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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
「聞き取りのための知識」にも「ブログ係のつぶやき」にも分類しがたい70年前の話のために、「戦後70年」というカテゴリをつくりました。
今年はときどきこういう文章を書きますというのを公言するようなものでもあります。

ここで、言わなくてもいい裏事情を少々。

実は、ある保存の会メンバーから「米軍のルソン島リンガエン湾上陸の日についてブログに書いてほしい」というリクエストがあったのでやってみたのでした。
リクエストを受けて書くというのは、これまでなかったことですが、なかなかプレッシャーを感じるものですね。
大戦に関する知識という点では、私はほとんど自信がありません。対して、リクエストしてきたメンバーは、その時代の人か、というくらいよくわかっています。
そういうわけで、そのメンバーが求めていたようなものには、たぶんなっていないと思います。

一方、日比谷証言集会までのカウントダウンをしようという話が、忘年会の直後ごろに出ていました。自分たちに喝を入れつつ宣伝する意味でなのですが、具体的にどうするというのは、ちょっと案が出ていたくらいでした。
記事のリクエストを受けたとき、「ああ、ここでカウントダウンか」と、私は反射的に思いました。米軍上陸の日ではなく、上陸準備の砲爆撃からスタートしたのも、少々わけありなのですが、もうこうなるとカウントダウンで書くしかないだろう、と思うに至ったわけです。
そうすると、なんとなくときどきやらざるをえなくなってきて、シリーズ化しました。

お題があればリクエストにお答えします、とは恐ろしくて言えませんが、今年は何かにつけて戦後70年を意識しようということで、思いついたらちょこちょこやっていこうと思います。
1945年1月9日、米軍のレイテ島リンガエン湾上陸は、フィリピン、そして外地での日本軍の敗北を決定づけるものでした。ここが落ちれば、いよいよ米軍は総力をもって日本本土に侵攻してくる、という瀬戸際です。

そうした中、同年1月20日、「帝國陸海軍作戦計画大網」が定められました。
ここから、「決号作戦」と呼ばれる本土決戦を前提とした作戦が本格的に始まることになったのです。
米軍の侵攻にあたって、千島列島、小笠原諸島、南西諸島の沖縄本島以南、台湾などの「外郭」地域で、出来る限り抗戦して敵の出血を図りつつ、最終的に敵を日本本土深くまで誘い込んだ上で撃退する、という作戦。

できる限り敵の侵攻を遅らせ、その間に本土決戦の準備をするという時間稼ぎのこの戦略が、沖縄戦を長期化させることになり、後に沖縄戦が「捨て石」作戦と呼ばれるもとにもなっています。
同じ日に、「沖縄県防衛強化実施要綱」が閣議決定されているようで、沖縄では防衛召集で満17歳から45歳の男子が動員されました。

この日は「船員動員令」等も出ています。
いよいよ、根こそぎ動員が始まるわけです。
そして、沖縄戦をちょうどはさむように、女性も含めた国民全員を義勇召集する制度が出来上がっていきます。国民のほとんどが「戦闘要員」というわけです。
本土決戦が実際に行われていたら、本当に「一億玉砕」という状況になっていたということでしょうか。

敗戦まで あと207日
2015年、日比谷証言集会まで あと243日
昨年12月13日(土)に山形県東根市に伺って、1回ですべて聞けなかったということで、2度目の聞き取りを行いたいと考えていました。
1月24日(土)、同じメンバーが、再訪することになりました。
占守島の少年戦車兵だった方です。
今回は午前中に伺う予定ということでした。
メンバーは、翌日の話し合いに間に合うように帰ってくるはずです。

冬場なので、東北方面の聞き取りは天候の影響があり得ますが、貴重な機会を生かしてきてほしいと思います。
2月7日(土)~11日(水)に予定している沖縄キャラバン2015に向けて、証言してくださる方を探しています。
今回は、本島北部と慶良間諸島で公民館等にご協力いただけることになり、この方面を中心に聞き取りを行うことになりそうです。
7日(土)に渡嘉敷マラソンがあるということなので、慶良間諸島へ行くのはやや後半となる見込みです。

その他の地域については、まだあまり証言してくださる方を見つけていません。
お話しいただける方、体験者の方をご紹介いただける方、今からでもぜひご連絡ください。

聞き取りの合間に、平和祈念資料館他沖縄戦の展示を行っている施設や戦跡を回ることも考えています。
聞き取りが最優先ですが、証言と併せて沖縄戦を伝える要素を、これまで以上に意識して探してみる方向です。

来週1月25日(日)に、参加メンバーや連絡係メンバーで集まり、だいたいの日程を決めることになっています。
阪神淡路大震災から、今日で20年でした。
保存の会発足10年前。先日帰省ついでのキャラバンに行ってきたメンバーも、当時は関西にいて大震災の片鱗を経験しています。
国内で大地震対策に本気で取り組み始めたのは、この時からだったのではないでしょうか。全国から支援が集まり、この年は「ボランティア元年」、とも言われました。

70年前、1945年1月13日には、三河地震が発生していました。
マグニチュード6.8、死者1000~2000人規模とされるこの震災は、大戦中ということで、国民には隠されました。
国民の戦意を保つため、また軍需工場への被害を伏せるため、報道管制が敷かれたのです。
発生直後の時期には、行政や近隣地域からの組織的な救援活動等は行われなかったようです。
記録がほとんど残っていないため、今もって、正確な被害はわかっていないとのこと。

これに先立つ1944年12月7日に、東南海地震が発生、大規模な津波が発生したこともあり、やはり大きな被害を出していました。
翌日12月8日が開戦記念日だったため、報道はその開戦3周年で埋め尽くされていたそうです。
しかし、この大地震は世界中で観測されており、連合軍はこの地域の航空機工場の被害状況を考えたうえで、6日後の12月13日に名古屋地域の大空襲を行ったのだという説もあります。(三河地震の翌日1月14日にも、大規模空襲が行われています。)

震災となれば自衛隊の活動がクローズアップされ、東日本大震災では米軍の「トモダチ作戦」が有名になったのですが、戦時は震災そのものさえ、すべて軍事機密として隠されたということは記憶しておくほうがよいのではないかと思います。

ともあれ、阪神大震災から20年。
亡くなった方々のご冥福を祈るとともに、今なお震災の影響を抱いて生きておられる方々にお見舞い申し上げます。