あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
第4回の日比谷証言集会を終えて、ついつい過去の日比谷を振り返ってしまいました。
ここらで、ちょっと未来志向に。

といっても、26日に書いた内容の続きのようなものです。
マスコミとか、もともと戦場体験史料館・電子版があるだけで利用したいと思う層との関係について。
「無色・無償・無名」を掲げているものの、無名の個人が無名の戦場体験者の聞き取りをするのはいいとして、団体として「無名」なのはどうなんだろう?と思うわけで。
今年の8月15日に、保存の会の証言映像がベースになった番組が放送されましたが、そのタイトルが「発掘!戦場の叫び ~元兵士1500人が伝えたい真実~」というのを見て、なんか「アフリカ大陸発見」みたいだなと思いました。もともと10年も活動している団体なんですが、なんかテレビの企画が発見したから存在が認められたみたいになっている気がしたのです。
まあ、どちらかというと「極東ジパング」的ポジションでいいのかもしれませんが。
普段は、マスコミ等に体験者の方を紹介しても、保存の会の名前が出ることはありません。

しかしです。
同じ「記録が発掘された」でも、米国の国立公文書館だったら、もれなく番組に登場するわけですよね。
「こんな記録が残っていた!」というかんじで、それが公文書館によってより権威づけられるという。
そう、目指すならこれなんでは?

何万人という数字の1つ1つである無名の戦場体験者の体験が、無名の個人が聞き取り収録して残される。
語り手の表情や沈黙にさえ、戦場の光景が浮かぶ記録。
それが数多く蓄積されていることで、いっそう説得力のあるものとなる。
例えば「戦場体験放映保存の会」が集めた証言映像ということで、その証言が力を得るような存在。
それによって何か特定の主張をするというのでなしに、ここにあるということ自体が説得力であるような場。

とまあ、ヒラのボランティアが勝手にえらいことぶちあげておりますが。
とにかく、一人一人の証言はどれもすごい証言なのだから、それが保存の会にあることによってすごさが伝わるようになるといいと思うのです。

しかし、米国立公文書館がテレビに出るのは迫力ありますが、戦場体験史料館が毎回テレビに映る絵面を想像すると、・・・確かに「発掘」というかんじかもしれないなあと思います。見てみたいですけど。
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(株)ユニモトのブログ「語らずに死ねるか」に、日比谷証言集会のことが書かれていました。
写真も出ています。
http://katarazuni.blog20.fc2.com/

本文を読むと、(株)ユニモトが戦場体験者の証言を映像化するきっかけとなったのが、2008年9月28日の第2回の日比谷証言集会だったようです。
もっと前からのつながりかと思っていました。
このときに会場で撮られた映像が、1作目『語らずに死ねるか!』のもとになったのだそうです。
そして、翌年の「第3回 あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い」の若手編に、それらの映画の監督である長尾栄治さんも登壇されることになったのでした。

実は、第2回の日比谷証言集会からしばらくしてボランティア説明会に参加して、最初の聞き取り参加は、長尾さんのチームでした。
お互い顔も知りません。
長尾さんと、証言集の冊子をつくったメンバーと、もう1人外部から同行された方と4人で、いきなり特攻兵器「伏龍」の聞き取り。だいぶ珍しいところから入ったものです・・・
その翌週に、説明会に参加したボランティアがぞろぞろと集まっての聞き取り体験会で、同じ駅で降りることになり、同じ居酒屋に入るという妙なことになりました。
あれから7年。

(株)ユニモトの戦場体験証言シリーズは6作出て、保存の会は共同制作となっています。
9月28日、ことさらに意識していたわけではなく、むしろすっかり忘れていたのですが、ここしばらく日比谷証言集会を検索していて思い出しました。
「第2回 あの戦場体験を語り継ぐ集い」が開催されたのが、2008年9月28日(日)のことだったのでした。
ちょうど7年前になります。

ということは、私が戦場体験放映保存の会と接触を持ってからちょうど7年ということです。

一応、第1回の日比谷証言集会の少し前から、日比谷公会堂で戦争体験者が大勢話す集まりがあるというのは知っていました。
どこかでチラシをもらっていたので。どこかわからないほど、いろいろなところで配られていたようです。
第1回は、平日開催で、私は有給休暇が取れない頃だったので、それなりに興味はあったものの断念しました。
この第1回は、本当に日比谷公会堂が満員になるほど人が集まって、右からも左からも野次が飛びまくっていたそうです。このとき参加していたら、もしかしたらむしろ私はそんなに保存の会に入り込んでいなかったかもしれません。

翌年の第2回は、日曜日に開催。今度は普通に行ける状況でした。
そして、この年の5月、私の祖父が亡くなったところでした。祖父が亡くなってから4か月目の開催だったのだなと、今振り返ると気づきます。
祖父に戦争の話を聞けずに終わったことが気になっていたこともあって、必ず参加しようと思っていました。
このときの登壇者は、今では顔と名前が一致している方も多く(亡くなった方もいらっしゃいますが)、あの方々が証言されていたのか!と今更驚きました。その頃は、本当に戦場で戦っているような証言も多かったのですが、なにしろ私の歴史の知識は中学生止まりだったので、それがどれほどすごいものだったのかはわからなかったのです。今思えば、とてももったいないことです。
とはいえ、戦場体験者の方が1人5分程度で次々に話していかれるのは圧巻でした。
それまで、原爆についてはわりと関心を持っていたのですが、やはりあの戦争で戦った兵士の体験に触れなければならないのだと思ったのでした。

この時のアンケートで「こういう活動に興味がありますか」という質問に「はい」と答えたために、間もなくボランティア説明会に呼ばれ(知らない番号から電話がかかって、出ないでおこうかと思ったのですが)、わりとすぐに初の聞き取りに参加し、だんだんと保存の会の頭数になっていったのです。

第2回の壇上にストレッチャーで登場した今は亡き初代会長が「これは奇跡であります」とのたまわっていましたが(このとき、この人物が誰なのかまったく知りませんでしたが)、確かに偶然を装った奇跡がそこにあったようです。
または、あの日あの時あの場所で出会わなかったら、今私は保存の会にはいなかったでしょう。
軍隊は「運隊」と言われるそうですが、さて、私のこの出会いは、幸運だったのでありましょうか。そうだということにしておきましょう。
日比谷証言集会へのカウントダウンとして始まった当ブログの「戦後70年」特集ですが、とりあえず今年のうちにネタがあれば続けます。
カウント0を超えて、「日比谷証言集会後」が始まっていますが、70年前も、終戦までのカウントダウンはすでに終え、終戦からの新しいカウントが始まっていました。戦後の日数のカウントですが、そこにどんな意味を乗せるのかは、人それぞれかもしれません。

さて。
70年前、1945年9月27日、米大使館にて昭和天皇とマッカーサーの会見が行われました。
終戦直後、日本のこれからを決定づけたとされる出来事です。
2人だけの会見は35分間ほどだったということですが、この会見の内容についてはお互いに決して口外しないという約束があったそうで、実際に双方語らずに死去。正確な内容が世に出ることは永久にない状況のようです。
しかし、ともかくこの35分の前後で、マッカーサーの天皇に対する印象と態度が大きく変わり、天皇の戦争責任追及はなくなり、日本に対する占領政策の在り方も柔軟になったとされています。

正確な内容はわかりませんが、この会見について、マッカーサーの回想記に記されていたという有名な内容があります。
 「タバコに火をつけて差し上げたとき、私は天皇の手が震えているのに気がついた。天皇の語った言葉は、次のようなものだった」。
 天皇は「私は、国民が戦争遂行するにあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、お訪ねした」。
 「私は、この瞬間、私の前にいる天皇が、日本の最上の紳士であることを感じとったのである」。

そして、やはり有名なのが、2人が並んで写っている写真です。
モーニングで直立不動の天皇に対し、マッカーサーが腰に両手を当ててくつろいだ様子で写っているもの。
これは、一度日本の新聞で掲載禁止になったのが、GHQの指令によりやはり掲載されることになったというもので、これを見て日本国民は改めて敗戦を実感することになりました。

10月に入ると、マッカーサーは憲法改正を示唆することになるのですが、新憲法において第1章が天皇の地位を定めた内容だったことは、この会見に関係しているのでしょうか。
「日本国憲法」は、基本的に「大日本帝国憲法」の構成を引き継いだものとなっています。
ひきつづき、日比谷証言集会をやってみての感想等。

日比谷証言集会は、戦後70年の8月以降のイベントだったため、戦後70年企画を行っているところを回ってチラシを置かせていただきました。
今回、戦争についての企画展を開催されている郷土資料館も回りました。
だいたいのところに置いていただけたのですが、分館になっているところ等、電話でチラシを読み上げて本館に聞いてくださったりということもありました。
そんなこんなの中、改めて、保存の会の知名度低いなあと思いました。「・・・という団体」といわれている間はマイナーですね。
あとは、「公益社団法人」の威力のなさも実感しました。公益法人になるのはとても大変だし、なってからも大変なのだけれども、そのわりに、厳選されたとてもしっかりした団体と思われるわけでもないのだなあと。厳選されている分、世間一般にはあまりなじみのない存在なのでしょうか。

一方で、マスコミ各社にはよく知られているようで、戦後70年特集については様々な相談が来ていました。
事務局の中心メンバーは、その対応に追われて日比谷証言集会の準備や『戦場体験史料館つうしん』の編集が遅れるということも実際にありました。全員がボランティアの団体としては、正直相当無理をしていたと思います。
日比谷証言集会にたくさんの方にお越しいただけたのは、新聞で告知してもらったためですが、普段から名前を出して記事を掲載してもらうようなところまではなかなかいかないものであるようです。
結局のところ、ネット上に「戦場体験史料館・電子版」があるだけでそれを使ってみようと考える層にだけは有名、ということになるのでしょうか。

しかし、国の組織である「しょうけい館」や「平和祈念展示資料館」のレベルまで一般的に知られるところを目指すべきなのかどうかは、よくわかりません。
戦場体験を話して下さる方がいらっしゃれば行って映像に収めてくる、という日常の活動は淡々と続きます。
イベントで集客しなければ!というときに特に団体名を売る必要を強く感じるわけですが、日常の活動としても、保存の会が有名であるほうが体験者の方の情報が集まりやすいのだろうとは思います。
誰でも知っているレベルを目指すべきかがわからないというのは、実のところ、それをやろうとするだけの力を常に使い続けることが難しいというだけなのかもしれません。イベント前の2ヶ月ぐらいだから毎週毎週チラシを抱えて都内一円回るということもできるわけで。

それでも、やっぱりこの先も保存の会は、ボランティア運営の限界に挑戦していくのは確かなんではないかと思います。