あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。

山形県東根市での聞き取りに持っていったという手土産、体験者の方が乗られていたのと同じ型の戦車のプラモデルです。
聞き取りに行ったメンバーが、出発の前に、倉庫にこもって、寒さに震えながら作ったそうです。
体験者の方にプレゼントしたところ、喜んでいただけたようで、苦労が報われたことでしょう。

聞き取りの中で、このプラモデルを使って説明される場面もあり、よくわかったと言っていました。
地図等はよく資料として持っていきますが、こういう持って動かせるものは、資料としても使えるものなのだなと思いました。
とはいえ、私を含めて、ほとんどできるメンバーはいないでしょうね。
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雪景色
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田舎に突然現れる高層ビル
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東根駅

今日は東京もそれなりに雪が降っていましたが、こちらは先日の山形県東根市の聞き取りのときの写真です。
雪がすごそう、との情報どおり、しっかり雪景色だったようです。

聞き取りのほうは、午前中に着いて始めて、全て終わったのは18:00過ぎ。
聞くほうも、お話してくださる方も、体力勝負のような・・・
ともかく、相当がっつりお話を伺うことができたようです。お疲れ様でした。

お話くださった体験者の方、ありがとうございました。
今日の話は、大部分が私見です。

昨日書きましたとおり、昨年10月25日に、アウシュビッツ平和博物館を訪れていました。昨日は写真特集のようなかんじだったので、まずは少々感想を書きたいと思います。
メインのアウシュビッツについての展示棟では、展示の内容を語りにしたようなビデオを見ることができます。映像と解説が、展示室の写真とキャプションに対応するかんじです。先にビデオを見てから展示に移ると、一度頭に入った内容を、1つ1つ立ち止まってじっくり確認するような形になります。
ビデオでアウシュビッツで行われていたことを順に見て聞いていると、「冷徹」という言葉が自然に浮かんできました。
アウシュビッツ強制収容所は「絶滅収容所」と呼ばれているとおり、ある人々を皆殺しにすることが大きな目的となっています。労働力確保という目的は、どちらかというと奪えるものは全て奪うという目的の1つの表れのように感じました。ガス室で殺した人たちは、全身をくまなく調べて金歯や髪の毛等、何かの原料として使えるものは全て取ってから焼いていたということです。焼却する担当者も、抑留されたある種の人たちから選ばれ、定期的に殺して焼くという徹底ぶりだったとのこと。
ある人々を根絶やしにするシステムをつくり、それを淡々とこなしているという、おそろしく冷たいかんじがしました。

虐殺といっても、日本軍の三光作戦(「殺し尽くす・奪い尽くす・焼き尽くす」)は、どちらかというと、ある種の熱狂のようなイメージがあります。
ソ連の葛根廟事件や、沖縄戦末期の米軍の無差別殺戮(バックナー中将が殺されたことへの報復)も、熱のイメージで、アウシュビッツの場合とは違っているかんじがします。
それは、殺す理由が特定の人々の「絶滅」を意図したものではないからなのかもしれません。
そして、日本が占領地域で行った日本語教育、アメリカによる「民主化」政策、ソ連の「赤化教育」等、これらの国々では同化政策的な要素が強いためでもあるでしょうか。(ドイツも、フランス等で同化政策は行っていますが)

また、一昨日は、ソ連軍がアウシュビッツを解放した一方で日本人抑留を行ったと書きましたが、それは日本人を殺したいわけではなく、労働力確保という目的がほとんどを占めているので、本来は分けて考えるべきだと思っています。

歴史を見ていくときには、「虐殺」「抑留」といった言葉でまとめてしまわずに、それぞれの中身をよく見ていくことが重要ではないかと思っているのです。(一昨日書いた内容は、その辺りを曖昧にしている自覚があるので、ここで補足をしておきます。)

どれも、戦争というものを背景にした非人道的な所業であり、繰り返してはならないものだというのは確かだと思うのですが、1つ1つの内容に踏み込むことなく「やっちゃだめだよね」と結論するだけでは、本当に心に刻むことはできないのではないかと思います。
これは、一昨日自分自身が混同したような文章を書いてみて改めて感じたことでした。




2014年10月25日(土)、表郷キャラバンに向かう途中で、同じ福島県白河市にある「アウシュビッツ平和博物館」に寄ってみました。
昨年のうちに書く機会がなく、どうしようかと思っていたのですが、昨日アウシュビッツ解放記念日について書いた流れで、ここで書くことにしました。

メインの展示棟(古民家)、アンネ・フランクの展示棟(レンガづくりの建物)、子供たちが見た戦争の絵の展示室(2台の貨車)から成っています。
1年ほど前に、隣接して原子力災害情報センターができたところのようでしたが、閉館時間も過ぎたので、そちらは諦めました。原子力の日の前日だったのですが。

遅くまで対応してくださったスタッフの方、ありがとうございました。
1945年1月27日、ポーランドのアウシュビッツ強制収容所が、ソ連軍によって解放されました。
今日は70年目の式典等行われているようです。
収容経験者の方々も80代~90代がほとんどとなり、大勢集まれる節目は今回が最後だろうといわれているとのこと。

アウシュビッツ強制収容所は、「東部ヨーロッパ地域の植民計画」における、労働力確保と民族浄化のモデル施設。
労働に適さない女性・老人・子ども、「劣等民族」とされた人々は真っ先にガス室で殺され、労働力とみなされた人々も劣悪な環境と過酷な労働、見せしめの処刑等でその多くが亡くなりました。
150万人がここで命を落としたとされていますが、記録もないまま処刑された人々もいたことから、正確な犠牲者数は不明です。
戦闘行為を行うわけではありませんが、戦場よりも過酷な場所であったかもしれません。
いつ終わるともしれない恐怖の日々を生き残った人々は、ソ連軍により解放されることになります。

ここで少し視点を変えてみます。
日本がいよいよ本土決戦を視野に入れた体制に入っていたころ、日独伊三国同盟の一角であるドイツも追い詰められつつありました。
ドイツ軍との戦いが落ち着いたことは、ソ連が対日宣戦する要因の一つだったでしょう。同年8月9日未明、ヤルタ会談にもとづき、ソ連軍が満州に侵攻します。
そして、満州や朝鮮、モンゴル、中国北部にいた日本兵と一部民間人は、ソ連によってシベリアやその周辺に抑留され、強制労働で多くの犠牲を出すことになるのです。

アウシュビッツ第一強制収容所には、「働けば自由になる」という看板が掲げられていたといいます。
アウシュビッツを解放したソ連軍に、「ダモイ(帰国)」とささやかれながら抑留され強制労働させられた日本人がいたというのは、歴史の皮肉というべきでしょうか。
抑留された人々にとって、敗戦は戦争の終わりではなく、むしろ始まりだったかもしれません。そして、その準備は、70年前の今頃に始まっていたともいえるように思います。
虐殺という形ではなかったものの、強制収容というすぐに繰り返されてしまった悲劇へのカウントダウンが同時に始まっていたのです。

日本の敗戦まで あと200日

2015年、日比谷証言集会まで あと236日