あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
沖縄キャラバン2015、2月11日(水・祝)の様子その4、というより番外編的なところです。

沖縄キャラバン2015は2月11日(水・祝)が最終日で、3名のメンバーがそれぞれの行程を終えて、那覇空港から東京へ向かいました。
ちょうどこの日から、那覇空港で、沖縄県平和祈念資料館の巡回展『日系二世が見た戦中・戦後~母国と祖国の間で~』が始まっていました。
私は飛行機の時間が早めだったので、座間味から戻ってすぐ空港に行ってもあまりじっくり見られなかったのですが、早く空港に着き、飛行機の出発まで時間があった2名のメンバーは、けっこうしっかり見たようです。
説明をされていた方とも、私は5分そこそこの間に少しご挨拶した程度でした。
私が搭乗口に向かってからも、他のメンバーは話をしていたようで、保存の会でも沖縄戦展をやるというのをアピールしたところ、この担当の方がひそかに乗り気になられていた模様。

後日、横浜JICAプラザに落ち着いて見に行ったときには、「ああ、あのときの・・・」というかんじで、沖縄県平和祈念資料館のパネルを貸していただくことを前提に手続きの仕方や展示の仕方などの話が展開。那覇空港で話し込んだメンバーも私の行った数日後に横浜に行って、より本格的に話をしたようです。
さて、しかし現在、年度の変わり目です。明日から新年度になったらどうなるのでありましょうか。貸出できるものは増えるようですが。

沖縄キャラバン2015では、平和祈念資料館の貸出パネルの中で場所がわかるところの現在の写真を撮って回ってきました。最終日も、1人は戦跡写真撮影中心に動いていました。
慶良間の海でも感じた戦時の光景とのコントラストを、見える形にしてみたい、というのも、沖縄戦展での試みの1つです。

6月23日の慰霊の日ごろは、平和祈念資料館でももちろん展示イベントを開催中です。6月は沖縄全体が戦争と平和に向かい合う時期となります。
本土でも、この時期に合わせてイベントを行うところもあると思いますが、保存の会は東京で大々的に行う方向です。
沖縄と東京で沖縄戦の展示が同時開催、というかんじで行けたらいいと考えています。
沖縄戦には、本土、特に首都こそ、しっかり向かい合うべきだと思いますので。

最後は、沖縄キャラバンのレポートというより、沖縄戦展への意気込みのようになりましたが。キャラバンの締めくくりが那覇空港での展示だったことで、最後までしっかり刺激になって新たに加わった気合いと可能性もあるのです。
まさに沖縄キャラバン2015は、6月の沖縄戦展へのスタートダッシュでもあったように思います。

さて。沖縄キャラバン2015の報告を締めくくっている間に、4月1日が刻々と近づいています。
70年前の明日、沖縄本島での地上戦が始まります。
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年度が替わる前に、そして、ちょうど米軍慶良間上陸の話をしたところということで、沖縄キャラバン2015の報告を。
最終日2月11日(水・祝)、座間味島に行った1班ことブログ係の様子です。

座間味島では、区長さんの宮平芳和さんにお世話になりました。
午前中は、ちょうど取材に来ていた琉球放送の記者と一緒に案内をしていただきました。
体験者の方をあたっていただいたのですが、なかなかうまくいかず。渡嘉敷島と同じように、途中の家の方に話せないかと聞いてみたり、道端で、「今日はお父ちゃんはいない?」と聞いてみたりがありましたが、ダメでした。区長さんのお兄さんも、最近入院されていたということでこの日は体調不良でお断りされました。
これまでお話されていた方がだいぶ亡くなったり動けなくなったりというのもありますが、座間味はいろいろな方面の人が証言を聞きあさって議論を巻き起こしてというのに翻弄されて、体験者の方もあまり話したくないという気持ちが強くなってきているのだそうです。
そういうわけで、ほぼ島の戦跡めぐりということに。


座間味村の平和の塔

つい先日、3月26日に合同慰霊祭が行われたのが、この平和の塔の前です。
石碑には、亡くなった住民、兵隊の名前が刻まれています。それに対しては、村民の方の中でもいろいろな思いがあるようです。
途中の道がけっこう急斜面で、階段もあって、確かに体験者世代が自分で足を運ぶには大変な場所だと思いました。

途中にも、集団自決の起こった場所の碑等がありました。
村の忠魂碑も回りましたが、それは沖縄ではここだけに作られたのだという話でした。本来、その場所に集まって全員が自決を図るはずだったところに、艦砲射撃がきたのでみんな解散し、数か所で集団自決が起こったのです。



展望台から見た慶良間の海

高月山に登ると、展望台がありました。ホエールウオッチングのためにクジラを見つけて船を誘導したりする場所もあるようです。
ちょうど晴れていたので、ケラマブルーが映えていました。(この写真では今一歩その美しさが伝わりませんが・・・)
しかし、70年前は、ここが軍艦で埋まっていたわけです。海が見えないほど軍艦でいっぱいだったそうです。
米軍としても、この停泊地を確保するために最初に慶良間諸島に上陸したわけで、そのため島での戦闘には積極的ではなかったようです。

お昼時、区長さんは別の取材があるということで、2時間ほど単独行動になりました。(琉球放送の記者も一人でどこかへ)
この間に、昼ご飯をとり、写真撮影スポットである座間味村役場に向かったのですが、なんと現在建て直し中で、いくつかに分散しているとか。
ひとまずメインの役場だった場所に行って、広場の写真を撮りましたが・・・なんだか、戦時の写真とそんなにギャップがなさそうな絵面に。
立派な役場ができたころ、もう一度チャレンジしたいです。
他、米軍墓地になっていたという小中学校の写真も撮りました。昨日公文書館の写真を見ていると、その場所の当時の写真があったので、改めておののきました。


大勢が避難していたガマ

午後、区長さんと再度合流し、ガマが残っているか伺ったところ、山をぐるりと回って連れて行っていただいたのがこのガマです。
うっかりガマの名前を聞き損ねました。
ここには、区長さんのお兄さんも避難されていたそうです。
入口まで行くのに、海に出ている岩の上を歩くようなところで、ガマの中から砂浜が見えました。
ここの海もとてもきれいだったのですが・・・スパイ容疑で日本兵2人が殺された場所なのだそうです。
座間味では、スパイ容疑で日本兵が殺された例が何件かあるとのこと。
住民も殺されそうになったことがあったとき、1人の兵隊が制しておさまったそうで、その兵隊が戦死した場所というのははっきりと記録されたようです。「あそこが・・・」と指さされたところは、かなり山の上でした。

結局証言を伺うことはなかったのですが、滞在時間は6時間ほど。あっという間でした。
戦跡ガイドに出ているような場所を回ろうと思ったら、それだけで1日かかりそうです。
証言を伺うのももう一回チャレンジですが、そのときは泊りがけになることでしょう。

帰りの船では、クジラが遠くでチャポンと頭を出したのを一瞬見ました。
70年前とのコントラストがものすごいと感じたのですが、観光客のほとんどには伝わらない感覚だろうなあと思います。
9月20日の日比谷証言集会に向けて、今日は第1回実行委員会を行いました。
1ヶ月前の拡大事務局会議参加者はほとんど今回も参加。体験者の方含む14名が戦場体験史料館に集まりました。

準備日程の話から始まりましたが、いろいろなことが同時進行なので、かなりきつきつということを改めて確認。
「大丈夫か?」と、本気で心配する声もあったものの、メンバーそれぞれ予想以上に作業分担を担うのに積極的で、まずは勢いのあるスタートといえそうです。

体験者の方の募集について、というところでは、体験者の方が自ら原稿を書き、日比谷公会堂まで来て壇上で4分間程度で話をするということがいかに大変なことかという点に話が及びました。
当日の壇上の様子等も想像しながら、できうる限りの働きかけを考えてみましたが、まずは登壇者募集をしてみてから、というかんじです。
当日スタッフの集まり具合も関係してきますので、諸々呼びかけていく方向です。

何を伝えるのか、というより、何を前面に出して広報するのかという辺りは、やはり考え込む状況でした。
若者、例えば今の高校生ぐらいは、先の大戦についてどういう感覚なのか?ということは、具体的に、という提案もあって自分たちの身近にいるその年代の人を思い浮かべながらの話が入ってきました。
やはり「そんな時代だったんだね」で終わってしまうのでは?というのがあるようです。70年前も幕末も同じような感覚になってきているようだという、初めて聞くわけではないけれども衝撃的な一言もあり。
こういう企画をするときに中心になるメンバー自身は、学生と接するような機会があまりないので、その辺の感覚的なものを聞くという点で、子どもや孫がその年代という層の参加は心強いものがあります。
天災と違って人間が起こしたことだというのは知ってほしい、という意見もありました。

まぎれもない体験した方のお話をいっぺんに20人分も直接聞けるような場は、本当に今回が最後だろうということで、その貴重な場を多くの皆様方に一緒に作っていただきたいです。

今日の話し合いをもとにしつつ、これから具体的に動いていきます。
具体的なスケジュール、各種募集等々、随時お知らせします。
直前告知です。
明日、日比谷証言集会の第1回実行委員会を行います。

日比谷証言集会第1回実行委員会

【日時】3月29日(日)13:30~ 2時間程度
【場所】戦場体験史料館(戦場体験放映保存の会事務所)
【議題】
 ・500人実行委員会の募集について
  誰に何を呼びかける事で集客するのか、
  集会の中心となるコンセプトについて
 ・登壇者の募集について
 ・この時期併せて「沖縄戦展」についてもご相談します。

日比谷証言集会に向けての準備が、いよいよ本格的に始動します。
例によって、会議は保存の会接触経験者向けの様相ですが、あまり保存の会のことを知らないけれども実行委員会に参加してみたいという方は、前後の時間でフォローします。
関心を持っていただける方は、どなたでもご参加ください。
70年前の昨日、米軍が慶良間諸島の座間味村に上陸、つづいて今日は渡嘉敷島に上陸しました。
70年目特集の頻度も上がっていますが、実際は、上陸作戦が始まってからは、毎日どこかで何かしら凄惨なことが起こっているのです。
沖縄は、住民もいたため、軍の戦闘と別のところでも犠牲が出ています。そして、国内のことということもあり、1つ1つの出来事について、いっそう詳細に注目されるという面はあるのかもしれません。
それだけ、地上戦が身近なところにあったということです。
保存の会は、まさに戦場にいた方々に焦点を当てている分、地上戦が近づいてくるのを人々がどう感じていたのかといった話にはあまり触れていないような気がします。沖縄でも、そのあたりのことは、まだあまり聞けていないのではないかと、たった今思いました。

空襲と地上戦の違いは、人と人とが殺しあうことの生々しさ、というところにあるのかもしれないと思います。
殺しあうのは、敵同士で、とは限りません。
渡嘉敷島でも、翌28日に集団自決が起こりました。
座間味島では、一度集合しようとした住民が砲撃によって一度解散したことで、自決する場も分散していましたが、渡嘉敷島では、1000名ほどの住民が集まった場所で自決が起こりました。
その後、この場を離れた人たちの間でも、2度目の集団自決が起こっています。
集団自決は、しかし、この先も続く惨劇の始まりでした。
渡嘉敷島では、海上挺進第3戦隊が住民に対する統制を続けたため、住民は深刻な食糧不足となります。
米軍はそれほど積極的に島内での戦闘を行わず、やがて伊江島の住民を島々に収容します。
こうした中、日本軍による住民虐殺が繰り返し起こりました。投降勧告に行った住民、妻の出産のためときどき隊を離れていた先生等、スパイ容疑で殺されました。
最後の虐殺は、終戦後の8月後半、戦隊長投降の際に起こったということです。

この辺りの話は、2月の沖縄キャラバンで渡嘉敷島に行ったメンバーがある程度伺ってきています。
いよいよこの場所に敵がやってくる、という局面になると、住民の間にも殺し合いの惨禍が及んでしまうことを、沖縄戦はこれから3ヶ月にわたって体現することになるのです。