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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
会場からの声がいくつか出たところで、語り継ぎの難しさということを改めて感じる中田事務局長。加害と被害ということがあり、それを語る元兵士の側と受け取る側の複雑さがある中で、何を残していくのかという問題があることに触れます。
また、猪熊さんの発言を受けて、「語られないもの」「欠落」の部分を残していくことが大切だと語ります。
今後映像を活用していくアイデアというところを含めて、パネリストの方々に一言ずつお願いしました。

小澤さん
語りたくないことの中に戦争の真実があるというのは、経験があります。本当に心が傷ついた人たちは話をしてくれません。広島・長崎の場合もそうで、そこに語らない真実があるのだと思います。
映像ということでいうと、「沈黙」というのが出てきます。語り手も無言、こちらも何も言えないという瞬間。語られることのない真実のところに話が及んだときなのだと思いますが、こういうとき、こちらからは何も言えません。
この沈黙の意味は、活字ではなかなか表せませんが、映像なら前後の流れから、何かが、言葉のみでない何かが伝わることがあるのだと思います。

北村さん
映像の可能性としては、沈黙がそこに記録されるというところに意義があると思います。
また、沈黙を埋めるものとして「現場」があります。沖縄の場合も、戦時中こういうことがあったというその場所で話を聴くときなどに、ふと出会うことがある。時間・空間がある種一気に遡るといった、不思議なことが起こることがあります。現場に立つことによって、そこで直接体験者の話を聴くことによって、何か、さあっと開けてくるものがある。そういう意味で、ご自宅で聴くだけでなく、一緒に現場に行って聴くことで開ける可能性はあると思います。
体力的な問題等から、実際に外国に行くのは難しい場合もあるでしょう。が、この5年ぐらいが勝負だと思いますが、できればその現場に行って、一緒にその場に立って聴くといったことを取り入れてもらえたら、というのが提案です。

上丸さん
連載の最後の回は、「沈黙の言葉を未来につなごう」がテーマでした。語らない方たちの言葉が一番強いという。
ただ、元日本兵は沈黙しても、日本兵に家族を殺された人々は沈黙しません。
これからおそらく、語り継ぎの文体が変わるのだと思います。
日本では、これまで戦争は受動的に語られてきました。「爆弾を落とされた」「~された、ひどいめにあった」と。しかし、日本も戦争の前半では大喜びしたし、中国では加害者だったこともあります。そこは語られてこなかった。そこには、新聞の責任もありますが、ずっと「何かをされた」という受動態で語られてきた。
しかし、今後「~された」経験をしていない世代になると、能動的に語られるように文体が変わる可能性があると思います。体験が人間を形成するとすれば、自分がその被害者でないからフラットになれる。
体験から自由な世代になることで、戦争を能動態で語ることになるのではないか。そこに不安と希望とがあるように感じます。
ここで、その匿名希望の方の証言概要を掲載します。
匿名希望の方のお話の扱いについて迷っていたたため、紹介するのをできるだけ後回しにしていました。
12月11日(土)第一次全国キャラバン報告会&シンポジウムにご本人様がいらっしゃって発言してくださいましたので、その流れに便乗して紹介させていただきます。
イベントでは名乗っていただきましたが、ここはインターネット上ですので、やはりお名前は伏せさせていただきます。

◆◆◆

◎○○さん(匿名希望)

1924(大正13)年9月生まれ。
1940(昭和15)年 北京気象庁に就職(軍属)。
 今の北京大学を施設として使っていた。
 就職後、気象予報、事務など希望ごとに分かれそれから教育を受ける。
 6名1チームで予報図を1時間ごとに書く、3チームがあり交代制。
 福井敏雄さん(昔お天気キャスターとして人気のあった人)と同じチームだった。
 あるとき観測所からの連絡がすべて暗号に切り替わった。
 訓練はしていたが慣れず、予報図を書くのが遅れ、3チームが全部昼夜働きづめで、正常化するまで3昼夜かかった。
 何かあるぞと思っていたら20日後太平洋戦争が開戦した。

1944(昭和19)年12月25日 現役
独立混成第1旅団独立歩兵第74大隊

1945(昭和20)年1月
 機関銃だったが衛生兵になるように言われ北京の陸軍病院で研修。
同年5月 大隊本部医務室へ戻る。

同年6月16日
○6月16日夕方より戦闘開始。
 汪兆銘軍200名が八路軍についたとの情報が入りがっくりした空気が流れる。
○400名ほどで城壁内に閉じこもりその周囲を数千人に囲まれることになった。
 城壁があるのでかえって逃げ出せない。夜中に土塀に抜けられる穴を作りそこから出ていくが、時間がかかるのですぐに見つかってしまう。
 出て行った先でまた囲まれるということを繰り返した。
○18日の朝までにはばらばらになり指揮系統もなくなった。
○36名が残ったところで、生き残ることは難しいという判断で自決することになった。
 そのことを知らせる伝令としてまだ元気の残っていた5名が選ばれ(5名の誰かが生き残るだろうと)他の人間が道を開き5名が脱出することになった。
○脱出は出来たものの平原で逃げ場がない。
 結局また3~400人に囲まれることになり、2名は腹部を撃たれ戦死した。
 3名でお墓の土まんじゅうに逃げ込んだ。3名で手りゅう弾と銃が一つずつだけ。
○死のうと言い合うが3名の呼吸が合わない。
 「水を飲まないと死ねない」と一人が言い出し小便を飲む。
 濃縮され渋くてあたたかった。
 そうしているうちに捕まってしまった。
○中国軍の中隊長は日大卒で流暢な日本語を話した。
 丁寧な扱いだったが銃を持っていた一人は他所へ連れて行かれ、その後は分からない。
 皆死にましたよと言われたが、戦後調べると日本軍の援軍があり、八路軍が引き揚げて36名の半分ぐらいは復員したようだ。
○吉田やすおと偽名を名乗る。
 敗戦前の捕虜なので、以前古参兵からその時は偽名を言えと教えられていた。
 国を通じて捕虜の名前は伝わるだろうから、それが故郷に行ったら迷惑がかかると思ったから。

同年8月15日敗戦
○中国兵から「日本は負けましたよ」と伝えられた。

同年9月1日~
○ソ連へ抑留されるということで1日15里ずつ歩いて移動したが、受け入れ先がいっぱいだという説明でトラックでモンゴルに戻された。
○モンゴルでは収容所に入る訳ではなく、農村の普通の民家に分散して収容された。その家の仕事を手伝った。
○証言者は「唯物史観の勉強をするか」と誘われてそうすることにしたが、学習をした者、していない者で収容の形態は変わらなかった。

1946(昭和21)年6月 復員
○船は夕方出港し、朝博多に着く予定だった。
 「今夜共産主義の学習組の中から7人の人間を袋叩きにしようという噂がある。7番目に名前があがっているから気をつけろ」と親しい友人が教えてくれた。
○夜になると実際にその順番で呼び出しが始まった。
 数十分ごとにグループの配下の者が呼び出しに来る。
 実際に7番目に呼ばれた。
○呼ばれたときちょうど「投げろ」という声がかかって6番目の人間が海に放られるのを見た。自分も殴られ「投げろ」と声がかかったが、リーダーの側近で「こいつは衛生兵で世話になった者も多いから勘弁してやれ」と言う者がおり、リーダーもあっさり「そうか、それならやめよう」と言って戻ることができた。
 戻ると心配していた学習組の仲間たちが「あとの6人は戻っていない。よかったな~」と喜んでくれた。
○やったのもやられたのも全員敗戦前に中国の捕虜になっていた45人ほどのメンバー。殺されたメンバーは中国語が得意な者が多く、学習組の中で中国側に交渉の窓口として選ばれていた。
 実際には待遇改善に尽力していたが学習に参加しなかったグループにはねたまれていたのだと思う。
○とにかく怖かったので船が着いたら復員手続きはせずすぐに列車に乗って帰郷した。
○自分も当時偽名だったし、ほかのメンバーもそうっだったかもしれない。
 戦後連絡を取り合ったものはいない。
猪熊さんの熱い語りの最中、会場前方に何か動きがある様子。
(このとき、ブログ係、舞台袖にいたので、何事が起こっているのかわかりませんでした。)
それが何事なのかは、次の中田事務局長の言葉でわかりました。

「実は、長野から、さきほどの映像に匿名希望ということで登場された方がいらっしゃっています。」

なんと、匿名希望のお2人目として証言を紹介した方(しかも、お顔が映らないよう、首から下だけをビデオに撮っていた方です)が、はるばる長野からお越しだったのです。
(あの、扇風機の音が入っていた方です。)

お名前は、伏せた方がよろしいでしょうか・・・と、遠慮ぎみに一言をお願いする中田事務局長。
ご本人にマイクが渡ったようです。

「長野県上田から来ました○○です。」
自ら、お名前を名乗られたため、会場が静かにどよめきました。
(※インターネット上では、やはりお名前は伏せさせていただきます。)

「87歳の今日まで生きのびてくることができて、こんないい会に参加できて、とても嬉しく思います。
また、会の方に苦労していただき、こんな立派な本(※証言集)を作って残していただいたことも、とても光栄に思います。ご苦労様でした。
本の最後の、「戦友よ語ってから死のう」という一句は、本当に大好きな一句です。
語り合っていきたいなという気持ちから、今まで秘めていた気持ちを、本当は顔を出さないでおきたいと思ったのですが、雰囲気にのまれて・・・勇気を出して、ここで語ることにしました。」

・・・・・・この方の聞き取りを行ったメンバー、証言集を編集したメンバー、そしておそらくその場にいた全員が心動かされた瞬間だったと思います。かく言うブログ係も、心の中で「うおおお」と叫んでいました。

「もっといろいろ語りたいけれども、長野に帰るバスの時間が迫っていて、それに乗り遅れるとその切符が使えなくなってしまうので、これで失礼します」
との一言で、さらに会場を沸かせて帰途につかれました。
ここで、戦場体験放映保存の会の役員である戦場体験者猪熊さんから、発言をいただきました。
いわば「客席のパネリスト」というかんじの発言なので、ここは詳細に紹介します。

保存の会の活動が始まって5年以上になりますが、猪熊さんには初期から参加していただいています。当時は保存の会の事務所は渋谷にあり、近くの喫茶店の会議スペースで会議をしていたこともあったとか。そういう会議に、今回のパネリストである北村さんがときどき顔を出されていたそうです。
「会議の後、北村さんと列車に隣り合って座って帰ったことを思い出します」と、猪熊さんのお話は、そのころの思い出話から始まりました。
以下、猪熊さんのお話です。(※ある程度、ブログ係の方でまとめて書いています。)

私は今、「わだつみ会」はじめ、いろいろな団体の活動に参加していますが、私たちが語り継ぐのは、そろそろ最後です。これからは、次の世代が語り継ぐことになります。
戦場体験は人それぞれ違っており、体験者はそれぞれ思いを持っています。その思いを、語り継ぐ世代はどう伝えていくのかが問われている時代です。

私は、ある会の中で、「語らないことの中に戦争の真実がある。語りたくないことの中に戦争の真実がある」ということを言いました。
「こんなことを、本当に家族の前で話せるのか?」と思うから話せない。そこに語りたいことがあるのに。
例えば、シベリア帰りの人の2割は、何も語らずに亡くなっていきます。シベリアでの3重苦、寒かった・ひもじかった・仕事がつらかったというところまでは話をするけれども、人間性を失って死体から服を剥いでパンに換えたというのは、虚しくて辛くて悲しくて腹立たしくて話したくない。これがシベリア帰りの人にあると思います。
それは他の戦場でもそうで、そこに戦争の真実、残酷さがあると思いますが、それがなかなか語り継げないし、語り継ぐ人もいない。これを次の世代にどう伝えるのかというのが課題だと思います。

もうひとつ、沖縄の例でもありますが、日本の兵士たちがどのようにしてあのような「軍人」に育て上げられたのか、ということはあまり語られてこなかったと思います。
軍隊の中で、人間性を無視されて鍛え上げられて、侮蔑感・差別意識の上に立って「日本兵」が生まれ、いろいろな事態があった。内務班でそのように仕立て上げられたことは、戦友会では語っても、一般の人にはみじめだから語らない。そこには、戦場で戦う兵士の姿はない。
その辺りを掘り下げて語り継ぐ必要があるのではないでしょうか。

それと、上丸さんにもお願いしたいことですが。
私は15歳で少年兵となり19歳でシベリアから帰りましたが、少年兵に志願した大きなきっかけは、朝日新聞の「撃ちてし止まむ」の宣伝広告でした。街角には広告塔が建てられ、私たちはみんな敵国の国旗を踏みにじって、「撃ちてし止まむ」の敵愾心を育てていました。
十数万の学徒出陣のことは語られても、42万を超える少年兵のことはほとんど忘れ去られようとしています。
敗戦間際の状況は、この42万の少年兵に象徴されるのではないか。この少年兵のことも、もっと語り残していかなければならないのではないか。

語り残す方が何を語り残すかということと同時に、語り継ぐ人が何を語り継ぐか、それを、今この期間に、十分に議論する必要があるのではないかと思います。
12月11日のイベントのレポートはまだ途中です。
リアルタイム性を重視して、兵庫ミニキャラバンの様子が間に入ったのはともかく、あんまり引っ張ると打ち切り間際の連載漫画のようになってしまいそうな気もしています。
そう言いながら、こういうつぶやきが割り込むのはいかがなものか、というところですね。もうすぐ出番の方にもご覧頂いているのではないかと思います。すみません。
毎日まとめるだけでもけっこう頭を抱えているのですが、これから本番ではクライマックスといえるような場面だった部分に入るので、さらに緊張しています。

このイベントレポートを描きながら、言葉だけでその場面を伝えるということの難しさを改めて実感しています。
例えば、昨日書いた部分の最後の北村さんの発言は、とても激しい内容だと思います。が、それを口にする北村さんの語り口は、とても静かなのです。どちらかというと淡々として聞こえるくらいの語りです。しかし、それまでのかんじとは少し違うような気もする・・・という微妙なかんじが、言葉と状況説明だけではなかなか出せません。
それが、まさにこのシンポジウムのテーマとつながるところであるような気もします。
証言概要で、お話の内容は広く伝わるけれども、それがどのような口調で語られたのか等は、実は伝えきれないのです。
そこに、映像として残す意味もあるということか、と実感しているところです。
できることなら、直接、語られているその様子をまるごと共有していただきたい、と思うところです。

と、ここでこの話をするのが、イベントレポートの続きを書くのにいいのか悪いのか、それもよくわかりません。
ただでさえ、語られたままの言葉を書いているわけではなく、だいぶ書き手の主観や誘導が入った形になっており、会場にいらっしゃった方や読んでくださる方がどう受け止められるかというところに多少なりとも影響していると思いますので。その辺りが、「公式」ブログと言うのをはばかる部分でもあります。
もしかして、これで盛り下がったらどうしようか、と心配は尽きませんが、もうしばらくシンポジウムのレポートにお付き合いください。