あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
戦後67年目の8月も今日までです。保存の会は、8月だけが特別ということもないので、日常的な活動をいろいろ進めています。
9月10月のキャラバンも少しずつ決まってきています。
次につながる応援も頂いています。ありがとうございます。
その本格的なキャラバンを前に、一部メンバーによる一人キャラバンが単発で動いています。早速取材報告が入っています。
テープやお預かりしたものの管理体制も整いつつあります。
戦場体験史料館・電子版も、エラーの修正等、随時行っています。相変わらず、リアルタイムの動きは当ブログが担う方向だなと認識しています。
しかし、どうも当方のインターネット環境(またはパソコン)が調子が悪いようで、実はここしばらく、他力本願な更新を続けています。その辺が個人運営の厳しいところです。
いろいろと進行していることについて、動きが見えるように随時報告していきたいと思っています。
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ひきつづき、静岡・愛知方面に出かけていた一人キャラバンからの取材報告を掲載します。
8月19日(日)に伺った証言の概要です。

◎土屋喜一郎さん(91)
取材日:平成二十四年八月十九日
大正九年生まれ
所属:騎兵第四旅団騎砲兵第四連隊(成5356)第二中隊
兵科:砲兵(騎砲兵)
戦地:北支(洛陽攻略戦~老河口作戦)
――――――――――――

○大正九年十一月二十七日、静岡県生まれ。

・鉄道員だった。

○昭和十五年春、徴兵検査。

・今の三島の市役所で受けた。
・甲種合格。
・騎砲兵になる人は全然いなかった。

○昭和十五年十二月二日、入営。名古屋に集合。

○昭和十五年十二月五日ごろ、大阪港から輸送船に乗船。

・貨物船だから遅かった。
・中国の連雲港に夕方着く。翌日の夕方まで船にいて、上陸。
・夜、貨物列車に乗って出発。朝、徐州に到着。そのまま帰徳に行って降りた。

○騎砲兵第四連隊到着。

・第二中隊。
・帰徳で初年兵教育を受ける。
・電燈も水道もなく、夜は石油ランプで過ごした。
・同年兵は静岡、愛知、岐阜出身。その上は長野、栃木、群馬出身。下は、大阪、奈良、和歌山出身。
・一個中隊に四門
・一緒に行動するけれども騎兵と騎砲兵は別。騎兵は軍刀を持っている。
・四一騎砲を使っていた。
・馬には全部名前がついている。
・五十頭くらいの馬の名前を覚えなければならなかった。覚えないとビンタ。
・「北昌(きたまさ)」という馬に乗っていた。くせの悪い馬だった。しかし、一癖あるような馬が作戦に出ると強かった。
・教育で一番嫌だったのは内務。戦陣訓を読まされたり、洗濯物がどうだこうだと言われたり。
・三年兵が「初年兵はおとなしいなあ」とか言うと、二年兵が初年兵に集合をかけて気合を入れられる。
・床の上にアンペラがあって、毛布を2枚重ねて、寝袋のようにして寝ていた。
・観測だった。今言うと測量みたいなことをやっていた。
・厩の使役でクーリーを使っていた。何を持っていくかわからないので、出て行くときは身体検査をする。
・中国人はあきらめもいいのかなあと思った。
・中国は一夫多妻。

○昭和十六年四月十五日か十六日ごろ、一期の検閲。

・検閲が終わると”たくじょう”や”わんよう”などの前線警備に1年程配属される。
・”わんよう”に行った。ここは水が塩水のようで、うんと悪い。飲んじゃいけないと言われても暑くて飲んでいた。このためか、腸チフスにかかって、すぐ入院することになった。

○昭和十六年末か十七年正月ごろ、退院。

・原隊に戻ってきてから大東亜戦争の開戦を知った。

○昭和十七年・十八年、中国軍の正月攻勢でそれぞれ討伐に行った。

・周りは敵、情報が入ると襲撃を受けないうちに討伐に出ていた。
・輜重隊のフォードの自動車は性能が良く、長いので騎砲が積める。
・一台に砲、もう一台に弾薬・食糧を積んで討伐に出た。
・朝、日が上がったか、上がらないかのうちに敵襲を受けた。車から降りてはいけないと言われていたが、降りた兵士がいて、やられて亡くなってしまった。
・白兵戦はなかなかやらない。
・秋の討伐はおっかない。高粱の背が高く、どこから撃たれるかわからないので怖かった。
・満期が近い人が討伐に行くとよく死んだ。「どういう加減だかなあ」と皆言った。
・戦死者は討伐くらいだと、部隊へ運んで焼く。作戦中は引っ張って行くわけにもいかない。腕を切って、体を捨てる。せいぜい埋めてこれればいいほう。
・作戦中は食糧がないので探しに行く。大阪出身のある兵士が、敵の集落に迷い込み、焼き打ちを受けて、生きたまま焼かれてしまった。翌朝、腕をとってきて体を埋めた。
・捕虜は歩兵が度胸試しに初年兵に突かせていた。
・くしゃみや涙が出るガス弾を使っていた。国際法では禁止されていたが、実際には使っていた。
・夜襲を受けた時、敵兵がクリークに梯子をかけてのぼってきたことがあった。手榴弾もなくなって来たので、梯子を敵兵ごと落としたことがある。

○昭和十九年二月十一日~、京漢作戦。洛陽攻略戦。

・鉄道六連隊が架けた橋で黄河を渡って、洛陽攻略に行った。
・騎兵旅団が一番乗りするということだった。
・洛陽の近くの山の上で、夕方襲撃を受けた。
・言葉では言わなかったが、夜を待って退却して、後続の師団が来るまで待った。一番のりはできなかった。
・洛陽の飛行場はきれい。
・来たとき使った橋は落とされてしまっていたが、浅い河だったので渡れた。
・対岸から砲撃。
・敵地で食糧を探す。たけのこ汁をつくったり、さつま芋をたべたり、小豆をゆでて食べたり。
・寒い時は家財道具を壊して燃やしたりしていた。

○昭和十九年九月の末頃、作戦が終わって”ぶよう”で四カ月ほど警備。

・馬の運動をやったり、兵器の手入れをしたり、保養。
・被服もボロボロだったので新しいものに交換。
・冬出て行けば中に裏地がある。夏になると暑くて裏地をとる。それが嫌ならば中国人の服をかっぱらってくる。被服の補給はない。
・馬のえさを収集に行く。駐屯地から二里ぐらいのところが中心。これには主計も行く。
・収集に行ったある日、夕方になって土匪と取っ組み合いの戦闘になった。夜、部隊へ伝令に行く事になった。夜中に二里もあるところを一人で戻るのは怖かった。
・関東軍の一部が警備にやってきた。関東軍の将校が欠礼したという話があり、「なにいってんだ?欠礼した?弾は前ばっかりこねえぞ、後ろっからもいくぞ」と脅かしていた。
・作戦間は敬礼しない。中隊長も寝床は一緒。食事も兵に作ってもらう。
・将校が兵隊に嫌われるとろくな食事をくれなくなる。「あいつにはこれだけくれときゃいいや」となる。
・古参兵から評判の悪い少尉が長靴と軍刀に醤油をつがれていた。
・もう一人嫌われていた将校がいて、作戦間に馬ごと堀に落っこちた。兵隊は「ざまあみろ」といって通って行った。嫌われているとそんなもの。

○昭和二十年四月~、老河口作戦。

・約ひと月半、夜間ばっかり歩いた。部隊についていくのがやっと。
・中隊長もどこに行くのか知らない。
・中隊から行方不明になった者もいた。「誰だれがいません」と報告しても、そのまま出発してしまう。そうしないと前の部隊についていけない。
・老河口につくと薄暮攻撃を行った。師団命令で二十門くらいの砲が釣り弾の照明弾を撃った。それがものすごくきれいだった。それから騎兵の援護射撃。どんどん撃つ。
・弾は何発か残して置かなければならないがそれまで撃った。
・攻撃は成功したが、突入した騎兵は大分やられていた。
・この作戦のあと、また戻った。
・この頃から飛行機が空襲に来るようになった。

○昭和二十年八月十五日、”なんよう”の郊外で終戦。

・無線で各部隊へ通知していた。
・「日本もやっぱり負けたなあ」と思った。
・内地にいる女も男も金抜きされてしまうと噂された。
・「どうなるだろう」ということが心配。復員しても元いた職に就けるのかわからない。
・なぜ講和しなかったのかと兵隊はみんな言っていた。
・一週間ほど”なんよう”にいて、それから帰徳に戻った。
・毎日何もしない。馬の運動をやったり。兵器も何もない。帰る身の支度。
・軍足をチョッキにして持っていた。
・貨車で帰徳から上海に行った。
・上海から乗船し、復員。


●終戦時、騎兵伍長。
ひきつづき、静岡・愛知方面に出かけていた一人キャラバンからの取材報告を掲載します。
8月22日(水)に伺った証言の概要です。

◎宮崎善弥さん(88)
取材日:平成二十四年八月二十二日
所属:滑空飛行第一戦隊第二中隊
兵種:航空兵(グライダー操縦)
戦地:内地~朝鮮
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○大正十二年十月三十日、静岡県生まれ。

・実家はお米屋さん。
・静岡商業学校卒業後、中央大学入学。予科の後に法学部に進んだ。
・同級生の中に飛行機に乗りたいという人がいて、予科の時に三人で航空部を作った。
・航空部は当初、朝日新聞が後援していて、後に軍が各大学の航空部を支援するようになった。
・最初はグライダーで、しばらくして海軍の横浜の訓練所に行って赤トンボの水上機に乗った。

○昭和十六年十二月八日、神田の三省堂で開戦のニュースを聞いて、すぐ大学に行った。

・日本が優勢で、こりゃいいと思っていた。

○昭和十七年四月、横浜で飛行機を見た。

・最初は日本にああいう飛行機が出来たのかと感心して見ていた。後で米軍機だと知った。

○昭和十八年十二月十日ごろ、入営。浜松の飛行整備学校【?】に入った。

・ここで十日間くらい教育を受けた。
・飛行機に乗っていたことを何かで知られたのか、いきなり幹部候補生に抜擢され、東京集まることになった。【※特別操縦見習士官?】
・ここから筑波の滑空飛行第一戦隊に配属になった。
・三中隊くらいあった。あんまり数は多くなかった。
・だいたい大学で飛行機に乗っていた人。顔なじみも結構いた。
・ドイツのグライダー部隊にならって作られた部隊。
・曳航するのは九七式重爆撃機。
・飛行機の操縦とグライダーの操縦をやった。
・兵隊を何名かのせて、夜間に敵の戦線の裏に降りて挟み撃ちにするということだった。
・はらっぱや畑の中はよかったが、林の中に降りると、木がばさーっとなった。
・グライダーというのはスポーティーなものを想像していたが、胴体がずんぐりしていて、大きくて驚いた。兵隊を二十人くらいのせられて、山砲も積めた。
・事故はずいぶんあった。
・訓練生が並んでいる時に、曳航機が着陸進路を間違えて事故を起こした。片翼が並んでいている所に飛んで来た。双眼鏡で見ていると、わーっと声がして、翼が突進してきた。あわてて地面に伏せると、帽子のところを翼が擦っていった。頭をはねられたり、足をやられる者が出た。

○昭和十九年、フィリピンのクラークフィールドに集結することになった。

・飛行機で行くグループ、輸送船で行くグループ、満州で配属替えになったグループの三つに分かれて向かった。
・飛行機で新田原に行くグループをみんなで見送った。すると、隊長の飛行機が上昇が急すぎて失速して落ちてしまった。驚いた。みんな亡くなってしまった。遺体を集めることになったが、「部隊長に報告して来る」と言って逃げた。
・宇品から輸送船に乗る。船の中はひどいものだった。
・台北か台南に到着し、部隊で神社へお参り行った。帰ってくると空襲で輸送船がフィリピンへ行ってしまった。フィリピン行きは取りやめになった。
・しばらく台湾にいて、また輸送船で内地に帰った。

○昭和二十年、内地にいると米軍にやられるということで、部隊は北朝鮮の咸興に移動して温存されることになった。

○昭和二十年八月十五日、突然天皇陛下の話があるということで集められた。

・小学校の一室に集まって話を聞いたが、よく聞き取れなかった。もっとがんばれと言っているんだろうと思った。
・すぐに通信関係の連絡が来て、敗戦を知った。家に帰れると思って喜んだ。
・それから移動命令がでて、平壌までさがった。
・”しゃりーん”で部隊が解散。民家に残って列車を待つグループ、本道を直進してまっすぐ帰るグループ、山の中をとおって京城まで行くグループの三つにわかれた。京城までいくグループに入った。民家に残ったグループは後にシベリアに抑留された。
・将校一人と下士官一人、兵隊七、八人。
・軍服を着ていたらつかまるということで、行李なんかを売ってしまった。そのお金で朝鮮服を買って着ていた。
・軍刀は山の中に埋めた。古刀よりも軍から支給される軍刀の方が切れた。ピストルだけはもっていた。
・ソ連兵が悪いことをするので、朝鮮の人に優待された。山の中ではご飯も食べさせてくれた。村長さんに、嫁さんも世話するからここに残れと言われたが、なんとか断って帰って来た。
・大きな川をみんな褌一枚になって渡ったことがある。ある程度流れがあるので斜めに渡った。
・京城で歯医者さんの家に泊った。
・どこで一緒になったか、満州から引き揚げてきた元気のいい人がいた。家族と二号さんも一緒に荷物を持って来ていた。
・京城から鉄道が動いていて、列車で釜山に行った。
・釜山から引き揚げ船で門司のあたりに着いて、引揚者と一緒に列車に乗って帰った。
・引揚者に荷物は持つからお金は出してくれといって切符を買ってもらった。
・切符を買ったので座席のあるところに座った。

○昭和二十年十月十日ごろ、静岡につく。

・帰ってきたら静岡は全部燃えていた。自宅も焼けていて、家族は疎開していた。
・疎開先で父親と再会した。

●終戦時、陸軍少尉。
静岡・愛知方面に出かけていた一人キャラバンから取材報告が入っていましたので、掲載します。
8月21日(火)に伺った証言の概要です。

◎宮代武雄さん(92)
取材日:平成二十四年八月二十一日
所属:電信第七連隊(満州第290部隊)本部経理室~照空第六大隊(満州第623部隊)本部
兵種:主計兵
戦地:満州~北朝鮮~シベリア抑留(沿海州・シーランチャ収容所)
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○大正九年五月二十八日、静岡県生まれ。

・小学校を出てから税務署でニ、三年を仕事をした。
・そのうち静岡の逓信講習所の試験を受けて合格。ここで一年間、給料をもらいながら、内容は薄かったが中等学校程度の教育を受けた。
・卒業すると通信士として何年か勤めなければならなかった。
・沼津の郵便局に希望して勤めることになった。

○昭和十五年、徴兵検査。

・甲種合格

○昭和十六年一月、大阪八連隊に集合。

・父親と一緒に大阪まで行った。
・集まった所でもう一度身体検査が行われた。悪い人は帰らされたが、合格した。
・大阪港から輸送船で大連へ。
・これが日本列島の見納めかなあと思った。
・大連から満鉄で東安省東安の第五軍司令部へいった。
・入隊前の経歴がわかるのか、電信第七連隊の本部付になった。
・テストが必要。基礎知識が教えられる。
・五軍の司令部でテストを受けて合格。
・兵長で一本線が入って合格。間もなく星がついて主計伍長になった。
・主計将校が上に一人いて、その人と一緒に被服や糧秣を計算して集めた。
・被服は奉天の貨物廠まで申請に行った。
・豆腐や日用品は満州の人から調達した。
・そんなことで割合満州をあちこち歩いた。ハルピンの町は今も頭に入っている。
・ハルピンには共産党に追い出された白系ロシア人が大勢住んでいた。頭の丸い教会がたくさんあったり。立派なデパートがあったり。店員がかわいかった。
・内地の人よりいいものを食べていたと思う。

○昭和十六年十二月八日、大東亜戦争開戦。

・「こんな無謀な戦争は敗ける」と、召集された元京大ラグビー選手の主計軍曹が言っていた。この人の言っていることに感化されて結構そう思った。けれど、軍国主義の教育で、負けるとは思わなかった。

○昭和十七年五月、伍長任官。

○昭和十八年七月、照空第六大隊(満州第623部隊)へ転属

・北朝鮮の羅津港を守るための照空部隊で、公主嶺で編成。三ヶ月くらいいた。
・この部隊の主計兵になった。
・一個大隊で三百人くらい。
・墜落したB29を見にいった。飛行機の中は釣り道具はある、お金はある、食糧はある、彼女の写真もある。贅沢なものだった。

○昭和二十年八月六日、ソ連対日参戦。

・ソ連機の爆撃を受けた。
・兵舎のすぐそばに爆弾が落ちて建物がつぶれた。
・照空で照らして、高射砲で撃つ。飛行機の後ろとか前には届くが、なかなか当たらない。砲弾が命中するのは見なかった。
・サーチライトでパイロットの目がくらむのか、弾が当たっていないのに二機くらい墜落するのを見た。
・艦砲射撃も数回あった。
・そのうち転進作戦がはじまって、朝鮮半島を南下した。
・腰にピストル一つだけ。
・途中で終戦の話を聞いた。飛行機が撒いたビラか何かで見た気がする。半信半疑でデマだろうと思った。
・吉州というところの小学校についた時、赤い旗をつけた戦車がきた。朝鮮人が戦車に乗って案内していた。
・裏山に逃げて一発戦闘をやるかとなったが、大隊長が白い敷布を竿の先に付けて、降参しに行った。大隊長の言う通りになって全員を呼んで武装解除。
・吉州から歩かされてリンゴ畑の中を行軍した。
・ソ連の兵隊は「アフタマー」という72連発の機関銃を持って監視していた。
・羅南港について、「ヤポン、アオモリ」だといわれて船に乗せられた。
・ついてみれば、日本の日の丸をスカーフにした女の人がたくさんいて、青森でなくてナホトカ港だった。
・早速トラックに乗せられて、一日か二日走ったか、収容所に入った。
・シーランチャ収容所に入った。
・一畳に二人か三人くらいで寝ていた。
・不衛生極まりない。シラミや虫がいた。
・風呂は、桶に三杯という制限があった。
・手ぬぐいを濡らせばすぐ凍るくらいの寒さ。
・仕事は朝、尻の肉をつまんでA、B、C、Dと分けられた。
・Aは鉛の炭坑に入ったり、木の伐採。その下のだとコルホーズでジャガイモの収穫。さらに下だと収容所の掃除をさせられた。
・炭坑ではソ連の人も働いていて、「必ず日本に帰れるから、元気出してやれ」と励まされた。人間らしいしぐさに触れて身をつないできた。
・シベリアの松ぼっくりは大きい。拾った松ぼっくりを焚火の中に入れて、身を食べていた。油があっておいしかった。このおかげで命を長らえた気もする。
・朝食は一切れの黒パンとアメリカの空き缶の中に入ったスープ。昼は黒パンとニシン。
・精神力が強くないと生きのびれない。おぼっちゃん育ちの人が弱かった。
・最初の一年間はバタバタ死んだ。満州の寒さとはまた違う。
・厨房にいる人は同じ捕虜でも太っていた。
・床屋さんや大工など、職がある人は楽をしていた。
・中尉以上と憲兵、軍属は戦犯でモスクワの方に連れて行かれた。将校は階級章をとってしまった。
・「スターリンのために働こう」とか、アジテーションを結構やった。
・ナホトカから遠州丸に乗船。

○昭和二十四年九月、舞鶴上陸。

・アジテーションをやっていたためか米軍に名前を呼ばれた。二世の将校にどこにいたか、どこになんの施設があるのか、いろんなことを調べられた。しまいには共産党に入るのか聞かれた。復員後も自宅に何回かきた。
・家に帰ると家族は喜んだ。母親は亡くなったと思って、毎日異国の丘を歌っていたらしい。
・どうしてソ連で労働をやらされたのかいまだにわからない。

●終戦時、陸軍主計伍長。
戦場体験史料館・電子版の開館中心にイベントの多かった今年の8月も残りわずか。
そろそろ9月~10月のキャラバンの準備も本格的に始まりつつあります。
今のところ考えられている、今後のキャラバンの予定です。

●秋田キャラバン
9月8日(土)~9月9日(日)
予備日9月10日(月)

●山陰キャラバン
9月22日(土)~27日(木)

●北陸キャラバン
10月6日(土)~8日(月・祝)

●関東キャラバン
9月15日(土)~17日(月・祝)
10月6日(土)~8日(月・祝)
3連休を中心に、動けるメンバーで随時聞き取り。

●信越・中部方面聞き取りの旅
関東よりも少し足を延ばす一人キャラバンが行われる可能性があります。

お彼岸の時期をはさむこともあり、体験者の方のご都合がつかないこともあるかもしれません。
一方、保存の会の主要メンバーの側には、運動会や文化祭といった行事の影響がそれほどなさそうなのは、この場合幸いというべきでしょうか。
上記以外の日程・地域でも、体験者の方がいらっしゃればお邪魔する方向で考えます。
体験者の方、体験者の方をご紹介くださる方、ご連絡をお待ちしています。