あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
ほぼ福岡キャラバン3日目、4月30日(火)の日程です。

午前
訪問地:福岡市城南区
体験者の方
◎野砲兵第56連隊、ビルマ北部

午後
訪問地:福岡市中央区
体験者の方
◎九大生体解剖事件目撃者(当時解剖学教室にいた医学部生)

1日に2名の聞き取りということで、今回のキャラバンで一番密度の高い日です。
よろしくお願いいたします。
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ほぼ福岡キャラバン2日目、4月29日(月・祝)の様子と証言概要です。
レポートが上がったばかりのメーリングリストより転載します。

◆◆◆

今日は福岡市西区、地元の公民館で収録。
公民館の書類の手続きなども未だだったのでお約束の50分ぐらい前に着いたのですが、事務室にはすでに満州の写真を開いた先客が館長さんらしき方と話しこんでいました。

そんなわけで公民館の方には聞き取りの間に何度もお茶を出して頂いたり、コーヒーまで入れて頂いて恐縮することしきり。

葛根廟事件を最初に聞いたのは、1日違いでその場所を通ったという、普段お世話になっている加藤正寿さん達の部隊の方たちからだったと思います。
普段の戦場の話以上に今日はジェノサイドの話なので少し重い気持ちで向かったのですが、それを経験して仕舞ったがために、経験したから分かる訳でもない事件の全貌を明らかにするために人生の多くの時間を費やされた大櫛さんのお話は却って独特の価値観があり印象深いものでした。

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大櫛戊辰(おおくしつちや)さん

生年月日 1928(昭和3)年3月15日

1942(昭和17)年春 17歳で満州電信電話株式会社に就職して渡満
〇母が幼い時に亡くなり生育が悪かった。
 軍国少年で航空兵に憧れ、貧弱な身体で家にいるのが嫌だった。
〇満州電電の仕事は職安で紹介された。
 満州に行くことは当時そんなに大それた事ではなく家族は特に反対しなかった。
〇興安(こうあん、=大爺廟(おおやびょう))で通信士として働く。
 職場は泥屋根で民家を改造した簡易なもの。
 通信の内容は半分以上は軍・官庁関係のやりとりで、部隊同士の連絡は軍の通信兵がやっているが、武器や軍の移動など広範囲の連絡は満州電電でやっていた。
 乱数字があり内容自体は分からなかった。
〇給与は国境近くの街であるため危険手当などがついて結構良かった。
 天草などから渡満した人が同僚で日本へ送金していた。
 満州の人も主に配達夫などで雇われ、通信士も2名いたが、給料は日本人とかなり格差があった。

1945(昭和20)年
〇春ごろまでは王道楽土、食べ物も不自由はしなかった。
〇7月根こそぎ動員があり、興安街にいた約4000人の日本人のうち約1000人の男性が召集された。
〇興安は西は興蒙工作用の興安総省が置かれその官庁街になっていた。
 一方東は土地で暮らしてきた商売人たちが中心の街で東西の気風がまるで違っていた。

〇部署柄、興安の参事官はソ連の動きをキャッチしているようで情報を新京に提供していたが、新京は国境とは意識が違って反応は鈍いようだった。
 戦況が悪くなるにしたがって内容は分からなかったが送信電報はどんどん多くなり、反対に受信電報は少なくなっていった。

同年8月9日 ソ連参戦
〇夜中の3時ごろ宿直をしていると国境のハロンアルシャンの支局からソ連参戦を伝える緊急電話があり、どうなるか分からないと言ったまま切れた。
 朝6時に今度は新京から全国的な広報の形でソ連参戦が告げられた。
〇いよいよ来るものが来たかと戦意が高揚した、怖いとかそういう気持ちはなかった。

同年8月10、11日 興安の爆撃
〇職場は焼失、街は殆ど燃えてしまった。
〇参戦前はソ連が参戦した場合は北東100キロのジャライトに行く計画が立てられていたが、その最終打ち合わせのため興安総省の参事官達中心メンバーが興安を離れている時に開戦して仕舞った。
 この計画は軍と一体に動くことを前提としていたが、車も馬車もなく、家族連れの多い東側の人間は徒歩でジャライトまで歩くことは無理だった。
 そのため東側は浅野参事官ら県の役員が引率して、危険は大きくても葛根廟を通り、白子城から列車で南下する計画が立てられた。

同年11日 1キロ東の寒村・ウランハタに集結。
〇街中はもう原住民の動きが危ないと言う事でウラハタに集結しそこから出発となっていた。
〇しかしウラハタも東京開拓団のために土地を追われた人たちが移住させられた土地で、決して対日感情は良くなかった。
〇情報が全然入らないまま13日まで漫然とここに留まって仕舞った。

同年13日夜 避難開始
〇土砂降りで馬車は泥にはまり捨てなければならなく小さな子供も歩かせた。
〇この時すでにソ連軍は興安に入っていた事は知らなかった。

同年13日深夜 30キロほど南のバインテブスクへ
〇この村は親日派で馬車や食料の補給をしようと思っていた。
 顔見知りもいたが行くと様子が一変していた。
 家々は門を開けてくれず土塀にもたれて泥まみれで路上で寝た。
〇状況が変わったからかぐらいに思って深く考える余裕も無かったが、戦後知ったのは、先発隊の5~6名が村民を殺害していた事だった。
 満軍が解散して帰ってきた男性が拳銃を持って歩いていたのを日本兵を殺して奪ったのだろうと嫌疑をかけ、川沿いまで連れて行って村民の見ている前で日本刀で切り殺していた。
 (殺された村民の甥が日本への留学経験もあり詳細を手紙に書いて大櫛さんに送ってくれた)
 浅野参事が深謝し、女性子供がいたので関係者を引き渡さず村を出ることを許してくれたらしい。

同年14日11時半 ソ連軍戦車による攻撃
〇その前にソ連軍の偵察機が頭上をゆっくり飛び回っていた。
〇バインテブスクでそんな事があったので報復を恐れたのとソ連軍に追いつかれる事を恐れたのだろう。
 隊列は7中隊に分かれていたが、最後尾に小銃を持った男性たちと県職員が集められていた。
 一方大櫛さんたち電電職員数名の男性は、一番先頭を歩いていた。
〇11時半、ソ連軍の戦車部隊が隊列の後ろから襲いかかり、一番後ろのグループは一瞬にして殲滅された。
 全滅してしまったので何かきっかけがあったのかは分からない。
 一人だけ生存者がいるが彼は決して話をしようとはしなかった。
〇前を歩いていた者は後ろが騒がしいので振り返ったら、戦車が撃ちながら迫ってきていた。
〇そのあとの事はなぜ自分が生き残ったか分からない。
 とにかく本能的に動くだけ、走り回った事と恐怖だけを覚えている。
 戦車は山の上から一定間隔で並んで追いかけてきて戦車砲、機銃を撃ちまくった。
〇伏せていて泥水をかぶったと思って横を見たら母親と子供が戦車に轢き殺されていた。
 瞬間身体を反転して遠ざかった。
 畑に飛び込み機銃が波のように追いかけてきた。
 痛い、やられたっと思ったが、後でみたらくるぶしを銃をかすっただけで済んでいた。

〇戦車が1時間ぐらい追いかけまわしたあと各戦車の上に3人ずつぐらい乗っている歩兵が降りてきて、しらみつぶしに生き残っている者を探しては機関銃で撃ち殺していった。
 子供で目こぼしされた者もいれば子供でも殺された者もいた。
 それが戦車の後さらに1時間ぐらい。
〇浅野隊全体で幾人いたかも明らかではないが千人以上がいて生存者は140~150名ぐらい。
〇体験を本にした時1キロほど離れたところからそれを見ていたと言う斥候隊の兵隊が連絡をくれた。
 ソ連戦車が20台ほど並んでいて動けなくなり隠れていたら目の前で事件が起きたらしい。
 彼によれば戦車は浅野隊を待っていた、戦車同士が相うちしないように指揮をとっている戦車もあり、偶発的な出来事ではないように見えたと言う。

〇攻撃が収まった後はその場で泥酔したように眠った。
 夕方気温が下がってきて目をさますとうつぶせになって寝ていた。
 あたりは賽の河原のよう。
〇お互い呼び合う訳ではなくても自然と生きている者のグループが出来ていった。
 私がいたのは一番大きな40~50名ほどのグループで男性は10名ぐらい、あとは女性だった。

〇そういう時は悲しみとかは無い、ほおけたようになっている。
 生存者からも自決者がどんどん出始めた。
 母親の遺体の上で泣いていた子供や赤ん坊の声も次第に聞こえなくなっていった。
 草原で水が無く遺体の水筒を見て廻ったが何故か誰の水筒も空だった。
〇それでも脱出しようとなったのは復讐心、日本が負けたとは思ってもいなくて、この様子を日本軍に伝えて敵を取ってもらおうと思っていた。
 一人がそういうと俺もそうだ、私もそうだとなった。
〇出て行ったのはグループの中で30人ぐらい。
 負傷していたり、子供やご主人を亡くした人は自決する者が多かった。
 自決は連鎖反応ですよ、そういう時は残されていく不安の方が大きい。
 自決は青酸カリや(保存が悪かったが)、洋カミソリで頸動脈を切ったり、銃で撃って下さいとか刀で切って貰ったり。
〇その後更に現地の農民に襲われたグループもあった。
 最初は死体から衣服をはぎ取っていたのが段々エスカレートし生きている人の物を奪った。
 殆どの遺体が裸で転がっていた。
 自分たちのグループはトウモロコシ畑の中にいて誰も来なかった。
〇遺された子供たちは残留孤児となった。
 慈愛に満ちた養父母もいたし、売られたり家畜のように扱われた子もいた。
 文革を契機に帰国した者は多い。

新京を目指すつもりで北上して行った。
〇助け合って行くことはしない、着いて来れる者は着いてこいという感じ。
〇周りはすべて敵、夜歩く。
 北斗七星を背中に見ながら歩いているつもりだったが実際には北上していた。
〇脱水が激しいと幻覚症状が現れ谷川の清水が流れて太陽がキラキラしているのが見える。
 誰かが水だと言って皆飛び込むと岩に顔をぶつけた。
 自分も2回幻覚を見た。
〇村によると危ないので食料は現地民の畑からトウモロコシやジャガイモを盗った。
〇銃が4~5丁あったので一度半ば強奪するように農家に入ったが、「日本は負けているのにどこに行きよるか、早く投降した方が良い」と言われたが信じなかった。
 新京に向かうと言うと年寄りが笑って北に行ってるよと言った。
〇また一度川を渡るために川沿いの一軒家の老人を銃で脅し船で往復して貰ったが、彼を見ていると、文明ははかないもので自分たちは生きていくのも精いっぱいなのに、この老人は戦火を幾つもくぐり悠々と生きている民族の強さを思わずにはいられなかった。

〇武器を持った現地民が馬に乗って襲ってくる事があったが、5~6人で銃を順番に撃ち続け難を逃れた。

同年9月末 ソ連軍に捕まる
〇早朝霧の中でソ連軍に囲まれ、収容所に連れて行かれた。
 収容所には日本兵もいて本当に敗戦していたんだと初めて分かった。
 人によって違うだろうが、もう歩かなくて良いのだと思うとほっとした。
 他の人もそうじゃないだろうか。
〇百人程度の小さな収容所
 食糧は与えられずソ連の馬糧の大麦をかすめて食べていた。
 また30~40人、ハルピンの刑務所に入っていたらしい先住者がいたが、政治犯とかではないけど人情味のある人たちで、どうやっているのか分からないが収容所の外に出入りし皆の食料を調達してくれた。
 夜中にうどんを打ってくれたりもした。
〇線路工夫の使役に出された。
 収容所で亡くなった人は枕木を燃やして火葬した。
〇カリが越冬に飛んでいくのが見えて、八代辺りに行くのだろう、鳥には国境がなくて好きな所に行けて良いなと思った。
〇当初武器を持っていたので兵とみなされたが1か月ぐらいで解放された。

同年12月 新京に
〇ここで銘々のつてを頼って別れた。
 満州電電の庁舎に入りありとあらゆる仕事をした。
 中国人の店の客引きとか葬式の作業とか、お供え物を持ち帰れるのが魅力だった。

1946(昭和21)年8月13日 コロ島を経て長崎に帰国
〇船で日本が見えた時日本の美しさ、緑の美しさに皆が甲板に出て喜んでいたが、隣にみっちゃんという女の子とお兄さんの子供だけの乗客がいて、お兄さんが「みっちゃん、あれが日本だよ」と教えてやっているのに、日本を知らないみっちゃんは「イヤダ、日本に行きたくない」と言っていた。
 港から帰国手続きをする宿舎まで3キロぐらいを背負って歩いてやったが、手続きを終えて離れるとき職員からみっちゃんは死んだこと、お兄さんは1人で施設に行くことになったと聞いて戦争は続いているんだと思った。

昭和50年ごろから生存者を訪ね歩き、亡くなった方の名簿を作った。
空欄も多い簡単なもので判明したのは720名分(この名簿は保存の会にも寄贈頂きました)

戦争が悪かったという言い方をよくするが、あたかも戦争と言う擬人化されたものがあり、全てそのせいという言い方に疑問がある。
個人の欲が社会の欲、国の欲を支えるのではないか。
災害や事故なら民間人の死は皆騒ぎ心を寄せるが、戦争による民間人の死を戦争だから仕方ないと軽く思い過ぎていると思う。
ほぼ福岡キャラバン初日、4月28日(日)の様子と証言概要です。
この方について、佐賀県鳥栖市での聞き取りのため、「ほぼ」福岡キャラバンとなりました。
メーリングリストより転載します。

◆◆◆

福岡はキャラバンと入れ違いに「博多どんたく」が始まると言う事で、街はすでにちょうちんなどの飾り付けが終わり、どこからかお囃子が響いています。
鳥栖は佐賀県とは言っても博多から向かうと久留米より手前、快速では30分ぐらいで行くことが出来ました。

陸上での太平洋戦争開戦(時間的には真珠湾攻撃より早い)であるコタバル上陸に参加した武田義雄さんは、数年前の新聞記事で拝見して以前もご連絡をとったのですが、当時は体調を崩しておられてお目にかかる事が出来なかった方です。


◎武田義雄さん
生年月日 1921(大正10)年11月7日

陸軍
所属部隊 歩兵56連隊
歩兵 軽機関銃

1941(昭和16)年 19歳で志願
 台湾で生まれ育った。8人兄弟、父親は台湾で警察官をやっていた。
 16歳で鉄道に就職したが小学校しか出ていなかったのでホームや便所掃除しかさせて貰えなかった。
 知り合いが来ると恥ずかしくて隠れていた。
 資格試験を通って出札や改札を出来るようになったが、更にその上の試験を受けた時合格だと言われていたのに人事部の甥が代わりに合格し、来年は無試験で通すからと言われた。それで軍隊に志願をした。
 皆天皇陛下のため、国のためという時代だから特に親も反対しなかった。

台北に部隊があり、日本には戻らずそこから入隊した。
(ご本人は久留米48連隊と言われたが、その後の軍歴から、少なくとも太平洋戦争開戦時には久留米歩兵56連隊に所属したと思われる)

最初は関東軍に、その後海南島に向かった。
海南島で上陸演習
 沖に出てそこから上陸をする演習を繰り返したが、ただの演習だと思っていた。
 淡路山丸でマレー・コタバルへ。
 船の中で家族に遺書を書くように言われたが開戦の事はまだ聞いておらず、「何を言うのかなあ」という感じ、「自分は死なない」とも思っていたので遺書は書かなかった。

1941(昭和16)年12月8日 マレー東岸・コタバル上陸
 朝2時頃、第1陣として上陸用舟艇で海岸を目指す、波はそんなに高くなかった。
 海岸線には鉄条網が貼られトーチカが並んでどんどん撃ってくる。
 演習でやった通り、浜辺に鉄兜で懸命に砂を掘って身を隠す場所を作った。
 ここで15人の分隊のうち7~8人が戦死した、浜まで行かずに死んだ者もいる。
 自分たちは撃ちかえすどころではなかったが、上陸兵の多さに守備隊が引き上げた感じで上陸は成功した。

マレー半島を南下
〇完全軍装で基本的には徒歩でどんどん南下した。
 軽機関銃の部隊で装備が重い上、若い者が持てと持たされたのでかなりきつかった。
〇行軍と言うより、分隊・小隊単位でどんどん動き、要所でだけ集まる。
〇自分たちの部隊にはもともと自転車はなかったが、住民が逃げた後の家に自転車は結構残されていてそれを盗って乗った時もあった。
〇現地は豊かで住民は全部逃げていたので食料はそこからも調達した。
 逃げたばかりで炊き立ての米があることもありそれを食べたり米で取ったり。
〇自分たちの部隊は上陸以降は特に交戦はなくどんどん南下するだけだった。
 ジョホールバルも特に足止めはなく舟で渡った。

1942(昭和17)年2月13日 ブキテマ高地の戦闘で負傷
〇迫撃砲の砲弾が右前腕、右腰、左下腿に当たり出血が多く意識が薄らいだ。
〇野戦病院に運ばれたらしい。
 右腕は壊疽を起こし、このままでは菌が心臓に達するからと軍医に言われて右腕を切り落とされた。
 負傷兵が多いから「そんなものは無い」と麻酔もしてくれなかった。
 腕をメスや鉈みたいなもので切られ骨をのこぎりで切られた。
 本当に痛くて気を失いそうだった。
〇上陸時半分になった分隊だったが更にこの戦闘で行き残ったのは私ともう一人だけ。

(1942(昭和17)年2月15日 シンガポール陥落)

シンガポールの陸軍病院に入院。 
数か月後、内地送還になり東京第2陸軍病院(世田谷)、相武台陸軍病院(相模原)に入院。
 左手でものを書けるよう訓練を始めた。
 手を失ったのはショックだったが皆死んでいたから。 

1944(昭和19)年頃 除隊して台湾に復員
 駅前で皆が旗を振って迎えてくれた。
 鉄道の仕事に戻ったが日本が負けることは考えたことがなかった。
 敗戦は台湾で迎えた。
最終階級:上等兵

鳥栖に家族で帰国
 戦争が終わってから、自分は手まで失って仕舞って・・・と思うようになった。
 熱が出ると傷口が痛み、失った右手全体が痛むような感覚に長く襲われた。
 とにかく熱が出る事のないよう注意をして過ごしていた。
 傷痍軍人会の役員を数年前まで長く務めた。
 そこで死んでいた命、人に役に立つため生かされたんだと言われ信仰に入った。
 軍医さんにも母親にもお前は長生きは出来ないと言われたが90歳を超えて生きることになった。

*******************
戦後の苦労はあまり話されない武田さんの側で、部落で一番の親孝行だったので腕がなくてもこの人ならと思って嫁ぐことにしたという奥様がそのご様子を話して下さるのをにこにこして見ている武田さんが印象的でした。
奥様手作りの高菜のおつけものをお土産に頂き、ホテルでさっそく頂いています。
ホテルの冷蔵庫についてしまったらしい臭いをどうするかは・・・後日考えます。
ほぼ福岡キャラバン2日目、4月29日(月・祝)の日程です。

午後
訪問地:福岡市西区
体験者の方
◎葛根廟事件体験者(民間人)
 1945年8月14日、日本人避難民がソ連軍の戦車を中心とする部隊の攻撃を受け、千名以上が殺されたと言われている事件の生還者の方です。

今日もよろしくお願いいたします。
ほんの少し佐賀県に踏み込むので「ほぼ福岡キャラバン」、本日スタートです。

現在のところ、以下の予定になっています。

◆◆4月28日(日)◆◆

午前 福岡空港入り

午後
訪問地:佐賀県鳥栖市
体験者の方
◎歩兵56連隊 コタバル上陸作戦。シンガポール陥落直前に負傷をされているようです


◆◆4月29日(月・祝)◆◆

午後
訪問地:福岡市西区
体験者の方
◎葛根廟事件体験者(民間人)
 1945年8月14日、日本人避難民がソ連軍の戦車を中心とする部隊の攻撃を受け、千名以上が殺されたと言われている事件の生還者の方です。


◆◆4月30日(火)◆◆

午前
訪問地:福岡市城南区
体験者の方
◎野砲兵第56連隊、ビルマ北部

午後
訪問地:福岡市中央区
体験者の方
◎九大生体解剖事件目撃者(当時解剖学教室にいた医学部生)


◆◆5月1日(水)◆◆

午後
訪問地:小竹町
「兵士・庶民の戦争資料館」訪問
聞き取り1名
体験者の方
◎レンパン島

◆◆5月2日(木)◆◆

午前~午後
フィリピンにおられた海軍看護兵の方と交渉中です

夕方 福岡空港より帰京


ギリギリまで日程に自信がないという方もいらっしゃるので、まだ調整が続いています。
今日は早速佐賀県から取材スタートです。

よろしくお願いいたします。