あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
2012年も最後となりました。
全国キャラバン集中の最後の年ということで、今年も全国津々浦々の皆様にお世話になりました。
貴重なお話もたくさん伺いました。
ありがとうございました。

皆様、どうかよいお年を。
一期一会を心に刻んで臨む活動ではありますが、来年また元気にお会いしましょう。
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今年も明日を残すのみとなり、仕事納めとなった方が多いかと思います。
戦場体験放映保存の会も、今日あたりから帰省その他で東京を離れるメンバーが多く、年末年始はお休みです。
史料館の年明け最初の開館は1月5日(土)となります。

一昨年までは、新年号の「つうしん」を発送するために、大みそかも作業ということもありました。
昨年からは、「つうしん」の時期が動いたため、年末は個別に年賀状を書くために史料館にいるメンバーも見られる、というくらいの状況となっています。
また、小規模な新年会を行うこともありましたが、今回はカレンダー通りの休日が少ないこともあり、新年会の予定はありません。

皆様も年末年始にあえて史料館に行ってみようということはないと思いますが、念のためお知らせいたします。
岐阜キャラバンが12月20日(木)に伺った証言の概要です。
メーリングリストより転載します。


◎田中秀啓(しゅうけい)さん

取材日時 2012年12月20日

生年月日 1923(大正12)年2月10日生

陸軍
所属部隊 南方第12陸軍病院
兵科 衛生兵

1944(昭和19)年1月 南方第12陸軍病院(マニラ)に入隊するため広島に集合、現役兵
 兵隊は好きではなかったが行くものだと思っていた。
 初年兵受領をする兵隊がマニラから来ていた。
 10隻ほどの船団で宇品出航、高雄経由、魚雷や爆撃を避けジグザグ運転をしたためマニラに着くのに1か月かかった。
 乗っていた船(長城丸)はこの後ミンダナオへ向かう途中魚雷で沈んだ。

○バギオで3か月間の歩兵教育。
 歩兵部隊に預けられていた。
 すでに戦況が良くないことを知っていたので、行進や敬礼の訓練など。
 実戦力にはならない馬鹿な事をするなと思っていた。

○陸軍病院で5か月間の衛生兵としての教育
 注射の方法や包帯の巻き方、止血方法、脈の見方、薬の知識など。
 軍隊で役立つことは殆ど習わなかったがこれだけは役に立った。

○南方第12陸軍病院庶務課に配属
 庶務課には“お寺さん”が多かった。
 毎日病棟に今日亡くなった人のチェックをして葬儀を行う。
 各葬儀はその病棟の看護婦長、衛生下士官、将校など5~6人で行い、特に階級による差はなかった。
 それから遺体をマニラ郊外の火葬場へ運び、前日のお骨を貰ってくる。
 半年に1度ほど合同慰霊祭があり、その時は病院長(中将)以下皆が出席した。
 一等兵だったが、お経をあげるので中将と並んで真ん中に座っていた。

1944(昭和19)年12月末 病院はバギオに疎開、残務整理のため200名ほどが残った。

1945(昭和20)年1月末 マニラを夜中に脱出
 日本軍の工兵が既に橋を落とし始めている中を急遽脱出した。

バギオを目指していたが爆撃が激しく山中に入る事に、アリタオ~バガバッグ辺りからだと思う。
〇サリナスの森でロッキードの空襲を受けた。
 ガソリンの入ったドラム缶を落とし(※ナパーム弾か)、ジャングルが火の海になり鉄兜もかぶれない。
 図嚢を頭の上に乗せて逃げ惑うだけ。
 隣の兵は頭がザクロみたいに割れて脳が飛び出していた。
〇グラマンに追われた事もある。
 この時はマラリアで40度以上の発熱でニッパハウスで寝ていた。
 機銃掃射を受けて防空壕に逃げ込んだが、50キロ爆弾が近くに落ちて防空壕の土が頭上に落ちてきた。
 もとの小屋に戻ると自分の毛布に幾つも弾の穴が空いていて、枕元の編上靴が撃ち抜かれていた。
 この後は投降までずっと裸足で過ごすことになって仕舞った。
〇部隊は内科診療長だったT少佐が隊長だったが、お医者さんで戦争に慣れている訳ではない。
 部落で薬をやるから何かを持ってくるようにと自分の居所を教えて仕舞い、ゲリラに襲撃されて戦死した。
 
〇山中に入ってからがこの世の地獄。
 食うにもの無く、家もなく、戦争をする意欲も無い。
 統制が取れなくなり、自分の身体の事で精いっぱいになる。
〇大腸カタル、マラリア、赤痢が流行
 自分は一時血便が出ていたので赤痢だったのかと思う。
〇イゴロット族(山岳民族)のさつまいもを盗んだがそれもいつまでもあるわけではない。
 野草、春菊、サル、野豚、イゴロットが飼っていた豚や水牛も食べた。
 イゴロット族は日本兵が行く前に山中に逃げ込んでいた。
 それからバナナの木やビンロジュの木を切って芯の柔らかいところを食べる。
 マニラを出たあと米粒は一粒も口にしなかった。
〇一番困ったのは塩が無い事、汗が噴き出して舐めても辛くない。
 夢にしょうゆや塩を見た。
〇餓死して死んだ者は電信柱のような間隔で見かける。
 川の水に顔を突っ込んだまま死んでいる者、1個の手榴弾に5~6人が集まって折り重なって自決しているのも何度も見たが、またかというような感じで不感症になってくる。
 生きる方が死ぬより辛かったが、仏教の教えとして命は自分のものではないと考えていたので、自分は自殺をしてはいけないとは思っていた。
〇最初は外科行李を持って出て野戦病院を開ける態勢だったが山の中に落とした。
 時計一つが重い。鉄兜も毛布もほかしたが、ゴボウ剣だけは持っていた。芋を掘るのに必要なので。
〇1人になるのは怖く5~6人で行動した。
 シラミがたかるので半ば裸みたいな恰好で生活していた。
 アシン河があったので河で服を洗いシラミをつぶす。
 在留邦人や看護婦さんたちもいたが女性は生きていくことが更に大変。

1945(昭和20)年9月20日頃 米軍に投降
〇敗戦そのものは通信を通じて2~3日後には知っていた。
 しかし、負けたらすぐに出ていくとはならなかった。
 命令系統がないので話がまとまらない。
 先に捕虜になった者が呼びに来て、このままでも飢え死にするだけだと投降する事になった。
 山を2日かけて降り、アシンの谷で投降。

カランバン収容所へ
〇出入りする米兵が帽子を脱ぐ事に驚いた。
 勝ち誇こったようなところがなく実に鷹揚で、まず聞いてくるのは「ワイフはいるか?」
 それから時計を持っていると欲しがる。
〇食事はレイションでカロリーは足りているらしいが量は少なかった。
 ビスケットやチーズ、バター、ガム、タバコ。
 量が欲しいと交渉したら「お前らが捕虜にした時はどうだった」と言われた。
〇使役はあったが遊ばせてはいけないという程度で見回りもゆるやか。
 万事鷹揚だった。

1945(昭和20)年12月 復員

※ありあまる米軍の物量の前に、大和魂で精神力で勝つというのは話にならない。
 そういうのは妄想に憑りつかれた考えで、あれは妄想。教育というのは恐ろしい。
 一人も人を殺さず自衛隊も一人も死なずに来たのは9条のお蔭。
 集団的自衛権を行使するようになったらまた靖国神社を言う様になるのか。
 私はどこまでも戦争反対。わしは仏教者やから、仏教では殺しても殺されても殺させてもいけない。
※命は良いか悪いか死ぬまで離れられない。
 離れられないと言うのはそれが本当のことだねと言う事。
 それがわれわれのアイデンティティーであり、そういうものが無ければ我々は生きていけない。
※戦争体験は大きな勉強にはなった。誰もその埋め合わせを付けてくれるものはいないが、住職をするうえで戦争体験が意味をもったと言えるほど偉そうなことはない。
 フィリピンは地獄の島だったから戦争体験に鍛えられたが、だからと言って戦争を賛美する気持ちは無い。

正光寺では「げてもの史料館」を運営
戦争関係の物品をはじめ、古いさまざまな日常用品を見学する事が出来ます。(要事前連絡)
9月に行いました秋田キャラバンの1班が9月10日(月)に伺った証言の概要です。
過去のメーリングリストより転載します。


◎藤本光男さん(85)
取材日:平成二十四年九月十日
所属:土浦海軍航空隊~鈴鹿海軍航空隊~第210海軍航空隊(?)
兵科:飛行科(偵察)
戦地;内地(名古屋防空戦ほか)
――――――――――――――

○大正十五年十一月十二日、秋田県生まれ。

・旧制能代中学に入学。五十人のクラスがAとBの二つあった。
・軍国主義の時代だったが、圧倒的に英語の授業が多かった。一週間(土曜日半ドン)のうち、英読本が二時間、英作文が一時間、英文法が一時間、英会話まであった。軍事教練が一週間に二時間。戦争がたけなわになってから他の授業に差し支えないよう土曜日の午後に一時間増えた。
・軍に志願したのは九人だけで一割もいなかった。
・医者になりたい人は医科大学に、先生になりたい人は師範学校に、農業をやりたい人は農林学校に行く。そういう人と同じような感じで、「じゃあ俺は軍に行く。飛行機に乗りたい」、ということで中学校四年の時、誰が勧める訳でもなく予科練に志願することに。特別死とか、高貴な精神を持ちたいというものでもない。他の受験生と同じような感じだった。

○昭和十八年六月一日、土浦海軍航空隊入隊。甲種飛行予科練習生十二期。

・昭和二年の三月までに生まれた人が同期生。
・秋田県全体で同期生が四十七名が入った。その中で六名が特攻死。
・一年間のところを七か月か八か月で切り上げた。
・土浦から鈴鹿航空隊へ。十九年いっぱいかかった
・鍛え方がすごくて、鬼の鈴鹿とか地獄の鈴鹿と呼ばれていた。
・体を鍛えるというのか、精神を鍛えるというのか、毎日殴られ、筆舌に尽くしがたい。精神棒でバーンと殴られる。最初殴られた時は二メートルくらい吹っ飛ぶ。なにかあると連帯責任。
・体操に毎日一万メートル走ったり、授業もある。算数、国語、漢文、英語、中学校の延長戦にあるような授業を受けた。
・飛行機の訓練は一日に一時間か二時間。夜間洋上飛行は二時間くらいかかる。搭乗時間はそんなになかった。
・飛行時間は三百時間くらい。
・搭乗時間が長い者は、爆撃機や輸送機のパイロットになった。
・練習隊にいる時には何回も両親がやってきた。
・父親が日本刀を持って来てくれたが、飛行機の中はせまいし、軍刀を入れると磁石が狂ってしまうので置いて行った。

○昭和二十年二月ごろ、実戦部隊へ。

・愛知県明治基地。
・月光の搭乗員に。
・戦闘機ばかりでなく、偵察機や練習機もあり、広い滑走路で爆撃を何度も受けた。
・敵機を追うために高度を上げたが、空気が薄いために呼吸困難になって墜落する事故が起きたので、酸素マスクをつけるようになった。
・夜中の訓練もあるし、薄暮、黎明時の訓練があるが、昼寝ているかといえばそうでもなかった。

○昭和二十年二月か三月、名古屋防空戦。

・敵機と相対する。B29だったと思う。墜とさなかったが、同僚は墜した。
・敵機を防ぐ線が名古屋の前で決まっていて、名古屋上空は高射砲が打ち出す。
・米軍は絨毯爆撃で、名古屋の何々区に爆弾を落とすと、次の隊は別の区に爆弾を落とす。
・米軍とは数が違う。
・今飛んでいる場所はどこか目測で調べる。目的地に行くために、風速が何度の方向から何メートルくるのか計らなければならなかった。
・洋上では曳光弾を海に落としていた。真っ暗な中でそこだけ明るくなる。それを見ながら進路を修正していた。
・高度計はあるが、自分がどこを飛んでいるのかをそもそもわからなければならない。
・「渥美湾の○十キロ沖、敵機名古屋方向に進撃中」と連絡が来ると飛び立つ。名古屋で撃ち落すと危ないから洋上で迎え撃つ。何度の方向にいかなければならないかは咄嗟に判断するか暗号で来る。今敵機は何機、どこを飛んでいる、方向はどっち、高度○千か、あと何分で敵機と遭遇するかを操縦士に伝える。
・洋上で迎え撃つのが月光の仕事だった。
・レーダーはなかった。丸い計算機や通信機を僅かな光の中で使って割り出す。
・一時間以上飛ぶことはなかった。
・硫黄島が落ちるまでは敵の戦闘機は来なかったんじゃないかと思う。
・月光は背中に二十ミリの機関銃を積んでいて、敵機の腹の下にくぐって撃つ。操縦員が発射する。
・機体が見えて尾翼の大きさに驚いた。
・向こうが旋回して、撃ってくる閃光が見える。後席から照準をつけて、操縦員に「てーッ!」と伝える。なかなか当たらなかった。
・怖さは感じない。

○昭和二十年四月、静岡県藤枝基地へ移動。

・月光は足が遅くて役に立たないということで、彗星にかわる。
・彗星は空冷。
・斜銃はついていたが敵機とやりあうことはなかった。訓練ばかりで、いわば特攻要員みたいなものだったと思う。
・藤枝基地は全部で三十機くらい。ものすごい整備だった。
・よく燃料がなかったといわれるが、掩体壕のなかに燃料が満タンのドラム缶が何本もあった。
・『夜鴉特攻隊』と、本当の特攻隊ではないが名前がつけられた。
・特別攻撃隊はいろいろ書かれているが、実際の搭乗員は操縦技術が優れていたり、度胸があるなど、選ばれた者。同じように訓練を受けていても、選ばれない者もいる。おそらく司令が選ばれなかった者のために名前をつけたんだと思う。
・そのときはなんだか変な名前だなあと思った。
・技量が優れていないと特攻隊には選ばれない。
・選ばれると訓練は猛訓練。
・士官はベッドで兵隊は畳。
・同じ隊で同じ部屋で寝ていた人が欠けていく。朝いた人がいない。昨日までいた人が今朝起きてみると布団がない。ただそれだけで、「そうか」という感じ。大々的には発表しないで選抜されていく。櫛の歯がかけていくように、一人とか二人とか、どこに行ったかはわからない。しかし、誰もどこに行ったんだろうかお互い語ることはなかった。当然だと思っていた。
・「特別攻撃隊に希望する者は手をあげろ」とか、自分から志願するということはなかった。だから全員そのつもりでいたんじゃないかと思う。
・普通は指揮する場所があるが、建物が空爆で全部やられてしまったので、滑走路のずっとはじっこのほうに板囲いで指揮官室を作っていた。離れたところの兵舎から集まった。
・基地は何回も空襲を受けた。
・訓練の時はベニヤの指揮官室にあつまって、「何番機は」と訓示を受けて、その間に整備員が掩体壕から飛行機を出して来て、飛び立つ。
・常に乗る飛行機は決まっているのでよく磨く。
・訓練は毎日。

○昭和二十年八月十五日、

・毎朝六時か六時半ごろに集まる。そこで今日は訓練がないこと、お昼に重大発表があるからその場で待機しろということを聞かされた。
・昼に集められて、直立不動のまま天皇陛下のお言葉を聞いた。
・前段にその説明がなかったので、なにがなんだかよくわからない感じ。
・その後、十五日に終戦の詔勅をだされた、戦争はここで終わりだということを知った。
・泣きもしないし、ただなんとなく任務が終わったのかなという思い。
・その日かその次の日、厚木航空隊から何機かが飛び立って駿河湾に自爆した。
・隊長が言うには、米軍が来たら一番先にやられるだろうから、とにかく身辺の物を整理して家に帰れということだった。

○昭和二十年八月二十日ごろ、汽車に乗る。

・腹が減ったとは思わなかったが、飲まず食わずで家まで帰った。
・音信不通だったのがひょっこり帰って来たので、両親は腰を抜かさんばかりにびっくりしていた。
・特攻隊の生き残りは一人もいない。特攻隊員は体当たりしたり、途中で撃ち落されて戦死した人だけ。


●終戦時、海軍上等飛行兵曹。
2012年9月に行いました第2回山陰キャラバンが9月24日(月)に伺った証言の概要です。
過去のメーリングリストより転載します。


◎居川伊勢松さん

取材日時:2012年9月24日
受領資料:中隊史2巻のコピー、ハルマヘラ会戦記のコピー

生年月日:1920(大正9)年1月8日
当時の本籍地:鳥取県

陸軍
所属:歩兵第63連隊、歩兵第211連隊
兵科:歩兵

1941(昭和16)年2月10日 現役兵として松江の歩兵第63連隊に入営。
 満州・興山に3年間駐屯。
 太平洋戦争の開戦は「やった、やった」と言う感じ、当時は勝つと思っていた。
 2年目、3年目は教育係を務めた。

1944(昭和19)年3月 歩兵第211連隊転属のためウースンに移動
 歩兵第211連隊第3大隊第12中隊の所属に。
 歩兵第211連隊は東京編成の部隊だったが、第3大隊がマレー方面に転属になり、その後部隊全体の南方転属に伴い63連隊から新たに第3大隊が編成された。

同年4月~ 上海からマニラを経てハルマヘラ島(セレベス島とニューギニアの間に位置する)へ
 輸送船1隻に5000人ほど乗り込み10数隻と、護衛艦も10隻ほどが船団を組んだが、潜水艦に待ち伏せされバシー海峡では隣の輸送船が、セレベス沖ではさらに3隻が沈められた。
 救命胴衣を着け出来るだけ甲板に出ていた。
 沈んだ輸送船の兵隊は護衛艦が救助したり、自分で島に泳ぎ着いた人もいたが多く亡くなった。
 自分たちは当初ニューギニア・ビアク島に行く予定だったがこれらの沈没によってハルマヘラ島に行く先が変わったらしい。

同年5月11日 ハルマヘラ島北部のワシレ湾に上陸
同年12月半ば モロタイ島(ハルマヘラ島北方の小島)へ敵前上陸
 モロタイ島は米軍が9月に上陸して島南部のドルバに飛行場を作りフィリピンへの攻撃拠点となっていた。
 元の歩兵64連隊は精鋭部隊と言われており上陸要員に選ばれたらしい。
 1隻に2個分隊が乗り2隻で西岸中部のチウに逆上陸。
 偶々米軍とは遭わず無事上陸できたが、武器などの揚陸作業にあたっているうちに、先に上がっていた日本軍の別の部隊に海岸に置いておいた背嚢を盗まれてしまった。
 そのため食糧が1週間分ぐらいしかなくなってしまった。
同年12月24日 米軍の陣地を攻撃
 上陸の際いなくなっていた米軍が再度海側から上陸し海岸沿いに陣地を作っていた。
 ここを中隊全体で総攻撃する事になり射撃を開始した途端、米陣地から照明弾が上がり明るくなって、米軍とは50mぐらいの距離しかなく手榴弾を投げてくるのがはっきり見えた。
 砲弾はモロタイ対岸のラウ島からもどんどん撃ってくる。
 手榴弾や銃弾がどんどん周りに落ち、あちこちで絶叫があがった。
 小隊長が戦死、呼びかけて背中を押すと返事はなくぶよぶよしていた。
 中隊長は腕をやられ重症、ほかの分隊長や少尉も亡くなって一時指揮官がいなくなってしまった。
 照明弾が消え攻撃が病んだので戦死者の小指を短剣で切り落として廻り遺骨として持ち帰る。

1945(昭和20)年 以降は大きな戦闘はなく米軍も積極的に攻めては来ず持久戦に。
 米軍の飛行場には鉄条網が張られ聴音機がつけられて攻撃は出来なかった。
 そのうち米軍自体がミンダナオなどの飛行場を手に入れ主力は移動していった。

同年4~5月頃 栄養失調が広がり始める
 塩も醤油も無くなったのが一番困ったが、海水を飯盒で炊くと50gぐらい採ることが出来た。
 でんぷんはサゴヤシから取る、サトイモ、サツマイモも。
 パパイア、パイナップル、エビ、カニ、ゴドゴ、モンキーバナナをヤシの葉で蒸す。
 野菜をてんぷらや炒めものにもした、ヤシの実のコプラも。
 個々に取った食べ物は分隊のものとする事が徹底されており、団結はしていたのが良かった。
 満州以来の部隊で規律が崩れなかった。

同年8月20日頃 敗戦を聞く
 ハルマヘラ島の方にいた部隊から連絡が来た。
ハルマヘラ島・ガレラに戻り、カウで自活生活に入る。
 収容所のようなものはなく自分たちで宿谷を作り自活生活を行った。
 東大農学部出身の兵隊がいて計画を立て指導をしてくれたので割と順調にいった。

1946(昭和21)年6月5日 田辺に復員する
 母が亡くなっていた、親戚が田んぼを預かってくれていた。
 田植えの季節ですぐに田植えをした、秋には自分の作った新米を食べた。