あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
証言の詳しい内容は、証言ビデオ本体や証言集にお任せして、全国キャラバン隊の準備からその後までの様子を伝えようというのがこのブログです。いわば「舞台裏レポート」。
しかし、かなりはっきりと分業されているために、ここでは伝えきれない旅の舞台裏があります。
その最たるものが、証言集の制作現場です。

証言集の編集に関しては、プロの技術を持ったメンバーが、一手に引き受けています。体験者の方から紙媒体で送られてきた原稿を電子媒体にする作業や、ビデオを見直して証言の内容を確認する作業等は、多少他のメンバーが分担しているところもありますが、とにかく「編集長」的メンバーが寝る暇を惜しんで作業をしています。
今回、証言集をできる限り12月11日のイベントでお披露目したいということで、かなりのハードスケジュールになっている上に、いろいろと予期しないことが起こったりしているようで・・・
私しょうみー(仮)も、学生時代に冊子を作るという作業は多少やったことがあり、ページの割り付けといったものがややこしいというのも多少はわかるのですが。単純にページ数だけでもその3倍ある今回の証言集の編集の苦労は、とんでもなく大変だと感じるけれども、「わかる」わけがありません。よって、その状況を表現することができません。
証言集はお話をしてくださった体験者の方にとっての記念の意味も強く、証言を記録することへの強い思いがこもっていると感じます。
土壇場での無理な変更等も加わりながら、全国キャラバン「夏の陣」の証言集は120ページに及ぶ大作となります。
戦場体験の重さに寄りそう「舞台裏の闘い」の重さも感じていただきたい、などということは私が言うことではないのですが、ともかく少しだけここに記録しておきたいと思いました。

だから証言集がもし1000円になったとしても「高い」と言わないでください・・・と言ったら台無しですね・・・
いえ、真面目な話、それ以上の価値はあると思います。
スポンサーサイト
北海道チームが、8月21日(土)午前に伺った証言の概要です。
これも、旅の途中でメーリングリストに上がっていたものです。

◆◆◆

◎佐々木豊さん
昭和2年4月15日生
昭和18年6月5日志願
予科練 飛行兵 操縦

中学3年生、学校の飛行兵のポスターを見て、大空にあこがれる。
志願。
昭和18年2月適正検査を受けるために、初めて北海道を離れる。
体重、身長が若干足りないので、背伸びをして、ふんどしに銅線を巻いて少しでも重くしようとした。それほど合格したかった。
3月合格。6月土浦へ。訓練は短縮されて一年予定だったが、さらに短縮されて10ヶ月。

昭和19年1月帰省。上長より、「かならず帰郷した際には、母校に立ち寄ること」との助言をもらい、母校にも立ち寄る。
街で、「荒鷲の歌」が流れており、大変誇らしげに歩いた記憶が鮮明。

昭和19年3月 操縦に。
93式練習機で飛行訓練。飛行時間5時間で単独飛行を経験。
東京に住んでいる同期は、自分の母校の上を低空飛行で飛んで、バンクをふった。無茶をするなと思ったが、うらやましかった。

昭和19年9月編隊訓練を実施。大村航空隊で念願のゼロ戦の操縦に。
ただし、帝都の空を守るのは経験のある先輩たちで、佐々木さんは、待合室でひたすら待機し、「敵機襲来」の合図でゼロ戦に乗って、雲に隠れる空中退避の役割。
一回につき20分から30分ひたすら隠れる。雲がないと、隠れることができなくなるので「青空が怖かった」とのこと。下を見ると、爆撃で火があがるところがわかり、艦砲射撃の弾幕を見ると、弾道が感覚的にわかり、どこに落ちるかが手に取るように分かった。

昭和20年8月15日終戦。
玉音放送で日赤の看護婦が泣き出し、みんなうずくまった。徹底抗戦を叫ぶもの、情報が間違っている負けるわけが無いと叫ぶもの大変な混乱だった。
9月に全国キャラバン「夏の陣」が終わり、すでに2カ月が経過しました。
現在、「夏の陣」総まとめとなる報告会が予定されており、並行して証言集の編集が進んでいます。
証言集の編集に必要な情報として証言概要がまとめられると、それを回してもらって当ブログに掲載しています。それで、2カ月たっても夏の旅の報告が続いているわけです。
キャラバンの旅がスタートしたときには、その日の旅の報告が証言の内容中心であれば証言概要を載せるという具合で、ほとんどの証言概要を掲載する方向になるとは予想しませんでした。
旅ができていく過程を記録していく方向だったので、どちらかというとリアルタイムの臨場感があることを重視しています。それで、史実の確認もしてよくまとまった証言概要があっても、旅の最中に送られてきた報告を掲載することにしました。昨日紹介したのはそういうもので、結果的に1人の体験者の方の証言が2つ掲載されています。
その一方、全ての方の証言概要を掲載できるのかどうかは、まだわかりません。(証言掲載不可の方を別にしても。)最終的に使える記録映像とする過程で、いつかは証言概要を書いてもらうことにはなるはずですが、旅から時間が経過するほど、後回しになりやすくなるだろうと思います。
関東以西へのキャラバンの準備が始まっており、そちらに力を注ぐ必要もあります。ブログもそちらの情報を出す内容が中心になっていくはずです。
キャラバン隊の旅はイベント的なものですが、記録すること自体はもっと長期的なものとして見た方がよさそうです。いずれは、当ブログも、毎日更新の時期が終わり、証言概要ができたときに更新する形になることでしょう。それはそれで、ある意味「できたてほやほや」の臨場感があるといえそうな気もします。(笑)
いつになっても、旅の最中と同じように、「何月何日の旅の様子」という形で出していく見込みです。

旅の途中で撮った写真等も、受け取ったら随時掲載していく予定です。証言集にも掲載されるようですが、そちらはえりすぐりの1枚プラスアルファというかんじになっているでしょう。紙面の都合を考えなくてよい分、ブログの方がたくさん載せられますので、そういう利点は今後も活かしていきたいところです。
できるだけ、「何やっているのか」がわかるようにしようと考えています。
戦場を経験された方たちの記録があれば、誰がそれを残したかというのは、もしかしたらそう重要ではないのかもしれません。(注:ブログ係の個人的感覚です。)それでも、ブログには、その記録の舞台裏が残ることになるわけです。
「名もなき兵士」のお一人お一人に光を当てて残す活動の中で、無名の個人の奮闘ぶりもほんの少しだけ残ることになるのかな、と、今更ながらに考えるのでした。
少し前(11月11日)、北海道チームが8月21日(土)に聞き取りを行った佐藤正さんの証言概要を掲載しましたが、これはいろいろ史実を確認しながら最近まとめられたものです。
北海道チームが旅の途中で送ってきていたものもありましたので、そちらも掲載します。
北海道チームの旅のころは並行して中国地方番外編もあり情報がたくさん入っていたため、ブログで紹介したつもりでできていませんでした。すみません。
旅先でまとめられたものは雰囲気が違っていますので、いくぶん間違いも含まれるようですが、旅の記録ということで「簡易版」として並べて掲載します。

◆◆◆

◎佐藤 正さん
大正10年1月5日生
飛行兵 整備 (途中操縦)

昭和17年7月1日現役。
八戸飛行隊入隊 6ヶ月間訓練。
土地の名前も分からず移動。
昭和18年秋 茨城県つくばに配属。
昭和19年3月幹部学校に入学、4月まで学校。
特攻隊の志望を募られる。全員が挙手。(700名くらい)
健康診断、適正検査を受けて最終的に82名に。この中に佐藤さんも入ってしまう。

キ-62で特攻。任務は米軍艦艇の撃沈。
昭和20年2月硫黄島周辺の米艦隊へ特攻が計画。
出発前に飲めない酒を飲んでふらふらに。
つめ、髪の毛、を形見として遺すように助言を受ける。
上からの命令は、米軍艦艇の撃沈であり、それが果たせないと判断をしたら帰還することも許された。
結局硫黄島へは5回特攻したが、生還することができた。

沖縄戦への特攻が次ぎの任務。
9機編隊で特攻。途中、グラマンが上空で待機しており、レーダーで待ち伏せをされたと思われる。散々に追い立てられて、編隊は崩れる。
雲の切れ目を抜けると米軍艦隊上空に飛び出たが、とたんに激しい対空砲火。花火がたくさんあがっているみたい
だった。被弾をし、燃料も漏れ出した。海面すれすれに飛行して、上昇をしてなんとか切り抜け、帰還を決意。
上昇する際は燃料を使い、下降するときはエンジンを切って滑空する飛行でなんとか大分までたどり着き、着陸。30箇所に被弾をしており、副操縦士は死亡。

結局、特攻で選抜された82名は7名に。特攻する飛行機もなくなり、待機に。
飛行場で爆撃を受けること何度もあった。一度、4名で走って防空壕に逃げ込もうとしたら、同期の高橋が破片でスパッと腹を切られて、内臓が飛び出した。「苦しい」と言っていたので、無我夢中で爆撃の中を医務室に運んだが、死亡した。

終戦時、玉音放送を聞いた特攻の同士7名は意を決して自決を図ろうとする。どこで漏れたか自決をしようとしたときに周りから兵士が出てきてとめられて。

自宅に帰ったら、家族は腰を抜かした。特攻のことは知っていたので、戻るはずがないと思っていたようだ。父親が「しばらく外出をするな。恥になる」と言われたのは非常にショックだった。
東東北チームが8月15日(日)の午前中に伺った証言の概要です。
東東北チームは、この方と一緒に、終戦記念日の正午のサイレンを聞きました。

◆◆◆

◎高橋清光(せいこう)さん

●1925(大正14)年1月21日生まれ

●1942(昭和17)年7月 陸軍軍属
 同級生6名と軍に志願するが色弱で不合格。
 職業安定所にいた叔父に南方は止めろと満州を勧められ軍属に志願。
 兄が入隊しており(昭和20年ルソン島で戦死)両親は反対。
 ハンを盗んで志願した。
 満州への渡航費(自己負担)を親が出してくれなかったので、お寺の住職に理由を言ったら貸してくれた。

○満州第581部隊陸軍被服廠(奉天)。
 防毒マスクのチェック、被服の運搬にあたる。

●1944(昭和19)年 母死去の報に10日間休暇を得て帰国。
 反対を押し切って渡満し、それが最後になったので後悔の念が強い。

●1945(昭和20)年4月15日 現役
 123師団 工兵第123連隊、満州孫呉へ。
 ・肉迫攻撃の訓練。
  みかん箱ぐらいの箱を爆弾に見立て、発火装置のひもを服のボタンにくくりつけ、手を伸ばして戦車の下に飛び込む訓練。
 ・爆薬の量を決める実験。
  戦車の壁の厚さを想定してどれぐらいの爆薬が必要かをみる実験。
 ・陣地構築、防空壕掘りなど

○同年8月9日 ソ連軍参戦。
 ソ連機が飛んでくるのを見る。
 兵舎へ戻れと伝令があり、新品の軍服・戦闘帽・靴が支給される。
 負けても恥ずかしくないようにと兵舎の整理をして出発。
○数日後 ソ連軍の戦車が数十キロに迫まる。
 道路・鉄道・橋など要所の爆破にあたる。
 橋の爆破はまだ友軍が渡れていないから待てという情報と、ソ連軍が近づいているから早くと言う情報が交錯して混乱。
 橋の上に人馬がいるまま爆破してしまい水に落ちる惨状。
○8月13日 特攻命令。
 数キロ先の戦車への肉迫攻撃の命令。
 分隊長と高橋さん、日本人1名、朝鮮人2名の計5名に、天皇の命令として受けてくれと言われる。
 ハンカチとペンを戦友に渡す。
 戦車の50メートルまで近づく。
 夜間で見えないので分隊長の白いハンカチを合図としていたが、一人が急に反対に走り出したので気付かれ機関銃掃射を受ける。
 沼に飛び込んで首だけ出して暫く待つが機関銃はやまず諦める。
 戻った5人に中隊長は「まだまだ機会はあるから」と言ってくれた。
○8月19日 敗戦を知る。
 道の両側には両軍の死体が積まれ臭いがひどい。
○8月20日 武装解除。
 中国人が笑って見ていた。手を叩かれる。
 小石を投げつけるこども達もいて悔しい思いをする。

○9月 アムール州・ブラゴヴェシチェンスクに抑留。
 当初収容所には日本人700名、朝鮮人300名がいたが、朝鮮人が日本軍将校を集めてつるし上げを繰り返した。
 これが3~4日続いて対象が古参兵にも広がってきた。
 そのため1ヶ月ぐらいで朝鮮人だけ別の収容所に移る事になった。
 別れる時、一緒に特攻するはずだった二人の朝鮮人が「国に帰ったら是非遊びに来て」と言いに来てくれたのが嬉しかった。

 仕事は製粉工場での作業。
 門で身体検査があったが、小さな袋に小麦を詰め、靴や帽子の中に入れて持ち出した。手に握って出ると灯台元暗しで気付かれなかった。
 農場の仕事もありこちらも作物を持ち出した。
 ドイツ兵がいたが話そうとすると銃を上に向けて撃ち脅された。
 
 シラミがたかり、2~3日ごとに新しい卵が孵る。
 煮沸消毒が徹底するまでチフスで3割ぐらいが亡くなった。

 民主化運動が始まり階級がなくなる。
 とにかく帰りたいので赤旗の歌も歌った。
 復員の船で共産党の指導について怒鳴り合いが起きたが暴力事件はなかったと思う。

●1948(昭和23)年6月19日 復員