あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。

京都にいっているメンバーから、今日の報告が入りました。
立命館大学国際平和ミュージアムの展示を見たとのことです。

常設展の展示内容は非常に幅広く、3時間ほど見ていて中身はもちろん、展示のし方の面でも勉強になったとのこと。
一方の企画展はマニアックらしいです。(後で少し内容を聞いたところでは、戦時中のことをある程度知識として持っている人が見るとまた深いところで驚くような雰囲気ということのようです。資料のまとめ方で視覚的に気づき感じられるというのが、さすが研究・展示のプロの仕事は違うと感銘を受けた模様。さらに、常設展でその「ある程度の知識」以上のものが見られるので、企画展の深い内容にも入っていきやすいという関係もあるようです。)
それを見るにつけ、保存の会のような体験者の証言メインというのは珍しいのだと感じたということでした。

見学の後見に行った紅葉の写真がついていました。(ネット掲載のため、だいぶ粗い画質になっていますが)
これも歴史の風景ですね。

明日はご挨拶回りです。
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先日もお知らせしましたが、明日11月30日(土)・明後日12月1日(日)、保存の会事務局メンバーが、京都方面に「出張」します。
来年度以降に展示イベントを行う可能性があるため、関係者の方々にご挨拶と下見に行きます。

戦場体験史料館は、臨時閉館です。
御用の方は、すみませんが別の日にお越しくださいませ。


突然ながら、今年2月下旬から3月初めにかけてのブログ係の沖縄の旅の写真特集を展開します。
帰ってきたと思ったら総会準備が始まったため、あまり報告していなかったのを思い出しまして。いえ、思い出したのは、先日佐賀に行ったときだったのですが。
そろそろ年末なので、今年掲載しそびれているものを棚卸ししていくことにします。

この写真は、2013年3月2日、今はなき1フィート運動の会を再訪したときのものです。
戦跡調査や遺骨収集の過程で出土した遺物の分類作業最終回でした。
上の写真は、1つ1つ遺物を並べて調べているところです。名前らしきものが入った品物も出てきていました。

そして、作業後、遺物の中に紛れて見つかった遺骨の供養が行われました。
下の写真、右側にある白い袋に遺骨の欠片が数個(という数え方でよいのでしょうか)納まっているとのことでした。
牧師の資格を持つ会員の方が中心となってお祈りをし、聖歌を歌います。あわせて、沖縄式に、ウートートで祈りを捧げました。
この遺骨は、その後戦没者墓苑に納められているはずです。

これから2週間ほどで、1フィートの会は解散しましたので、最後の貴重な一時にご一緒させていただいたことになります。

例年だと、今頃はそろそろ沖縄キャラバンの準備が始まる時期なのですが、来年はどうなるのか、まだわかりません。
大阪キャラバン前半、10月13日(日)に1班が伺った証言の概要です。
メーリングリストより詳細版を転載します。

◆◆◆

◎清瀬忠彦さん(85)
収録日:平成25年10月13日
所属:松山海軍航空隊【※第13期甲種飛行予科練習生(前期)】〜宇和島海軍航空隊〜青島海軍航空隊【※第38期飛行術練習生】第15分隊〜第903海軍航空隊〜第11偵察飛行隊【第171海軍航空隊】
戦地:青島〜内地(松山・大湊・戸次)
―――――――――

○1928年(昭和3)4月15日、和歌山県生まれ。

・和歌山県立串本商業学校のね、3年生でしたね、15歳の時でしたもん。その時に予科練へあの、志願してですね、それで、松山海軍航空隊に入ったんですよ。
・その時は、私が予科練ていうのを知らなかったですね。その、18年のころまで、田舎ですからね。実はその、予科練ていうの昭和の、5、6年ごろからあったんでしょ、乙種というのがね。で、甲種ってのが昭和10年にできたんです。それが中学校4年、4年以上のね、あの修了した者がいけるっていうことで、それで、私の時代になって、それが3年生になったんですよね、人員を多くとるために。そやから、私の時は、もう2万人ぐらいやったかな、それ最初なんかにやったのは200人ぐらいでしょ。1期とか2期やったらね。もう10何年、私らの10何年前やったら。私らはまあ言うたら、落ちこぼれなんです。
・やっぱりその、時のあれですな、趨勢っていうんか流れっていうんかね。やっぱり世の中がそういうふうにその流されていってるわけですな。だから、我々みたいなね、その、幼稚なその、考え方ではね、これがなんでどう流れているかっていうのその流れがね、把握できませんわね。ついただ流されるままなんですね。一般の、大衆っていうのはそうなんですよね。時代にながさていくるだけなんです。ごく一部の人っていう、勉強した人が、あの、お前あれ悪いとかね、いいとかいう、判断がつくやろうけどね、一般にはとても、難しいんじゃないですか。
・中学3年の時、そうやね、僕が一番はじめでしたね、中学3年では。それでそれからね、4年に、僕が昭和18年10月に予科練入ってから、その明くる年の19年ごろから皆、行ったらしいですよ、うん。3年で僕一人やったな。で4年か5年にずっとありましたけどね、3年は僕一人でした。そやから僕はね、新しいものに飛びついたん違うかな。両親は別にその時は、もう、私の兄弟全部、男の兄弟5人おってね、全部行ってました、兵隊に。そやから、そういう時代でしたから、親もなんとも言えなんやろうねえ。思いますよ。

○1943年(昭和18)10月、松山海軍航空隊に入隊。【※第13期甲種飛行予科練習生(前期)】

・その時に松山っていうのはあの、練習航空隊とまあその実施部隊という、本当に、訓練するとこ、あの、隣接しててね、私はその、予科練の訓練するほうへ入ったんですね。それで、その時入った時ちょうどもうゼロ戦がね、もう、訓練の真っ最中でね、昭和18年の10月ですから、まだまあ、戦争負けたとはいえ、まあ、こう、対等ぐらいで、わたりよったらちょっと、劣勢やったんかな、後で考えりゃね。その時はまだ燃料もあったやろし飛行機もあったしね、それでかなり、その、訓練してましたね。
・予科練ていうのはね、あの、基本的にあの、一般的のその、兵隊と同じなんですよね。あの、見たことあるでしょ、あの、なんか、行進したりとかね。あれが行進した、こう、団体で行進してるっていうのはね、もう一番の基礎訓練なんですね。戦争、行ったらね、バラバラでやってたんじゃ統制とれんでしょう。そやからその、同じ目的に向ってばーっとむかって行くというその、団体、行動というのかな、それが一番大事やからね、個人が勝手にやってたんじゃ、戦争に勝てるはずないんですよ。むこうも団体で来るわけですからね。だからやっぱり団体で、その一番、力を発揮できるような体制を整えて、こう、いくわけですね。そやから、予科練ていうのはもうそういう基礎訓練が、もとなんですよ。なに
も、あの、高等な戦術するわけじゃないんですね。それを何か月か終えてですね、それでこんどは次に、具体的に、銃をどう取り扱うかとかね、実戦やるとかそういうことの訓練になるわけですよ。だから、もう、あの、みなさん誤解あるけどね、予科練ていうのはほんとに飛行機乗って訓練するとこやと思い込んでるでしょ、違うんです。予科練ていうのはあくまでもその、予科であってね、本科じゃないんですよ。本科っていうのはその、飛行練習生っていうそのまた別の、上のあれがあってね、そこへいって初めてその飛行機に乗る、訓練するわけですね。そやから予科練はそのあくまでもそれに乗るまでの体力とか知力とか、そういうことのその、基礎訓練をやるとこなんです。それがその、いわゆる、みな
さんが言ってる予科練なんですね。だから飛行練習生っていうのと、みなさんあの、ほとんど誤解されてるんですね。予科練そのものも、そういう飛行の訓練、飛行機の訓練するとこやと、思い込まれているんですねほとんどの人は。実は違うんですね。
・もう予科練でね、予科練を卒業する時に決まるんです。ほとんど操縦が希望でしたね。そやけど、まあその、その分け方も今から考えたらあれいいかげんなもんやと思いましたね。ただ、なんか、蛇行、線があってね、その上をこう、オペレーターっていうんですか、車でも運転するあれがあるでしょう。この、なんていうんですか、シュミレーター、あれをね、やって、何回もやったりね、それで、目隠ししてこうまっすぐこの線を歩けとかね、もういいかげんなあれやったと思いますよね。その当時。別に、一人一人入念な検査してやったわけやないんやけどね。そやから、あの、飛行機っていうものは、やっぱりこれは技術ですからね。そやからやっぱり、その人のあれによって、あの、戦闘のその、操縦の
うまい人とか、車でもあるでしょ、操縦のうまい人とかすきな人とか、だからそれはあの、個々のあれと違いますか、素質とか。そやから熟練度やね。そやから結局予科練からね、行った人はね、あの、たしかに技術がよかったです。なんでいうたらもう15、16の時から訓練してるでしょ、あの、サッカーでも野球でもそうでしょ、少年野球から入って、こうやってた人がみなプロになったりしてるでしょう。サッカーでも小学生がやってますやな。そやからやっぱりそういうあれはあると思いますよ。
・もうわたしらの時代の教員は10期でね、10期11期、甲飛の10期11期といってね、もうあんまり違う、一年か一年半ぐらいしか違わない人が、教員になってました。同期も教員になってました。そいつらね、もうええ目してますわ。
・一日でも上だったら、もう、こう、階級というか、ヒエラルキーというんですか、そういうあれの厳しいところでね、一日でも早かったらね、いばってたんです。もう理不尽なところでしたね。
・暴力はもう日常茶飯事ですよ。私ら、青島にね、あれ、8か月か10か月おったんかな。もうね、これは定期なんですよ、誰しも最低なんですね。えーっと月曜日とね、えー、金曜かな土曜日かな、あの、2回ずつケツ殴られて野球のバットで。一週間にね、4回、殴られるわけですね。そやからひと月に、4週ったらどんだけですか、16回、それがあの、8か月、6ヶ月やったらどんだけになる、だから最低それだけ殴られましたね。そやから、お尻が、あの、腐ってきてあんた、入院した人もありますよ。死んだ人もあるんちゃうかな。

○1944年(昭和19)3月ごろ、宇和島海軍航空隊に移動。

・それから、3月かな、宇和島海軍航空隊といってね、同じ、四国のあの愛媛県のね、宇和島に移って、そこで、2、3か月訓練、最後の予科練の訓練して。

○1944年(昭和19)5月、青島海軍航空隊に移動。【※第38期飛行術練習生】

・それから、あの、19年の5月の半ばに、中国の山東半島のね、青島というところでね、そこへその、飛行予科練、予科練習生というのがありましてね、予科練ていうのは実質的にその、飛行機の訓練しないとこなんですよあの、基礎訓練だけでね。で、飛行術練習生っていうところへ行ってはじめてね、あの、飛行機に乗って訓練するわけです。
・佐世保局気付第3海軍郵便所経由イ37第15分隊第8班。
・青島では、やっぱりP51っていうのとね、3回ほどやっぱり、私らが地上におって、あの、並びに並んでる飛行機のね、機銃で、あの、撃ちあいしたことが3回ほどありましたね。最初の空襲の時ね、こっちがその、掩体壕っていうんですか、壕を掘って、タコツボみたいなの掘ってこう機銃を据えてですね、待ってるんですね。たらむこうが、飛んでくる、飛行場の飛行機をその、バーッとあの、空襲するわけですね。やっぱりその、機銃を撃たれた時の、恐怖感っていうんですか、もう頭が真っ白というのは恐怖感でね、もうおしっこちびりそうなあれになりましたね。そういう経験が、3回ありました。別に私は直接、戦闘に参加したのは、それだけです。

○1945年(昭和20)2月末、第903海軍航空隊へ。

それで昭和20年の、2月の末に、卒業してですね、で、あの小松島の、四国のあの徳島県の小松島海軍航空隊といってね、そこに、903空、っていう部隊がありましてね、それがあの、千葉県の館山と、和歌山県の串本と、それで小松島が、3つ、同じ部隊でした。そこで訓練をしてて、水上機ですね、下駄ばきのあの水上機なんです。零式水上偵察機と言いましてね、まあゼロ戦と形はおんなじなんですな。ただ、あの、3人乗りでね、ゼロ戦は一人だけども、あの、操縦員と、偵察員とそれから電信員、無線で知らせる、通信員ですね。その人と3人乗りの飛行機があって、それがその昭和20年の、5月ですね、ちょうどもう形勢が悪い。あの空襲が、あんまり激しいっていうことでね、その、あの、水上
偵察機を、温存するために、その、903空、部隊が全部、青森県の大湊に、結集したんですよ、3つの部隊がね。そこでまた、ひと月、ちょっとですな、訓練していって。

○1945年(昭和20)5月、大湊へ移動。
○1945年(昭和20)5月、海軍二等飛行兵曹。

・大湊でね、広田中尉というのがね、これは和歌山県の新宮中学出身で、私のま故郷に近い人なんですよ。その人がね、青森県であれ五月やったかな、五月は霧が多いんですよね。で恐山ていうのがあの、イタコのあの山があるでしょ、千メーターぐらいの。そこに、その霧がかかってね、あの、不時着して、亡くなった、そういう人だけが、私はあれやな、お通夜した記憶が、そういう人だけあった。松山ではなしにその、同じ部隊の人が戦死して、お通夜したという、経験はないです。


○1945年(昭和20)6月12日ごろ、第11偵察飛行隊へ。

・それから昭和20年の、6月の、12日ごろね、私にあの松山、松山じゃなしに鹿屋、鹿児島県の鹿屋航空隊ね、転勤せよっていうことでね、あの、先輩、3人と一緒に、行きましてね。それでその途中、いやもうこれはあの、鹿屋ってのは当時特攻隊の最前線基地やからね、これはもう最期やから、親に、その、別れていこうやないかって、3人4人で相談してね、その時もう、交通網がね、ずたずたで、その空襲を受けてましてね、もう列車が止まったり、もう走ったり、当たり前、のあれでしたよ。それから、2、3日ね、まあいうたら悪いけどまあごまかしてこう、故郷へ帰れるという、ほんとは帰ったらいかんのやけどね、そういうその、余裕っていうんかその、なんちゅうか、余裕やないけど、当時隙
があったわけですな。それで皆に、親の顔見て帰るんやって、私も和歌山県の、串本、あの、潮岬ですね、生まれは潮岬なんですよ、そこへ行って親の顔を見て、特攻隊に行くとは言わずに、その九州へ行くことになりましたということで、あの、九州へ行ったんです。そうしたら後で、私のいとこに、7歳年下のいとこがね、後で戦争終わってから、「いやあ忠彦さん特攻隊行くっていう話してたで」っていて、私一言もそういうこと言わなんだけどね、そういううわさがあったらしいんですよ。それから、鹿屋行った時に、いや、あの、お前、あの、一緒に来てくれてご苦労やけど、お前らの部隊はもう5月の1日にね、あ6月の1日、あの、松山へ行ってると、それでその当時、最後の偵察機というのはね、九
州と、松山の、松山に、第11偵察飛行隊と、第4飛行隊っていうのがありまして、それで、私は第11へ行ったんですよ。そうしたら第11はその時もう、第4とね、この、入れ替わってたんです。第11がそれまで、5月までおったんやけど、あの、九州の索敵にね、沖縄の索敵でその、人員がかなり消耗して、それで再訓練のために新しい部隊を編制して、あの、また訓練し直すために、偵察第11飛行隊は松山へ交代して、松山の第4飛行隊、からその、鹿屋に行ったわけですね。だから私はテレコになったもんでね、お前らもう11飛行隊はあの、松山やから、松山行けって言ってね、で、一晩泊まって松山へ行ったんですよ。それは鹿屋で、たった一晩しか泊まらんのね、そやから鹿屋のことはあんまり
、私わからないんです。ただその、これは余分なことやけど、新しい飛行靴履いて行ってね、その時あの、私がぼんやりしてたから、うまいことそれ、盗まれてね、それで古い飛行靴履いててくてくと、「えらいとこ来てしもうたなあ」と思いながらあの、松山へ行ったんですよ。それで、松山でね、私がその時、13期であの、最初に、最初でしたね、その、偵察部隊第11飛行隊行ったのは。で後で、7月になってね、もう一人、私の顔見知りが大湊から来ましてね、せやから、私の同級生、その、あの、海軍で訓練したのは、私の記憶ではたった二人しかなかったと思います。まあ、その間にね、あの、戦死したっていうのは、お通夜したっていう記憶はないですね。あの、あとから戦記をみたらね、松山から
その、第11飛行隊っていうのはすごくね、沖縄に飛んでその偵察してます。第4飛行隊よりもその、あの、数よく、飛んでますね。あとであの、図書館で戦記見ましたら。それが私は、特攻隊やなしに、その、戦闘、攻撃部隊やなしに、偵察隊やったために、そのあんまり戦死した、お通夜に参加したことはないんです。鹿屋におった攻撃部隊やったら、ほとんどもう、行って帰らなかったとかね、そんな人が多かったらしいです。私はまあそんなことで、偵察隊、だったためとそれから、まだ腕が、あの、卒業してから半年もたたんあれやからね、腕が未熟やったために、まあ使いもんに、ならなんだっていうのかな、そういうことで、実際のあの、偵察機、沖縄まで飛んで、偵察したってことはないんです。
・私らはその特攻隊その、鹿屋行った時に特攻隊になると、思うたけどね、後で、考えたらね、特攻隊に行くにはやっぱり、何カ月か訓練するわけですよね。そやから私ら、その訓練もなしに行ったんやからね、やっぱり特攻隊じゃなかったわけですな。その時私ら特攻隊や思うたけども。偵察機やったからね。偵察機というのは最期まで、いうたら敵を求めて、どこにおるかってのを探してやな、で無線を打って、ここに敵がおるからこっちへこいっていってそれ誘導する役目ですね。そやから、まあ言うたら逃げる役なんです。そやから、あの、偵察機というのは案外その死亡率が低かったかもわかりませんね。
・毎日ほとんど飛んでましたね、松山では。沖縄方面へ、南西方面。中であの、結局無線をうつわけですよ。後ろに座ってる人が偵察員ってね、あっちへ行けこっちへ行けって地図を航法ってのがあってね、それで、今みたいなその、電波でね、誘導するあれと違うんですよね、推測航法という、あくまでもね、その、飛行機の、上からその、波がね、海上見たら波があるでしょ、その波をはかってね、変流ってのがあれですね、例えば、真っすぐいって、真北へ90度、真北は360度、0度ですか、いったら、風がこう、あの、来たら、まともにこう行ったら、こう、なるでしょ、飛行機というのは。ここへ行ったら、必ずまっすぐに行ったらこうなりますわな。それを、その、風をね、なみで計りながら、ちょ
っとずつこう修正していくわけですよ。ったら、こうくるものを、風がこうきた場合に、やっぱり、90度よりも、ちょっとこう、右に傾ける、あの、機首を向けるのに。流されるわけですね。このまま真っすぐ行ったら何度か流されるわけです。そういうふうなね、あの、役目が偵察員ですね。それで、その、私ら、みたいなその電信員がね、ベテランになったら偵察員になるわけですね。だから同じ、あれでも、電信員ていうのは一番未熟な人がなったわけです。
・それはもう、当時ね、あの、なんていうかあの、レーダーはない時代ですから、日本軍は。アメリカはあったみたいやけどね。そやから、もう、目で見るよりしょうがないですよね。そやから、彩雲ていう飛行機はね、普通偵察員、全部ね、前を向いてましたよ、普通の飛行機は。それで偵察員、彩雲だけは後ろを向いてます。偵察員だからね。それも後ろからやられたらいかんということで。それで飛行機っいうのは、偵察機っていうのはね、たった一機で行くわけですよ。攻撃隊とか戦闘機隊ってのは、団体で行くわけですね。そやから、あの、偵察機っていうのはね、もう油断したらどこでやられるかわからんから、無線撃つ間もない、間に、雲から、雲の中から出て来てパッとやられたらね。そやから、偵
察機っていうのはあれですな、行方不明になるっていうのが案外多かったんだと思う。不意をつかれてね、無線打つ間もなしに、位置の確認もできん間に、落とされたというのが。そやから偵察員はそういう危険、あの偵察機は、そういう危険、が多かったですね。後でね。
・結局敵がどこにおるかってことをね、発見して、で無線打ってここにおるぞっていうことで、あの、まあ緯度ですね緯度経度でこう計ってですな、あの、おるから、すぐにこの、あの、味方の飛行機がここへ攻撃せよというそういう役割なんですよ。そやから、敵の、敵情偵察が一番ですわ、敵の動静を、あの見極めるというのが一番の大事なんです。そやからあくまでもその、海が広いからこう、何本もこう、なんていうんですか、あの、海上に地図を描いてね、それで、同時に行ったり、あの、時間をずらしたりして、こう何本もこう、広範囲に渡ってこう、一機ずつね、行ってるわけですね。それやからその、発見を知らずような、そういう役割なんですね、偵察機というのはあくまで、偵察機というのはそ
れやから、どっちかっていうと逃げる役ったらおかしいけどね、戦闘する、飛行機じゃないんですよ。
・ただ、整備、その明日、どの飛行機を整備してくれっていうことはね、私、あの、一番下っ端やったから、走り使いでね、整備の士官のとこへ行ってね、夜。明日はこの飛行機で飛ぶから、整備しといてくれということは、ありましたね。整備員と直接あれしたことはないです。ぜんぜん部隊が別ですからね。
・私はあれですな、偵察機でしたけど、まあ予科練の時からね、靖国神社に祀られるとか、天皇陛下のためにとか、あんまりそういうこと聞いたことなかったですね。軍隊の時はそんなことあんまり言わなかったと思いますよ。まあたしかに、靖国神社の花の下とかいうて、歌いましたけどね、あんまり靖国神社で会おうなんていうのは、そんなことを、話した覚えはないですねえ。
・飛行時間は100時間ぐらいだと思います、はい。ほんとうはそんなんで戦争できませんよ。やっぱり800時間以上、ベテランだったら、800時間か千時間とかね。それくらいないと、私らはやっぱり300、甲飛のあの私の教員してもろうた人でも300時間ぐらいですよ。300。そら無理ですよ。やっぱり800時間から1000時間、あの、経験がないとね、一人前といえないんじゃないですか。そやからやっぱり、そういう搭乗員を養成しようおもうたら、今で言う一億円か二億円かかるんとちがいますか。それをね、特攻隊に行けって、あの、行かして殺したんやから。まあそら、負けて当たりまえやね。アメリカはそのへん違いましたよね。
・私はね、予科練の時はね、米の飯、たべましたけどね、青島行ってね、昼になってからね、昭和19年の、毎日、米の飯でしたね。その時はね、いわゆる南京米といってあの、その、今のベトナムとかね、あの、外米です。そやから、昭和19年、5月でしょう。6、7、8、9、10、11、12、それから1、2、3、4、5、6、7、8か。そやから、10か月、10何か月かな、麦飯食べたこといっぺんもないです。ええ。それで、あそこのねえ、松山のねえ、偵察11へ行った時にね、昼飯がね、巻きずしでねえ、いなり寿司出てねえ、それが良かった。それでね、酒、酒とかね、私ら未成年者やったけど、酒とかたばこの配給あるしね、キャラメルの配給お菓子はある、ぶどう酒までありました。そや
から私、今でも覚えてますぶどう酒私は飲まなんだけどね、なでしこ印ってね、あの、甲府にある、酒造会社であの、醸造所ありますよね、山梨県に。今でもあるらしいですよ。なでしこというあの、印のあの、そういうぶどう酒。それとね、これがねあそこで、大分におったときにね、戸次におったとき、ワシミルクっていうのが、今のネスなんですよ、ネスが大正時代に、ネスが大正時代にできて、淡路島で牧場やってたらしいんですな。でその、ネスがね、戦争中にあの、日本に接収されたか知らんけど、ワシミルクっていうのがありましてね、で、練乳なんつったら4号缶でね、缶詰のね、4号缶、これくらいの。これの練乳をね、あの牛乳煮詰めたあれですな。ぐーっと全部飲んでしもうてね、頭ふらふら
っとしたことありますね。それは後になってね、戦後になってから医学の知識もわかるようになって考えたらね、血糖がものすごい上がったんです。そやから私鮮明に覚えてる。こういう配給がありましたからね。死ななんだかわりに、ええ目してましたよ、その時は。すごく待遇よかったです。
・それから、一番記憶にあるのはね、えーっとね、戦争終わる、8月のね、もう10日過ぎやったかなあ、東のほうからね、93中練っていうて、いわゆる赤トンボですね、練習機が、2枚の、2枚のこの、ほんとに赤トンボ、あの、2人乗りの飛行機なんですよ。それに乗ってね、同級生が、私達らの甲飛の13期の同級生がね、5人くらい、いたかな、それで松山を中継して、一晩泊まってね、で宇佐、九州のあの、大分県の宇佐海軍航空隊に行って、そこでまあ訓練すべく行ったんでしょうな。まあその時ね、私は彩雲という、その当時、あの、公称、610キロですか、1時間610キロの速さで飛ぶのにね、93中練はね、おそらく、あの、時速80キロか100キロなんですよ。それでね、200キロ、
ぐらいの爆弾積んだらね、それはほとんどもう、ね、自動車よりも遅いですわなあ。だからその時その、私のが一番速い飛行機に乗ったけど、こういうその、あの、いうたら、自動車よりもね、遅いような、飛行機に乗って突っ込むんかなと思って、ほんまにその時涙出るくらいね、気の毒になってね、それで自分の着けているマフラーをね、あの、その人に、あの、あげましたね。それだけは記憶にありますわ。だからやっぱり、戦争っていうのは、あの、あれですなあ、やれやれっていう偉い人が、後ろにおってね、若いもんがやっぱり、死ぬっていうことはね、やっぱりこれは人道に反することですね。親死に子死に孫死にが当たり前でしょう。そやからまた、戦後いろいろ、考えることがあって、私はまだ、
あの、中学3年で、予科練へ行ったからね、学校行って卒業証書はどないですかったら、3年はあかんて。4年で行ったら、卒業証書やると、3年はまだ中途半端やからね、卒業証書やれんていうことでね、それで私まだ、あの、中学2年、中学校へ行ったんですよね、それで私らの同級は4年で卒業してです、中学校普通、その時の中学校はね、5年でしたよ、修養年限がね。それなのに私らあんた国の為に行ってんのに。そういうその、むごい、仕打ちを受けてね、まあ私は、2年ほど行きましたけどね。結果的によかったです、それがね。そやから戦後、やっぱりそういうその、理不尽なね、若い人が先に死ぬっていう理不尽なことはいかんということでいろいろ考えてですね。やっぱり、あの、われわれは騙
されてはいかんということでね、もうこれから騙されまいと思うて、まあ、なんとか勉強して来たつもりです。

○1945年(昭和20)8月6日、広島に原爆投下。

・松山におったときに、昭和20年の8月の9日ですか、松山からやっぱり、光と音が聞こえましたね。光がピカッと光って何秒か、30秒くらいにたってから、ドーンと音がしました。私は雲をみた記憶はないんです。夏の瀬戸内海って言うのはものすごく雲が多いんですよ。
・ピカッと光ったですよ。雷、稲光っていうんですか、あれと一緒ですよ。それから、何分かな、それでみんなむこうむいて、あっちのほうは呉かもわからんから呉の火薬庫が爆発したんかなあと言うてましたけど、その記憶があります。
・あの時白い布をね、着せたら助かると、なんとかそういううわさがありましたね。だから、その、原爆が落ちてから、長崎の原爆が落ちてから、大分へ行ったんですよ
・終戦は、大分の戸次ってとこです。戸次で4、5日おったわけです。それは、秘密基地でね、まあおかしなあれで、竹をね、編んでね、竹をこう、15メーターぐらいの竹があるでしょう。したらこう編んでね、上で編んで。飛行機はこう、翼がね、13メーターぐらいなんですよ。だからそのかなり、15メートルぐらいのあれやったら、こうやって組んでね、上で結んだらね、それでその中へ飛行機入れんの。むこうは知らなかっみたいや。それやから一回も空襲に遭うたことがなかったです。まあ4、5日ですけどね。秘密基地やったらしいですな。なんか、後で聞いた話では、僕が後で読んだ話やけど、あの、飛行機あの、その、なんか、竹やぶに収納してね、そこへ草まいて、牛放し飼いにして、牧場み
たいにしたっていって、書いてましたね。僕は後で知ったんやけどね。そんなことがあったらしいです。そやから、最後まで知らなんだみたいやねアメリカは。そやから空襲、空襲なかったと思います。
・第11飛行隊専用の飛行場でしたね。彩雲しかなかったです。

○1945年(昭和20)8月15日、終戦。

・最後にね、あの、別れたね、お寺で別れたんですよ。
・そらやっぱりあんた勝つと思ってやってたから涙出ましたがな。残念で。やっぱり、なんも知らなかったからねえ。あの時それは、もう、厭戦気分が漂ってたん違いますか。口では一億一身火の玉だとか、言うてたけどね。食べるものも着るものもない、どん底の生活やそれはやっぱり、一般の民衆はあれでしょう、もう戦争はいややなと心の中で思うてたんちがいますか。口ではいえんからね、そりゃ厭戦気分が蔓延してたと思いますよ。今になって考えればね。
・あの、搭乗員はね、戦争犯罪人なるかもわからんから一番先に帰れっていうてね、8月の23日に帰りました。一週間ほどで、戦争終わってから一週間ほどで。それで九州やったからね、だから広島も通ってきましたね。そやから大分で、正味一週間くらい。そやからもう8月の23日に、家へ帰ってましたよ。
・広島の時にはね、一面の焼け野原で山がね、山が焦げてましたね、赤茶けてて。もう何時間か停車してもう水が、あの、水道の水がでっぱなしで、で、何時間か、日中やったかなあ、22日の、日中かなあ、あの、貨車でね、無蓋車といって、上に覆いがないやつ、あれで、もうすし詰めになってね、で帰ってきましたね。
・そりゃあもうびっくりしてましたね。一番初め、村で、あの、復員してきたの僕が一番はやかったもんね。2番目の兄貴が戦死しました。それはね、なんかね、食糧調達に行って、ゲリラで、ゲリラに撃たれたらしいですよ。他の兄貴は帰ってきましたけど、5人行って、1人戦死しました。

●最終階級:二等飛行兵曹。

(株)ユニモトの映画『はじめ嬉しく、あと悲し』のチラシのデザインができたようです。
ユニモトのブログを覗いての(勝手にやっている)速報なので、詳しくは以下ブログをごらんください。

(株)ユニモトのブログ
http://katarazuni.blog20.fc2.com/

映画のコンセプトが一目で伝わるものができているようです。表面はDVDが出る際にはパッケージデザインにもなるのでしょうか。(発上映もまだなのに気が早いことを言いすぎですが)
上映イベントのチラシもこれがベースになるのでしょう。
実物を見るのが楽しみです。(もちろん映画も待ち遠しいです)
イベント詳細が入って、実際に届いたらまたそれをもとにお知らせしたいと思います。

現在のところわかっているイベント情報をもう一度掲載しておきます。

◆◆◆

「はじめ嬉しく、あと悲し〜十代の若ものたち、青春の軌跡〜」上映会

【東京】
日時:12月13日(金曜)13時30分開場→14時上映
会場:なかのZERO 本館B2 視聴覚ホール

【長野】
早春賦誕生100周年記念☆早春賦劇場 ドキュメンタリー映画安曇上映会 ”HEIWA映画祭 命をみつめて”〉
日時:平成26年1月11日、12日
開場:安曇野市 穂高交流学習センター ”みらい”