あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
大学生1人旅2012夏休み、8月23日(木)に伺った証言の概要です。
かなりリアルタイムでの報告でしたが、掲載が遅くなりました。メーリングリストより転載します。

◎神谷房之輔さん(90)
取材日:平成二十四年八月二十三日
所属:関東軍司令部~第二十軍司令部~第十五野戦飛行場設定隊
陸軍軍属(技手)
戦地:満州~西部ニューギニア
―――――――――――――

○大正十年十月二十九日、静岡県生まれ。

・実家は製材業を営んでいた。
・浜松工業学校建築科に入学。
・四年の時に、満州と朝鮮を旅行した。
・卒業しないうちに、陸軍から学校に何名出せと言われたのか軍に行くことになった。
・二十八名のうち九名が関東軍に行った。
・卒業式は出ていない。

○昭和十四年二月五日、新京の関東軍経理部到着。

・一番偉い人は勅任官。
・元張学良の大学の寮に入った。
・二つのグループに分かれ、三週間新京の独立守備隊で教育を受ける。
・おわってから奉天出張所にしばらくいた。

○昭和十四年三月三十一日、東京城に移動。

・飛行場建設の現場で仕事を始める。
・飛行場と兵舎と宿舎の作業に分かれていた。
・飛行場は土木屋がやる。レンガの宿舎づくりをしていた。三百人くらいいた。
・関東軍の経理部からは二十人たらずが来ていた。経理部員は監督。
・清水組が工事を請け負っていて、その下請けに日本の大工がいて、その大工が満人のレンガ工を使って仕事を進めていく。
・多い時は五千人くらいいた。
・人が足りなくて、満州の人ではなく中支の山東省あたりの人が来ていた。
・中国人とうまくやれていたかはわからない。片言で話すだけ。考え方まではわからない。
・この時は雇員。五年で技手になる。
・40円くらいもらえた。現場手当で35円ついた。
・しばらくしてパラチフスに罹った。軍医が来て、すぐ他の三人と牡丹江の陸軍病院に入院することになった。
・伝染病棟。点滴がなかったのでリンゲル注射をした。痛い注射で五本くらい看護婦にやられた。
・そのうちノモンハン事件が停戦して、負傷兵が送られてくるためか、押し出されて退院した。

○昭和十五年三月三十一日、林口へ移動。

・何もないところ。歩兵や山砲の兵舎をつくることになった。
・本部のほうに残って材料の仕分けをした。
・水道をつくることになった。五メートルも掘れば岩盤に突き当たる。地中ダムをつくった。
・この時は鹿島がいた
・冬は水道が凍った。

○昭和十六年、貨物廠をつくることに。

・兵舎は出来上がってきた。
・大きな倉庫をいくつも作った。どんどん荷物を入れて行った。
・設計図は本部で描く。現場の監督。

○昭和十六年六月か七月、第二十軍司令部へ。

・鶏西の炭坑のところにあった。大きい街ではないが、ホテルが一軒、バーが一、二軒あった。
・設計図を描いたり、下っ端なのでいろいろなことをやった。
・上着だけ背広に帰れば民間人に見える。朝までに戻ってくれば問題なかった。
・上司に申し出ればいつでも実家に帰れた。

○昭和十六年十二月八日、大東亜戦争開戦。

・曹長が戦争が始まったといって喜んでいた。
・戦争がどうなるか、負けるとか勝つとかいう考え方は持っていなかった。「これでいいのかな」とは思った。

○昭和十八年八月、豊橋の第十五野戦飛行場設定隊に転属。

・設定隊の中に軍属は四人。自分一人だけ建築で、あとは土木だった。
・一個大隊編成、三個中隊。本部にいた。
・ブルドーザーは一個中隊に一台。他にも伐かい車やローラーがあった。

○昭和十八年九月二十六日、宇品出港。

・若津丸。
・ブルドーザーや器材を積んだ。
・食糧は三ヶ月分持って行った。

○昭和十八年十月九日、マニラ寄港。

・一週間くらいいて、セブ島にも三週間くらいいた。

○昭和十八年十一月十一日、マノクワリ上陸。

・一万トン級の船がすぐに荷物を降ろせる港がマノクワリしかなかった。
・隊長と技手四人と先発隊で出発。器材はムミに

○昭和十八年十一月、ランシキ到着。

・ランシキはマノクワリから八十キロ。オランダが農場を拓い十二、三年くらいたっていて、小さなゴムの木が生えていた。開戦後、南洋興発が引き継いでいた。
・残りの人員や機材は大発で運んだ。
・元オランダ人の農場主の家に入った。
・すぐに飛行場建設が始まった。
・木に火を付ける。、一週間くらいでみんな燃えてきれいになった。
・土を持っていく要領がよくわからなくてブルドーザーはあんまり使えなかった。
・綿の紐が湿気で伸びてしまって、ジャングルから籐をとってきて五十メートル計って使っていた。

○昭和十九年一月おわり、飛行場完成。

・もう米がなくなった。
・農場後にタピオカが二ヘクタールくらいあって、大事にしていたら、命令で他の部隊へ出すことになった。
・それから毎日朝昼晩サツマイモ。飯盒の蓋に葉っぱの入った塩汁。
・飛行機が来ないうちは海岸で発破をかけて魚をとっていた。
・イノシシと鹿がいた。なかなか取れない。
・栄養失調で太る者と痩せる者がいた。
・軍医が二人いたが、薬がなくなった。
・マラリアで熱発。三日に一度と、四日に一度でるものがあった。体力がうんと弱くなる。幸いたいしたものに罹らなかった。
・飛行場が出来た後は、誘導路と飛行機を退避場所を作っていた。

○昭和十九年三月、判任官(陸軍技手)になる。

・給料は全部親元に送っていた。

○昭和十九年四月末ごろ、飛行場の発着テスト始まる。

○昭和十九年四月、ホーランジアに敵部隊上陸。

・あくる日、日本の軽爆撃機がきて、部隊で爆弾や燃料を入れた。
・下士官室で休んでいると、パイロットの准尉が来て、「飛行機もなくなってしょうがないね」と話をしてくれた。「あ~こりゃ戦争負けだなあ」と思った。
・情報が全然入って来なかった。

○昭和十九年五月二十七日、ランシキ初空襲。

・敵が十機くらいで爆撃に来た。
・ちょうど滑走路にいると、ボンボン音が聞こえてきた。「こーりゃまずいなあ」と思った。皆で三百メートルくらい走って、山の上の防空壕に入った。
・防空壕から見ていると、黒いブツブツが落ちて行くのが見えた。そのうちにザーッという音がする。雨が降るのと一緒の音がする。それからバーンバンとはぜる。
・土がなくて穴を埋めるのに困った。

○昭和十九年六月、加古川の十三戦隊の戦闘機が十三機きた。

・防空壕を掘れとやかましく言われた。
・敵が爆撃に来ても上がりゃしない。
・隊長になぜ上がらないのか聞くと、「命令系統が違うから」と言われた。
・そのうち飛行機で行ったのか、輸送船がきたのか、どこかに行ってしまった。

○昭和十九年六月末、ビアク島から米軍機がやってくるようになった。

・高い所からエンジンを止めてさーっと来る。

○昭和十九年七月、むかいのヌンホル島に敵上陸。

・マノクワリの部隊がソロンに転進することになった。
・ランシキで通過部隊に食糧を渡していた。一人当たり芋五キロを四千人に渡したと経理が言っていた。
・ニューギニアの海岸にいる原住民はおとなしい。ところが、山に住んでいるマネキヨという原住民はふんどしに弓矢を持っていて獰猛。
・一度満月の夜にマネキヨが米を盗みに襲撃にきた。整備部隊の不寝番が気付いて何発か撃つと逃げてしまった。
・ほとんどが栄養失調で死んだ。爆撃や弾でやられたのは五十人足らず。
・和尚も死んでしまって、死者を埋める時に「一つ、軍人は忠節をつくす」とか、軍人勅諭を読むだけだった。
・ジャングル中はシャツを二枚着ていないと蚊に刺される。
・食事するときは蚊よけに周りに火を焚いてその中で食べていた。

○昭和二十年八月十六か十七日ごろ、敵のコンソリデーデットがビラを撒いていた。

・終戦を知る。
・うれしかった。内地に帰れると思った。
・オーストラリア軍の将校が武装解除を見に来た
・武装解除は兵器をトラックに載せ、海に行って落とすだけ。
・船が来るので大発でマノクワリのアンダイに移動した。
・芋掘りをするだけ。ランシキは農場だったので芋がいくらでもとれたが、マノクワリは
・小高い丘に住んでいたので、海がよく見えた。
・高射砲隊がサメをとっていて、油をよく貰った。
・加藤大介の劇を見た。一ヶ月に一度、題を変えてやっていた。「浅草の日」などを三回みた。サツマイモを持って行った。
・役者の言葉をつかっていて驚いた。女形は浴衣を着て本物に見えた。

○昭和二十年五月はじめごろ、復員船乗船。

・二中隊の中隊長が追われていた。こきつかったので、兵隊が「殺してやる」といって探していた。逃げ隠れしてなんとか帰っていった。

○昭和二十年五月二十七日ごろ、名古屋上陸。

・「生きて帰ったなあ」という感じ。
・埠頭でりんごの歌がはやっていて「懐かしいなあ」と思った。
・最寄駅に着いて電話すると、死んだと思われていて家族に驚かれた。
・ニューギニアに行ってから召集令状が家に届いたと聞いた。

●終戦時、陸軍軍属。判任官(陸軍技手)。
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ピカピカの大きなジュラルミンケース。
つうしん第12号やメーリングリストでもお知らせしていますが、証言を収録したテープを、メディア専用の倉庫に預けることになりました。
災害対策です。
この箱にテープを入れた状態で、倉庫のサービスとやり取りします。

けっこう前に撮っていた写真で、すでにこの箱たちは倉庫に移動しています。
現在、史料館にはほとんど生テープは残っていません。
電子版に登録する場合等、必要な時には、またこの箱が戻ってきます。
戦場体験史料館・電子版は、8月の開設以来、少しずつ改良されていっています。
一方、滝野川の史料館も、本格的に整備を進めることになりました。
建物自体を改装するということはないのですが、棚の配置等は変わるのではないかと思います。
おかげさまで、いただいた資料もたまってきたので、そろそろ全部きっちり分類して並べ直そうという計画です。
年末大掃除、という程度では終わらず、半年ぐらいかけて本気でやります。
資料を寄贈してくださる方は大勢いらっしゃるので、安心して預けていただけるようにしていきます。作業途中で資料が増えるのは構いません。
ただ、12月は休館日が増えることが予想されます。また、資料がこれまでの場所にないので、資料を探しに来られるのには向かないでしょう。

たくさんの方々といっしょに戦場体験史料館を作り上げていきたいと思っています。
一時的に落ちつかない状態になりますが、よろしくお願いいたします。
聞き取りは並行していつも通り行っていきますので、そちらもよろしくお願いいたします。
まずは繰り返しになりますが、映文連アワード受賞作品の上映会が今日から始まっています。
明日11月28日(水)、Cプログラムは「戦争を語り継ぐ」。保存の会が共同制作となっている『大本営最後の指令』と、グランプリ、文部科学大臣賞の作品の3本立てで観ることができます。

10:05~『大本営最後の指令~遺された戦時機密資料が語るもの~』(90分)審査員特別賞
11:40~『ふじ学徒隊』(48分)文部科学大臣賞
12:40~『中央区戦災体験者の証言 空襲篇』(53分)最優秀作品賞(グランプリ)

【会場】富士フイルム西麻布本社1Fホール
 東京都港区西麻布2-26-30
 http://www.eibunren.or.jp/award2012/lineup/map.html
 地下鉄表参道駅 徒歩15分
 地下鉄六本木駅 徒歩15分

【料金】Cプログラム通して当日券800円、前売り600円

2月~3月にかけて、沖縄、大阪、仙台、札幌でも記念上映会が開催されるようですが、上映作品は受賞作のうち十数作品だそうです。
グランプリと文部科学大臣賞はもちろん上映されると思います。


Cプログラムの3作品について、今後の上映予定を検索してみました。

『中央区戦災体験者の証言 空襲篇』については有効な情報が得られませんでした。
中央区の依頼で作られた作品ですので、今後中央区のイベント等で上映されるのかもしれません。

『ふじ学徒隊』は、各地で上映会が開かれているようです。
首都圏での上映会は以下の日程です。
東京 12月1日(土)~7日(金) 渋谷アップリンク
横浜 12月8日(土)~14日(金) シネマジャック&ベティ
明日どうしても都合がつかないという方には朗報です。
詳しくは『ふじ学徒隊』公式HPをごらんください。
http://fujigakutotai.com/

『大本営最後の指令』は、現在のところ上映予定情報は入ってきていません。
DVDが発売されていますので、明日都合がつかない方はそちらもご検討ください。
ドキュメンタリー映画『大本営最後の指令~遺された戦時機密資料が語るもの~』が映文連アワード2012の審査員特別賞を受賞したことについては、以前もおしらせしたところです。
今日その授賞式だったはずですが、明日から、入賞作品の記念上映が行われます。
『大本営最後の指令』は2日目の明後日、Cプログラム「戦争を語り継ぐ」の中での上映となります。

Cプログラムは以下のとおりです。
グランプリ、文部科学大臣賞の作品も戦争をテーマにした作品で、この日の上映となっています。

10:05~『大本営最後の指令~遺された戦時機密資料が語るもの~』(90分)審査員特別賞
11:40~『ふじ学徒隊』(48分)文部科学大臣賞
12:40~『中央区戦災体験者の証言 空襲篇』(53分)最優秀作品賞(グランプリ)

【会場】富士フイルム西麻布本社1Fホール
 東京都港区西麻布2-26-30
 http://www.eibunren.or.jp/award2012/lineup/map.html
 地下鉄表参道駅 徒歩15分
 地下鉄六本木駅 徒歩15分

【料金】Cプログラム通して当日券800円、前売り600円
 チケット入手
 http://www.eibunren.or.jp/award2012/tickets/index.html


受賞作品とこの上映会の詳細は↓をご覧ください。
http://www.eibunren.or.jp/award2012/lineup/lineup.html