あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
昨年末の上映会で大好評だったドキュメンタリー映画『大本営最後の指令』のDVDが発売されました。
実は1ヶ月前に発売されていました。キャラバンに突入したので、紹介が今頃になってしまい、すみません。

ドキュメンタリー映画『大本営最後の指令~遺された戦時機密資料が語るもの~』
 1月30日 DVD発売 定価:2800円(消費税込み)
 初回は大町市の塩原書店にて発売。連絡先:0261-22-0076

また、上映会場で予約を受けつけた分から随時届けられているようです。
お世話になった方の元にも届けていますとのこと。

DVDの購入はもちろん、上映したいという団体、映画館からのご連絡は大歓迎のはずです。

詳しい状況は、この映画の制作会社である(株)ユニモトの制作日記ブログをごらんください。
http://katarazuni.blog20.fc2.com/
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沖縄キャラバン2012で、2月8日(水)午後に伺った証言の概要です。


◎松本好郎さん(81)
取材日:平成二十四年二月八日
戦地:慶良間諸島渡嘉敷島
―――――――――――――――

○昭和六年五月二十三日、渡嘉敷島生まれ。

・父親は鰹節工場の工場長。
・自宅には守備隊の副官が二人泊まっていた。

○昭和十九年十月十日早朝、浜辺の近くで上空を飛行機が飛んでいるのを見ていた。

・島にいた日本兵に聞いたら「友軍が演習をしている」ということだったが、支那事変から帰って来た村民は「あれは友軍の飛行機じゃないよ」と言っていた。それでもアメリカの飛行機とは思わなかった。
・しばらく見ていたら山に爆弾を落とした。「これは友軍じゃない」と分かって一目散に逃げた。
・学校が焼けたので、それからは近くの部落の入り口の木の林の陰で勉強していた。
・壕堀はやらず特攻艇を壕から海へ運び出す訓練をした。
・このころから山中で避難生活。

○昭和二十年三月、国民学校卒業。

・県立一中に合格して四月一日に入学することになっていたが、本島に行く船がなかった。
・特攻隊がいたためか民間人は島外に出れなかった。

○昭和二十年三月二十四日ごろ、艦砲射撃がすごくなった。

・村は盆地で、そのまわりの山が火事になった。

○昭和二十年三月二十七日、米軍上陸。

・山の上で監視をしていた防衛隊員が「敵が上陸してきた」と言っていた。
・住民は山中の避難場所に逃げた。

○昭和二十年三月二十七日夜

・命令があったのか子どもだったから分からないが、住民が守備隊本部に集まることになった。
・座間味が玉砕したと聞いた。
・鍬とか鎌を持っていった。
・履物はなく裸足だったので、焼跡を歩いた時に熱かった。

○昭和二十年三月二十八日午前九時か十時ごろ、

・村長をはじめ島の住民全体が集まった。(阿波連という部落の人々は連絡が遅れたのかいなかった)
・座ってしばらくしたら村長さんが「はい」とか「はじめろ」だったか号令をかけて、すぐにあちこちで自決が始まった。
・バーンバーンと手榴弾の音が聞こえて「始まったな」と思った。万歳もなかった。「はやくやろう」となった。
・父親が防衛隊員で二個の手榴弾を持っていた。父親がその信管を鍬で叩いたが、二つとも不発だった。防衛隊に渡された手榴弾は古いものだったらしい。
・あちこちで首が取れたりしていて、ここはまずいということで生存者は元いた避難場所に逃げることにした。
・逃げる途中、手榴弾の破片が兄の背中に当たった。ちょっとした傷だったが、服が血だらけで真赤だったので、「もうだめたな」ということになり、自決した場所の近くにあった川のそばに寝かせることにした。
・もう一人学校で教わったことのある女の先生も、生きてはなかったと思うが仮死状態だったので、同じように毛布をかけて寝かせた。
・避難場所に戻ってしばらくすると、兄が戻ってきた。

○昭和二十年三月二十九日、弟が生まれた。

・岩の穴場に隠れていて、声をあげたら殺すつもりだった。

○昭和二十年四月一日、米軍沖縄本島上陸。

・米軍がいなくなった。

○昭和二十年四月半ば、米軍が百人くらい戻ってきて陣地を作り始めた。

・伊江島で捕虜になった人々がつれてこられた。
・時々山の方から部落を見ていると、ドラム缶かなにかでゴミを焼いているのが見えた。「あれは米軍が悪いことをした日本人を焼いているんだ」という話が流れたが、「ほんとかなあ」と思った。
・夜になると、兵隊や生き残った村民がこっそり部落に行って、伊江島の情報を聞いていた。
・攻撃されたら困るので避難場所は何度も変えた。
・渡嘉敷と座間味の間は大きな海峡で米軍の船がたくさんいた。時々特攻隊が来て攻撃していた。
・島の陰で米軍が損傷した船をカンカン叩いて修理している音が聞こえた。
・夜になると避難場所から海岸に出て行って、流れ着いたアメリカの食べ残しを拾って食べてしのいでいた。それが米軍にばれて、夜通る道に地雷を敷設された。その地雷にひっかかって亡くなる人もいた。

○昭和二十年八月十五日、飛行機から敗戦のビラがまかれた。

・これまでずっと友軍が来て日本が勝つと思っていたが、負けたんだということで白旗を持って部落に下りた。
・幕舎に入れられて一週間ほど生活。
・家も焼けないで残っていたが、伊江島の人が住んでいた。そこで数キロ離れた阿波連の空き家に入った。
・米軍が配給したメリケン粉などを食べていた。
・半年くらいして伊江島の人が本島に連れて行かれたのでやっと家に戻れた。
・家族は全員生きのびた。
沖縄キャラバン2012で、2月5日(日)石垣島で伺った証言の概要です。
かつてのマラリア有病地帯方面に車を走らせての取材でした。

◎伊是名米さん
昭和3年生まれ
取材日平成24年2月5日 石垣島


◯1944(昭和19年)10月~3月
石垣小学校で看護実習を受ける
三角巾の使い方、包帯の使い方を習う。

◯1945(昭和20年)3月~終戦
・16歳の時、第28師団第三野戦病院薬剤部へ
・マラリア患者や兵隊の死体が出ると、担架で担いで700m先くらいに運びにいった。途中で機銃掃射があると遺体を捨てて逃げた。
・病棟が6つくらいあった。(一つが20人くらいを収容する。)病棟はマラリア患者でいっぱいだった。
・海軍と陸軍の飛行場があったため、爆撃があった。爆弾が落ちて負傷した患者の病棟は一つ。
・機銃は頻繁にあったが、一度病棟付近に爆弾が落ちて火事になったことがある。その影響で兵隊、患者が飢えた。
・6月1日に軍から住民に非難命令が出る。マラリア患者はその以前から病棟を埋めていた。患者が多すぎて薬を作るのが大変だった。シラミがすごかった。
・マラリアに感染すると、最初は寒気がきて、そのあと痙攣し、腰が痛みはじめる。それから高熱にうなされる。
看護婦も何人も感染した。(伊是名さんも感染)戦後もマラリアに悩まされる人が多く、死者も出た。
・衛生兵の軍曹が機銃掃射で撃たれて死んだ。目ん玉が飛び出ていた。
・終戦は雰囲気で知った。「あぁ、日本は負けたんだな」と思った。日本兵を米軍の船に乗せる作業を手伝った。

◯石垣島虐殺事件
1945年4月、石垣島飛行場を爆撃するために飛来した米軍機が撃墜され、米兵三人が捕虜になった。斬首で殺害後、命令を受け40~50人の兵が杭に縛られた米兵を刺した。(映画『わたしは貝になりたい』のモデルと言われている。)
伊是名さんは兵隊が話しているのを聞いた。「自分は上司の命令でやっただけで、好きこのんでやったわけではない。」
2012年2月の沖縄キャラバン2012で聞き取りを行った方の一覧です。

お名前から、それぞれの方の証言にリンクしています。

基本的には公表の可否を判断するため、戦場体験放映保存の会メーリングリスト等に証言レポートが上がった方についてのみお名前を載せます。
今回は、途中の旅の報告で体験者の方のお名前が出ていますので、ほぼ最初から記載しています。

沖縄キャラバン2012
訪問都道府県:沖縄県
日程:2012年2月3日(金)~2月9日(木)
※2月2日(木)前泊1名。本隊は2月6日(月)まで。


◆◆2月3日(金)◆◆

●1班
那覇市
午前:沖縄子ども会育成協議会事務所

当時:子ども。白旗の少年として投降。
午後:1フィート運動の会事務所

当時:積徳高等女学校生徒。積徳学徒隊。


●2班
那覇市
沖縄県教職員組合事務所
午前:

当時:子ども。
午後:

当時:


●3班
午前:那覇市
沖縄県教職員組合事務所
◎大嶺初子さん
当時:国民学校4年生。家族で南部を転々。

午後:
浦添市

当時:長崎の造船所に徴用~佐世保海兵団。

当時:当時子ども。北部に避難。

◆◆2月4日(土)◆◆

●1班
午前:
那覇市
◎長田紀春さん
当時:沖縄陸軍病院見習士官。
午後:
西原町


当時:県立第三中学校生徒。三中鉄血勤皇隊(通信隊)。
夜:
那覇市

当時:子ども。座間味島集団自決。

●2班
午前:
南風原町~糸満市
戦地だったところで聞き取り。
◎仲程シゲさん
当時:15歳。国民学校高等科。
午後:
糸満市

当時:子ども。

●3班
午前:
八重瀬町
◎当時:子ども。

●4班
午後:
宜野湾市
◎酒井勇吉さん
当時:台湾歩兵第1連隊第2大隊7中隊。海南島~ルソン島~ジャワ島。

◆◆2月5日(日)◆◆

●1班
石垣島
戦争マラリア関係中心に。
◆八重山平和祈念資料館
◎潮平正道さん
当時:八重山中学校鉄血勤皇隊
◎玉城功一さん
当時:波照間島から西表島へ強制疎開。
◆かつてのマラリア有病地付近

当時:
◎伊是名米さん
当時:第28師団第三野戦病院薬剤部看護要員

●2班
午前:
国頭村
◎東恩納寛文さん
当時:第2護郷隊(第4遊撃隊)
午後:
東村
◎金城幸昭さん
当時:第2護郷隊(第4遊撃隊)

●3班
午前:
名護市

当時:第1護郷隊
午後:
那覇市
1フィート運動の会事務所
◎福地曠昭さん(1フィート運動の会代表)
当時:大宜味村の中学生。

当時:第2高等女学校生徒。十・十空襲後北部避難。真和志村の遺骨収集について等。

◆◆2月6日(月)◆◆

●1班
午前:
南城市
奥武区公民館

当時:子ども。
午後:
与那原町
与那原町コミュニティセンター

当時:県立水産学校鉄血勤皇隊(通信隊)

●2班
午前
南城市
奥武区公民館
◎嶺井徳吉さん
当時:沖縄から外地出征の兵士。パラオ。
午後
与那原町

当時:野戦重砲兵第23連隊

●3班
午前:
うるま市

当時:
午後:
那覇市
1フィート運動の会事務所

当時:県立第二高等女学校生徒(白梅学徒隊)

◆◆2月7日(火)◆◆

旧暦十六日のため、聞き取りなし。
那覇~南部戦跡めぐり。

◆◆2月8日(水)◆◆

糸満市
午前:

当時:
午後:
糸満市海人工房
◎松本好郎さん
当時:国民学校卒業前後。集団自決に巻き込まれる。

◆◆2月9日(木)◆◆

午前:
与那原町
与那原町コミュニティセンター
◎仲里ユキさん
当時:重砲兵第7連隊医務室勤務

午後:
那覇市

当時:熊本航空機乗員養成所12期生。米軍に占拠された読谷飛行場を夜間爆撃。
沖縄キャラバン2012で、4班が2月4日(土)午後に伺った証言の概要です。
このメンバーが沖縄から帰って3日後には上がってきました。今回のキャラバンの証言概要1番乗りです。
沖縄戦ではなく、沖縄出身で外地の戦場を経験された兵士の方の証言です。


◎酒井勇吉さん(96)
取材日:平成二十四年二月四日
所属:台湾歩兵第一連隊第二大隊七中隊
兵科:歩兵
戦地:海南島~ルソン島~ジャワ島

○大正六年四月十三日、沖縄県生まれ。

・京城師範学校卒業後、北朝鮮で小学校の教員に。
・日本で教員になるより朝鮮で教員をしたほうが待遇が良かった。給料に手当てがついた。

○昭和十五年十二月、台湾歩兵第一連隊補充隊に入営。

・部隊は台北にいた。”第三部隊”と呼んでいた。
・機関銃中隊に配属され、基礎教育を受ける。
・その後七中隊へ。
・幹部候補になれたが、職業軍人は嫌だったので希望しなかった。

○昭和十六年、海南島へ

・二、三カ月討伐。
・中隊規模で討伐に行った。
・時々支那の兵隊が兵舎に夜襲をかけてきた。

○昭和十六年十二月二十二日(?)、リンガエン湾から敵前上陸。

・敵の飛行機が飛んで来たが、ほとんど無抵抗。
・陸軍だったので上陸するまではこわかった。
・どこの部隊よりも早くマニラに入城せよということで、夜も昼もずーっと歩いた。
・勝ち戦で楽な戦争。戦死者もださずに入城。
・行軍がつらかった。・マニラまで二、三日歩いたと思う。
・途中敵の応戦もあったが退けた。機関銃とか大隊砲で攻撃して、その後に突撃する。
・道端に戦死したアメリカ兵が倒れていた。
・あんまり戦死者はいなかった。
・マニラまで二、三日歩いたと思う。
・フィリピン人はあまり好意的ではなかった。
・マニラ入城後、バターンを攻略する部隊と交代してジャワ島に行くことになった。

○昭和十七年三月一日、ジャワ島クラガンに敵前上陸。

・オランダ軍の抵抗はなかった。
・ジャカルタまで行軍。
・インドネシア人は非常に好意的。フィリピンとは正反対。
・オランダ降伏後、シンガポールに行くということでジャカルタに待機していた。
・ジャワはいいところ。よく遊びに出かけた。
・慰問の手紙で沖縄で苦戦していることを知っていた。

○昭和二十年八月、玉音放送を聞く。

・「生きて帰れるな」と思った。
・たくさんあった食糧を住民に配っていた。

○昭和二十年、名古屋上陸。

・二、三カ月名古屋で沖縄行きの船を待った。

○昭和二十一年、復員。

・沖縄に帰ると家も何もない。家族は全滅。
・親戚の人が港に迎えに来ていて、その人の家で世話になった。

●終戦時、陸軍伍長。