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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
いろいろとキャラバン・イベント情報が入ってきていますが、ブログ係は合間をぬって、仕事とボランティアと趣味の境界線を旅しております。
今日は渋谷アップリンクファクトリーで上映中の映画「ふじ学徒隊」を見てきました。
「ふじ学徒隊」というのは沖縄の「積徳学徒隊」のことです。戦後(わりと最近?)校章のモチーフになっていた藤の花からこの名前がつけられているようです。
元学徒隊だった方々の証言を中心にしたドキュメンタリーですが、今年2月の沖縄キャラバン2012でお話を伺った仲里ハルさんが証言者のお一人として登場されています。

あまりよく知られていない「積徳学徒隊」のことを伝えるためにこの映画が作られたということですが、個人的にはいろいろと予習しているので、ちょっと見方が違うかもしれません。

「ふじ学徒隊」となる女学生たちが、積徳女学校に入学したときから始まり、米軍上陸を前に看護教育を受けてから解散までを通す内容です。48分の比較的短い映画なので、入っていきやすかったです。
「ふじ学徒隊」が最初に配属された野戦病院壕は豊見城の海軍司令部壕の近くにあったことからか、戦況を説明する際に海軍の電報が用いられています。
また、女子学徒隊の中でも、「ふじ学徒隊」は戦死者が3名にとどまったのが特徴的で、なぜそういう状況だったのかということから、隊長を含めた軍医とのエピソードが描かれています。
「あらゆる地獄を集めた」と語られる沖縄戦の中では、むしろ見た人が意外に感じるような内容なのではないかという気がします。

予習していた(しかしご本人のお話は別のメンバーが聞きました)者としては、仲里ハルさんが捕虜になる直前の状況というのがはっきりわかったのでよかったです。
また、ひめゆり学徒隊と関係している部分もあり、沖縄の家族がさらされた状況が、よりリアルに感じられました。
逆に、白梅学徒隊と一緒に看護教育を受けた辺りは出てこなかったことが、個人的には少々気になりました。

作中、CGを使ったイメージ映像がときどき挿入されていました。
豊見城の壕が現在立ち入り禁止になっていることを考えると、中の様子が再現されているのはわかりやすくてよかったと思います。
保存の会のような一次資料としての無編集証言とは違う方向として、こういうイメージ映像をご本人が確認できる間に作成するということは、今後重要になりそうです。

この夏、つい一昨日まで「命がふぅ」という、やはり沖縄戦を扱った長編がアップリンクで上映されていたのですが、両方見ると沖縄戦のまったく違った側面が見えただろうと思います。
そちらの映画は、残念ながら、8月のイベントラッシュの間に見逃してしまいましたので、次の機会を待ちたいと思います。
同じ戦地の映画をまとめて見られる機会というのは、意外と少ない気がしますが、あの戦争を理解するにはよさそうだと、あまり客らしくないことまで考えてしまい苦笑しつつの一時でした。
メッセージありがとうございます。
登戸研究所続報ですが・・・
南方の石油をゴム製の潜水艦で日本まで輸送する計画・・・かなり奇想天外な研究が次々と!
まさか?というかんじですが、乗り物関係でも技術的に可能な分もあったのでしょうか。
そういう方面の研究の場合、災害時に使えるものがあったらすごいと思います。

講演で少し話が出ましたが、殺人光線については、電子レンジと同じ原理のものということなので、アメリカ辺りで実用化されているというものと同じなんだろうかと思いました。
実際使えるものもけっこうあったのですね。
それだけ発想力や能力のある人たちが集められていたということで、国力の使い方というものについても考えさせられます。
静岡・愛知方面に出かけていた一人キャラバンから取材報告が入っていましたので、掲載します。
8月20日(月)に伺った証言の概要です。

◎渡辺四郎さん(89) ※旧姓:溝田
取材日:平成二十四年八月二十日
所属:中部十三部隊第三中隊~陸軍機甲整備学校~陸軍憲兵学校~静岡地区憲兵隊~浜松憲兵分隊~沼津憲兵分隊。
兵科:輜重兵~憲兵
戦地:内地
――――――――――――

○大正十二年三月十五日、静岡県生まれ。

・実家は農家。
・田方農業学校卒業後、税務署に就職。

○昭和十六年十二月、兄が応召され、家業をやる人が誰もいなくなってしまったので、税務署をやめることにした。

・所長に告げると、「だめだ!そんなことされたら税務署もこまるじゃないか、父親を呼んで来い!」と言われた。

○昭和十六年十二月八日、父親と所長に会いに行った。

・さんざん揉めて、結局休職扱いにしてもらった。
・この日大東亜戦争が開戦。
・九日から翌年三月まで休んで、それから徴兵されるまで家業を手伝った。

○昭和十八年、徴兵検査。

・甲種合格。

○昭和十八年十二月一日、名古屋の中部十三部隊第三中隊入営。

・輜重兵の部隊。
・子供のころ、脱穀機で右手の人差し指を怪我したために輜重兵になったらしい。
・牛しか使ったことがないので、馬はこまったなあと思っていたが、第三中隊は自動車隊だった。
・ラバウルへの補充要員だったが、戦況悪化で取りやめになった。
・初年兵教育を三ヶ月。
・雪やみぞれが降るので、寒いなんてものじゃない。自動車に乗っていても寒い。
・三か月後、甲種幹部候補生になる。
・成績で甲と乙にわけられた。

○昭和十九年四月ごろ、陸軍機甲整備学校へ。

・東京の渋谷。【※世田谷】
・幹部候補生の教育を受けた。
・第一区隊。
・食べ物は高粱。
・忙しくて40kg代に痩せこけた。
・御殿場にも演習に行き、千石原へ下る操縦訓練を行った。
・ダブルクラッチをやらないと減速に入らない。下りで急こう配で曲がりくねった道を、ニュートラルにしてふかして進むのがおっかなかった。
・教官に頭を叩かれながら下った。下ると、ブレーキが焼けて大騒ぎになった。
・ガソリンをつかっていて木炭ではなかった。戦後免許をとった時、なにかアクセルが左にあった気がして、運転さばきは分かるが、足はピンとこなかった。
・日本の戦闘機がB29を攻撃して、逆に撃ち落されるのを見た。いい気持ちははしない。人間が降りて来るのを見てしまった。あれはかわいそうだった。
・学校で習ったのは上陸作戦への対応訓練。千葉の海岸線に敵が上陸したという想定で行った。作戦をどうするとか勉強した。
・自動車の整備もやるので手はあかぎれだらけ。
・号令調整をうんとやって声がかれた。その後からいい声が出るようになる。昔の下士官がマイクを使わないでも大きい声がでるのは、声を鍛えているから。
・今でも印象に残っているのは、作戦要務令にものっている「状況判断」と「遅疑逡巡」。状況判断して、いいと思ったらすぐやるということ。世の中にでても通用した。
・卒業間近の頃、「お前は憲兵はどうか」と言われた。「なんで憲兵なのかおかしいなあ」と思ったが、嫌とは言えなかった。後から考えると、入営前に税務署の経験があったからだと思う。

○昭和十九年十二月ごろ、見習士官に任官。

・曹長の階級章で将校勤務。准尉よりえらいので、軍隊はややこしい。
・憲兵学校は一月からなので、原隊の十三部隊に戻った。
・今までしぼられていたのに、衛兵が将校喇叭を吹いていて驚いた。食堂も将校食堂。軍隊とはこんなにかわってしまうものかなあと思った。
・あかぎれだらけの手だったので恥ずかしくてしょうがなかった。
・軍刀や服を全部偕行社から買った。
・二年兵は硫黄島に送られたと聞いた。

○昭和二十年一月、陸軍憲兵学校入校。

・東京の中野にあった。
・三ヶ月教育を受ける。
・主に憲法や民事訴訟法などの法律の勉強をした。スパイとかの勉強はしなかった。
・本来兵隊を取り締まるだけだったが、思想関係も入ってきて、憲兵は軍国主義の手先になってしまったんだと思う。
・一番印象に残っているのは教官だった中佐が、「日本は重大時局にある」といっていたこと。その時には負けることが分かっていたのかなあと思う。

○昭和二十年三月、憲兵学校卒業。静岡地区憲兵隊に配属。

・本憲兵は憲兵の徽章がつくので腕章はつけない。補助憲兵だけ。
・地区隊本部のある静岡に行った。
・戦争で国民が動揺していたので、警察の上を行く治安維持を行った。

○昭和二十年五月、浜松憲兵分隊配属。

・分隊長は大尉。その下に自分。
・飛行場の近くにあった。
・お寺に下宿していた。
・どこかの部隊の准尉が横領かなにかをして、はじめて取り調べに立ちあった。
・捕まえたアメリカ兵を護送したことがあった。
・浜名湖のちょっと上で日本が原爆の研究をしていた。そこを警備しに行ったこともある。
・よく共産党員を引っ張ったとか言われるが、そういうことをやった記憶はない。
・自分ではそんなに思っていなかったが、周りの人は憲兵をおっかながっていた気がする。
・隊のすぐ近くにあった河合楽器が、プロペラを作る軍需工場になっていた。そこを狙ってB29が爆弾を落としに来た。上空を見ていると、B29が爆弾を落とした。サササーッと竹のような音がした。
・P51が飛んできて飛行場の機銃掃射を行っていた。ちょうど自転車にのっている時に来たので、慌てて隠れた。おっかなかった。
・飛行場を使っていた重爆隊の大佐の飛行機が、戦闘機に撃ち落されたと聞いた。

○昭和二十年六月、浜松空襲。

・夜、まず照明弾を落としてから、油脂焼夷弾を落とした。
・市街にいた人は助けられない。
・庁舎も焼け始めて、机に置いておいた軍刀を燃やしてしまった。
・煙がすごい。苦しくてとても立っていられない。目もやられた。
・浜松全体が大火災。
・ちょっと低い所にあった道路でしのいだ。
・空襲が終わってから集合をかけると、憲兵軍曹が一人来なかった。
・「どこいっちゃたかなあ、弱ったなあ」となって、とにかく下宿先を探してみたが、焼けていて跡形もない。
・調べてみると、防空壕に家主が畳で蓋をしていたことがわかった。そこで、軍曹と奥さんともう一人が窒息して死んでいた。
・火葬場は死体だらけ。空襲はひどかった。
・空襲が終わってから地区隊に戻った。
・もう東京の憲兵学校では教育が出来ないから各地区隊で訓練することになり、その教育隊長に選ばれた。
・三十名位を、静岡は焼けて教育ができないので、三島で訓練することになった。

○昭和二十年七月、三島に行く途中で実家に泊った。

・この時沼津が空襲を受けた。
・B29が沼津を爆撃して、頭の上を旋回して戻っていく。気持ち良くない。浜松にいる時はなんともなかったが、家にいるとダメだった。身内がいるところにいるとまずいと思った。
・空襲が終わり、教育にもどった。
・三十人くらいに隊列を組ませて軍歌を歌わせたりしていた。

○昭和二十年八月十五日、終戦。

・憲兵隊は大騒ぎ。
・下士官あたりが一番動揺した。外地の憲兵は殺されているから、もうだめだということだった。
・山奥に逃げようとなったが、結局やらなかった。
・終戦で国民がどういう反応をするか心配だった。幸いにも混乱はなかった。
・沼津の憲兵分隊長の頭がおかしくなったので、代わりをやることになった。
・ここで残務整理をした。

○昭和二十年九月、憲兵少尉に。(ポツダム少尉)

○昭和二十年十月ごろ、復員。

・戦後、公職追放で税務署には戻れなかった。

●復員時、憲兵少尉。
本日のシベリアデーに合わせて、慰霊上映会が開催されるという情報が入っています。
メーリングリストより転載します。

◆8月23日 東京草の根上映
「帰還証言:ラーゲリから帰ったオールドボーイたち」  

日時:2012年8月23日(木)慰霊映画会
 ・16時半~ 前編:満州からシベリアへ(70分)
 ・18時半~ 後編:ラーゲリから帰国へ(90分)
              (片方のみ参加も歓迎)
会場:東京ロシア語学院2階ホール
    東京都世田谷区経堂1-11-2
    TEL 03-3425-4011
    http://www.tokyorus.ac.jp/map/gakuin-map.html
交通:小田急線経堂駅南口より 徒歩約5分

会費(資料代):一般800円、日本ユーラシア協会協会員500円
  
*映画終了後、映画制作者の いしとびたま さんや抑留研究者との懇談予定。

主催:日本ユーラシア協会「帰還証言:ラーゲリから帰ったオールドボーイたち」
    慰霊映画自主上映実行委員会(TEL : 03-3429-8231)
  http://www.kt.rim.or.jp/~jes/
保存の会メーリングリストに流れていた明日8月23日(木)のイベント情報を転載します。

戦後67年・第10回シベリア・モンゴル抑留犠牲者追悼の集い 

スターリンの指令でシベリア抑留が始まった8月23日に、シベリア・モンゴル抑留犠牲者を追悼する集いを国立戦没者墓苑で行うことを2003年から呼びかけてきました。今年で10回目になります。

一昨年戦後初めてシベリア特措法が制定され、厚生労働大臣が参列下さるようになりました。当事者・遺族だけでなく、市民の皆様にもお誘い合わせの上、ご参加ください。

今年も8月23日に千鳥ヶ淵にご参集ください。

■8月23日(木)午後1時から(1時50分まで)           

■国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑(千代田区三番町2 ☎03-3261-6700)
(*地下鉄東西・半蔵門・都営新宿線「九段下」2番出口から10分。駐車場あり。
*12:30に「九段下」の九段会館駐車場前から会場行き無料バスが出ます。)

■次第 黙祷・関係者追悼辞・挨拶・全員献花 
   (*屋外で行います。平服でお越し下さい。無料です。)

■呼びかけ・共催 「8・23シベリア・モンゴル抑留犠牲者追悼の集い」実行委員会
ソ連による日本人捕虜・抑留被害者支援記録センター(シベリア抑留者支援センター)・シベリア立法推進会議・韓国シベリア朔風会・日本・ロシア協会

■後援 厚生労働省・総務省・外務省(予定)

■連絡先 直通携帯080-5079-5461 ☎03-3237-0217・Fax3237-0287
*生花の予約・申し込みも上記へお願いします。 
     〒102-0074東京都千代田区九段南2-2-7-601 cfrtyo@aol.com

(*終了後,衆議院第2議員会館で懇談会(15:00-16:30)予定を開催します。千鳥ヶ淵から専用バスで移動下さい。)