あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
2015年も最終日となりました。
体験者より先に若手が倒れていく保存の会(おい)、忘年会後から私も風邪にやられております。うつした人は予想がつきます。忘年会にいらっしゃっていた皆様、お気を付けください。調子が悪くなくてもご用心を。

戦後70年ということで、世間一般的にもあの大戦が大きく取り上げられた今年。
保存の会は、前の年の11月末から日比谷証言集会と沖縄戦展の計画を抱えて迎えました。年明け早々からカウントダウンが続く、いつもよりテンションの高い日々。
毎月実行委員会を開き、10名以上が常に集まり、当日も知り合いに声をかけまくるといったかんじで、保存の会メンバーが改めて結束を強めることになった気がします。
そして、イベントをやったことで、新しいつながりもできました。

一方では、保存の会を長く支えてくださっていた方々の訃報が目立ちました。
全国的に有名な方も多数亡くなられていますし、周りで戦争を伝え残す活動をしている団体でも、中心的な方が亡くなった話を聞いています。
これは、戦後70年という節目というよりも、経過した年月によるもので、それこそ戦後70年が過ぎれば落ち着くわけがない、宿命的なものです。
亡くなった方々のご冥福を祈りながら、できるだけ長く元気な体験者の方々とともに進めることを同時に祈ります。

そうした中、今年一年お疲れ様でしたと言ったか言わないかのうちに、保存の会はこれからに向けて動き出しています。

しかし、ここではひとまず一度締めることにします。
日比谷証言集会、沖縄戦展はじめ諸々駆け抜けた1年、お疲れ様でした。
戦場体験を伝え残す活動に一段落とか一区切りとかはないけれども、1つ1つを確実に成果として1つのステップとして、しっかり刻んでこれからに臨みましょう。
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日比谷証言集会登壇者特集のペースを上げたのと、写真をもらう予定だったのとでだいぶずれ込みましたが(結局写真はもらってきていませんが)、12月10日(木)、11日(金)の大東学園高等学校社会問題研究同好会による沖縄戦展の様子を、メーリングリストより転載します。
保存の会から2名が見に行っており、メーリングリストにはほぼリアルタイムで流れていました。日付はブログ係で入れています。

◆◆◆

大東学園高等学校・社会問題研究同好会の6名が、昨日(12月10日)、今日(12月11日)と高校内で「あの戦場を忘れない 戦後70年沖縄戦パネル展」を開催しています。

メンバーの一人と顧問の先生が日比谷集会に来てくれたのがきっかけで保存の会の「沖縄戦展」の証言パネルや写真パネルなどを貸し出し全面協力しました。
当初は来年の沖縄への修学旅行での語り部の相談だったのですが、事前学習に証言パネルを利用しませんか(こちらは~10人程度のつもり)と提案したところすぐにパネル展をやりたいという生徒さんが現れ急遽開催となりました。

今学校は定期試験の答案返却期間で授業は午前だけとのこと。
その期間を利用しての開催だそうです。

昨日、中村さんとお邪魔してきましたが、学内では一番広いと言う会議室に有孔パネルを持ち込んで迷路のように上手に展示スペースを作り、50人分を飾り付け。
ビデオコーナーや紙芝居の上映スペースなどもあってなかなかの出来栄えでした。

また座間味の集団自決を体験をした上里和子さん自作の紙芝居を、私たちは展示で見せていたのですが、高校生は自ら上演。
お客さんの希望や、それらしい先生、親しい友達が来ると上演するシステムらしく、演じ手も部員が交代でやっていました。

私の行った時間帯は部活が始まった後だったので先生や卒業生の来場の方が多かったのですが、学校案内をしてくれた部員にパネル展の事を話しかける生徒は多く、広く認知されている模様。

ポットに入れたサンピン茶や、大小がバラバラなので自家製と分かるサータアンダギーもふるまわれており、私たちも黒糖を差し入れ。

この同好会は創部3か月、初の大イベントだったようで、部員が充実感に溢れきっらきっらしているのが可愛らしく、すっかりおばさんの気分に。
今回は急で、私たち自身が平和資料館から借りた当時の写真は用意できなかったので、次回はそのパネルも用意しようと話したところ、ではもう体育館を使うしかないですねと1年生のO君。
定期開催になっていきそうです。
昨日、憲法研究会の「憲法草案要綱」について書きましたが、憲法研究会のメンバーの名前を見てそれがどんな人なのかまったくわからなかったので(不勉強ですみません)、主要メンバー7人について簡単にまとめてみることにします。
読売新聞関係者や、戦時中は国粋主義者だった人等、意外な顔ぶれであることに驚きました。

高野岩三郎
東京帝国大学法科大学卒業、ミュンヘン大学に留学し、統計学を学ぶ。東京帝国大学法科大学助教授(統計学)。経済学部を法学部から独立させることに尽力。大原社会問題研究所設立に参加し、設立から死ぬまで所長を務める。1946年日本放送協会 (NHK) 第5代会長。1948年日本統計学会初代会長。日本社会党の顧問。

馬場恒吾
同志社神学校から東京専門学校(現・早稲田大学)政治科を卒業。ジャパン・タイムス、国民新聞の記者を経て、読売新聞社の主筆・社長などを歴任。リベラリストの言論人として活躍。『暗黒日記』に「戦争に心から反対したのは石橋湛山、馬場恒吾両君ぐらいのもの」と記された。

杉森孝次郎
早稲田大学卒業。文部省特別留学生としてドイツ・イギリスに渡り、イギリス倫理思想を学ぶ。帰国後、早稲田大学文学部及び政経学部の教授を務めた。教授時代、「後進に道を譲る」と言って、学生が来ると道を空けたといわれる。象徴天皇制を考案。英語が堪能で、「憲法草案要綱」を英訳、GHQに持参する役目を果たした。

森戸辰男
東京帝国大学法科大学経済学科卒業。高野岩三郎の経済統計研究室で助手後に経済学科助教授となる。経済学部の法学部からの独立を主導。同じ助教の大内兵衛編集による機関誌『経済学研究』にクロポトキンの思想を紹介したことで新聞紙法第42条の朝憲紊乱罪により起訴された。大学を失職した後、大原社会問題研究所へ。戦後初の衆議院議員総選挙に出馬し当選。天野貞祐らと教育基本法原案の骨組み作成に携わる。日本国憲法に第25条「生存権」を加えた。

岩淵辰雄
自由通信社、国民新聞、読売新聞、東京日日新聞の政治記者。1945年、近衛文麿を中心とする、いわゆる「ヨハンセングループ」による早期終戦の和平工作に参加し「近衛上奏文」の草稿作成に関与し、同年4月に吉田茂・殖田俊吉とともに憲兵隊に逮捕される。後に読売新聞に復帰、鳩山一郎のブレーンとなる。科学技術庁顧問となり、原子力基本法に深く関わる。

室伏高信
明治大学法科を中退、二六新報、時事新報、朝日新聞の政治部記者を経て、第一次世界大戦後に雑誌『改造』の特派員としてヨーロッパに渡る。雑誌「日本評論」主筆を務めた。満州事変後、軍部とのつながりを深め、太平洋戦争を賛美。戦後は公職追放の後、思想を転換。新生社を創立し、雑誌『新生』を発刊、憲法研究会メンバーが多く寄稿した。

鈴木安蔵
京都帝国大学哲学科に入学するが、経済学部に移る。京都学連事件で検挙され、この事件が治安維持法違反第1号となり大学を自主退学、豊多摩刑務所に服役。マルクス主義的立場から大日本帝国憲法をはじめとする憲法史・政治史を研究、特に大日本帝国憲法の成立過程の実証研究のさきがけとなった。静岡大学教授、愛知大学教授、立正大学教授等を歴任。憲法改悪阻止各界連絡会議(憲法会議)結成に参加し、初代代表委員に就任。
本来当日にやるべき戦後70年、今日は何の日特集、忘年会の影響で2日遅れでお送りします。

終戦の年、憲法改正の議論が、政府のみならず、民間でも行われていました。軍国主義が解体されてゆき、一応自由と民主主義を主導する米国の占領下、いろいろなグループや個人によって憲法草案が発表されていたわけです。
その代表が、1945年12月26日に発表された憲法研究会の「憲法草案要綱」でした。
天皇の権限を国家的儀礼のみに限定し、主権在民、生存権、男女平等などを盛り込んでおり、GHQの憲法改正研究のスタッフも関心を寄せました。実際に、GHQによる憲法案に大きな影響を与えたようです。
憲法研究会は、統計学者の高野岩三郎の呼びかけで1945年11月5日に結成された民間グループで、メンバーは、高野、馬場恒吾、杉森孝次郎、森戸辰男、岩淵辰雄、室伏高信、鈴木安蔵ら。
呼びかけ人の高野は、この「憲法草案要綱」にも満足できず、天皇制廃止・大統領制を採用した独自の「改正憲法私案要綱」を雑誌に発表したということです。GHQはこのころには天皇の存在を戦後の統治に利用する方針をとっていたので、高野案までいくと少々微妙な反応だったかもしれません。

さて、今年はたまたまこの日忘年会が開催されましたが、戦場体験放映保存の会は、2004年12月26日設立です。
戦場体験放映保存の会設立の日は、現在の日本国憲法と近い形の憲法案が民間から提示された日にあたっているのです。
「年末ごろに設立すると1年早く○周年と言えるよ」と初代代表が言ったのがきっかけでこの時期に総会を開いて設立となったらしいので、日付が被っているのは偶然でしょう。たぶん、設立からのメンバーも気づいていないのではないかと思います。

70年たっても、憲法をめぐってはいろいろな議論があるところですが。
つい4ヶ月ほど前まで戦時下で思想・言論統制されていたところから、GHQよりも早く民主主義的社会を描いた憲法を民間のグループが生み出したというのは画期的なことだと思います。
一昨日、来年の計画を発表する時に、事務局長が、一連の活動について「保存の会がやらなければ、誰もやらないと自負しています」と豪語しているのを見て、70年前のグループのことを思い浮かべました。
というのを、2日遅れでぼそりと言ってみるのでありました。
昨日は、保存の会の2015年忘年会でした。

体験者の方、新しいボランティアメンバー含めて約30名が参加。
体験者の方々中心の時間には、いつものように体験者の方々の周りに若手が近寄ってお話を伺うというのが同時に展開されていました。
体験者の方々、絶好調というかんじで冗談も交えながら話をされていて、大戦についての知識豊富な面子にとっても珍しい話が飛び出していたようです。
そこから始まって、気づけば23時という長丁場。参加者がある程度入れ替わると、新しいボランティアや、映画監督、日比谷証言集会のパネリスト(栗原さん)のご挨拶と来年のプランの説明、というのが4回行われました。

そんなわけで、来年の予定ですが、なんとまあ、今年より盛りだくさんなことになっております。
イベント関係としては4つ。
ゴールデンウイークに、ニューギニアの戦いでお父様を亡くされた遺族の方によるニューギニア戦展。(保存の会は主催ではなく、全面協力)
6月沖縄戦展、9月大証言集会という今年のセットを東京以外で。
10月~11月ごろ、東京で展示イベント。
日常活動としては、日比谷証言集会シンポジウム第2部で出た、介護現場での聞き取りに着手の方向。
また、日本人以外の大戦経験者の証言を記録している方々との連携の模索というのが挙がりました。

これらの話に、参加者全員ふんふん、なるほど、というかんじで反応。誰も「いや、それは・・・」とか言い出さない。
いや、ほんとにいいんですか?と思ったほど、だれも動じないのは、もう慣れているから?
大規模なのを今年成功させたとはいえ、基盤のない場所、場面での展開はとんでもなく困難なんですが・・・。そして、困難そうに見えないのが非常に大きな困難のような気がするのですが。
ともかく、年が明けたら、これらを全部やるための作戦会議ということになりました。「やるかやらないか」ではなく、「どうやったらやれるか」の話し合いです。
また、諸々やっていくための勉強会を、ある程度定期的に開催していくことになりそうです。

ということで、今年大変だったということはすっかり忘れて次に進む気満々の忘年会でした。
それぞれ詳細については、順次お知らせしていきます。