あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
(株)ユニモトのドキュメンタリー映画『大本営最後の指令~遺された戦時機密資料が語るもの~』の夏の上映会について、主催者ブログに出ていましたので、お知らせします。
以前、夏のイベントが行われることについては一度お知らせしていましたが、予定時間等もう少し状況がはっきりしてきたようです。

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◯中野上映会
日時:8月13日(月)
   8月14日(火)
   8月15日(水)
   各日、午前の部10:00〜、午後の部13:00〜
場所:なかのZERO視聴覚ホール
   同じく展示ギャラリーにて、兵事資料の展示

◯調布上映会
日時:8月17日(金)
   8月18日(土)
   各日、午前の部10:00〜、午後の部13:00〜
場所:調布市文化会館「たづくり」映像シアター

戦場体験者、ニューギニア・召集令状の専門家等の講演を予定。

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今後も新しい情報があれば、随時紹介していきます。

(株)ユニモトのブログでの告知
 http://katarazuni.blog20.fc2.com/blog-entry-420.html


◆当ブログ内関連記事◆

○「大本営最後の指令」夏の上映会決定
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沖縄キャラバン2012が2月9日(木)に伺った証言の概要です。
1人だけ残っていたメンバーの最終日の聞き取りとなります。

◎仲里ユキさん(85)
取材日:平成二十四年二月九日
大正十五年生まれ
所属:野戦重砲兵第七連隊医務室(球4152)
戦地:沖縄南部
――――――――――――――

○大正十五年八月十日沖縄県生まれ

・家は農家。
・父親は那覇でポンポン船に乗っていて、母親も那覇で魚を売っていた。

○昭和十九年十月十日、十・十空襲。

・グラマンが来ても「まさか」という感じでみんな逃げようとしなかった。機銃掃射されてはじめて敵機だと分かって壕に逃げた。
・母親はびっくりして、着の身着のままで那覇から地元の壕まで来た。
・この後から陣地構築の壕堀作業に動員された。
・作業をしているうちに首里から来た人に呼ばれて、「あんたたち、いよいよ戦争はもう間近になっているけれど、球四一五二部隊で働いてくれないか。戦争が激しくなっても家族の面倒は見てあげるよ」と言われた。親に相談すると、「自分で決めなさい」ということだったので、働くことにした。
・あの頃は死ぬことが当たり前で恐くなかった。

○昭和十九年末、野戦重砲兵第七連隊(球4152)医務室勤務に。

・大里に陣地があった。
・民間と軍隊では医療器具の名前が違うので、一からそれを勉強した。
・初めの頃は、作業で怪我をした兵隊を軍医が治療するのを見ていた。見ているだけでも体が震えた。治療が終わると軍医に「この馬鹿野郎。このぐらいの傷で震えていて、戦争になったらどうするんだ!」とさんざん怒られた。
・毎朝朝礼で「海ゆかば」を歌っていた。
・部隊長は樋口中佐。医務室には、玉井軍医、江藤准尉ら十七名くらいいた。

○昭和二十年一月末、部隊に初年兵が入隊。

・空襲があるので壕の中で入隊式。

○昭和二十年四月一日、米軍上陸。

・重砲隊も攻撃していたが、おつりが何千発も来る。攻撃する時は外に出ないようにと命令された。

○昭和二十年五月二十六日、米軍が運玉森を攻撃しているのが見えた。

・部隊長が「今日は空襲の恐れがあるから絶対外には出ないようにしなさい」と命令した。トイレにいく以外は壕の中でちじこまっていた。
・となりにいたお姉さんが時計を見ていた。三時十五分、爆弾が落ちてきた。ちょうど仲間の仲里ひろこさんがトイレに行っていて、入り口に着いた時に爆風で壕の中に吹き飛ばされた。軽傷ですんだが、寝ていた負傷兵が二人、落ちてきた岩につぶされて即死。
・軍医が「飛行機が緩和になったら脱出しよう」と言っていうことになって脱出することになった。
・脱出する時にまた飛行機がやってきた。隣にいた尾崎隊の兵隊がやられていて、うーんうーん唸っていた。持っていた救急袋で手当てをしてあげた。
・兵器隊の壕に移動して一月くらい世話になった。
・このころから負傷兵が増え始めた。
・空襲で外にはでれないからみんな寝転がっていた。
・入口から離れていたところに寝ていた北海道の兵隊さんの頭に、運が悪く破片が直撃して、寝たまま逝ってしまったことがあった。
・顔をやられて、目も鼻もなくなってしまった人がいた。薬を運んできた人が明るい所でその人をみてびっくりしていた。
・重傷患者のおかゆをたかなけれなばらないが、みんな外に出るのを嫌がった。しかたがないので自分が重機分隊の七輪をつかって炊きに行った。炊き終わるころに、艦砲が落ちて、背中に衝撃を受けた。破片が直撃していると思って、「背中をやられた」と、壕に飛び込んだが、傷一つなかった。おかしいねえと思った。おかゆはダメになってしまった。
・艦砲のヒューという音は遠い。シュッという音は近い。間近におちるといきなりバンとくる。
・治療は夜にしていた。
・重傷患者は南風原の陸軍病院に連れていくことになっていたが、連れていく担架兵もやられる可能性があるので大変だった。
・食事は二食で砂や泥の入ったご飯や乾パンを食べていた。動かないので二食で十分。飢えることはなかった。
・部隊長が医務室は二つに分かれてどこどこに出発するように命令して、佐敷町(※現南城市)の二中隊の壕に移動することになった。
・夜中ずっと歩いた。
・佐敷に着いて四、五日すると、敵は佐敷まできているというので、知念岬の三中隊の壕に移動することになった。
・ここでは弾はあまりこなかった。朝起きるとひさしぶりに外に出て、深呼吸をして「あー、よかったねえ」と思った。
・再び 敵が来ているということで、夜に何十メートルもある絶壁を通って、海岸に下りた。下りたら照明弾でボンボン照らされてまったく歩けなかった。新原の海岸には避難民がたくさん集まっていた。
・本隊のいる具志頭村に向かうことになった。そこに行くためには敵中を突破しなければならなかった。
・そのころは毎日のように雨が降って、河も増水して渡るのが大変だった。志堅原に着くと村の人が案内すると言ってくれた。下流の方は渡れないから、上流の方で渡ることになった。

○昭和二十年六月九日ごろ、具志頭へ出発。

・出発前に准尉に「昼寝をしなさい」と言われて、同郷の瀬底シズさんとお互いに腕枕をして寝ていた。そのためか二人とも同じ気持ちになっていて、同じ言葉がすぐに出た。万一どちらかが生き残った場合には、親兄弟に国のために一生懸命つくして死んでいったことを伝えるようにと二人の中で一致した。
・後ろからは米軍の曳光弾がプシュープシューと飛んでくる。米軍が来ているのが分かっていたが、どうしようもない。兵隊さんが先に渡って銃を出して、それに捕まって渡った。
・渡り終わったところでものすごい攻撃にあった。手榴弾とかいろんなものが投げ込まれ、シズさんが「あーっ!」と大きい声を上げて倒れた。背中をやられていて、そのまま息を引き取った。
・体を出来るだけ縮めてじっとしていると、徐々に弾が遠のいてきて、夜が明け始めた。
・隣にいた仲間のたまよしキヨさんがキョロキョロしている。手も足もやられていて、青くなっていた。「じゃあね。シズさんと一緒に逝こうね」と言って、自決用の消毒剤を飲むことにした。自分はすぐに取り出せたが、たまよしさんは怪我をしているのでの取り出せない。そうこうしているうちに、シズさんと決めたことを思い出して飲むのをやめた。
・部隊が目の前だから、昼は死んだふりをして夜になったら逃げようと話していると、米軍が声を機械で探知したのか弾が飛んできて背中に当たった。火傷したような感覚で、血が流れていると思った。死ぬ前に傷口をさわってみようと手を当てたら、肌着まで破けていたが傷がなかった。「あれ、私生きてる」。そのまま仰向けになっていると、五メートルくらいはなれた所で「かあーちゃーん!」という声がした。銃剣の音もしたので、突撃に行く元気な患者がいるのかと思って見ると、初年兵の患者が銃剣で自分の首を切ろうとしていた。「あ、ちょっと待って下さい。そんなことしないで、私と一緒に死んだふりして逃げましょう」と言ったけれど、初年兵は首を振った。その直後にまた弾が飛んできて、止んでから初年兵を見ると、頭が半分なくなっていた。
・後に、江藤准尉ともう二人が部隊にたどり着いて、泣きそうな顔でみんなやられたと報告したと聞いた。
・夜が明けると米兵がベラベラしゃべっている。周りを囲まれていた。一人でも殺してやろうと、持っていた手榴弾を投げようとした時に、うしろから米兵がきて図嚢のベルトを切って中身を持って行ってしまった。
・米兵は河原の木を切って毛布をかけて担架を作った。それにたまよしさんを乗せて、自分は歩いて第二線に連れていかれた。
・そこで所属部隊など米兵にいろいろ聞かれた。部隊を言ったら国賊になると思い、たまよしさんと二人で相談して、「死んでも部隊名は言ってはいけないよ。あくまで住民だよ」と決めた。
・米兵に「私達をどこにつれていきますか」と聞いたら、「第三線につれていく」と言われて、やってきたジープにのせられた。着いたところは今の琉球ゴルフ場の向かい側だった。
・たくさんテントが張られていて、たまよしさんは治療を受けて、自分は将校にかこまれて二世の尋問を受けた。兵隊の半袖を着ていたので、これは拾ったものだと言い張った。
それから、「住民のいる所に連れていく」と言われて大きなダンプに乗せられた。住民と認められたと思った。
・ダンプは佐敷町の屋比久の村に着いた。病院も憲兵隊本部もあって、住民もたくさんいた。
・ここで「病人の治療をしなさい」と言われた。怪我をした住民が大勢いて手当てした。
・あまりにも患者が多いので、お昼を食べたら休みもせずにすぐ治療していた。
・右腕が破片創の人がいた。傷口は黒ずんでいて、中から大きいウジ虫が湧いていた。とってもとっても翌日にはまた湧いていた。その人は医者に「あんたは破傷風だから。腕を切りおとすよ。明日準備するように」と言われて、「右手がなくなるんだったら死ぬ方がいい」と自分に相談に来た。「黒い肉を切って、赤い肉が見えないとどうしようもないよ」と言うと、「じゃあ、あんたお願いします」と頼まれた。命をかけているからやったこともないけどやることにした。ちょこちょこはさみで切って、消毒してガーゼを詰め込んだ。終わると、「ありがとう」とごちそうをたくさん持ってきてくれた。その後、切り落とすこともなく治ってしまったらしい。本当はやりたくなかった。
・破傷風で死ぬ人がたくさんいて、大きな穴に死体をなげ込んでいた。
・治療できることを米軍に怪しまれて、「ほんとにあなたは住民なのか」と何回も聞かれたが、「関係ない」の一点張り。名前も隠していたが、収容所には親戚や知り合いもいて、「ユキ」「ユキちゃん」と呼ばれて本名はばれていた。
・収容所の近くに親戚が住んでいて、夜に何度か泊まりに行った。米兵は収容所にいないことがわかると、夜通し収容所を探しまわっていたらしい。帰ってきたら「夜も眠れないから。あんたどこにもいきなさんな」と収容所のおばさんに言われた。それからは外に行かなくなった。本当は逃げるつもりだった。
・米兵がテントに黒人を呼んできたことがあった。黒いといっても沖縄の自分たちみたいな黒さだろうと思っていたので、テントに黒人が入って来ると驚いて「助けてくれー!」と大声で叫んでしまった。周りのテントの住民も大騒ぎになった。あの時は本当にびっくりした。
・家族が漢那(※現宜野湾市)にいることが分かったので、北部に移動した。名護の親戚宅に四、五日いてから漢那に向かった。正確な居場所はわからないので聞いて尋ね歩くつもりだった。
・漢那につくと長屋がたくさんあったが、ちょうど水場に行く姉に会った。「あれ、ユキが来てる」と大騒ぎになり、苦労しないで親に会うことが出来た。
・着いたら安心してしまったのか、マラリアで寝込んでしまって二週間くらい大変だった。
・ここからまた南部に移動して、床もない家で蚊帳を敷いて寝ていた。土人みたいな生活で、みじめさを感じた。
・しばらくして故郷に戻って畑仕事をしていた。海岸に米軍の小さい船から大きい船が台風でたくさん打ち寄せられてきて、残っていた食糧や道具を皆で分け合った。
・九人いた家族は南方に行った兄弟も含めて不思議と皆無事だった。
自分が聞き取りを行った分の証言概要をほとんど上げていないことに焦りながら。

ブログの方は毎日更新しているわけですが、継続と新情報の広報重視でやってきたために、いろいろと問題が生じてきています。
最近の記事を見ただけでもわかりますが、繰り返しお邪魔する地域については、キャラバンの呼び方がわかりにくいという点がまずあります。
例えば沖縄キャラバンの場合、2011年2月、2012年2月につづいて、2012年6月にまた行う予定になっています。証言概要の方は、過去2回の分でまだ上がっていないものがけっこうあります。この調子で3度目の沖縄キャラバンに入り、最新の情報が入り始めたらなかなかややこしいことになるのではないかと心配です。

もともとキャラバンの呼び方については、公式発表のものと違うものが多いです。
ゴールデンウイークの場合だと、当ブログで「群馬・栃木キャラバン」と呼んでいるものは、保存の会公式としては「北関東キャラバン」になっているようです。(しかも、「ようです」というほど確信が持てません。)
キャラバンどうしの区別をつけるために年や季節を入れたり、地域を区切ったりしていますが、先がはっきりしていない状態で名前をつけるので、「2012」とつけたけれども、同じ年にまたその地域に行くことになる、ということも出てくるわけです。
ブログがデータベース的な役割をするとしたら、ある程度名称をつけなおす必要があるのだろうかと考えています。

個々の証言概要については、日付に何年というのが入っていない場合が多いです。
最初キャラバンが半年ぐらいのイベントだと考えられていた名残ですが、これは直した方がよいと思います。落ちついたら、多少決まった目印の付け方を考えた方がよいだろうか、などと考え始めると、なかなか進みません。

あくまでリアルタイムであることを最優先しつつ、キャラバンが続くことになったのを反映して、長期戦対応にしていかねば、と思っています。
夏公開の本家戦場体験アーカイブスの様子を見ながら、こちらも地味にいじっていくことになるでしょう。
沖縄キャラバン2012で、2月6日(月)に伺った証言の概要です。
ゴールデンウイーク中にメーリングリストに流れていましたので転載します。

◎嶺井徳吉さん(87)
大正十三年生まれ
所属:歩兵第五十九連隊(照7768)砲兵大隊(?)
兵科:野砲兵
戦地:パラオ本島
――――――――――――

○大正十三年五月二十八日、沖縄県生まれ。

・小学校を出てから、畑に行ったり、ヤギの草刈りをしたり、豚を養ったり。
・青年隊にはいって軍事教練をしていた。
・兄が沖縄にいると兵隊にとられるからと言ってサイパンにいた。それにならって自分も南洋に行くことにした。
・南洋興発に応募。

○昭和十五年十二月ごろ、沖縄を船で出港。

・鹿児島に上陸して一週間ほど他の沖縄出身者を待つ。それから汽車で横浜へ。ここから南洋行きの船に乗る。

○昭和一五年十二月三一日、サイパンに上陸。

・姉が大きな料亭で働いていて、居候することになった。
・綿花工場で現地人と一緒に働いた。
・しばらくして、親戚に口を聞いてもらって、パラオ諸島コロールの菊池商店で就職することになった。
・店員が五名いて、四人が沖縄出身。皆良い人だった。
・月給十円で住み込み。夜はトランプをしたり遊んで楽しかった。
・青年団に入って、仕事が終わってからは相撲をしたりしていた。

○昭和十九年、飛行場建設の勤労奉仕に、自分から進んで希望した。

・山から石を持ってきて、それを砕いて敷き詰る。
・南方で捕まえたブルドーザーがあった。下士官が運転して触らせてくれなかった。
・パラオには荷役の朝鮮人がたくさんいて、彼らも勤労奉仕に駆り出されていた。一緒に作業して仲良くなった。
・三千メートルの飛行場で、三分の一もつくらないうちに空襲でやられて作業が出来なくなった。

○昭和十九年七月ごろ、召集令状が届いた。

・パラオ本島の野砲大隊(近藤隊)に入隊。本部付。
・食糧収集とか陣地構築の作業に当たる。
・野砲は分解してかついで山に運んだ。
・はじめは鉄砲も帯剣もあったが、野砲隊には必要ないので歩兵に渡されてしまった。
・高射砲が良く当たったが、陣地に火炎弾が落とされて全滅したらしい。
・島は米軍に包囲されていた。
・ペリリュー島の四回目の逆上陸部隊に選ばれた。
・武装検査の時、先をとがらせて焼きを入れた竹やりを渡された。ボートもないので車のタイヤに沈まないように蔓をまきつけたものに乗って行くはずだった。結局待機しているうちに中止になった。
・それから漁労班に入って小魚採りがはじまった。
・小舟を探してきて、ダイナマイトと手榴弾を使って、飛行機が飛び交う中で漁をした。
・落ち着きがないとやられてしまう。落ち着きがあると大丈夫。
・飛行機がきても逃げたらもうだめ。すぐやられる。光が反射するので水中眼鏡をはずして藻をかぶって絶対動かないでじっとしている。二メートルもぐりこめば機銃弾は当たらない。
・飛行機がこっちにむかってくるのか、少しずれているのかを判断するのが大事。
・班長は熊本出身の石川准尉で班員は五、六名。
・自分はかじ取りで、准尉がダイナマイトを投げていた。気絶した魚をとる。
・リーフにいるメバルなどの小さい魚がとれた。
・大きい魚を渡すと上の人が食べてしまうので、渡さずに自分達で食べていた。
・飢えや栄養失調で亡くなる人がたくさんいた。しかし、漁労班は朝昼晩、煮付け、刺身、揚げ魚が食べれた。そのためにまるまる太って、股ずれが痛くて困った。
・部隊に渡す以外の魚は兵隊がもらいに来てもあげられなかった。もらいにきた兵隊には骨を隠して渡した。

○昭和二十年八月十五日、今日の飛行機は変だねえ、ゆっくり飛んでるなあと思っていたら終戦だった。

・大隊本部にちゃんとした服装で呼ばれて、玉音放送をきいてから大隊長が訓示した。
・「やっと戦争がおわったんだなあ」と思った。喜びというよりも気が抜けてなにもやる気がおきなかった。これからどうしようか、これからどうなるのかということしか考えていなかった。
・連隊本部に集合することになって行ってみると、こんなにいたのかというくらい兵隊が集まった。自分達は肥えていたが、ほとんどの兵隊が栄養失調でまともに歩けなかった。立つのがやっとの人がたくさん。連隊長が挨拶してもそのへんに寝転がったままだった。
・戦争が終わると他の部隊の漁労班も漁をしはじめた。敵機よりも4、50メートル先で漁をする他の漁労班の方が恐かった。目の前でダイナマイトをポコポコ投げる。
・手榴弾が配られて、試してみようと戦友が叩いたら爆発。手はちぎれて目も見えなくなった。すぐ止血して、トロッコで野戦病院に運んだ。声ははっきりしていて、「嶺井くん殺してくれ」と言われたが、何とか一命はとりとめた。

○昭和二十一年二月ごろ、LSTに乗船。

・水だけしかもらえなくて大変だった。

○約一週間後、沖縄上陸。

・戦争で草木もなく、掘り起こされたみたいで真赤だった。なつかしいのを通り越して何とも言えなかった。


●終戦時、陸軍上等兵。
今日で、うちの祖父の死から4年が経ちました。
当ブログを始めてから3回目の祖父の命日です。

昨年11月に帰省した際、県庁に寄って祖父の軍歴を入手しました。(実際には後日郵送でやりとりをして入手しました。そういうものらしいです。)
再来年の7回忌までには、祖父のことを中心に、家族の記録をまとめようと思っているのですが、なかなか進展しない状況です。
何より、本人がいれば直接聞けるのに、というのが頭にあるもので、実のところ7回忌に向けて祖父を偲ぶというかんじではないのがなんとも。

軍隊のことを含めて祖父の話が一応残っているものとして、地域の人物名鑑のようなものがあります。
載せませんかと言われて、迷ったけれども、記念だからということで5万円払って話をしたそうです。保存の会ならビデオがタダで残るのに!
・・・というのは置いておき。
ゴールデンウイークの群馬・栃木キャラバンで、那須烏山でお会いした体験者の方が、やはり5万円払ってそういう本に載せるお話をされたということだったので、わりとどこでもあることなのだろうかと思ったところでした。この体験者の方の場合は、それで保存の会の聞き取りも警戒されていました。
普通に生活している人の人生の記録を遺すということをめぐっても、いろいろあるものです。

そういうわけで、体験者の方が戦場体験を話したいとおっしゃっていても、ご家族や周りの方が心配して反対されるというのはわからなくはないです。
しかし、体験自体は、遺された方が絶対によいと思います。というより、遺さないというのは余りにもったいないし、その家にとって損失だとさえ思います。
聞いていて痛い話というのも多かれ少なかれあるものでしょうが、自分の家族、特に自分の祖先にあたる人の人生というのは、自分自身のために知っておくのがよいと思うのです。それは、自らのルーツを知ることであり、自分自身を知ることでもあるはずです。

広く一般化するなら、人が等しく持つ何かが、戦争への道を開いているといえるかもしれません。それゆえに、先達の体験を遺し、知ることが必要なのでしょう。
しかし、そういうことは置いておいても、家族の記録を遺しておくことが、自分自身の人生を顧みるときに役に立つことはきっとあると思います。
戦争の体験に関しては、できればそれを他の人とも共有していただきたいと思うのです。

ともかく、私自身は、祖父の戦場体験を聞いて遺しておかなかったことを、この日が来るたびに残念に思っていますし、今後も思い続けることでしょう。