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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
信州・北陸チームが8月31日(火)に伺った証言の概要です。
長野県松代収録会2日目に参加してくださった2名のうちのお一人です。

◆◆◆

◎久保博統さん

1922(大正11)年10月29日生まれ
当時の本籍地 長野県

●1944(昭和19)年 教育召集。
 鉄道第2連隊(習志野)の留守部隊に召集。
 第3乙種、国鉄の駅で営業職をしていた。

●1944(昭和19)年9月19日 召集 鉄道第4連隊。
 教育召集のつもりだったのがそのまま召集に切り替わった。
 すぐに下関、釜山を経て牡丹江へ。

●1945(昭和20)年3~4月 鴨緑江への鉄道橋の架橋作業。
 安東に滞在。
 前4名、後ろ4名で丸太の運搬作業。

●1945(昭和20)年5~6月 遼河への架橋作業。
 ここでの架橋作業には労務者として満州の現地人が働いていたが、雨が降ると蜘蛛の子を散らすようにあっという間にいなくなる。
 現地の人の服は綿で出来ているからかなと思っていた。

●1945(昭和20)年7月~
 機関車手の助手。
 貨車を引く蒸気機関車に石炭をくべる係。
 石炭の質が悪いため上手にくべないと蒸気があがらず列車が止まる。
 べったっと溶けて釜の中に飴状にこびりつきつまる原因となった。

●1945(昭和20)年8月 四平で敗戦。
 他の部隊は南下しているのに、北上の編成が組まれ、四平までいったところで列車が動かなくなる。
 どういう形で敗戦を知ったかは印象にない。
 敗戦と聞いて最初は満州はまだ戦える認識だったから、本土は何をしているんだと思った。
 そのうち南下する列車が次々に通り、貨車に乗った人達が布団を頭から被った惨めな格好で、負けたんだと認識した。

●1945(昭和20)年8月20日頃 武装解除。

●1945(昭和20)年9月30日 ソ連領へ。
 四平から新京を経て黒河、ソ連領・ブラゴヴェシチェンスクへ。
 黒河は満州からソ連が集めた穀物や機械やありとあらゆる物が山積み。
 ウラジオストークから日本に帰るという説明だったが、分岐点で連結が切り替わり反対方向に列車が走り出した。
 (鉄道兵なのでその時点で皆気付いた)
 皆し~んと押し黙った。

●1945(昭和20)年10月 ウランウデ収容所。
 約1週間列車が走りバイカル湖近くのウランウデ収容所へ。
 途中列車からぶら下がって用便をたした。
 収容所は南京虫がすさまじく、零下何十度になっても死なない。
 伐採作業、木も凍っていて氷を切るような感触。
 その他、原木貨車積載、缶詰工場、製粉工場など。
 衣服は2年目に配給があったが、中の綿が落ちてしまい布2枚だけのもの。どうしてあれで冬を越せたか分からない。
 コーリャン、燕麦、大豆などが交代で出てきた。
 大豆の時期は傷を化膿させやすく用心した。
 復員時は頭を下げるとそこから転倒しそうなぐらいやせていた。

●1947(昭和22)年8月6日 復員。
 妹が迎えに来てくれたが兄の姿がなく、初めてテニアンで玉砕したことを知り、がっくりとした。
全国キャラバン隊が、2月に沖縄へ行くことはほぼ決定しています。
ほぼ同時進行で、もう1チーム、別の地域の取材に出る予定になっています。
こちらは、比較的近い場所中心ということで、中部地方(愛知・岐阜・静岡・山梨)になる予定です。
キャラバンは、まず体験を語ってくださる体験者の方ありきです。これまで取材に行ったことのない場所は、体験者の方を探すところから始めることになるので、それなりに時間がかかります。そのため、キャラバン隊後半は来年のゴールデンウイークごろを中心に展開することになっています。中国地方以南の方には、それまでにぜひご連絡をいただきたいと思います。
その点、中部地方は、ご連絡をいただきながら取材をお待たせしている体験者の方が比較的たくさんいらっしゃるところです。この機会に、たくさんの方にお会いしたいと考えています。もちろん、これから証言に名乗りを上げていただくのも大歓迎です。
また、関東~中部のボランティア希望の方には、こちらに参加していただき、保存の会の取材の様子を実際に見ていただければ、と思います。
ボランティア希望とまでいかなくても、身近な方の戦場体験を記録したいとお考えの方もご連絡ください。
年明け以降の全国キャラバンの予定が立ってきています。
2011年2月の3連休前後に、沖縄への取材を行う予定となりました。
今のところ、戦場体験放映保存の会から3名が向かうことになっています。
沖縄には、昨年、保存の会メンバーが訪れていました。そのときご協力いただいた現地の方に、今回もご協力をいただける見込みです。
具体的な計画を立てるのはこれからです。体験をお話くださる元兵士の方からの直接のご連絡もお待ちしています。
沖縄戦はもちろんですが、沖縄から他の戦地に行っていらっしゃった方からもご連絡をいただければと思います。

今回は、日程的に沖縄本島の取材になると思いますが、今後本島以外の島々の方にもお会いする機会をつくりたいと考えています。
信州・北陸チームが、8月30日(月)に伺った体験の概要です。
長野県松代収録会1日目にご参加くださった3名の体験者の方のお一人です。

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◎酒井吉男さん

1918(大正7)年3月20日生まれ
当時の本籍地 長野県
衛生兵

●1939(昭和14)年1月10日 現役。
 近衛第1師団下志津陸軍病院 入営。
 初年兵教育3ヶ月は野戦銃砲4連隊で。
 原隊(下志津陸軍病院)に戻り1年間の衛生兵としての教育。
  内科、外科、整形、病理、薬剤などに分かれる。
  酒井さんは内科。
 さらに1年8ヶ月同病院勤務。
●1941(昭和16)年12月 除隊。

●1943(昭和18)年9月18日 召集。
 (保存会註:ご本人ははっきり金沢53部隊と言っているが後の話からすると52師団の勘違いか?あとの話からは野戦病院でなく52師団歩兵連隊付きのように思える。要本人確認)
 広島に移動し3ヶ月の滞在。
 鰹節の重い梱包の受領があり、海に行くのかなと思う。
●1943(昭和18)年12月25日 宇品港出航。
 行き先は知らされていなかった。
 3~4日目に夏服が配られ南方と知る。
 輸送船は天井が低く立つと頭がつかえてしまう。
 船内にはしらみが多くつぶしながらの航行。

●1944(昭和19)年1月5日 トラック島春島に上陸。
○衛生兵、主に防疫給水の仕事、防疫給水は春島、秋島にあった。
 病院は夏島にあった。

○1月7日、高く飛行機が飛んだ。今思えば偵察機。
 翌朝湾内にいた30数隻の軍艦が1隻もいなくなっていた。
○1月半ば頃より連日連夜の爆撃、10機編隊ぐらいでやってくる。
 俗に1トン爆弾と呼んでいたが爆弾が落ちると部屋ぐらいの大きな穴があく。
 最初は威力を知らなかったのでたこ壺のようなものを掘っていたが、隣の工兵部隊30名が一つの爆弾で全滅してしまった。
○2万人が2年間過ごせるだけの食糧があると言われていたが、爆撃は倉庫を狙っておりまず食糧をなくす方針。
 残った食糧を分配し、さつまいもの栽培も。
 そんなことばかりしておられないということで沖縄人の軍属を現地で召集して漁業班を作った。大きなカツオを2人で1匹、醤油はないので塩でおさしみを食べたが大変おいしかった。
 ダイナマイトを浅瀬に投げ込んで浮いてくる金魚のような魚も捕った。
 水に落ちた籾殻からたまたま発芽して一部屋分ぐらいの水田を作ったことがあった。米は大変おいしかったが一度だけ。
 島民のパンの木が年2回の収穫。
 ねずみの蒸し焼きはおいしい、とかげは小さい。
○現地の人を使役に使っていたが、良く働いてくれ作業は早かった。

●1945(昭和20)年8月
 米軍の使役で、日本軍の飛行場の修理をして米軍が使えるようにする。
 米軍からの食料の補給はなく、これまで同様魚を捕る。

●1945(昭和20)年11月 横須賀に復員
 食料事情の悪いところから先に帰したのでわりに早かった。
 婦人会の女性が日の丸の小旗で迎え嬉しかった。
○帰郷すると父が亡くなっていた。
 (松代)大本営が来る事になったため理由は告げられず。
 1週間のうちに引っ越せとなり皆泣きながら引っ越し先を探したという。
 大本営の設営のため大量の朝鮮人が連れてこられ、川の汚染が起こって赤痢が流行した。
 父はこのため58歳で亡くなった。
 息子が出征している間に同様の理由で親が死んだ例が30家ほどあった。
信州・北陸チーム番外編(長野)3日目の追加報告です。
以前、保存の会事務局長の土産話から、山野井さんの証言をおおざっぱに書き起こしていましたが、より正確なものができてきましたので、改めて公開します。

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◎山野井広一さん
1919(大正8)年1月生まれ
第2乙種

○農業学校卒業(中学校等度卒業と見なされる)。
○高等小学校で代用教員、1年で長野の正教員になれるのでそうするつもりだったが、師範学校出身でないので出世出来ないから娘は嫁にやれないと校長に言われ退職。
 大蔵省の試験を受けて合格。

●1939(昭和14)年12月 渡満 図們税関に就職。
 図們に9ヶ月、羅津に2年。
○朝鮮・羅津弁公所で満州へ輸出入される物品の税関の仕事。
 満州に入って再度チェックをすると荷物が傷むからということで、満州から朝鮮に税関員が出向し、チェックしたものは満州の都市へ直送出来るシステムだった。
○部署が違うが、阿片と金の密輸入を取り締まることも。
 税関の重要な任務で講習があった。
 密輸入は綺麗な服装の女性が陰部に隠していることが多く、腰を後ろから叩いてみろと言われていたが
 逆に強姦したと言われて帰国になる役人もいたので、後に女性が調べるようになった。
 他に白系ロシア人の密輸も多かった。
●旅順の中堅官吏公習所に入所。
 羅津の税関長の推薦があり試験を受けたところ合格。
 古海忠之が所長を兼務していた。
 2年間の教育(籍は羅津)。

●1942年or43年(本人も不明) 上級職の試験に合格 満州国経済省に入省。
 口頭試問は17人ほどの試験官で1時間半。
 最初のへんで「羅津のドット燃料はどれぐらいか」と聞かれ、「要塞なので軍事機密で分からない」と答えると小馬鹿にされた。
 これで落ちたと思ったのであとは好き放題に話した。
 試験官の一人が羅津に来るので大和ホテルまで送迎しろと言われ、嫌だったが行くと「明日か明後日の官報を見ろ、お前の名前が出るかもしれないぞ」と言われた。
 からかわれていると思ったが翌日経済省への合格が官報に載った。
●満州国牡丹江燃料省に(経済省の専売公社的な組織)。
○ちゃんちゅうを仕入れ、絞ってアルコール度数を90%以上に上げ、ガソリンとして自動車や軍への分配を行う。
 度数の低いものは酒屋へ。
○軍に3割と決まっていたが軍が半分寄越せと言う。
 「軍に半分やると満州の自動車や映画館は動かなくなるのでだめだ」というと、「それなら君をただちに召集するぞ」と言われたので、「結構です、私も日本国民ですから召集には応じます」と答えた。
 芸者や慰安婦が150名ほどいる料理屋へ招待された。
 翌日官舎に酒が30本送られてきた。
 山野井さんのハンコで決済が出来たのでそれでは35%やるという事にした。
○経済省経理部長は関東軍司令部の中将に対しても上からものを言えた。
 物資を押さえているというのは凄い権限なんだなと思った。

●1945(昭和20)年8月
○敗戦は協和発酵の発電所施設を軍と視察した帰りの車で知った。
○砂川鞍(さがえ)に2万人が集められる。
 富永中将が「諸君達と一緒に日本に帰ろう」と演説したのが忘れられない。
 だから帰るのだとばかり思って貨車の作り替えなど準備した。
 上に50人、下に50人、戸を閉められて移動、ハルピンで10日ほど停車し食糧の積み込みなどあった。
 食糧の配給は将校が優先的。
 病む人が多くなり1~2人ずつ亡くなり死体を汽車から放り出していった。
 線路脇に関東軍の馬が腹を出して足を上に上げて死んでいた。
 1ヶ月の移動でかなりの人が亡くなった。

●1945(昭和20)年9月 178キロ地点(名前がなくそう呼ばれていた)に抑留。
○海が見えたので日本海だと思って喜んだが、バイカル湖だった。 
○3ヶ月ぐらいで将校の刀や軍服は取り上げられた。
 山野井さんは背広で抑留されていた。
 背広は私物だからということで、自分で管理できた。
 風呂敷に入れて砂地に隠しておいて、下着も含めときどき地元の住民のところへ持っていき、パンや卵、馬鈴薯と交換して飢えをしのいだ。
○毎日250gの黒パンと5gのマホルカ(煙草)。
 栄養失調で毎日各幕舎で1~2人死んでいく
 遺体は穴の中に放り込んでいく、翌日次の死体を持って行くと、ロシア人に服が獲られて前の晩の遺体が裸になっていた。
 普通に話している人が返事がなくて見ると飯盒を落として死んでいる。
○5ヶ月頃から共産主義教育が始まり、将校や威張っていた下士官への吊し上げが始まった。
 あの時ビンタされたと100人ぐらいから吊し上げられるので、将校も青くなっていた。
○1400人に通訳1人で通達に不具合が生じていた。
 官吏公習所時代に習ってロシア語を書くことができたので、日本人の名簿をロシア語表記にする作業等を行った。
 仕事をしている間に、ロシア語を話すこともできるようになっていった。
○ロシア語ができたことがもとで、ゲーぺーウーに関東軍のスパイではなかったかと容疑をかけられることになった。
 毎日同じことを聞かれ、少しでも食い違うと「前に言ったことと違う。うそつきだ」などと責められる日々が15日ほど続き、ゲーぺーウーを殺して自殺を考えるほど精神的に追い詰められた。
 そのことを仕事場を仕切っていたソ連兵(将校? シジフ)に話したら、夜迎えに行くから身支度をしておけと言われ夜中ジープで迎えにきた。
 仲の良く隣で寝ていた測量技術者(ふかやさん)と一緒にジープに乗り丸1日走った。

●タイシェットのバム鉄道のロシア軍司令部へ。
○明日からここで働け、ここまでゲーぺーウーは来ないからあとの事は任せろと言われた。
 翌日から2人で測量師と通訳として働く。
○ログハウスに二人で住み、ペチカに建設用の製材をくべて燃してしまったが何も言われなかった。
 食糧もここに来て毎日内容は違うが格段に良くなった。
○コルホーズへ半年ほど行って馬を使った脱穀を手伝った。
○そのうち1ヶ月でこれだけの仕事と言われて勝手に計画を立て二人でまわるようになった。
 ある時はソ連の女性囚人のラーゲリーで測量を行うことになった。
 労働の成果を測る仕事で、傾斜地を平にする作業の前後の状況を調べる。
 労働の成果が上がっていれば、それは監督していたソ連兵たちの成果ともなるので、女性所長から最初の傾斜を急にしてほしいと頼まれ、さかんな接待を受けたので少しずつおまけをした。
○仕事としては楽だが、ふかやさんと二人きりで他の日本人には会わないので寂しく、このまま一生帰れないかと思うこともあった。

●1949(昭和24)年8月1日 舞鶴へ復員。
○復員船でたくわん2切れと白米が出たおいしさは忘れない。
○千円渡されて大変なお金だと思ったが切符を買ったら700円で、最後バス代がなくなり、迎えに出た役場の人からお金を借りた。
○やせていて良く歩けたなと言われた。