あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
昨年、「陸軍登戸研究所」についての講演会に行っていましたが、その主催団体からイベントのお知らせが届きました。
チラシより、内容をお知らせします。

学徒出陣70周年公演
この命果つるとも 平和を願って今を生きるあなたへ

上演予定
10月20日(日)江戸東京博物館
1回目 開演14:00
2回目 開演18:00
10月22日(火)武蔵野公会堂
3回目 開演13:00
毎回30分前開場

チケット:1500円

作品解説
「この命果つるとも」
作・演出 
鄭光誠(チョン・ガンソン)

過去の時代を語り継ぐ企画の一環として、気鋭の劇作家・演出家の(チョンガンソン)さんに「この命果つるとも」を書下ろしていただき上演します。
学業なかばにして戦地に赴かなければならなかった学生たちの苦悩の日々と青春の輝きをあますところなく描き出しています。
戦没学生の遺したかけがえのない記録「きけわだつみのこえ」から上原良司、林市蔵の手記をもとに構成・創作した作品です。

主催者
温個知新の会(若者から高齢者まで世代を超えた交流会)
老若さまざまな世代間の多彩な交流を通じて、過去の記憶や現在の知恵を語り継ぎ、明日を生きる希望と力となるような活動を企画・実戦してきました。昨夏は戦前の日本軍隊の暗部といわれた「陸軍登戸研究所」に関する講演会で「負の遺産」について学び合いました。今年は「この命果つるとも」上演を企画しました。


◎詳細とチケットの予約は以下のページからどうぞ◎
http://gakutoshutujin70.jimdo.com/
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ここでまた、過去のキャラバンの証言概要です。
今年の関西キャラバンを前に、2011年関西キャラバン第2弾、8月22日(月)に伺った証言の概要を掲載します。
「戦場体験史料館・電子版」ができたころからのこのメンバーの傾向ですが、証言概要というより、ほぼテープ起こしの状態になっているようです。

◆◆◆

◎福井佐兵衛(ふくい・さべえ)さん(89)
収録日:平成23年8月22日
所属:大竹海兵団~「鈴谷」~「瑞鶴」~「磯風」~高知海軍航空隊
戦地:マリアナ沖海戦~レイテ沖海戦~坊ノ岬沖海戦
――――――――――――

○1921年(大正10)11月16日、大阪府生まれ。

○1942年(昭和17)8月【※?】、海軍に徴兵。大竹海兵団に入団。

・海兵団卒業後、巡洋艦「鈴谷」乗艦。
・ちょうど船はね、ラバウルにおったんですわ。私がちょうど海兵団を卒業した時にも。それで、あの、ちょっと待っとったんです。正月ごろ。正月過ぎてもなかなかねえ、迎えに来えへんから、それで、あの時に、食糧艦のなんやったっけ、「間宮」、「間宮」に便乗してねえ、えーっと、他の便乗者もありましたけどね、それと一緒に、あの、トラック島まで行ったんです。そしてトラック島行って、で、トラック島でまだ来てへんから、あのその、「間宮」に一ヶ月また滞留して、あの、配給、物資をこう、まあ、分ける、それの手伝いとか、やって、それで、まあ、私そこに、ちょうど、もう知ってる人がおりましてね、で、まあ、なんかいろいろもらいました。まああのアイスクリームとかね、あの今でい
うあの、クリームかな。で、あの、あれは、まあ、言うたら偉い人ぐらい。そんなんもろうたりしまして、まだ来えへんから、今度は、あの、トラック島の、○○で、それで、あのー、そこの待合所みたいなところ、そんなとこで、ちょうど、一ヶ月ぐらいおったかなあ、一ヶ月、ぐらいおったかなあ。そうして、そこでまあ生活しとった。で、あそこはねえ、もういろいろ、いい南洋の体験しました。それでねえ、あの、あの、なんていうかなあ、便所はねえ、はじめ穴、はじめなにかなあ思って見に行ったら便所やねえ、あんなとこで便所したら、魚がいっぱい来おってねえ。まあいろいろあの、ちょうど、南洋の南十字星。空の星はきれい。もう満点。もう銀河まで。空が見えるぐらいよかった。
・鈴谷に乗って、私は大砲、大砲でも、あのなんでしょう、火薬。
・厳しい訓練でしてねえ、ほんとあそこで叩かれてねえ、どなったもんやからねえ、八方の船行ったら楽ですわあ。ほんま楽やったもん、びっくりしたあ。こんなもんかなあ思って。厳しいんやってとにかくその、なんていうか、厳しい船でね、とにかくもう、とにかく、だから私教育されて、あそこで叩かれたからちょうど、十日五日、わからんけど。それであの、ボートもやらされたしいろいろやらされましたけどね。とにかく厳しい船でしてね。

○1943年(昭和18)11月ごろ、呉へ帰る。

・瑞鶴に乗る
・25ミリの対空機関銃の射手になる。
・噴進砲って、瑞鶴も載っけてましたけどね、二十発、四発かなあ、あれ、出るやつ。穴が。穴集めてバーンて出るやつ。あれは、あれもちょっと勉強したんですけどね。その時に高松【?】のみなさんが、一緒やったかなあ。あの時に、ロケット砲を発射するのがある。
・艦長は貝塚武男大佐。
・日本の艦隊が70ぱいくらいあったかなあ。
・航空母艦は発着訓練をやらなきゃいけない。その当時は航空母艦に乗っている搭乗員がなくなってしまって、それで各基地から寄せ集めて、三百か四百くらい集めて、着艦できへんから、船で運んできて艦にあげた人もいる。ほんとに着艦訓練をやってない人もいた。
・日本からシンガポールへいって、シンガポール軍港から、昔イギリスの基地があったマラッカ海峡の、あれは、イギリスの大きい島、そこで、空母が全部寄って、そこへはじめて大鳳という新品の船がきて、基地の中で夜間訓練を一ヶ月やった。着艦訓練ということをね。
・それで、フィリピンまで行って、そこからサイパン島に攻撃にすると。ものすごい船があつまってきて、知らんうちにもういっぱいになっとった。海面が。大和とか武蔵とかでかい船が集まって来て、輪形陣を組みながらサイパンに行った。

○1944年(昭和19)6月20日、

・朝になって、早暁になって、攻撃をかけた。
・全部発進していく。三百から三百五十機くらい。
・戦闘機と、それから戦爆っちゅう戦闘爆撃機というの、同じゼロ戦でも爆弾積むと、それから艦爆と、それから飛行機から魚雷を発射する、そういうのがいた。
・それで、無線で入ってくる。
・それで、結局、あの、まあもちろん、まだ力が弱いっていうのか、全部叩かれてしまって、それでもう帰って来るのは、二、三機、たまに帰ってくる、それでまあそれをまたかわいそうにねえ、またガソリンいれて爆弾積んで飛ばすんですわ。途中でまたやられたり。
・それがすんだらこっちがやられた。それでまあ夜まで。
・結局帰って来たんですけど、何万人と死んだ。空母が八隻沈んだ。
・それからあの、まあ一回だけ、水葬をね、水葬はやったことはありますけどね、マリアナ開戦のあとで、何人か、あのー、内地まで持って帰られへんから、あのー、水葬。で、もう、ちょっと、あのー、弔砲鳴らしてね、弔砲撃って、そして、舷門で、あのー、舷門で、ずーっと兵隊が、みなずーっとそこに並ぶんやけど、それで敬礼してね、周りを真ん中をこうまわって、周りながら帰ってきて。そういうような水葬を一回ね。もう帰るまで、まあ、あの、腐ったりね、もたんようでしてね、あのー、死んだ人で。だからそんなねえ、もう私らでもねえ、こんなまた変な話やけどね、あの、なんか、戦闘、ばしゃーん言うて、後ろ見たらねえ、首があらへん。首が無くてもう脳みそがバーンと飛んどるし、こっち
はもう肉だらけで、肉で。そんなこともやっぱりねえ、ありました。あのー、そのねえ、初めてあの、脳みそっちゅういうのを見たんやけど、どうしようにもしゃあないしねえ、そんでそれねえ、えー、あれはー、信号科の人やったかなあ、信号科の、上等水兵かなあ、そのー、みな、戦闘中でしょうから、だから始末することがもう頭になかった。始末するっちゅうことが。だからもう上見たらしょうがないし、ダッダッダッダ。そうするとちょっと、ちょっとねえ、班長に浴びせられるんや【?】。私らだけで、もうしょうがいないわ。もうここにおったら邪魔なるし、もうそんなんどうにもならんしね。で、あんなとこや、もうわからへん。もう血だらけやしねえ、もうどうにもならん。それでもう全部、あの
時、みなとっときゃよかった。分隊長に怒られてねえ、「またとってくれ」なんて、とってくれいうたって、こっちも死ぬるような目におうてるんや、判断がつかんもう、ええか悪いとか、どうとるとか、自分がわからへんのやから。ねえ。その時にまあ今思うのは、今なんかでもとっときゃよかったって思うけどね。そんなねえ、自分のことがもうなんにもわからへんのに、人のこと考えられまへん。だから、邪魔になるような、同じ大人が寝とったら、もう動かれへんもん。だから横へ運ぶいうても運ぶとこあらへんしねえ。

○1944年(昭和19)10月、レイテ沖海戦。

・はじめから、それはもう、やっぱしちゃんと、どこ行くいうことちゃんとは言います。囮になる。あんまり成功せんほうがいいんですけどねほんとは。まあいうたら無駄な戦争ですわな、無駄な人を殺した。結局自分もみなやられちゃった。あれと大和ねえ、むちゃくちゃやねえ。もうわかっとんのやから、もうはじめから。それで何千も殺されてしまう。それでまあ結局、あれは無理に沈めたかどうか知らんけど、だけど、あれと、もう沈める、沈まるのは決まっとるんですわ。もう飛行機もなにもあらへんし、からっぽみたいなもんでいって、それでもう作戦がどんなもんかって考えたか知らんけどね、まあ人殺しですよなあんなもん。一種の。まあいわば。あんなん、無駄なことせんでもね、とてもあんなん
、質量、質量が違いますわなあ。もうとにかく。うん。とにかく、質量、量と質が違います。

・飛行機もなくて、からっぽ。ほとんど十機くらいおったか二十機くらいおったかわからんけれど、それが戦争が始まる前にパッとどっかへあがってしまった。
・敵のハルゼー艦隊を引き付ける。そしたら三百か二百機くらいが、朝八時頃からきた。
・瑞鶴は旗艦。
・私は後部で機銃をうつ。
・後ろをみたら、飛行機がずーっときて、ダダダダダーッときた。もう全部わかる。爆弾を落とす。なかなかあたらない。そんなところにくる。もう、そんで、とにかく撃つでしょ。飛行機が見えてくる。撃つ。とたんにぐわわわわーんと水かぶったってねえ、もうどおおおーんとねえ、大きな音とね、私らもう全部水かぶっちゃって、真っ暗な中に。もうあかん思っとったらね、そしたらね、明るくなる。そしたらね、真赤に沈んでる。そしたらもう、いろいろ、排水管ていうのがありましてね、そこに当たってね、ぶわーっとあがいとった。見えない。水の中で。
・それが一番最初に沈んだ時、爆弾だか魚雷が当たって。傾いてんのかわからん。自分のことはやってますから飛行機みたら撃たないかんもんで、わからん、自分だけしからわからん。他のことはわかりません。
・それで、射手と私、機長がおって、水が入っとって、恐いことはなんにもわからへん。自分で一生懸命。そしたらねえ、もう、自分が何をすればいいかわからんもんですね。こわいもんですねえ。それでまあ、一応、一つの、第一波が終わって、休みがあったんやけど、第二派と。
・するとまあ、皆もう、爆弾がねえ、当たったり、爆発がたくさん。下の二番砲塔なんか、ぶわーっときたと思ったら、私分からん、もうなくなった。そんなして皆死んでしまっとるんでしょうなあ、あそこらは。
・そんなことがあって、昼もなんにもわからん。他の戦闘員がありますねえ、ほうすいしょとか、整備員とか、そんな人が弾を運んでくれたりいろいろしてくれるわけ。
・機銃が焼けてしまうわけ。もうどうにもならん。水かけても動かん。油かけちゃってねえ、もうひいて、みんなにひっぱってもらってねえ、あの、ふだつけて、油かけて、後ろに、整備兵とかにひっぱってもらって、またあげて、弾をこめて。動かなくなってしまう。どうにもならん。だからもうそんな、訓練してても、そんなんない。
・だいぶたってから、班長が、班長てね、別におるんですよね、その射撃、指揮室かな。そこに入ってる。そこがだめになって、もうそこが動かなければ全部動かないから、だから出て来てね、また全部でこれから休憩しようか言うてね、その時だれもまだ怪我人もないにもなかった。それで、待機室にいろってことになりましてね、待機室っちゅうのは機銃の後ろにありましてね、そこにいって、そんで、缶詰とかいろいろあります。それをあけてね。赤飯があってうれしかったですね。それでいなりずしですか、あんな缶詰とか出て来てね。あの時ね、懐かしくてねえ、ほんとに。
・そんで全部で、いろいろ話しながらおったんですがね、そしたら隣の班長がね「もう降りなあ危ない」っていいよった。で、私もね、どうなっとるんかなあと思ってはじめて甲板へ上がった。そしたらねえ、甲板あがったらびっくりした。こんな傾いとる。私ら遅れて、でもう「はよう降りなあかん」て。
・退艦せよという号令があって、総員退去せよと、ね、艦長がね、号令するわけ。せやけど、なんにもわからへん。いうとったらしいけどね。それでまあ、退去してもええというので、その時、浮遊物もおとせていう号令もあるんですよね、それも聞いてなかったけど。そのだいぶ皆落とすんですよ。浮いてるものは。だけど残念ながらね、ボートはね、瑞鶴つうのはね、うしろに、ボートとがダビットとかいうのは全部積んでおるんでね。使ってしまっておる。だからもうしょうがないからね、みたらたくさん泳いどるしね。
・それであの、班長が、神棚がありますね、それを持って出ようと。僕もあの、これ、私のハンモックをもろうて、これもうあかんなあと思って、そうすっと僕らん中にね、水の入ったバケツが、樽があんね。一樽。あれを空けて。
・それで、おちついてるんですけどねえ、運用所の人が「一緒にいよう」っていっても、「いや私はこの船にはじめから乗ってる船やから、これと一緒に死ぬ」という。とめてもしょうがないし、こうなったら。飛行甲板の格納庫の中へはいっていく。しょうがないなあと思って、私も川崎いうのと二人でおったからね、そんで、ハンモックをはずすあれがもんへん。はさみがあったんですよ、それでほうりこんで、それで、二人くらいやったらいけるやろういうて、放り込んで下を見たら、赤い腹が見えたんですよ。「こらあかん、飛んだらあかん。あたってしまう。船腹や。こらあかん」。なんかつかまるもんがあらへん。ハンモックひっぱっり出して、そんでしばらくおって。
・それでまあ、海におりたら、ちょうどもう、煙突の上が降りるくらい傾いていた。ほしたらね、一等兵の子がね、「一緒に泳いでくれ」という。「なんだ。泳げ。泳がなあかん。持て」いうてね、ちょうどパタパタやるのをひっぱって、で、「早くせなあかんで。船が沈むと巻き込まれたらあかんから。三十メートル以上離れなきゃいかんでえ」いうてね、二人で一生懸命やったらねえ、ちょうど、その、五十メートルくらいはなれたかなあ。それでそん時、瑞鶴のねえ、横になっとったのが、縦になり始めて、甲板を縦になりかけて、がらがらっと水が流れてねえ、あの菊の紋がピカーッと光ってねえ、ずーんと沈んだのが今でも忘れられませんねえ。
・それで艦長は死んだいうとったんだけど、それからもうね、五分間くらいしたかなあ。そしたら艦長がね、あがってこられたの。その時は一緒に沈みはったんやけど、浮いてしまったんだと思う。ええ艦長でしたから、「おーい艦長ー!」「艦長ばんざーい」とみんなしていうとったんですけどね、大きな船だからねえ、みんな離れていくんですわ。
・ちょうどね、私もね、ハンモックちゅうてね、ちょっとばかしか膨らんどるんですねあれ。それで二人はじめおったんけど、一人つかまらせて。三時四時になるともうあかん。五時になると沈みかけた。で、もう私諦めた。「これもう離そう」ってね。で、はなした。そしてはなして、軍服も全部すてて。靴だけははいていな。靴も全部もう、全部もう捨てますね。なにも、海軍は救命胴衣あっても、つけません。あの、あらへん、あらへんと思います。あの、そんなもの見たことない。あの、防弾服はある。だけどね、防弾服なんかつけたらね、あれ、結びがとけない、あれ。上あがったとき。ねえ。だからもう防弾服はつけへん。
・だけどね、もう、機銃、25ミリ対空機銃四門、前はね、真鍮みたいな鉄板がね、こう、たてて。
・それで、あのー、私ちょうど腹巻きかなんかしとったかなあ、あそこでねえ。それをねえ、さしてねえ、最初はさらしもねえ、腹巻き巻いとった。そんなのさして、はいて、で小さいものもみんなもう巻いてた。巻いては起きて、巻きながら起きて、それでちょうど、これぐらいの高さになったのかなあ、高さもなんにもわからへんけど、まあ浮くようになったんです。一人は。なんとか。で、浮くようになったら、やれやれ思って、こう、波間にもう、みんな離れ離れ、どうしても。
・もう、その日は天気もよかったしねえ、船にまで、だけど、波が、で、助かったんです。だからね、もう、一人になって波の上を、その波が長いですからね、波長が。ちょうど山、丘へ上がっていくような感じで、上になったら下がよう見えるんですわ。むこうにもおる、こっちにもおるってわけで、波のうねりの上に、人が何人か上にならんで、下にもぐったり、おおきなうねりでね、ちょうどあの、船にのって、船に乗ってこう、どこか行くみたいにね。
・それでー、その、夕方にー、また、だからー、むこうのほうではねえ、私らそのー、全部、あの、まだ、護衛艦て、まあきてるわけ、それを、目指す、とかねえ。それでまあ、そんなんしてるうちに、わからんですその時間がねえ、もう何時間たったかそれもわからんですねえ、なにもわからへん。もう降りなあかん。こう、沈んでいく。
・で、ちょっとねえ、陽が暮れて来たな。西の方へ、沈んだか、どっち側か、わからんですわ。とにかく、とにかく、なんにんもないとこですからねえ、もう。そうなると人もおらんしね、もう浮いてる人もおらん、あんまり。あんまりね。
・ほれで、まあしょうがないなあ思ってねえ。もう陽が見えたらあかんなあ。自分の体もねえ、もう持たんしねえ、でねえ、もう陽が見えたら、これはもうわからんなあと思った。日が暮れる、ちょっと前、ちょうど薄暗く、ちょうどもうちょっと暗くなってきたころかなあ。それでちょうどね、私浮いてる前を大きな駆逐艦がきた。それで、このねえ、あの、綱をね、投げてくれよった。だから、捕まったら、離してしもうてねえ、そんで、浮きを、離してつかまったんですわ。だからねえ、それがまたね、すぐにね、綱を離してしもたわけ。離さなきゃいいところを。だからね、船が走っとる、あの、先頭の波。はじめに、はじまって、緩めてくれたんやけどね、それが、なんか、あの、都合でまた走りだしたの
。救助にきてくれたんだけど、もう救助はできなんど、あの、走り出したの。【※駆逐艦の秋月?】
・私もう、一生懸命、この、持っとるもん、こうパパパパっ、こんななってる。しまいに、あの、船べりで、船べりってあの、波受けてパパパパって、もうあと何にもない。もう出られませんがな。離したってもう、こんなんだから。あの、ちょうど、まあ、二十メーターくらいもう、後かな。誰かわからんけどね、この人が私の助けの親や。あの、チョークいうてね、わからんだろう、この、まあ、船やったら、まあ、車止め。車止めの大きいやつそれを持ってる。四十センチくらいあるかな、うん、これくらいの大きさの、たぶん。それがね、持って来たんだよ誰かが。「これ持てーっ!」ってねえ。で、ありゃ、もう離してしもうとるから、それで、それを持って、それでまあ、しばらく浮いとったんです。
・だからね、もう陽がくれる直前になってね、ちょうどね、あのー、二隻ね、長いやつ、あのー、こういうふうに。私に対して、あのー、平行にこう、止まってね、助けておるような感じやからね。で、私もね、どっち側いこうかなあと思ってたの。で、はじめ、あのー、日陰になったのが、ちょっと近いように思ったから、それで、暗いほうにね、あの、日陰のほうへ、あのー、行った【※?】。だけどね、なんか、止めた。なんかやめてしもうて、ちょっと嫌なって。で、ちょっと、三十メートル泳いだんやけどまた帰って、そいで、また違う、陽の出る、船に行ったんです。そしたらそこへ行ったら、あのー、んー、それで、投げてくれたんです。
・そしたらね、あのー、上へ上がったらね、やっぱり煙草やなあ。煙草吸いたいなあ言うて、煙草くれてね。だからもういっぱいですわ。もう、あの、うん、これは、若月ちゅうんですけどね、若月いう船やけど、この船にね、船があったんですわ。その船で、あの、ちょっと煙草吸うか吸うか、まだ、戦闘、「魚雷」とかいってねえ。あれなんか、“きしゅ”【※?】がおらんから、「誰かおらんかー!」いうてねえ、「二番目の“きしゅ“はおらんかー」っていったの。まあ戦争にならんだけどねえ。それでも撃たんで終わったんですけどねえ。それからまあ、こう、浮いてる人を、引きあげた【※?】。あの、こう、艦の人がね。あのー、ボート出したりねえ、それからいろいろこう、しまいには内火艇まで出
しよったんだけどね。そんでー、だいぶ助かることは助かったんやけどね。何をその、夜になってからね、戦闘、戦闘あの、「魚雷戦用意ー!」。はあもう、で、号令が、かかって来たからねえ、私ちょうど魚雷の上で寝とったんですわ、横になって。そんなんで魚雷が動きだしよったからびっくりして、飛んで起きてねえ、そんでまた、戦争に、なったんやけどねえ。何考えてるか知らんけどねえ、その時にねえ、あのー、走ったんですわ。もう内火艇もねえ、ボートも、ほっぽり出し。助けた人もほっぽり出し。もう逃げなしょうがないですわ。だからもう、私ちょうど、先に言うた、あのー、秋月いう船はね、その戦争しとったの。その船と。そのむこうの船は、大きな船でしてねえ、なかなかあの、まあ秋月
は沈みましたけどねえ。
・それでねえ、もう哀れですわ。もういっぱいおるんですわ。もう、ほんとあの、ばら撒いたくらいあのー、あのー、あの、まあ、浮いとるわけ。助けたいでもねえ、どうにもならんしねえ、もうこれがねえ、今でも思い出す。もうね、かわいそうでねえ、もうかわいそうというしか、助けたいけれどもどうにもならんですからねえ、もう戦争というのは。非情なもんです。だからその艦長たる者も、大変だと思うんです私はねえ。自分のとこの船までも置いていっとるんですからねえ、乗員まで。
・で、まあもうずーっともう逃げたんですよ。もうやっぱり、うーん、むこうから無線があったんかなあどうか知らんけど。で、もう、沖縄まで逃げたのかなあ。よくねえ。朝に朝頃、夕方だから、、、とにかくねえ、あの、見たらどっかなあわからんのよそれが。あのー、たぶん沖縄かどこかあのへん。それでー、夜、後部にね、伊勢がある。伊勢っても、さきに船がきとったんですよ。私ら助けにばっかりいっとったからね、その時間帯は。むこうは先についておったもんでねえ。で、朝になって、もう、あのー、まあ、大きな船に、あれは戦艦ですからね、まあ、そんでも、そこへまわって、で、いろいろご飯食べさせてもらったり、やりまして、で、内地帰ってきた。
・で、内地帰ってきて、それから、あのー、内地帰ってねえ、えーっと、呉で、二ヶ月くらいしてからかなあ、あの、磯風って、あの、駆逐艦がある。その船にね、あのー、呉から乗艦しまして、それで行ったらね、このー、船が、磯風いう駆逐艦ですよね、えー、この船は、あの、戦歴が古い船でね、もう、まあ、二千トン、足らずの船やけどね、あの、なんというか、機銃をね、単装機銃いうてね、あの、一人の、二十五ミリ機銃があるんですよ。単装機銃を後甲板とか、それで、いろいろ増やすために、あの、まあ、兵隊が、私が行ったわけですけど。それでまあ付けて、それでその係になってね、それでまあ、あれまあ、それがあっちのフィリピンのほうへ、フィリピンじゃないやあのー、あー、台湾の、え
ー、台湾やったかなんかわからんけど、あっちのほうにあの、輸送船がね、輸送してね、あのー、たった二杯、二、三杯で行くんですわ、十隻ぐらい守って。だからね、魚雷がくるやらなにくるかわからん、遅い船やしね。それでそれがもう機銃、その途中で、まあ、一隻沈められたんです。で、それを、沈められたのを、やられてねえ、で、それを、送って、あの、だいぶ、あのあと台北ですわ。あそこへ行って、それであくる日、着くなり、あのー、次にもう、基隆までまた帰って行った。で、帰って行ったらね、あのー、ちょうど基隆の手前で夕方になったんです。そしたらね、もう待っとるんですよむこうは、獲物を。うちのー、まあ艦船をね。もうあっちへ来て、もうねえ、そらもう、哀れです。もうみん
なやられちゃう、そこで。そんで、もう助けるいうたってこっちはあんまりもう逃げなしょうがないですこれもねえ。それで、もう夜にまぎれて、基隆のあれも降りたけどねえ、もう朝、夜が明けんうちにもう、出港です。もう油だけ積んでね。そして、台湾の、あのへん出て、えー、一月ごろだったかなあ、むこう帰るんですけどね。行きはねえ、台湾海峡、台湾のとこ通れんのですわ。あのー、仁川、今の朝鮮の、あのへんまで行って、それから上海のほうへ渡って、でもう、南下して、それでー、台湾のほうへ。あのー通られへんのです、あの、まっすぐに。でー、その道をこう、まあ帰るんですけどねえ、雪になってねえ、で、しまいに、あの、冬になって、それで、まあ、あの、雪が降ってきましてね。そ
れで、あのー、帰ってきたんやけどね。したらね、雪も降るしね、もう、何もあらへんしね。それでまあ、今度はね、飛行機がね、きよった。後ろから後ろから。そしたらまああのね、へんなこと言うけどね、あの、家内持ってる人はね、私らはまあ、徴兵でまあ若かったし、家内持ってる人もおりますがねえ、えらいとこに。やっぱりおかあちゃん助けて、やっとくよという。もう飛行機なんかあると思わなかったから、日本には。ねえ。だからもうきよったらもう、「あかん、これあかん」いうて。もうこの、やられる。だから、「お母さん、お母さん、助けてやっとくれよ」っていうとる人もおる。そんなことやっぱいいません。でねえ、あの、あそこがねえ、それがねえ、味方、日本の、あの、飛行機がいる
と。もう、“とばた“【※?】振ってね、みんなね喜んで、もう命がもう救われた。あれ敵やったらもう。だけど、味方の飛行機がねえ、五機もね、飛んでくるとは知らんだから。それで、ほんまにあのね、嬉しかったですね。【※1944年12月~45年2月ごろの船団護衛時の話?】
・それからまあ、帰って、今度は、また今度、あのー太平洋の方に。四国とか、このへんを警戒せなあかんからね。もうどこに行っても、たいへんです。それを警戒して、まあ、まあ、今いう、四国を、太平洋のほうに、警備するわけです。で、帰ってきて、あのー、私達その時から、そんなことやったり、あのね、いろいろ、待ってましたけどね、それから、ちょうど、えー、間違ったかなあ、大和が五月だか、あ、四月。

○1945年(昭和20)4月、坊ノ岬沖海戦。

・あの時ね、ちょうど、大和、ちょうど呉におったんですわ。で、あのー、今度は特攻隊。で、私ちょうどあの時降りるはずやったんですわ。で、ウチのね、艦長もね、少佐だっとったと思う。少佐だったらあのー、もう降りるわけやったと思うんですわ。ところがね、やっぱりもう、帰られませんのでね、少佐のままで、艦長やってたの。それで、あの、まあ、あの、菊水特攻隊っちゅうのかな、あのー、あれを、そういうなね、名前つけてんのかな。あの、これね、煙突にね、菊水のマークをつけてね、こう、菊水あるでしょ、あれをつけてね、あの、旗も、あのー、幟もね、ちょうど源平合戦みたい。それがね、あのー、全部で、まあ、駆逐艦ばっかり、矢矧が、これ船団司令【?】いってね、これ旗艦の、ま
あ、船団を監視するんやけど、これが矢矧いった。矢矧が、まあ、巡洋艦で、他は駆逐艦。それ、十隻余りでね、こんどはあの、沖縄を砲撃するわけ。ということで、結局座礁して砲台がわりになって。あんな無駄なことねえ、まあ、やりおったもんですねえ。それで、まあ、これも、命令となればねえ、しかたないしねえ、で、あれ、この、宇品の海やったかなあ、あたりに集まって、前の、四月の六日かなあ、五日ごろねえ、もっとあの、通れませんのや、あの、瀬戸内海が。もうあの、潜水艦がいっぱいで。もうとおられへんもう。あのー、むこう、むこうへ帰られへんわけ。でもう、徳山でね、あのー、油を、もらうために、徳山行ったんです。徳山。そこもタンクがもうあらへんなってまうし、そんだから
小さな船やらもうなんやら、わからんやら、ゴチャゴチャ船をよせてねえ、みんな油抜いてしもうて。それでー、まあ、その、半分ぐらいいうとる、半分しかもろうてないという、私はわからんやけどねえ、あのー、夜通しやってて。あのー、移る。小さな船から大きな船へ。それで、朝出港して、それで、あのー、桜咲いてましたんで、あの、豊後水道かねえ、あれ、あのー、通って、まだ、陸の小学校の子供がね、あのー、どこの島かわからないけどねえ、あのへんの島の子供がね、手を振ってくれてねえ、で、それがまあ見納めかなあ思ったんですわ。ほんで、夜、豊後水道を、ちょうどいいねえ、ちょうどもう“しゅうれい”【?】出ててねえ、暗うなってきたし、それですぐにもう海岸寄りにもう、ピタッ
とくっついて、魚雷よけるために。それでずーっと南下して、そんで、あのー、んー、鹿児島まで行って。それから行ったらあそこでやられて、鹿児島でね。やられたんですよね。

・もう行くのは死ぬようなもんやからね、それで、あのー、まあまあ、しょうがないなとねえ、おもっとったんです。そして、そしてね、まあ、大和が、あの、ね、やられるときは、ちょうど横におったんです。それは始終見てますしね、これはもう、ほんと、あのー、まあ、勇壮に戦うた船だと思いますけどねえ。その、私達、千メートル前におったんですけどねえ。そりゃもう、たいへんなことでしたわ。大和がねえ、沈む時はもう、バーッとこう、ちょうど雷さんの雲みたいなのが、出てねえ。それで、あのー、えー、これが、バーッと出たらもうこんなんなった。それくらい。で、大和は三回ほど【?】やられてますからねえ。それで、まあ、なんですか、あの、大和も沈んで、こんどはまあぼちぼちねえ、
あの、この、まあ護衛艦、今度は、二杯きとるわけです。二十二、三で若いですからねえ、もう、まあ、もうすぐ、もうバーンと上げてしもうて、あんなにやったらねえ、もうくの字にまがって、死んでまうからねえ、もう、なんか、もういろいろな死に方【?】してねえ、あちこち見てねえ、私は、自分が、あのー、なんも、なんもわからんやなっちゃうね、あんなになってくると。うん。恐いことないねんけどね。なんかー、自分のことがわからんようになって、自分がそこにおるっちゅうことがね。何か知らんけど、なんかー、あのー、よそ事みたい。うん。まあ、命のことはもう考えない。でまあねえ、あのー、そうやって沈んでいくしねえ、で、不思議に私のところは、一つも、こやせんのですわ。そんで
、夕暮れになってね、それで、あの、ちょうどまたもう、司令が、司令官がおらへんの。ねえ。あの、そこの大和が沈んで全部、それで矢矧っちゅうのはね、これもう、あっ、矢矧はねえ、大きな怪我してねえ、上甲板に、木の半分が出てねえ、ちょうど、腹が出て、それを助けに行ったんです、私らは。助けに行って、そうして、助けよう思って、行って、ちょうどロープとって、それでちょうど、まともに来るかそれもわからんですねえ、まあ反対側の、私のちょうど反対側のほうへ、落ちたんです。爆弾が。そこの人もう一発で亡くなったと思います。そんでもう、そのへんは、もうその時は何人かもう死んどったらしいけどねえ、機関室とかいろいろありますからねえ。そしたらもう、バーンとかぶって、そ
れでまた、行ったら、足元がねえ、あの、もうかかとまで沈んでます。甲板が。後甲板が。後ろにおります後甲板。そうしたら、もうこんどは排水ですね、排水にこんどは関わらないかん。私のとこも、持って来て、それで、そのね、マラソン、わからんけど大きなね、マットみたいなのあります。大きな、甲板にちょうど包帯するようなもんが。それをもってね、その、また、とりあえず排水するようにも、ポンプはない、それで、あのー、もう、あかん、もうエンジンが停止してしまいましたんでね、そうで、もう諦めて、しょうがないと言うので、で、もう、夜になっとったですねえ、で、懐中電灯もなにも灯されんしねえ、危ないから。そうして、なんとか、かんとかねえ、まあ、船首のほうへ、行ったらね
、誰かな、私ね、あんまりよう知らんねけど、私のこと、名前をよう知っとるから、運用科の一等兵やったと思うんやけどねえ、名前忘れちゃったなあの人。その人がね、「水くれ」って。それで僕はあの、炊事場行って、水はあらへん。水はありませんもう炊事場は全部。それで、こんどはあのー、なんていうかな、酒保へ行ってね、酒保というのは、そこでまあ、あの物を買ったりするとこですわ。そこへ、あのー、サイダー、サイダーをね、持って、詰め抜いて、それで持って来たんですよ。したらね、「いらん」っちゅう。「サイダーはいらんけど水くれ」っちゅう。無理いうたって水あらへん。もうしょうがない、もう私も喉乾いてるしねえ、もうしょうがない思ったんやけどねえ、もうそんなの言うてる
暇ないしねえ。それで、上行ったらね、もうみな上のほうのったんですけどね。で、そのうちこの、そないなったら、もう誰も波が、波がほんと静かでよかった。波がね。あれ波あったらもうあきませんわ。波がうーんと静かで。その時も波なかったんですわ。それで、まあ浮いとるうちに、「もうあかんなあ」いうとったんやけど、もうそのへんわいわいわいわい言うてねえ、もう若い、もうしょうがないと、死ぬのなんちゅいうて忘れとるぐらい、ほんと、もう私らも忘れてたかわからん。それでわいわいいうてしゃべったりアホなこと言うたりねえ、歌歌ったりねえ、まあ酒飲んだっつって。ほんだらねえ、あの、雪風っちゅうのがね、助けに来てくれて、あのー、夜、何時やそれもわからん。もうなんにも分
からへんですからその時間ていうのが。そして、あのー、もう、ちょうど、横付け【?】、横付け作業やったんです。それがね、いろんな勘違いなしに、こんどは後ろに行って、防舷棒【?】というのがありますわ、あれをやっぱりいれなあかん。危ないからねえ。それやって、綱をひっぱりあげるんですよね。それをもう真っ暗だしねえ、まあやって、ほんであっちに乗り移った。あの、雪風に。それで、まあそこで、なんかメシもろたかあ、なんかくれたか、忘れちゃったけど、それでもう、とにかく寝るとこがあらへんし、もうそこで寝るのがもういっぱいで。もうあれ助けにまわっとるから。それでもう、どっかで、寝んと、まあしょうがないから、上へ行ったんかなあ、上で寝とったんかなあどうか忘れた
けどねえ、とにかく、寝るとこもなくなっとる。中は。それで、あの、まあ、内地帰って来たんですけどね。ちょうど、横須賀【※佐世保?】へ帰って来たのが、まあ明け方ですねえ、ええ。それであの時は、四隻、四隻かなあ、それで、まあ、あの、横須賀へ着いて、その途中で一隻だか、それで助けられて、あのー、なに、海兵団の方に行って、で、みな、上陸してそれで島流し。一ヶ月島流し。あのー大和が、沈められてしもうとね、もう、やっぱり、緘口令みたいなもんかなあ、で、まあ、一ヶ月いうと長いですわ。それで、ちょっとねえ、あの、なんかやったりして、いろいろやって、まあ十分、食糧はね、十分ありましたし、まあまあ退屈はしなんだけど、それでもねえ、それから、まあ一ヶ月いてから
呉へ帰って。

・で、呉へ帰って、あのー、そこのね、あのー、高知の航空隊、高知海軍航空隊って、航空隊っちゅうのは名前だけでね、その時、あの、高知駅を降りて、で、あの時分は今みたいに湾、湾はなかったのは。湾はあったけどね、船戸湾ってねえ、その時に、あの、機銃掃射をくらいましてねえ、あの、港で。高知港で。ほんだら私飛び降りて、女の子の頭が多くてねえ、女学生の子が。そしてねえ、私らあの、なんです、あの、誰かね、抱えてね、なんかわからん、陰へバーッと飛び込んだ。女の子を抱えて。あれは、とっさに飛び込んだんですわ。見たらね、もう、はずかしいとかそんなん言うてるヒマも、私もわからへんなんだからね、そんな、もう、ちょうど女の子が、あの、高校生がおったんですわ、今でい
う。今でいう中学生ですね。あれがあんなとこがおったから、もうバーッと抱えてねえ、なんか土嚢の間【?】へ入ったの。それで、もう、助かって、それで、まあまあ、あの、船も、動かしてきてくれて、そうして、航空隊へ着いたんですけど、航空隊いうても何にもあらへん。飛行機があらへん。それでまあ言うたら、まあ、兵隊言うたって、まあ、将校は退役みたいな、古い人ばっかしでねえ。んで、まあみんな穴ほっとったのかなあ、と思うんですけどねえ。私もそれで、あの、まあ、砲台を、作るっていったんやけど、そん時ねえ、明治時代の砲台ていう大砲でねえ、弾十発しかはいらん。そんなことやっとったんです。そして、あのー、まあそんなことやったり、そしたらちょうど六月かなあ、七月ごろ
、六月に動いたか。で七月ごろになってねえ、あのー、ハガキ【?】、ハガキをね、あの、各部落にね、渡したんですよ【?】。それをね、かごに入れて、かいてこいいう。そんで見たらね、ちゃんと○○ある、ハガキもあって、で、それをどないする言うたらね、始めしらなんだ。そしたらね、あの、これで手榴弾を作るんやと。手榴弾。それだからね、こんなん、こんどは私はね、手榴弾作る方に、まわされてね、それで、はじめてやね、あの、パイプ、こう切るようになってる、パイプをね。で、パイプを、ちょうど、こんなパイプ。で、切ってきて、そこがあの、忘れたけど、そこに、今言うてる、紙の、ハガキの丸めたやつを入れて、そんで、火薬がね、いろいろあるんですよ、火薬調節がその、長さです
けどね、そんなんを、入れて、それで導火線を、五秒間、切って、ほんで雷管をつけて、で、あのー、なんであれつけたわからへん。もう忘れた。そうして、あのー、そんで発火に何使うかいうたら、マッチですわ。マッチの、あの、スッとするのがあるでしょ、赤いのと、茶色いの。ほんで、赤いのを、あの、まあいう、手榴弾の先にこう。そうすると落とすわけ、あれ、燐かな。それを落として、固めて。それで固まるとマッチの、する、○○あるでしょ、あんなした、あんなんあるんですよ。それですったら、まあ、五秒たったらもう、投げたらバーンと、爆発はするんです。で、もう、そのね、こんどはね、それをね、あの、隊内にはじめ壕をこさえて、あのー、あんまり、約3人か5人ずつぐらいわけてね
、あのー、壕をこさえて、やっとったんですけどね、飛行機がもう危ないんですわ。それでもう分かれて、それで船戸湾のあれなんて言ったっけねえ、船戸のあの、お寺、有名なとこ、えーとあの、坂本竜馬の、あの、資料館があるとこ、そこへ行ったんや。五台山【?】、五台山のとこで、家を二軒買ってね、宿舎を二軒買って、で、一軒は、もう、あの、○○用。で、手榴弾の次は迫撃砲こさえろいうて。迫撃砲。私はね、なんにもしらん。でもう兵隊も知らん、誰も知らん。迫撃砲こさえろちゅう。あのー、ねえ、中に火薬が入って、筒の中にこんな、こんなのあって、筒の中に火薬をいれて、それで火つけて、ボーンととばした。このようなもんこさえよる。それでもうしょうがない、こさえた。その試験が
恐いんですわ。

○1945年(昭和20)8月15日、終戦。

・終戦の時ね、それは私、ラジオなんて聞こえんでわからんかった。それで近所の人に聞いたら、「もう戦争は終わった」。で、まあ、もうねえ、やっぱり、これは変な話やけどね、厭戦ていうのがありますねえ。やっぱりあのねえ、もう、二、三年前からねえ、そういうような船へ乗ってもねえ、厭戦ちゅうのがありますね。「もうはよ帰りたいなあとか」ね。だからね、まあ「やれやれ」みたいなもんですわ。終わったら。で、まあその日は何もしらんし帰るに帰られんでしょう、むこうへ帰られへんしねえ。それでまあ夜になったら、もう、村の人がね、山へ登ってく。むこうが上陸してくるいうてねえ、あのー、山に集まった。そして私らもねえ、もうこんななって、手榴弾しかあらへんし、鉄砲も何もあら
へんわ。手榴弾でもう、やらなしょうがないなあと思っててねえ、そこにおった。それが、明くる日になって、山を下りて、やっとねえ、山から下りて、戦争終わる、だからここへ上陸しないんだ、いうことで、あの、まあ、あの、帰ってきたんですけどね。そうしたらね、あの、それで、それから、上陸しないもんだから、しょうがないからもうねえ、荷物、荷物まとめてね、そんで、リヤカーに積んで、そんでまあリヤカー行くんですけど、なんにもありませんよ。むこうで帰って、そしたらもうなかなか帰れられませんけどね、でまあぼつぼつとまあ汽車乗って帰るのが出て来て、で、私も一ヶ月か二ヶ月くらいかなあ、残務整理またやってましてね、それで鉄砲の倉庫やとか、あの、トンネル、穴掘ったんで
す。鉄砲があるんですよ、拳銃とかねえ。それで火薬倉庫とか、あんなんいつごろ掘りよったんかなあ思うてねえ、あっちは今度お菓子の倉庫、お菓子のこうやって食べもんの倉庫とかねえ、そんなん整理してたら、見たらそれでねえ、あの、近所の人にもだいぶあげたら、トラック持ってて、みなほらやるわけもう、持って帰ってもしょうがないし。それでもう、みなねえ、もらいに来はって喜んではったけど、あの終戦時やから。だからもう、そんなもんあの、だいぶあげました。それでまあ、そうして、大阪へ帰ったんですけどね。
・大阪へ帰り道全部焼けてるしね。全然通信がないんですもん。大阪は焼けてる。大阪が焼けたのか、どないなっとるのかかんやら、そういうような情報が全然来ませんからねえ。あんなとこ。だからもう家が焼けとるかなにもわからへん。
・まあ、で、その、やっぱりいろいろと、やっぱり、あの、生きてるって原因は、まだ、わかりませんな。運命っちゅうんかなあ。

●最終階級:水兵長
10月に関西キャラバンを行う方向で動き始めました。
今のところの予定は以下のとおりです。

第1弾
10月12日(土)~14日(月・祝)

第2弾
10月17日(木)~20日(日)

「百人展in大阪」に来てくださった体験者の方々に、早速お話を伺いに行くキャラバンです。
日程調整は現在進行中です。一応第2弾までありますが、体験者の方のご都合次第ですので、詳細はこれからです。

「百人展in大阪」参加者以外の体験者の方も、ご連絡いただければ回れるかもしれません。

今年度ももうすぐ折り返し。これから、保存の会の活動はまた聞き取りメインになります。

「百人展」、昨日のマネキン以外の軍装モデルです。こちらはマネキンではなく、骨組みだけですが、一式そろえて展示するのに貢献してくれました。
支柱には、ちょっと意外なものが使われていますが、そこは種明かしはせずにおきます。

もう1体、トルソーのような形でシベリア帰りのコートを展示したものもあります。
大阪では、壁には軍服を掛けなかったのですが、これらのおかげで、だいぶ「戦争展」らしい雰囲気になったと思います。
マネキンよりはコンパクトですが、やはり北海道・沖縄まで送れるかは少々疑問です。ところによっては、現地調達になるのかもしれません。(という言葉が、違ったふうに聞こえるのが、戦争について知る過程ならではです・・・。蛇足ですが。)


2度の「百人展」は、体験者の方の多大なご協力によって成功したのだと思います。
「百人展PART2」では、お久しぶりの若手メンバーにも助けられました。

そんなたくさんの方々に支えられた「百人展」の会場に、ひっそりと、しかし存在感を持って座っていた、もう一人のスタッフ?を紹介しておきます。
航空兵コーナーのマネキンです。
この日のために、とあるメンバーのところからやってきて、そのまま保存の会の養子になってしまいました。「百人展」をこれからも行うという表明にもなっているような…

北海道や沖縄まで連れて行けるのかは疑問ですが、だいたいはどこへでも黙ってきてくれるはず。きっとまたどこかで。

ということで、あまりにも長い証言掲載が続いたので、チラリといってみました。
証言をじっくり読んでいただきたいけれど、時折こういう要素が必要なのは、展示もブログも共通ですね。