。
太平洋戦争開戦から間もない1942年2月には、戦時災害保護法が制定され、国民を全員戦闘を支える要員とみなす形がつくられていくことになります。

1941年2月に大学の修業年限が6ヶ月以内の短縮可能とされたのを皮切りに、学校は毎年年限が短縮されていき、その分、学徒の勤労奉仕に重点が置かれていきます。
国民生活も、様々な面で統制されていました。もともとは1938年に制定された「国家総動員法」を根拠にしたものでした。
その効果を最大限に上げるべく、1944年2月25日、「決戦非常措置要綱」が閣議決定されました。戦況がいよいよ不利になったのを受けて、当面の間の非常措置を決めたのです。
1年間は、中学校以上の生徒はいつでも動員可能とされ、軍需工場等へ通年動員されることになり、やがて学校そのものが軍事施設として使われるようになります。
こうした学徒動員の強化の他、旅行の制限、高級享楽とされるカフェや劇場の営業停止、官庁の休日削減等も進められます。国民の行動が国家が戦争を継続するためのものとして管理されるということです。
翌1945年には、昭和20年度の軍需整備の目標等を定めた同名の、「決戦非常措置要綱」が決定されます。

学徒動員について、文部科学省の「学制百年史」をみると、動員先で終戦の詔勅を聞いた学生は340万人を超えており、学徒動員による死亡者は10966人、傷病者は9789人とされています。
一般人にもやはり、動員先、奉仕先で多数の死傷者が出たはずです。

直接殺し合いをする戦場の体験は一般的に言う「戦争体験」とは違ったものであるということで、保存の会はほぼ「戦場体験」に絞って聞き取りを行ってきました。それは間違いではなかったと思います。
しかし、国民全員が戦争のシステムに組み込まれ戦場とつながっていたことについて、踏み込みつつあります。拡大版百人展ということになると、そういうところを掘り下げていくことになるのでしょう。
それは、一般人が攻撃を受けたことと表裏をなしており、戦災に対する補償ということともかかわってくることだと思われます。
沖縄の場合、「戦闘協力者」としての補償がなされる場合があり、様々な議論がありますが、大戦の最中は、国民だれしもが「戦闘協力者」となっていたといえるのかもしれません。