あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
『語らずに死ねるか!』や、『大本営最後の指令』を制作してきた(株)ユニモトが、また新しい映画を製作中です。
『はじめ嬉しく、あと悲し』。大戦の折、志願して戦場に赴いた5人の少年少女を追ったドキュメンタリーです。

それぞれの体験者の方々へのインタビューとあわせて長野県や中国(特に旧満州)でもロケを行っているようです。
詳しくは、(株)ユニモトのブログをごらんください。
http://katarazuni.blog20.fc2.com/

この長野ロケが新聞に掲載されたことから、体験者の方を紹介していただくことになり、今週末の長野ミニキャラバンにつながりました。
映画には、保存の会のほうから紹介した体験者の方もご登場されていますが、どうもお互い紹介するという協力関係になってきました。
戦場体験放映保存の会は、映画の共同制作となっていますが、こういうときにそのことを実感します。
そして、そういうちょっとした裏話を紹介するのが、当ブログの役割のような気もします。

映画完成、お披露目のときには、またお知らせしたいと思います。
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パソコン故障を機に、証言概要を極力ためない方向に進みつつある個人運営ブログであります。

個人運営といえば。
保存の会メンバーが帰省や個人的な旅をするついでにその地域での聞き取りを入れるのが常となっています。キャラバンを行うようになってから、いっそう定着してきています。
今月は、私が地元方面に行く用事があるので、ついでに九州北部での聞き取りを入れようとしていたのですが。本職の都合で休みを追加することができなくなり、断念しました。
この辺りも、仕事しながらのボランティアのため、個人の事情が反映されてしまうところです。
また、車が必要な場所にはなかなか行けないというのもあります。
そういうわけで、今度の私の旅は、カメラ不所持になりそうです。何かレポートできることがあればよいのですが、どうなりますやら。

一方、個人事情ではない「キャラバン未遂」も、別のメンバーに発生中です。
一度は旅の計画をしながらも、「わざわざ遠くから来てもらうのは申し訳ない」といった理由でお断りが入る例が出ました。
この件については、「ついでですから」と言えれば未遂に終わらずにすむかも、という希望のもと、近い地域の体験者の方を探しているところです。
11月後半の祝日(3連休ではありませんが)のところで、お話いただける福井県~石川県辺りの体験者の方を探しています。
お心当たりの方、戦場体験史料館内保存の会事務局までご一報ください。

その他地域でも体験者の方がいらっしゃれば、ミニキャラバンが発生する可能性がありますので、お知らせいただければと思います。
先日行いました大阪キャラバン前半の2013年10月13日(日)に伺った証言の概要です。
本当の概要版と詳細版がありました。どちらかというと短いほうがブログ向けかと思いますが、詳細版の方を載せることにします。
昨日上がってきたばかりの報告です。メーリングリストより転載します。

◆◆◆

◎堤照二(つつみ・てるじ)さん(91)
収録日:平成25年10月13日
所属:西部第19部隊【※騎兵第6連隊】〜陸軍電波兵器練習部〜陸軍航空通信学校〜飛行第61戦隊【※七生神雷隊】
戦地:スマトラ島(メダン)〜シンガポール(チャンギー)〜ジャバ島(スラバヤ)〜広東〜台湾
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○1922年(大正11)5月1日、鹿児島県出まれ。

・官立大阪高等工業学校機械工学科を半年間繰り上げ卒業。

○1942年(昭和17)10月1日、熊本の西部第19部隊に入隊。

・一緒に、90人ぐらい入りました。
・幹部候補生。
・戦車兵で、あの、騎兵第六連隊というのは、捜索隊で、斥候ですね、中には戦車隊と、騎兵隊と、馬に乗ったりね、それから車輛隊で、トラックなんかにいっぱい乗って行って、それで、この、分散している斥候なんかをやって、車輛隊も大きく分けて三つあったんです、で私なんかは戦車隊に入って、それで、戦車と言っても軽戦車、九五式の軽戦車。軽戦車というのはね、ちょっと小さい。
・運転からエンジンの整備から、私の戦車は、エンジンをクレーンでつり上げて、バラバラにして、それでちゃんとあの、組み立ててやりましたよ。
・九五式の軽戦車といってね、忘れてしまったけど、目方がね、七トン半ぐらい、エンジンの馬力がね、180馬力やったと思う。ディーゼルエンジンですね。それで、スピードがですね、だいたい、最高が40キロ。真っすぐな道路を走った時にね。ところが、私はこの、操縦も上手なほうやったから、あの、最高がやっぱしね、エンジンの回転が1800回転だったんですがね、あの、最高がですね、あれしたらね、2000回転も回りおったんです、そしたらだいたい、45キロぐらい出おったです。だからそれはあの、エンジンもよくないですからね、だいたい一応最高40キロと。それとこの、7,7ミリのが二丁と、それから、えーっと、46ミリの戦車砲【※37ミリか?】ってやつですね、これが一
門。それで、装甲板の一番前の方の厚いところが20ミリ、だから薄いあれですね。だいたい、幅がどれくらいあったですかねえ、幅がだいたい、2メーター、2メーターちょっとぐらいかな、長さが、4メーター、ぐらいだったですかね、よく覚えてないですけれども、だいたいそんな、あれです。

○1944年(昭和19)2月ごろ、連隊本部に呼ばれる。

・それで、私と、それから、今の、昔は九州帝大と言っていたけれども、今は九州大学と言ってますが、九州大学の電気を出た、“いどつかさ”【※?】というのとですね、これと二人、呼び出されて、「お前なんか東京の武蔵野に、電波兵器練習部っていうのが出来て、それで、それにあのー、あれでこの、召集が来たから、お前ら二人行ってくれ」って、それで、“いど”っていうのはねこの、学校でね、電気を専攻してきたから、私は機械でしょう、それで、「“いど君”は電機を専攻したけれど私は機械です、なんで行かなあかんのですか」、「機械も電気も似たようなもんじゃい」って、それだけですよ。

○1944年(昭和19)2月のおわりごろ、電波兵器練習部へ。

・そこでまた身体検査をやったわけです。おそらく、大きく分けて、飛行機に乗るようになるか、あの、飛行機乗りなんて言ったらもう体格検査がね、非常にこの、まあ言うたらシビアだったんです。それで、まあ私は一応この、飛行機乗りになって、一緒に行った“いど”君っていうのはちょっと体格のあれがよからん、地上要員と言うてね、そこで飛行機乗りと地上要員と分かれて、それで、この武蔵野の、電波兵器練習部、“いど君“ていうのはやっぱりどこか近くだったんだと思うけどね、記憶にない、ちょっと違うんでしょうね。それで、そこで、60人くらいだったんですか、日本全国からね。それで、先生でも、あの、今でもあの東大ですな、東大でもその、そういう、レーダー関係の、専門の、先生
とか、一人はおって、あとは東大の先生かどうかはわからんけど、とにかくそういう類の、まあ一応先生で、それでいろいろ教えてくれたわけです。ところが、このー、なんて言ったらええんか、超短波工学やらなんやについてね、分厚い本なんか読ましたけど、電気を専門にやってた人間で、それでその頃、レーダーって言ったらいいんですか、昔は電波兵器って言ってましたけどね、電波探知機って言ったり、日本には、開発されてね、そういう機械が出来て、間がなかったですね。で、私なんかが教育に使われたのは、あの、今でもあるんですかねあの会社、日本無線っていう会社でね、四式ヒ一号電波警戒機Ⅱ型【※正式名称?】ですね、それで教育を受けた。

○1944年(昭和19)8月ごろ、陸軍航空通信学校へ。

・だいたい六ヶ月間、その電波兵器練習部で教育を受けて、今度はまた水戸の航空通信学校と呼ばれたですね、あの、茨城のあの、今でもある水戸の、よりのちょっと、宮城の方に、それで今度はそこに移って、そこで今度は飛行機に乗っての訓練を、やった。私なんか、飛行機に乗るのはじめてですから。それでその時に、あれは、なんとか、何式やったかな、あの、双発の練習機があってね、450馬力のエンジンが二基ついた、それがね、全部でね、十人ぐらい乗ってるんですかね。で一番最初、あの、電波警戒機もなんにもついてない、その練習機に乗って、はじめて飛行機に乗ったわけです。そうしたら一部の、あの、生徒になって来てる中には、まあ優秀なそういう、電気のあれを出たのもおるだろうし
、こんな、なんぼ教えたって、この、頭に入らんような、バカみたいなのもおったわけですからね、とにかく部隊によってまたね、地上部隊の、その、歩兵隊なんかやったら、ほんまにたいしたことないような人が来とって、だけど、そんなのおかまいなしですからね、あの、試験から、こうしてここまでしなければ、あの電機とかなんとかそういうあれでですね、もう詰め込みで、したわけですから、それで、それから通信学校に行って、それで、それが、百式の、重爆撃機って言った、『呑龍』って言ったりね、あれがこの、あれが、三式の重爆撃機と言ってたんですがね【※四式か?】、あの『飛竜』、これがこの、九七式の重爆撃機と言って、九七じゃないな、「67」って、「キの67」と言ってたんです
けどね、それで、それの前に使っておったのが、その今、『呑龍』って言った三式【※百式】の、私なんかが、水戸の航空通信学校で教育受けたのはその三式の重爆撃機でその、電波兵器を積んだ、それで教育を受けて、それで、11月のいっぱいで、卒業式の予定だったのを、急に、私が一番の親玉で、なんで私が一番あれにしたんか、って言ったらあれなんですけど親玉でそれで、私を入れて全部で、十四人か十五人か、今でもあの、一部は名前も覚えた、顔だけは覚えとるけど、名前は出てこんね、ですけど、その時、それで、「お前なんかこの、フィリッピンのこのレイテ島に、独立飛行隊第三十一中隊という部隊があるから、そこにすぐに行け」っちゅうわけ。「へえ〜」と思ってね、それで、それで私は
もうすぐに、フィリッピン行きの飛行機がないか探したけれど、もうその当時はね、もうそんな、あれはおらんですよ、ええ、十何人乗せて飛んで行けるような飛行機がね。それでもうしょうがないからあの、船で行けっていうわけで、それで、広島の、宇品まで行って、それで宇品で、船に乗っとったんか、まだ止まっとったんか、よう覚えてないですけどね、その時に、あの、「独立飛行第三十一中隊はレイテ作戦で全滅した」っちゅうわけで、それで、すぐにこの、「シンガポールに行ったら第三航空軍司令部があるから、そこに行って、あの、指示を待て」と、こういうあれで、それで今度は、そこで今度はシンガポール行きの船にまた、探して、探すというか、いっぱいこの、南方行きは、輸送船が出てま
したからね、それで、それが下関から出てるっちゅうことで、下関まで汽車で行ったんか船で行ったんかそのへんのことはちょっとそれだけは覚えてないですけどね、それでなに、この、下関に、“ろくれん島”というか“むつれん島“というか【※六連島(むつれじま)のことか?】、なんかそこの島の、近くにね、たしかね十六隻の船団だった、これも正確じゃない、の船団を組んで、それで、その中に、四隻ぐらいでたしか、護衛艦ですね、駆逐艦、駆逐艦だった思うんですけどね、護衛艦がついて、それで、十二月の、何日やったか知らんけど、はじめごろ、下関を出たわけです。

○1944年(昭和19)12月はじめごろ、下関出港。

・そうしたら下関出て、あくる日の晩ですか、あの、晩ていうか明け方、鹿児島の、奄美大島の沖合だったと言ってましたけどね、そこでこの、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受けて、日にちは覚えてないけど、時間が、朝方のたしか四時半ごろ、それで、あの、その時に、まだ真っ暗ですからね、私が乗っとった船の、で、船はね、なんていうか、まっすぐ走って行ったら、一応船団組んで走るんだけど、この、潜水艦の、この、的になりやすいですからね、で、この、こう、ジグザグにね、どの船も一緒にジグザグにね、どの船も一緒にこうジグザグに、こうして走っていくわけです。だから、普通だったら、まあ一時間で行けるところが、おそらくこの、一時間半ぐらいかかるようなね、というあれで、走って
いくけど、その魚雷攻撃で、私なんかの横を通った、これは距離が一キロ、近く、離れておったでしょうね、それで今度船から火柱が上がって、そしてこの、ガソリンかなんか積んでおったんですかね、海に油が流れ出して、それこそおそらく火の海になってね、それでその、火の海の中を、この、今の、護衛艦が、あの、火の中を走っていって、それで、乗組員、そのまま置いとったらみんな死んでしまうから、何百人か助けたって言ってましたけどね、そんな正確でないけども。それで、今度はあの、もう一つは私なんかの船の、これは距離はおそらくねえ、五百メートルぐらいは離れておったんですかねえ、わたしなんかの船がこう行ってこう、左に行くのを、舵をまがったところに、私なんかの船の前をその
魚雷が、それで私なんかの船の前の船に当たったと、で、これは轟沈ですよ、もう火柱が、二百メーターぐらいね、上がって、そうしてその、前の船のこの、鉄板で一番大きいのは、畳一畳くらいの鉄板が、私なんかの船に落ちて来たんですからね、もう細かいあれなんかもうワーッと、鉄板が落ちて来てね、私なんかもそれを、船のあの、いろんな端やらなんやら、甲板に、いろいろ上がっては、その陰に隠れたんですけども、それで私なんかの船ってのは、たしか二人が落ちて来た鉄板で、死んで、一人は、右手か左手か忘れてしまったけど、手をここらへん【※肘あたり】から、鉄板でぶち切られて、それで、もうそんなのはこの、連れて行ったってしょうがないから、それで、奄美大島の古仁屋ってあのあれ
は、湾があるんですけどね、それで、古仁屋湾でその、怪我したそれはあの、来た船で、船にあげて、それで、それからまた、編隊で組んで、それで、台湾の基隆まで行って、それで基隆から高雄に回って、それで今度は高雄から、高雄で船団を組み直して、それが何隻やったか覚えてないですけども、それで、バシー海峡を通って、で、それからはね、攻撃らしい攻撃は何も見なんだですね。

○1945年(昭和20)1月1日、サンジャックで新年を迎える。

それで、まあ、覚えとるのが昭和20年の正月、1月1日ですね、あの、今の、ベトナム。ベトナムのあの、なんていうか西の方に、ベトナムって海岸沿いにほら、ひょろ長い国ですからね、サイゴンって、今はホーチミンって言ってますけどね、まだ、フランス領だったですね。それでサイゴンってきれいな建物がいっぱいできてね、それで、その前のサンジャックっていう、港みたいな恰好で、まあ言うたら浅瀬になっとるんですね、で、そこの、私らが乗った船は、八千トンぐらいありますけども、さっき言うた、あの、前の船の、轟沈した船に、四千人くらい乗っとったわけですから、だからもう四千人、いっぺんにもう、全滅して、右の方で燃えとった船が、これがおそらく、やっぱり二、三千人死んだん
でしょうね、こっちはちょっとわからんけども、そっからその、あれで、なんか、護衛艦が一隻やられて、それから、その今の、奄美大島の沖でこの、あれ、魚雷攻撃を受けた時に、三隻、魚雷攻撃の犠牲になったわけですね。それでその、さっきのあれやけど、今のホーチミンの沖でこの、サンジャックの、港で、年をとったわけです。で、その時、餅を食わしてもらったかどうか、その時何を食わしてもらったか覚えてないですけどね、そこで、年とったということだけは覚えてます。で、それから、すぐに、カムラン湾、それからナトラン湾、そのへんは昔は、船の墓場と言われたところで、アメリカの潜水艦の多いところでねえ、それで、護衛艦から、ちょうどあれ、なんていうかこの、ドラム缶を、あの、
丸いねえ、ドラム缶一本ぐらいの大きさだったですかねえ、いわゆる爆雷というやつですね、これをこの、潜水艦がおるかわからんのやけど、で、この、海に放り込むわけですな。そうしたらこの、震動が、おそらく、五、六十メーターか百メーターぐらいのところで、爆発するわけです。うわああーってこの、水柱が上がるんけやけど、そしたら、船は上に浮いとるからね、そうすると浮き上がる、その水圧でね、そやけど潜水艦は四方からこうくるからね、あれするから、あのおそらく少々の敵のところにおっても、あの、なんていうか、水圧でね、やられる率が高かったでしょうね。で、爆雷を海へと放り込みながら、走って、それでまあその、昭和20年の、1月10日にシンガポールに着いた。

○1945年(昭和20)1月10日、シンガポール到着。

・それで、私はたしか、第三航空軍司令部に行ってきたら、「お前なんかが行く部隊は、日本に、機種改選って言うんですか、飛行機を新しい飛行機にね、まあ言うたらこの、これ【※四式重爆】に変更するために、日本に戻ってる」っちゅうわけ。それで、「おそらく、もう一月くらいしたら、こっちへ戻ると思うから、それまで、この、スマトラ島の、あのインドネシアのね、スマトラにこの、メダンていうところがあるんですけどね、そこに、飛行第58戦隊の、留守隊がおるから、そこに行っとれ」っちゅうわけ。それでそれから、汽車に乗って、あの、マレーシアの今の、なんちゅうか、シンガポールのあの、なんとか海峡を、あれを渡ってそれでマレーシアに、そしてそれでマレーシアのクアラルンプー
ルですかあれ、クアラルンプールであの、乗り換えて、それであの、マラッカ海峡のところにね、どっと言ったら、あの、ポートセッテンハムって、今のような地図に載ってないでしょう、ポートセッテンハムというところに行って、それでそこで、一晩泊まって、で、スマトラ行きの、150トンか200トンぐらいの、機帆船ってね、船ですね、木造船、それで、この、マラッカ海峡渡る、まあ、あの、潜水艦の魚雷を受けたりする、危険性はないですからね、それで、その船に乗せてもらって、マラッカ海峡を渡って、それでマラッカ海峡の、この、タンジョンバレーというところに着いてですね、で今度は、タンジョンバレーからまた汽車に乗って、でむこうの汽車っていうのはね、石炭を焚かないんですよ
、木を焚いて、走る汽車ですから、あんまりよう走らんですね、それでその汽車には何人くらい乗ったんですかねえ。それでメダンに着いて、まあ晩に着いて、日にちなんか覚えてない。それで、メダンに着いたところで、またホテルで一晩泊まって、それで明くる日、その58戦隊の、留守部隊に、入って、でそこでまあ言うたらね、飯食わしてもろうてるわけ。こっちは電波兵器が専門のあれやのに、何もないわけですからね。それで、まあ飯食わしてもろうて、毎日銃剣術をやったり、駆け足したり、それから時にはこの、トラックでね、このジャングルの中を、一時間ぐらい走ったところに入ったら、農場があって、農場ってみんなこの華僑がやっとってですね、インドネシア人じゃなくて。で、そんなとこ
にいてあの、パパイヤとかね、それからパパイヤとかなんとかいろんなものをね、果物をこの、金を持っていくんじゃなくて、この、シャツやらズボンやらね、あんなのを持って行ったら、シャツ二、三枚持って行ったらほんとトラック二台分くらいくれる。で、そんなして、私もいっぺん乗せてもろうて、見に行ったことがあるんで、それで、まあ、果物やら、まあいろんな、ごちそうを作ってもらった。それからたしか、二月の、二月の十二、三日だったですかねえ、これも正確じゃないですけども、シンガポールから、あの、今の61戦隊の、あれが、キの67ですね、四式のあれが、迎えに来て、それでその日、迎えに来た飛行機に乗って、それでもうシンガポールに渡ったんですよね。

○1945年(昭和20)2月12、3日ごろ、シンガポールへ。

・それでそれから、シンガポールへ、飛行場に着いたら、飛行機にちゃんとその、装備してある、あの、電波兵器やら、それから、その、積んであるわけですね、荷物にして。それで他の飛行機に、この、攻撃なんかに行く時にこの、ちゃんとこの、積んで装備して、あの、まあ準備しなきゃいかんわけですけども、あの、こっからこの、ジャバでないわ、スマトラのメダンにおった時、一回だけ、アメリカの、P51というあの、戦闘機ですか、これが十機ぐらい、この、攻撃に来て、それでこの、飛行場の滑走路に、爆弾を落としてね、直径がなんぼ、十メートルぐらいの穴が、一つか二つあいたんですかねえ、まあその日にもう埋めたねすぐにねえ、道具はみんな持って来るから。だけども、あの、飛行機はも
う引っ込んじゃうから被害がなかったです。こっちはみんなあの、攻撃に出るとかそんなあれでもないし、まああの、壊れた飛行機をね、あの飛行場の、滑走路の、からちょっと入ったところに、この置いて、そして上から見たら、ちゃんとした飛行機に見えるんですよ。それでその下に、あの、ドラム缶にいっぱいこの、あれを、ガソリンいれてねえ、それでこの、それ撃ったらその、タンクに、ガソリンに火がついて燃えて、それで飛行機がこの、あの、攻撃して燃えたようにちゃんと見えるらしいですが、で、そんなのをね、なんぼか、作って置いといて、だから、それが攻撃を受けて、それで、この、ほんとうの飛行機は別にどうっちゅうことない、ちゃんとあの、ジャングルん中にいれてあるからね。
・それで、この、いわゆるこの、電波探知機っていうのは、日本で開発されてね、まだ、さっき言ったように間がないね、からね、その飛行機に積んでおったのはね、この、四式ヒ一号電波警戒機四型【※?】っていうこの、私なんかが教育で、あの、あれしたのはⅡ型だったですけど、飛行機に積んでおったのは四型で、それで、それで電波とはどんなもんだったか、だいたい、この、器材がね、全部で五つあるわけです、あの、あれが、周波数が200MHz、昔は200メガサイクルと言ったんですけど、今は200メガヘルツっていう、だからこの、光とか電波のスピードが、3×10の10乗センチメーターですかね、だから、その200で割ればね、あの、波長が1.5メーター。それで、波長が1.5
メーターのあれを、この、発信して、それで物にあたったらそれが、それでそれが真っすぐ返ってきて、それでそれを受信して、それでそれをこの、今のブラウン管に映して、それでだいたいどこに、だいたいどんなものが、おるかっていうことをだいたいこの推定するっちゅうか、そういうこの、あれだったわけですけどね、それがこの、私がその、部隊に、61戦隊に行ってその、電波兵器、飛行機に乗って一緒に来たのがたしか、五人おりました、その五人おったけど、どれこれも、使い物になるようなあれじゃなかった。あの、一番ものにしてるのは、いわゆるこの、位が私なんかより上で、まあ言うたらこの、電波兵器部の、まあ部長って言うたらええんか、それで私なんかが十四人か十五人そこへ出て、
たしか全部で二十人ぐらいだったと思います。それで、その、この、ある程度その、いろんなこの、バラして、時によってはハンダ付けして、それでこの、なんていうんですか、配線図やら何やらを見て、あれするっていうのがね、私でないとわからない、やっかいなあれやとかいうていろいろ、この、教えて、頭に入るようなやつには、熱心にそれはそれはこの、教えてやって、それで、結果的にはそうして熱心にして、ある程度覚えたのが、良かったか悪かったか、まあ、後で話しますけど、それはもう、死んでしもうたわけですから。で、何も、できなかったやつは、戦地に行くことなかったから、生きて帰ってきたわけです。それで、まあ、一応この、電波兵器っていうのは、それでその、発信電圧が一万ボ
ルトで、あの、ブラウン管っていうんですか、そのブラウン管の中に真空管って言って、こういうふうに横に並んで、それでその真空管の寿命が、たしか、45時間ちゅうたっけ、練習って言って、テストやって、あんまり長いことはできんわけ。それでその真空管何個ありましたかねえ、45時間、たったら、50時間もつのもあったかわからんけど、一応新品と交換する、それしないといかんわけですね。それでその、真空管なんかも、普通の真空管とか“えいこうかん”とかね、いろんな、全部で真空管が、50ぐらいついとったんじゃないですかねえ。それがあって、それの、寿命なんかも、なかなか管理するのが大変だったですねえ。で、その発信装置、発信機を回す、いわゆるこの、電源ですねえ、それ
からその、受信機、それから受信した電波をこの、拡大して、ブラウン管に映す、まあなんちゅうんですか、拡大、っていうたらええんか、それからその、今のブラウン管っていうやつ、全部で機械が五つあったんです。それからそれの調整を全部やらんとね、自分が専属の、それのこの、持っとる機能を十分、発揮しなきゃいかんから。だいたい、敵の飛行機が、まあ、アメリカのB29ぐらいの、あんなどでかい、70キロぐらいのところでこの、あれで、それから敵艦なんかやったら、だいたい130キロぐらいのところで、非常に性能の良いあれやったらですね、あの、あれが発見できると、その程度の、あの、あれやったわけですが、それからそれとねえ、あの、この、電波高度計っていうのがあってね、
それが1000MHz、だから、波長がだいたい33センチぐらいあってね、それでその、波長が短くなったら、非常に、この、機能はようなるんじゃけど、先に進んでいかんわけね。途中でもうすぐ途切れてしまうでしょう。そういうあれがあったもんじゃから、それを使ってこの、電波高度計ですね、飛行機の高さを、水面から、それから地面からどれだけの高さで飛んどるとかっていう、それをこの、計る、あれに、電波高度計に作ってある。で、普通の飛行機、のは、気圧、今は全然違うと思いますけどね、気圧高度計って空気の、気圧での、高さを計りおったですね、千メートルだ、五千メートルだっていう、それからその気圧高度計っていうのは、百メートル以下になったら全部0になるんです。だから
この、雷撃なんかやるってなったらもう、高度がだいたい、魚雷を発射するという、だからその水面から、20メーターから30メーター、それで、私なんかがその、シンガポールに行ってから、三週間ぐらい、二月の十何日から行って、それで三月の、はじめくらいからだったですかな、あの、ジョホールの、ジョホール水道の、ちょっと、私なんかおった、この、チャンギーの、西側のほうに、あの、海軍の、基地がありましてね、それでそこに、海軍の、雷撃隊の生き残りの連中が、ちょっとおったんです。それで、それに、あの、あれで、隊長なんかが、駒形、大佐、いや駒形少佐か、良い人やったけど、あの、まあ、主になって、それで、とにかくあの、とにかくその時はまだこれ爆撃機やったですからね
、爆撃機は、この、まあなにかもともと固定した例えばこの建物を攻撃するとかね、とかっていうあれだったらええけどこの、船の攻撃とかなんとかっていうたら、そんな当たらせんのですよ。それで、高度飛行だったらやられますからねえ、敵のあれで。だからどうしても、敵は、シンガポールまで行ったら、相手はこの艦船攻撃が主体だと、そうしたらこの、やっぱり、雷撃、魚雷攻撃というあれしなきゃいかんと、それでシンガポールで、魚雷が、この、雷撃の練習をやったわけです。それが、あの、海軍の、その、セレターにおった連中で、教えてもろうて、それで、最初は、昼間、街中を、まあ私なんかの、私なんかのあれはこの、まあ、雷撃のそういったあれは、この、なんていうんですかこの、航法士
っていうのと、それから、操縦士の正・副、まあそれに機関士とかなんとか、一応そんなあれで、それだけで、私なんかは、あの、全部の飛行機にレーダー積んどるわけでないですから、それで、その、まあ、言うたら一つの部隊で、あれするとね、二、三機あったら、十機ぐらいなくてもいいわけですから、それで、その、雷撃する時それでもって見とるわけですからねこっちは、そうするとこの、海面まで行きましたかね、それでそれから、昼間の攻撃がそこそこ、その、できるようになって今度は、夜間攻撃ですね、あの、仮設艦ていうんですか、なんとかいう、えーとあの、海軍の巡洋戦艦と思いましたけど、その時ちょうどその出て、その船を、走ってるのに向かってこの、魚雷、重さやら何やら、この、
本物と一緒やけど、この、いうたら当たったってねえ、爆発せん、あれですね、そういうこの、練習用の、あれがあったわけです。それで、夜間攻撃、まあ晩になったら、頼りになるのは高度は、電波高度計って、それでこれもねえ、その、誤差が、良いのでも、6、7メーターぐらいの、まあ誤差がでるんですがね、まあそれでも乗れないよりはねえ、まあましなんです。それから誤差はある程度この、考慮に入れて、波につっこまんようにね、高度が20メートルでしょ、プロペラが波に当たるんじゃないかっていうてね、昼間ね、行ったら、このだってそれが晩にということになったら大変ですからね、そういう仕事していたけども、それで、それも済みまして、5月、海軍の人達も稽古しとったんじゃないで
すかね、毎日やるわけじゃないですけど。

○1945年(昭和20)6月25日、バリックパパン沖の敵艦船に夜間魚雷攻撃。(七生神雷隊)

・それで、昭和20年の、6月の25日です。でその前に、もうあのあれがあったとこで我々下っ端はわからんですけど、20年の6月の、25日の、朝、5時頃だったですかね、ジャバ島のスラバヤってところがありますがね、スラバヤって今この、ジャバ島のこの、東っ側の、東北になるわけですけどねえ、わりと大きな町やけど、その、スラバヤ転進、目的はその、ボルネオの、今、ちょっと、ボルネオの、あの、スラバヤから見えなかったところに、バリックパパンというところがあって、それで、そこの沖に、アメリカの機動部隊がどうも、その、上陸目的で、来とると。それで、それをこの魚雷攻撃せいと、それが我々の初めての、いうたら、魚雷攻撃ですわね。それで、まあこのシンガポールから今度
スラバヤに、行くとしても、まあまっすぐ飛んだんじゃ、それで、千、二百キロか三百キロぐらいですかね、たしかそのぐらいだと思います。で、いうたら、三時間、ちょっとでこの着く、んだけど、その、真っすぐ行ったらね、その、いろんなスパイやら、それから、この、まあ、むこうのアメリカはこの日本よりもその、いわゆるレーダーなんかもね、もうんと進んどったわけですからね、探知されて、それでこの敵の攻撃を受けたらいかんから、こんど回り道してね、あの、ちょっと反対を、反対ちゅうあれもないけど、ちょっと九十度方向に横にいって、今度ぐるっと回って、四時間半ぐらいかかって、スラバヤに着いたんじゃないですかねえ。それもこの、だいたい二機か三機くらいずつ行ったり、それで
全部で、索敵機と、攻撃機が九機でね、十機、いやいや違う、索敵機と攻撃機が八機か、それで九機、九機、あの、スラバヤに、行って、それで、二十、そんなまた長くおったらまた、そこで敵の爆撃受けて終わりですからね。それで、今度は、スラバヤから、バリックパパンまでたしか、八百キロぐらいある、距離だったと思いますけど、で、それを、朝、じゃない、晩の、五時ごろ、じゃなかったですかねえ、あの、索敵機っていうてこの、あの斥候ですな、索敵機、それにはレーダー積んでおったですから、それでそれに、そのレーダーの係でやってたのが、あの、あそこの、福岡県の鳥栖【※佐賀県か?】ですか、鳥栖のとこへ、あの、“まえま”っていう男でね、私なんかと同じような、学徒動員で兵隊に
行った、たぐいのあれですけど、それが、あの、私と同じように、あれに、まわされて、電波兵器にまわされてやった。それが、あんまりたいして、あの、その、電波兵器のことを拾得してなかったですけどね、まあまだましなほうで、それで、それを、あの、索敵機に、その、その私なんかの上のそのあれが、乗せたほうは電波兵器を何にも知らん人だったですけど、あの、名前、なんとか、えー、“よしおか“っていう人だったですね、あそこの、今の、神戸、の、ちょっとね。その晩は、二機ですか、二機の飛行機、で、それで、その”よしおか“さんの、あの、前のほうのこの、まあ索敵機っていうことになってね、それで今度は攻撃隊長っていうのは、私と同じ鹿児島の人で、あの、攻撃隊長、は、一番機
ですね。これにもこのレーダーを載せて、それで、これには、あの、名前なんとか言う、宮崎県の男で、宮崎県の高千穂の男でね、これが攻撃隊長機に乗って、それで、まあ私は、まあほんとだったらね、行かんでもね、ようね、あれだったんだけど、それでその、”よしおか“って人はこの、私はあとからいろいろ考えてみたらね、あの、索敵機やら連絡をしなかったというか、私がおらなんだら、細かい調整やら故障やらを受けたあれの、やるやつがおらんわけですよ。だからできるだけ私はあんまり、危ない目にあわさんようにしたんじゃないかと思うんですけども、そしたら、あの、八機の中のあれで、四番機への、五番機ですか、五番機に、あれ、機長が、”たかだ”さんていう人で、それでその機に乗っ
て、それでまあ一応この、次々に離陸して行って、そうして、横にいらしとった、“ぬまた“さんていう人ですね、機長のあれが、エンジントラブルだっちゅうことで、それで、引き返して、それで結局、索敵機が一機と、それがちょっと早めに出て、それからちょっと、30分ぐらい遅れて攻撃機が、攻撃機もまっすぐいったら早いんですけど、着くんじゃけど、まあ、危ないからこう裏まわってねえ、それで、私なんかの、乗ったこの飛行機も、エンジンの調子が悪いとかなんとか言って、それで、本隊までちょっと遅れてね、それで結局、攻撃する時は一緒になりましたけどね。まあ、結果的にはこの、レーダーは何の役もせんわけ、もう近いしね、あれで。それで、夜間攻撃で、それで、まあ敵のあの、そこ
へ行く時に、ちょっと高く上がったら、全部弾、敵のあれ当たるから、それで言うたら、さっき出た、索敵機が、この、何の音沙汰もなし。結果的に帰ってこなかったから、どっかで、撃墜されたんでしょうね。だから、なにももってないわけですよね、その索敵機が得たものを。だからその、”まえま“っていうこれも、死んでしまうわけね。だからあの時歳は、22ですか。それで、私なんかあの、ちょっと高く上がったら、あの、敵の弾に当たるから、水面からだいたい、4、50メーターぐらいの高さで、それで攻撃する時の、あれは、魚雷を落とす時は、20メーターから30メーターです。それで、なんとかこう、それでもって、弾がねえ、やっぱりなんぼか、三十発ぐらい、なんか、当たっとったんじ
ゃないですかね。まあ、やっぱり、それで、九機行って、索敵機っていうのが一機は帰らずに、攻撃隊長機と、それから、あそこの、山口県の、周防という町があるんですけど、その、出の人で、”やまうち“っていう、だったですけど、その人の、その人はね、私が知っとる、なんで知っとるかというと、部隊で一番操縦がうまいという人でね、あれもね、その人の飛行機も帰って来なかったです。それで、あの、そういう弾がバンバン飛んでくるわ、あの、魚雷は発射して、弾が、あの、魚雷が当たって火柱があがっとる、こっちも発射して、おそらく当たったんだろうというこの、後ろ向きにあれしてね。あの、まあ、魚雷を発射して、それでちょっと下を見ると、もう敵の船を、飛び越えてからいくわけです
からね。で、この、左に切ったり、右に切ったり、あのおっきなあれはできんもんだから、まあちょっとはそのカーブきったりするけれども。それで、まあ、あとからその、あれが、百式の、司令部偵察機というのがありましてね、我々の部隊のあれやないけど、それがその、そういうこの部隊があったわけですが、その司令部偵察機の、からのいろんな連絡で、敵艦のあれやらなんやらだいたい、情報が入って、それでその司令部偵察機の、あれでこの、七機行って、それでこの八艦やったってことでね、だったんで、その、攻撃隊、攻撃隊長機は、魚雷を発射したあとその、片発やられて、それで、別の船にこの、言うたらこの自爆して突っ込んで行った、だから、そのそれがこの、あれを積んでないからこの、
その船は火災を起こしても、沈むことはないですからね。結局ね、だから全部の魚雷が当たったというあれですけども、本当か嘘かそれはわからんです、こう近くで確認したんじゃないんだから。まあ、それで、あれ、二番機、いや二番機、三番機やったか、新富さんていう人が、機長をやって、これは私と同じ、鹿児島の人やったから、この人の飛行機は、弾が当たったり、右か左か、その、魚雷を落としてからですけどね、あの、とても、スラバヤまでは、帰りつかんちゅうことで、それで、前もって準備しておったのが、セレベス島って言ったかな、そこ、北、東側にあるんですけども、そこに、この、リンブンとかいうところに、飛行場を、仮の飛行場ですね、まああの、舗装も何もしてない、あの、準備し
ておって、そしてそこに、片発で着陸して、それで、乗っとった人は全部そこにいて、それですぐに、他の飛行機で迎えに行って、それでその乗組員だけ全部、乗せて、それで帰ってきたんです。だから乗組員は一応、新富さんという人はね、全員無事で、だいたい一機に、七人か八人乗っておった。

【※戦史叢書にこの時攻撃に行った七生神雷隊各機の搭乗員の名前が記されていますが、当初乗る予定ではなかったためか、堤さんの名前はありませんでした。】

○1945年(昭和20)7月、台湾へ向けて移動。

・まあ、それで、それから、シンガポールに戻って、七月の、七月の、先発隊は三日か四日ごろ、からまたこのすぐに、日本に帰れっていう、なにか、なんかの命令が下ったとか、なんか言うて、それで、そのまま、それも、二機か三機ずつですね、編隊を全部組みながら、わかれて、それで、台湾の嘉儀まで向かって。それで私なんかは、シンガポールに着いて、出たのが、七月の、これも、正確には覚えてないんですけどね、それであの、あの、カンボジアの、プノンペンのちょっと北の方に、そこに、そこまで飛んで、それでそこに一晩泊まって、それで、ねえ、あの、外国のあれやから、その、飛行機乗りの近くに、あの、パイナップルの、安いパイナップルが、いっぱい生えとるんです。それでその、この
、とっていきよるかっちゅう、その、安いからかまわんよっちゅう。そうしてちょっと、切って、食ったら、おいしいんでねえ。それから木にあの、マンゴーじゃなくてこの、なにかこの、あの、マンゴーか、枝もんやあれ、大きい木の、この、それを棒で叩いて落として、ちょっと食って、それで、泊まって、泊まるって、小屋や。それで、あくる朝、今は広州と言ってますけどね、昔は広東と言ってたんですね。あの、広東まで飛んで、それで、その時泊まったら暑くてねえ、部屋ん中で眠れんようなところで、それで、布団を持って屋上に上がって、屋上に、物干し竿を置いてそれに、蚊帳を、あれをひっかけて、それでそこで、何人かで、寝たのを覚えてます。
・広東でね、あくる日、日にちは正確に覚えてないですけど、広東を離陸して、30分ぐらいたったら、エンジンの片発が止まってしまって、それで、あの、持っとった、航空貨物とか、あんまり必要でないようなものを海に放ってしもうて、それで片発で、広東の、飛行場は“けんが“【※?】っていう飛行場でね、そこに、着陸して、そうしたら、あの、エンジンの、あの、星型、あの、この、飛竜というのに乗りまして、エンジンはあの、二千馬力のね、星型エンジンが、二基ついとるわけです。プロペラは四枚、ですけど。で、エンジンの最高回転数が、最高じゃないわ、だいたい普通の、まあ標準って言ったらいいんですかね、まあ割に経済的に飛ぶ、というのが、回転数が、エンジンが1800回転、そ
れに対してこの、プロペラを、減速するわけです。それで、言ったら、その時のこの、プロペラの回転数が、1000回転ちょっとですね。でそれで、減速比がだいたい0.55という、まあ、ちょっとこれも、たいした、正確じゃない。それで、その、減速比、それが、○○○○○○○○【※?】っていうてますけど、そういう恰好でプロペラを回すようになっとる、まあギアが欠けてしもうとるわけです。これをばらしたりして、まあもうどうにもならんちゅうわけで、それでその広東に、修理工場ってあったから、で、そこに入れて。普通だったら、あの、エンジンの新品が来とってそれであるんですけどね、新品がなかったわけです。それでその、前にも潰してあるっていうんですか、あの、使えんようにな
ったエンジンのその、ギアのところだけを、はずして、それで私なんかの飛行機に、ギアを取り換えてですね、それで、飛べるようにしろってことで、それからどこ行ったか、広東で、約、一ヶ月ぐらい遊んでたんです。なんとこの、広東で遊んでまわるとしたって、若いからあの時、22ですか、それで、いっぺん、転進の途中やから、給料なんか全然もろうてないし、私なんか全然金持ってないんです。それで、なあにも買うもの、ちょっと、飯でも食おうかって言ったって、金もないし、あれで。それで、一日、この、私と、島根県のなんとかいう、”おおしま”という、二人で、ぶらぶらしてそうやっていたら、むこうから憲兵の軍曹が来よるんです。敬礼を、して、それで、あの、実はお宅らのこのここに
ある、あの、実はこの、服が、頭の上はあの、帽子は普通の帽子ですね、そうしたら、服だって飛行服だから、飛行機乗りだとすぐわかりますけど、普通のあれとちょっと違うから。それで、転進途中やから、でその、「実はこのちょっと、あれで、所用があって、しばらく広東に、滞在しなきゃいかん。なんかこの、金をなんか、実はこの、転進途中にあるんで金なしで、金なしでこう、どこか食えるようなところないもんじゃろうか」って、そしたらその憲兵が、「はあそれはごくろうさんでございます。それでは明日どこにおられるか」という。飛行場にいると言うと、「では私が明日迎えにいきます」といって、それで、名前も、憲兵の名前も忘れてしもうたけれども、それで、あくる日に、そうしたらこの
、飛行機に全部で十二名、乗ってましたから、その中で、あの、たしかあれ、少年飛行兵みたいなのやらなんやら、全部で九人になったですかね、「私も連れて行ってほしいです」ってみんな言うとったのがね、二人で話をしたのに、そしたら憲兵に話したら「いやあどうぞどうぞ結構です」っていう。それでたしか、九人だったと思う。そうしてそれをしかもみんな、ヤンチョっていうてね、車輪が三つついた、それで後ろにこの、人を乗せるようになってこの、人力車をはひいてはしるけど、自転車で走るようなあれで、いうたら、タクシー代わりになったあれ、そんなに、一人乗せてくれても金かかるんやからねえ、それみんな乗せてもろうて、しかしこの憲兵って金持っとるんやなあと思ってねえ、そうした
ら連れて行ってくれたところが、台湾人が経営しとる、製糖会社に連れて、製糖会社っつったって、あの、サトウキビからあれするんじゃなくてなんか、砂糖の商売やっとるね、あの、会社で、砂糖会社ですね。それで、そこに行ったら、そこのおやじさんていうのが、
あの、あれはねえ、憲兵なども混ぜて十人ぐらい全部その、そのおやじさんがみんな金払っとる。「はあ、こうなっとるんやなあ」と思ってねえ、それでそこで、もうなにやらかんやら、腹いっぱい、いろいろごちそう食わしてもろうて、その時聞いたらその憲兵の男がまた鹿児島の男でねえ、聞いたら私の隣村の男。それでそれからあとは、もう、まあ私と、その“おおしま“君っていうのと二人、この、まあいうたら電話かかってきて、「どうぞ明日、いっぺんここへ来てくれ」って電話がかかってきて、まあ、あちこち連れて行ってくれて、それもあちこち知ったところがあって、自分で金払う、憲兵隊の中に、連れて行ってくれて、憲兵隊の中でごちそうになって、憲兵が、あれ、なんか、この、前で食いな
がらこの、踊り踊ったりね、なんか、その相当金払うあれやったけど、そういうようなこの、かわったところに連れこんでくれて、それでいろいろサービスしてくれてね、それで、あとでその、むこうは儲備券っていうて広東はね、我々が使うとったのは軍票やけど、軍票の18円が、儲備券の、100円だったんです。だから、ものがちょっと下で、もううどんみたいな、うどんでも食ったら、一杯がたしか二千円ぐらいしたという、だからあんな、軍票でちょっとぐらいこの、正直に給料をもらっとったってそんな、広東では全然こんなそんな、もう一回行って使うたら、もうおしまいちゅうぐらいのあれでねえ、物の高いところやったけどまあ、そんなんで、あの、それで、割に、楽しいあれはこの、させても
ろうて、それで、まあほんとやったらねえ、軍の、規律やなにやっていうあれなんやけど、そんな、要するにこの、何をする、関係するあれじゃないから、それもあんたその、いうたら一番そういう、軍紀を守らにゃいかん、憲兵が連れて行ってくれるんじゃから。

○1945年(昭和20)8月13日、台湾へ。

・それから八月の、十三日に台湾から連絡が来て、で、あの、私なんかの飛行機が、修繕が、修繕ができる間に、迎えに行くっちゅうわけですよ。それで、八月の十三日の夕方、台湾から迎えに来て、それで、迎えに来てくれた飛行機が、特攻機と言ってあの、その、特攻隊が、に使われる、まあいろんな、空気抵抗を少なくするために、機関砲なんかを捨てとる、そういうあれが、この、まあ異様な、あれが、砲なんかはできるだけこの、尾部はついとるけども、後上方と側方、その三つはのこの、砲のないようなね、あの、引き込んで、それだからスピードもでるわけです。その特攻機が迎えに来てくれて、それでその、飛行機に、たしか六人か残して、それで六人迎えに来た飛行機に乗って、六人、台湾に渡っ
て、それで、台湾に、あの、嘉儀の飛行場に着いた。着いて、八月の十四日ですね、八月の十四日の、十二時ちょっと前だったと思いますけどね、まあまたあの、それで着いたこの、迎えに来たのが「おーい!ご苦労さん」て言うてね、それで、知ったのが、この、何時でも出撃できるような状態で、「どうもお前、沖縄攻撃らしいぞ」、「沖縄に行ったらもう帰ってこれんぞ」って、いうことになって、「ああそうか」って。それで、おそらく、死にたくはないけどしかしその、あの時の人間の、気持ちというかねえ、別にこう恐いという、恐いという気持ちでもないんですよ。あれでねえ、まあ、今のあの、バリックパパンの攻撃のあれでも、ちょっとそういうあれがあったけれど、だから、生きて、一応兵舎に
戻って、で、この、あれしたのが、台湾の、この、嘉儀の、飛行場からちょっと奥に入ったところに、”なんせい“っていうところがあって、そこは日本の製糖会社が、製糖会社の、社宅がいっぱいあったわけです。それで、そこに小学校があって、それでその、小学校の、なんかちょっと講堂みたいなところがあって、そこに寝泊まりするようになってるから、そんな、大きな布団をかぶらにゃいかんちゅうあれじゃないですからね、それで、まあ行って、そこに泊まって、それで、明くる朝、この、朝じゃない昼、昼飯を食って、ちょっとしたらその、なんか聞こえてくる、雑音の入る、あの、ラジオでね、天皇陛下の放送があるっちゅうから、それでこの、終戦だっちゅうことで、それまでにまた、あの、あれ
も、今の広島とか長崎の、原子爆弾のそういうあれも、全然、なんの情報もはいらないこちらには。知らなかったですからね。
・それから、終戦ということになって、そのあくる日だったんですかねえ、少年飛行兵あがりの下士官、年はたしか、二十歳、私なんかよりちょっと年下の、だったと思うんですが、戦隊長というのは、堀川という人で、四国の、あの、高松の人やったですかね、あの、その人に、「戦隊長、終戦ってことは、これは負けたっていうことなんでしょう」と、「国が破れてこの、生きとって、何の生きがいがありますか。いつでも出撃できるようになっとるんじゃから、最後に沖縄に突っ込みましょう!」という。そんな者が二、三人いた。でも戦隊長殿は、「まあそんな、ちょっと待て」と「本部の方からなにか連絡があるはずやから」というて、で、まあ、日にちがたつにしたがってね、だんだんみんなおさまって
くるんですけど。そんなのとねえ、それから、これは私なんかのあれじゃないんですがねえ、中学校を合格した同じもので、中学校私より、三年上だったですかね、それであれ、なんとか、東京の、私立のなんとかという大学に行って、そっからまた学徒動員でいらしたんか、それでそれが海軍に入って、それで、終戦になってから、終戦になって、なんか、一日か二日、してからです、あの、特攻隊で突っ込むんです。それはね、家に帰ってからね、聞いたんですけどね、そんなのもおったんですよねえ。今でも顔からなにから覚えてますけどねえ。だから、いろいろありましたよ。
・だから、その、蔣介石のあれと、まあ、それでその、あの、電波兵器ですね、飛行機はなんだ、終戦になってから、ひと月、ぐらい、ちょっとしてからですがね、蔣介石の軍隊が上がって来たんです。それであれ、蔣介石の軍隊に飛行機を全部引き渡して、それでその時にこの、電波兵器は私が、責任者で、いろんな、説明書やら何やらそんなもん、読めないですからね、それで、私がこの、言葉は通じんしこんな、電波兵器のこといろいろ話し、説明したって、むこうもわかりゃせんですよね。それで一応この、ちゃんと書き出してくれってわけで、それで、一週間ぐらいかかったです。ちょっとこの、行動から、だいたい覚えてるあれで、それから取扱いやら、まあその性能やらね、いろんな書いて、それで、
それで、一応まあ、いろんな器材の引き渡しのあれをやってね。
・それでまあ、台湾で、その、約半年間いて、半年間、なんにもやることもないですから、それで、台湾の、製糖会社の、あの社宅に住んでる人なんかも、やっぱり終戦になったら、この、台湾人っていうのはわりに人が良くてねえ、日本人に対して友好的だったけど、中には盗人に入られたりなんかした、ところがあってねえ、そうしたらこの、我々みたいな、兵隊でも、用心棒、で、もう、何も持って帰れんのやから。それで、この、用心棒になるってわけでね、家へ来てずっと泊まっとったらええなんちゅうようなね。私もね、鹿児島の嘉義というところの人やったですけど、そこの家に、それこそこっち帰って来る、前まで、そこの家にずっと寝泊まりしてね、それで飯食わしてもろうて、まあ別に何の用事
もないですけどね。まあ、終戦後はだから、わりに、あの、田舎に、この、鹿児島に帰ってから苦労したけども、そんなこと全然、苦労も何もなかったです。それで、あれが、二月のはじめ、だったですかねえ、アメリカの、輸送船ですか、それの、今でも名前を「キングス・ブルーノワース」【※リバティ船?】っていう名前の、船だったですけどね。その船で、和歌山の田辺に上がったんです。

○1945年(昭和21)2月27日、和歌山県田辺へ上陸。

・それが、昭和、21年の、2月の、27日だったですかね。それでそこで、一晩泊まって、まあ、汚れとるから、それこそ汚い船で、船乗って、風呂で、汚れを落としてですね、それで、まあ、害虫やらなんやら、いろんなあれがあるから、まあ言うたらあの、白い、アメリカ軍が白い粉、DDT、それを、みんな、かけられてねえ、そうして、和歌山から、この、田辺から、なんとか大阪駅に着いて、大阪駅から夜行列車に乗って、それで、鹿児島の、その川内の、あれ、たしか、17時間ぐらいは徹夜でねえ、貨車へ、急行だったですけど、それで、いわゆる自分の田舎、駅から家まで、5キロぐらいありますかね、約5キロ、6キロぐらいあったかもしれない、それに、ドンゴロスの袋に、なんやらかんやら
、この、台湾やから、砂糖まで持ってねえ、そして、それをこの、自分で作った、この、それを背中に大きな毛布を担いで、それで、田舎に帰って。家に帰ったのは、夕方だったですけどねえ、それまでも、手紙を出して、一回か二回出したのが、シンガポールで、着くかわからんけど出して、出した手紙だけが一回だけついて、台湾の中のあれはみなぜんぜん、着いてなかった。


●最終階級:陸軍少尉
今年度の展示イベントは、2度の「百人展」で終わりです。というより、「百人展in大阪」を開催したのが想定外でした。
そして、その想定外はさらに想定外を呼び、関西でまたイベントを行う方向での話が少々浮上しています。「うちでやりませんか」というお誘いがあったのです。

実際に行えるとして来年度以降になるはずですが、近いうちにそのためのご挨拶回りのようなことをする見込みです。
これは、保存の会事務局長はじめ事務局の中心メンバーがメインです。キャラバンやイベント本番以外でのちょっとした旅になるようです。

実際に何かイベントを行うことになりそうかどうかは、行ってみてからということになりますが、また関西の方々に喜んでいただけるものができたらよいと思います。
1週間ほど前から、普段使用しているパソコンがどうやら本格的に壊れたらしく、立ち上がりません。
修理に出しても、データは消えることになりそうです。そうなると、値段しだいでは修理をあきらめるということもありえます。
とはいえ、WORD、EXCELが読めないと、本格的なキャラバンやイベントの日程表を送ってもらうのが難しく、自分の割り当ての証言概要を家で上げることもできないので、なんとかしなければならないのは間違いありません。

半年ほど前に一通りバックアップをとったように思うのですが、問題はメールです。POPメールでやり取りしているものについては、過去の参照ができないことになります。それがどの程度のものだったかも記憶にないのですが・・・
こちらのメールが消えると困るのは、ブログに掲載していない証言概要がどれなのか見分けがつかないということです。
以前書いたことがありますが、ブログに掲載していない証言概要のメールは未開封にして区別していました。メールそのものは別のところから拾えるものの、未掲載分を探すのがとても大変です。
ブログは個人運営ですから、その辺は自分でなんとかするしかないわけで。
この辺に関しては、これを機にやり方を変えねば、と思います。

いろいろと試練が降りかかりますが、毎日更新は維持したいと思います。