FC2ブログ
あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
信州・北陸チームが9月1日(水)に伺った証言の概要です。
富山市で収録会として聞き取りを行いました。

◆◆◆

◎清水光行さん

1928(昭和3)年8月3日生まれ
本籍地:富山県

●1943(昭和18)年12月1日 志願(中学3年)
 村松陸軍少年通信学校(新潟県村松町)入校 11期生。
○従兄が戦死し、父親から敵を取ってこいと言われた。
 また夏休みに母校に予科練などに行った先輩が帰ってくるのを見て自分も何かせねばと思った。
○試験は勉強については簡単な一般常識、むしろ実技面での適正を厳しく見た。
 ○△×を10分ほど読み上げ1、2、3の数字に置き換えていくテスト、ランダムの数字をスピーカーが読み上げそれを足していくテストなど半日。
○4中隊・800人が同時に入学した。
○地名や日常用語を4けたの数字にしてありその辞書がある。
 それに付表の乱数表の何ページ何行目の何文字目の数字から初めて乱数表の数字を足していくというふうに暗号を作る。
 付表は何日何時から何日何時まで使用というふうになっていた。
○送信の得意な者は1分間に120文字を打ち、受信の得意な者は1分間に100文字を受ける。
●1945(昭和20)年3月 卒業

●1945(昭和20)年3月
 第13軍通信第12連隊(登7336)配属、上海
●1945(昭和20)年6月 安慶派遣
○沖縄の次は上海に上陸するという情報があり、中国の奥地に行っていた部隊が上海への撤退作戦に入った。
 これらの撤退する部隊に無線通信で情報を出すための派遣。
○撤退してくる兵隊は軍に配給された靴を履いている者が殆どなく、裸足か地下足袋。
 食糧がないため銃が重くて持てず銃を持っていない兵がたくさんいて、大変惨めな有様だった

●1945(昭和20)年8月
 15日の記憶は無いが、通信なので広島長崎も東京や大阪の空襲もラジオから情報は入っていた。
●1945(昭和20)年10月 上海へ帰隊
○笹舟に前後に重慶軍の船が付き監視下戻った。
○南京駅で武装解除。
 南京城の城内へ武器の返納に行ったところ、あらゆる武器がもの凄い量集まられていた。
 それだけ見るとどうしてこんなにあったのに負けたのだろうという気になった。

●1946(昭和21)年2月1日 復員
先日の企画会議の際、沖縄キャラバンのメンバーが全員そろったため、旅の計画に進展があったようです。
沖縄取材リピーターのメンバーが、地図や参考文献等を配って事前の案内をしていました。

沖縄キャラバンのメンバーは4名になりました。
現地の方が、体験者の方の紹介と案内で加わってくださることになっています。

2月4日(金)~7日(月)の4日間が基本の日程です。
メンバーによっては途中合流して可能ならもう1日ぐらい後まで滞在することになる模様。

2月5日(土)は、「ひめゆり」ゆかりの場所を回り、ひめゆり学徒の方のお話を伺う予定です。
各地で戦場体験記録を残す活動をされている方との交流も、全国キャラバンの大きな目的ですので、この日はそういう面でも期待できそうです。

今回、沖縄を回るには窮屈な日程ですが、それだけに2回目以降のことも考えて、つながり作りができるとよいと思います。
昨日の企画会議で、昨年12月11日のシンポジウムについて振り返った中で、やはり戦場体験者の方に壇上で発言していただく方がよいのでは?という意見が出ました。

シンポジウム自体が、戦場体験放映保存の会としては初めての試みだったのですが、壇上に体験者の方が直接登場しないイベントというのも初めてでした。
第1部では証言映像という形で、首都圏以外の体験者の方に登場いただいていました。
会場にお越しいただくのが難しい遠方の方の紹介としては成功でしたが、お元気な体験者の方の多い現在は、体験者の方に直接登場していただくイベント中心の方がいいのではないかというのは確かです。
昨年は特に、3年間やってきた日比谷公会堂での集会のようなものがありませんでした。

そういうこともあって、今年は体験者の方に登場していただく大きなイベントを開催しようという案が上がっています。
今のところ、まだ「やりたい」ということでいろいろ考えてみているという段階ですが、総会のときには議題になる見込みです。昨日の会議では特に反対意見はなく、むしろ体験者の方はみなさん大変乗り気でしたので。

今後の保存の会の展開を考えた形にしたいということで、日比谷公会堂での集会とは違った形になるでしょう。また、何かしらの形で全国キャラバンの成果も見えるものになると思われます。
これから、もっといろいろな方のご意見もいただきつつ、検討していきます。
本日、1月23日(日)、戦場体験放映保存の会の企画会議とビデオ撮影講習会を開催しました。

企画会議については、『戦場体験史料館通信』とメーリングリストでお知らせしていました。
3月に予定している保存の会総会に向けての、2010年の企画の振り返りと、2011年の企画についての話し合いで、だいたい内部での意見交換という形でした。
体験者の方7名、若手11名が参加。
とてもお久しぶりな体験者の方もお見えでした。
体験者の方が話される場面が多かったです。直接総会に活かせるかというと難しい展開になりました。今後もご意見をFAX等でいただき、総会の次第をつくっていくことになります。

2時間ほどの会議が終わり、体験者の方がお帰りになったところで、今度はビデオ撮影講習会を行いました。
映画『語らずに死ねるか!』の長尾監督をお迎えして、戦場体験を記録するためのビデオ撮影をレクチャーしていただきました。
テクニカルな面もありましたが、証言を撮るということに特化して、基本的な撮影方法と注意点といった内容となっていました。聞き取り前後の流れのことや、質問の内容の考え方等に沿った話となっており、早くこれを知っていれば・・・と思うことしきり。これまでの経験から納得することも多かったのも確かですが。
講習会で教わった内容については、ブログでもまとめる予定です。これまで「保存の会について」で書いてきたことと重複するところもありますが、おさらいをして、今後各地で身近な体験者の方の聞き取りをしてくださる方が活用できる形にできればと思います。
以前、漢字1字または2字の「兵団文字符」と「通称番号」から成る「通称号」について書きました。
敵に隊の正式名称を悟られないための暗号として、部隊につけられた秘匿名の一種ですが、この形のものが使われ始めたのは、1940(昭和15)年9月以降です。

1937年(昭和12)年9月~1940年9月の間は、秘匿名として、部隊の指揮官の姓が使われていました。例えば、「高橋部隊」「山本部隊」といったかんじです。
しかし、これでは指揮官の異動や戦死があるたびに部隊名が変わることになり、不便なため、前述の通称号が使われるようになったということです。

なお、満州事変以前は、部隊は基本的に国内の本拠地にあったため、正式名称を隠す必要がなく、秘匿名はありません。

実際に、最近の聞き取りで、指揮官の姓を掲げた部隊名が出てきたそうなので、改めてまとめてみました。
その方のお話では、指揮官の姓ではない偽の姓を使ってさらに隠そうとしていたこともあったそうです。
作戦上の都合で普段の兵団文字符と違う略号が使われた例もあるようなので、この方の部隊の場合も何か特別な事情があったのでしょうか。

これでどの程度敵を混乱させることができていたのかはわかりませんが、聞き取りの前後にその部隊の足取りを調べておこうとする私たちは、それなりに混乱させられる部分だと思います。