あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。

ゴールデンウィークから延期になっていた静岡県での聞き取りが本日実現しました。
天竜浜名湖鉄道で東都筑、そこから体験者の方の弟さんの車で春野町へ。この弟さん、地元の名士でいらっしゃるようで、80歳にして7つの会社を経営されているとか。

体験者の方は、工員として横須賀海兵団に徴用され、ラバウルに行かれた方。あくまで「働きに行っている」というかんじで、ご実家のほうに給料が払われていたそうです。
やっていたのは、船から倉庫への物資の運搬、サツマイモの栽培、飛行場の穴埋め等。少尉の世話をする従兵になって、ドラム缶風呂を沸かして背中を流したりということもあったそうです。
何度か爆撃を受けながら、九死に一生を得て帰ってこられたそうです。
捕虜になってからマラリアにかかったとき看病をしてくれた方とは、故郷に帰ってからも長らく交流されていたとのこと。

写真は奥浜名湖です。
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本日、日比谷証言集会の第3回実行委員会を行いました。
前回とはやや違う顔ぶれで12人が参加。『戦場体験史料館つうしん』第18号で開催が公式に発表され、ほんのり実動スタッフの輪が拡がっていると言えるかもしれません。

現在、11名の体験者の方から、登壇希望の返信が来ています。
また、日頃からご協力くださっている体験者の方はむしろ今は様子をみて遠慮されているようですので、20名が登壇というめどは早くも立っています。
第2部のシンポジウムのパネリストも2人目が決定。すごい方をお呼びできることになりました。
500人委員会は、現在、110名ほどの方にご参加いただいています。年会費の支払いと一緒にお振込みいただいた分も含め、カンパもお寄せいただいています。
皆様、大変ありがとうございます。

6月は沖縄戦展にほぼ集中することになります。
当日の搬入の予定等、具体化してきました。
諸々の締切を再確認し、展示パネル作成メンバーは、これから追い込みに入ります。

沖縄戦展会場でも、日比谷証言集会関係のお問い合わせに対応いたします。
まずは沖縄戦展に足をお運びいただければと思います。
直前告知です。
公式発表も流れましたので、そちらから転載します。
事務局が忙殺されているかんじが伝わるかもしれない、あっさりした告知です。
今回に限り、会議参加は、開始ぎりぎりの時間推奨です。ゆっくりめにお越しください。

◆◆◆

皆様へ

第3回日比谷実行委員会が近付きましたので再度ご案内致します。

【日時】5月30日(土)午後2時半より 2時間程度
【場所】戦場体験放映保存の会事務所
 直前に別の会議が入っているため通常より1時間遅くからの開催です。
 また開始20分前以降においで頂けると助かります。
【議題】
〇沖縄戦展
・広報についてのご報告
・準備状況の確認
・当日の役割分担
〇日比谷集会
・登壇者の希望と選定
・500人委員会の現状
・日比谷集会のチラシ第2弾
・シンポジウムのパネリストについてのご報告
5月15日に、似たようなタイトルで書いたなあと思いつつ。全然違う話です。

昨日、祖父の命日の話で、日本の海軍記念日のことを書いていて、日本海海戦から40年と数えたところで、「なんか、けっこう近いな」と思いました。
15年戦争、というと長いかんじがするのですが、敗戦の年から見ると、日露戦争は40年前というのは、「最近のこと」だなと。沖縄が復帰してから今までが43年ですから、それよりも近い。
日清戦争だと、それよりさらに11年前になるわけですが、それでも70年に比べるとだいぶ短いのです。

日清戦争から、約半世紀、51年の間に、日本は海外との戦争の時代を駆け抜けたということなのですね。
中国に勝ち、ロシアにも一応勝ち戦で、その後第1次大戦には連合国側で参加しその間にシベリア出兵。こうして戦い続けて欧米列強と並び立とうとするところまで20年ほど。それは、確かに国際社会では驚異であり、ある種脅威ともなっただろうと思います。
そこからは、国際連盟とともに短い平和の時代に入るかと思いきや、軍縮に反発し、領土拡張への干渉に反発し、今度は欧米諸国を本当に敵に回すことになりやがて15年戦争に突入。
50年間を戦い続けたといえば長いけれども、短い期間にこれだけやったのか、ということも感じます。

そして、1945年8月15日、様々な「積み残し」がその後10年ほど続きますが、一応戦争の時代が終結。
それから、他国と直接戦争をしなかった時間が70年。

保存の会では、ときどき「あの大戦は、もう明治維新のころとそう変わらない感覚になっている」といった言葉を聞きますが、昨日はむしろ明治維新もそう遠くない気がしてしまいました。

戦後、高度経済成長を経て、長い不況も経ながら、現在。
「急ぎすぎて何かを置き忘れてきた」といった歌詞の歌も多数ありますが、敗戦までの日本は、もっと急ぎすぎていたといえるのではないかと思いました。それこそ、相当のものをかなぐり捨てる勢いで。
そして、70年間、本当に置き忘れられ続けているものもあり、戦場体験の証言の中に、かなりの頻度で発見します。

どうまとめたものかわかりませんが、この70年という時間をみるとき、まだ忘れている、というより気づいていない視点もあるのかもしれないと思いました。
それは、保存の会の活動の範囲ではないのかもしれませんが。
今年もやってきました。今日は祖父の命日です。これも、ついに6回目を書くことになりました。
最近当ブログにたどり着かれた方もいらっしゃると思いますので、念のためお断りしておくと、祖父は戦死せずに帰って来て、2008年の今日亡くなりました。94歳大往生です。

しかし、もしかしたら、祖父の命日は70年前となっていた可能性はありました。
祖父は最初に軍隊に入ってから、だいぶ長いこと満州にいました。1914年生まれなので、1934年に20歳です。1934年3月に溥儀が満州国の皇帝に即位したころ、20歳の誕生日を迎えていたことになります。
それからたたき上げで少尉候補生というのになって、1945年の今頃には、少尉から中尉になるか、というところで、台湾にいました。
もし、終戦まで満州にいたら、ソ連との戦闘かシベリア抑留で命を落としていたかもしれません。
そして、もう1つの可能性、米軍が沖縄でなく台湾に上陸していたら、祖父の命日は、70年前の今頃だったかもしれません。

1945年5月27日、沖縄では、第32軍司令部が首里を脱出。南部への撤退を開始しました。
最後の時間稼ぎのために、住民を巻きこんだ最後の戦いに向かった日だったのです。
この日は、海軍記念日でもあります。日露戦争でバルチック艦隊を破った1905年の日本海海戦の日にちなんだ記念日です。当時40周年、今年は110周年ということになります。
海軍記念日にあわせて日本軍の大攻勢が行われると住民が信じていたという話を、沖縄戦関連の本でけっこう目にしたことがあります。
ところが、この日は、第32軍司令部が首里城を捨てた日となったのでした。

米軍が上陸したのが台湾だったとしたら、台湾でこういう状況が起こっていたでしょうか。

祖父は、急変してほぼ意識がなくなってから、農繁期が一段落するのを待つように亡くなりました。
しかし、実は待っていたのは今日だったのでしょうか。・・・いやいや、そんなことはなくて、偶然の一致でしょうが。むしろ祖父は苦笑いしそうです。
日比谷証言集会へのカウントダウンで70年前を振り返りまくっている中、また、沖縄戦展準備で毎日沖縄戦のことを考えている中、今更気づいてしまった偶然の一致です。