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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
1945年7月26日、ポツダム宣言が発表されました。
米英中の署名によるものでしたが、この日チャーチルは選挙で敗れ総辞職をする真っ最中であり、中国には無線連絡で了解を取ったということです。宣言は、ほぼアメリカが作り上げたものでした。

日本の無条件降伏を求めるもの、と一般的には認識されているものですが、いろいろと曖昧な部分があったようです。
それが、後に北方領土や占領の問題に関わってきます。戦争責任者の裁判については、ここで方向性ができています。宣言の対象が「日本政府」なのか「日本国民」なのかというところもだいぶ議論があったということで、最終的には「日本政府」ということになりました。
中でも特に問題だったのが天皇制に関する部分です。基本的に米国内の世論は天皇の処遇については厳しいものだったものの、戦争末期になり戦後の秩序を考えるころになると、存続させて利用するという意見も増えてきたといいます。また、天皇制存続の文面を入れれば、日本が宣言を受け入れやすくなるということは、アメリカとしてもわかっていたようです。
しかし、天皇制をめぐっては、当初存続に関する文面があったものが、発表時点で全削除されたということです。宣言の文面を最終的に検討する中で「日本に妥協するべきではない」という主張があったため、ということですが、「原爆を2発投下するまで日本を降伏させない意図があった」という説もあります。

7月27日、日本政府内では、これに対して現時点では受け入れず明確な返答をしないという方針をとりつつ宣言の内容を公表することにしたところ、翌28日、新聞には、「笑止!」として徹底抗戦を煽るような表現とともに掲載されます。
そして、首相もポツダム宣言「黙殺」を宣言。これは、「ノーコメント」というニュアンスだったようですが、米英の通信社からは「Reject(拒否)」と訳され伝えらることになりました。
これにより、原爆投下を招いたといわれていますが、正確には、原爆投下を正当化する根拠を与えた、ということになると思います。
実際のところ、訳がどうであれ日本政府はポツダム宣言を受け入れるつもりではなかったのは確かでしょうし、アメリカは原爆を落とすつもりでいたわけです。投下命令はすでに25日に出されていますが、これは投下命令というよりは、「投下を中止させることをやめた」という状況だったようです。
もちろん、「日本が速やかに無条件降伏に応じない場合」という前提となっていましたし、この時点ではまだ原爆を組み立ててはいなかったので、日本がポツダム宣言を即日受け入れていたら投下できなかったのは確かです。

ポツダム宣言発表から「黙殺」までの期間に運命の分かれ道は確かにあったのです。
保存の会がいつもお世話になっており、日比谷証言集会の実行委員会にも毎回来てくださっている中島裕さんがテレビに登場されます。

TBS ニュース23
7月27日(月)予定。大きな事件等で流れた場合は翌28日(火)。

ニュース番組の特集です。
先日、表郷戦争回顧展でお話しされたときも取材陣が同行して撮影していました。
明日放送される予定ですが、大きな事件などがあると翌日になることがあり得るそうです。
ひとまず明日、心づもりをしていただければと思います。
日比谷証言集会の第5回実行委員会を行いました。
今日はいつもの顔ぶれ12名が参加。当日の段取り等、具体的な話に入りました。

ご登壇いただく体験者の方もほぼほぼ決定し、原稿の依頼をしたということです。
第2部シンポジウムのパネリストも3人目が決定。
それを受けて、チラシ第3弾ができました。外注したカラーチラシで、これが最終版になると思われます。昨日から配布を始めており、8月の戦争関連イベント等でおいてもらえるように回る予定です。来月頭ごろまでには、500人委員の方々にも発送します。
当日の進行を考えつつ、各ポジションのリーダーを仮に決めました。これから当日ボランティアを本格的に募ります。
来月末ごろ、リハーサルを行います。できる限り登壇者の方にもお集まりいただき、原稿を読んで感覚をつかんでいただくものですが、当日スタッフへの説明も行います。

当日まで2ヶ月を切り、これから戦後70年の8月を迎えます。
日比谷証言集会当日にお越しいただくのが一番ですが、広報、当日スタッフ等々にもぜひご協力お願いいたします。

第6回実行委員会は8月23日(日)15:00~の予定です。
実はこの前の告知の直後、公式連絡が入っていました。
明日は日比谷証言集会の第5回実行委員会です。
メーリングリストより転載します。

◆◆◆

皆様へ

第5回実行委員会が次の週末に近付きましたのでご案内致します。

【日時】7月26日(日)午後1時半より 2時間強
【場所】戦場体験放映保存の会事務所
【議題やご報告】
〇登壇者が9割以上確定をしています。
  その御報告をしながら下記などご相談します。
  ・未確定の部分について
  ・原稿相談の役割分担や方向性
  ・当日の役割分担、来場手段について相談のある証言者について
〇当日の進行方法について
〇当日ボランティアの募集について
〇外注チラシが完成していると思います。
  配布先について情報、ご協力をお願いします。

どうぞふるってご参加下さい。
70年前の今頃は、敗戦へ向けてのカウントダウン中、そして、原爆投下に向けてのカウントダウン中でもありました。
1945年、7月16日に原爆を爆発させる実験が成功し、いよいよ投下するための準備が始まりました。

7月20日から、「パンプキン」と呼ばれる模擬原爆の投下訓練を行っていきました。プルトニウム型原爆ファットマンに似せて作られた1万ポンドの大型爆弾です。(総重量約4.8トン。当時の通常の爆弾は1トン程度。)この訓練は、原爆投下候補地だった京都市、広島市、新潟市、小倉市の各都市の周辺、通り道になる都市を狙って行われたようです。
7月20日、24日、26日、29日、8月8日、14日の6日間で、30都市に計50個が投下されています。

基本的には工場や軍需施設を狙っており、実際に爆撃の効果を出しつつの訓練だったようです。
実はこの投下訓練は長崎に原爆を投下した後、8月14日にも行われています。これは、パンプキン爆弾自体を今後実戦で使うために威力を確かめる意味があったということです。そういう意味でも、工場や軍需施設を狙った訓練をしたのだといえるでしょう。
結果は、それなりに威力はあるものの、費用対効果がよくないということで、テニアンに残っていた分は廃棄されたといいます。

70年前の今日、7月24日には、愛媛県新居浜市、兵庫県神戸市、三重県四日市市、滋賀県大津市、岐阜県大垣市に投下されました。
なぜ今日この話を書いているのかというと、投下訓練の始まった7月20日はシッタン河渡河のことを書いたから、というのもありますが。
総務省ホームページの「一般戦災死没者の追悼」の、新居浜市の戦災のところに、パンプキン爆弾投下の全記録の表が載っているからでもあります。(苦笑)
そして、この日、原爆の投下予定地から京都を除くことが決定されたということです。代わりに選ばれたのが長崎でした。
明けて7月25日、広島市、小倉市、新潟市、長崎市を候補地とした原爆投下の命令書が出されることになります。

さらに、この「一般戦災死没者の追悼」新居浜市のページには、もし日本が降伏しなかった場合、3発目の原爆を投下する計画があり、新居浜市の住友化学の工場が標的だったということが書かれています。
完成した原爆は3発とも使い果たしていたけれども、新たに原爆を作るための材料は、プルトニウム以外テニアンにそろっていたとも。
新居浜市へのパンプキン爆弾投下は、本当にそこに落とすための訓練でもあったということです。

歴史に「あるいは」「もしも」はないのですが、原爆投下を巡って様々な可能性が渦巻いており、70年前の今日はその象徴的な日だったといえるかもしれません。

敗戦まで あと22日

2015年、日比谷証言集会まで あと58日

日比谷証言集会第2部シンポジウムのパネリスト栗原俊雄さんの著書『20世紀遺跡 帝国の記憶を歩く』には、模擬原爆の投下地についても書かれています。(2012年、角川学芸出版)