あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
8月25日(水)、北海道チーム第1班が午後に伺った証言の概要です。
北海道の田園地帯に建つ会館の一室での収録でした。

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◎満山 凱丈さん
大正12年2月10日生
昭和19年2月 現役 24師団89連隊(通称 山3476)
歩兵 

○1944(昭和19)年2月10日ごろ 帯広の列車に4-5人乗った。旭川へ。
何か不明だが、流行病がはやっており、兵舎に入れなかった。
椅子に座ってマッキャハンを巻いていたら、いきなり殴られた。
「初年兵のくせに椅子に座るとは何事か!」と怒られた。
・2月中旬に特別列車に乗せられた。

あちこちの駅で国防婦人会の方々からお茶をもらった。上官から「移動中は口を開くな」と言われていたので、お茶のお礼ができなかった。
東安に到着。毎朝馬の世話、苦手だった。馬に蹴飛ばされた。連隊砲も訓練で扱う。分散搬送も実施。開拓団が畑仕事をしているのを見て、なつかしく思った。
師団長に演習を見せて、褒められたこともある。

・1944(昭和19)年7月 南方にいくかものうわさ。
半そでを至急された。いつ出発したかは不明。貨物列車に乗せられて、背嚢だけを持って移動。仲間に朝鮮出身の金田という兵士がいた。頭がよかった。
金田は上官に「軍人の本分はなにか」と問われ「天皇のために死ぬことです」と即答をして褒められていた。
輸送船で九州へ。「ぎょうくう丸」六千トンに弾、糧食を詰め込んだ。一つの船に同種の兵種をまとめず、ばらばらに輸送した。分隊長が酒好きで、ビールを船上で飲んでいた。

・1944(昭和19)年8月 門司港を出港。15隻。
・8月5日 到着 きれいな島で竜宮城かと思ったら、沖縄だった。
天願小学校到着。ここが居住地。
衛兵をやることになったが、歩哨訓練をやったことがなかった。捧げつつをせずに礼をしてしまったら「ばか者!」と言われた。連隊長だった。

砲を隠す場所を作って、陣地構築。「くじかわ」に陣地構築担当。
・1944(昭和19)年10月10日 大空襲。沖縄はめちゃくちゃに。食料、弾薬が大損害を受けた。

○1045(昭和20)年1月 演習。下士官教育を受ける。
・1945(昭和20)年4月 海面に船が沢山。米軍がいることすら知らなかった。
4月末に戦線投入
拳銃を支給された。壕に砲を設置する件でひと悶着。陣地構築の決定は小隊長だが、学生あがりで、決めず、分隊長に責任転嫁。
壕に隠れて待機をしていたが、疲れていたので寝てしまった。夢で体が揺れていた。
起きると、周りのサトウキビが全部飛ばされて、荒地になっていた。分隊長が生き埋めに。必死に掘ったが間に合わなかった。幹部クラスが全て死亡。
「ヤンキーめ、ぶっ殺してやる」と叫びながら射撃。無茶苦茶撃ちまくった。米軍も反撃してくる。近くに着弾。ぴかっと光った。飛ばされて、片目がぶら下がっていたのが見えた。

野戦病院へ移動。現場は手足を切りまくって女性が捨てに行っている。野戦病院もやがて解散命令(5月末か?)。反撃命令がでて、動けるものは中隊を探せ、動けないものは自決しろといわれた。自決できないものに、看護婦が毒を飲ませていたと聞いた。

絶対に捕虜になるな、死守命令。米軍からは降伏勧告。戦車が壕をつぶしに来た。
洞窟にいたときに、一度ガス攻撃を受けた。手足が動かなくなった。死ぬことは怖くなかったが、北海道の両親兄弟を思い出しながら気絶した。
気がつくと、壕がつぶされて入り口が岩にはさまれていた。死にかけているもの、大声をだしているものがいた。

やがて、切り込み隊が編成された。友人の森が指名された。「満山、早くよくなれよ」といって出発。帰らなかった。
負傷兵は移動命令。死守命令があるのだから、負傷兵も残してくれといわれたが、駄目だった。

・8月くらい?大規模戦闘は終わったのうわさ、ヤンキーが騒いでいた。
・秋、10年でも戦うと思い食料を集めていた。隠れ家の洞窟で寝ていたら、米兵が周りに数名いた。
とっさにひとりを撃ち殺した。他はちりじりに逃げた。当時不思議だったのは、武装をしていなかったこと。やがて、米兵が死体を取りに来た。隠れてやり過ごす。次の日、日本兵がきて、「戦争は終わった」と呼びかけてきた。戦争に「負けた」とは決して言わなかった。

話をして戦争が終わったことが理解でき、米軍のキャンプへ。
米中隊長が「貴方が殺した兵士の時計を返してほしい」と、満山さんは「記念品だから返さない」といった。通訳が「お願いだから返したほうがいい」と言われたので返還した。

満山さんは戦争が終わってから米兵士を殺したので、覚悟をした。
米中隊長が「戦争の終結を知らず、部下の兵士には危険だから洞窟に入るなと厳命していたにも関わらず入ってしまった。殺された兵士は私の命令に背いた。だから我々にも非がある。なので公式上この件は無かったことにする」と言って助かった。
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北海道チームが8月23日(月)の午前中に行った聞き取りの内容です。
この日は北海道チームが唯一2手に分かれずに行動しました。(午後は収録会)
参加メンバーとしては、とても高級なお寿司をごちそうになったことが印象に残っているようです。

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◎小田 淳男さん
1922年(大正11年)5月23日生まれ
1943年(昭和18年)臨時召集
第7師団 25連隊 歩兵

○1943年(昭和18年)4月より初年兵教育開始 兵役検査時には耳が悪く第二種乙種となり、第一乙種に編入。臨時召集により召集入隊。
・10月1日陸軍一等兵に進級。
幹部候補生要員として毎日消灯後、午後9時から10時ごろまで勉強をした。
臨時召集兵であり、耳も悪いため幹部候補生は駄目なことは分かっていたし、教官にも言われていたが、試験だけは受けさせてもらえた。
試験不合格。あらかじめ分かっていたことだからショックはなかった。

・その後すぐに半田国境でソ連国境最前線で警備の任務につく。

○1944年(昭和19年)3月上敷香第三中隊に戻り、初年兵教育の教育助手の命じられる。
・4月上等兵に進級。
・10月兵長に進級。

○1945年(昭和20年)4月1日 伍長に任官。
・5月上敷香に帰還。
・8月8日 ソ連軍 満州樺太に進軍開始。
・8月13日 落合より列車にて北眞岡駅到着。
名寄‐久春内でミグ戦闘機の攻撃を受けるも被害なし。

・14日上恵須取着 陣地構築。
・17日ソ連軍爆撃機7機 上恵須取爆撃市街壊滅。
・18日ソ連軍より武装解除の要求。日本側拒否。
内路山には日本軍陣地があるとのことで移動を開始。
・22日内路山はすでに敵戦車により蹂躙されたとの情報あり。
豊原にて師団命令を受けんと移動開始。
・24日武装解除が師団命令と判明。武装解除。ソ連軍捕虜となる。

強制労働。

○1946年(昭和21年)12月帰国
北海道チームの旅の報告の中で、まとめてその日の「取材レポート」として上がっていた分についても、体験者ごとの証言の概要が上がってきています。
8月24日(火)午後、北海道チーム第1班が伺ったお話の概要です。

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◎山口 昇さん
1922(大正11)年3月1日生
1942(昭和17)年5月1日 志願 (海軍衛生学校)
横須賀海兵団

○1941(昭和16)年海軍を志す。どうせ戦争にいくなら、早めに行こうと思った。
昭和17年横須賀海兵団で猛訓練。海軍衛生科昭和18年卒業。
伝染病、マラリヤの研究をした。

○1944(昭和19)年武蔵への転勤命令。1月23日トラック島へ。
パラオ3月29日出港。米潜水艦の雷撃を受ける。
・6月、マリアナ沖海戦に参加。ただし、空母は狙われたが、武蔵はたいしたことは無かった。海上に炎が上がっている様子も見れた。
・7月、横須賀で改修。対空機銃を補強。対空レーダーもつけた。

○レイテ沖海戦
・1944(昭和19)年10月、巡洋艦摩耶が雷撃を受けて沈没したのを目の前で見る。
乗務員を救助。「やな予感がした」
ブルネイで燃えそうなものを全てはずした。防火対策。ペンキを塗ったが、「なぜ塗った?」かは未だに不明。

・10月24日 艦内にいたので、外の様子はまったく見えなかった。2,400名のうちに戦闘を見ているのは半分くらいではないか?
はじめは艦内放送が入っていたが、そのうちなくなった。艦内がゆれるが、まったく様子はわからない。
防水綿花を右手に通して、負傷兵の治療にあたる。退艦命令が出たので、一生懸命船外に出ようとした。記憶は定かではない。気がつけば海上。
スクリューが見えた。グォーと大きな音、近くでおぼれかけている兵士。
助ける余裕はない。駆逐艦が遠くに見えた、空には半月の月。
「わっしょい、わっしょい」と声をかけながら流木につかまった団体と合流。
さらしを流木に結びつけた。だんだん眠くなる。手を話したらおしまい。もう眠くなるというときに、さらしのおかげと、となりの兵士が殴ってくれて目が覚めた。8時間海上に漂流。
駆逐艦に救助されたが、記憶はなし。

○マニラ131特別根拠地隊に編入。ジャングルでゲリラ戦。
1945(昭和20)年1月、高射砲で米機を一機落としたら次の日にじゅうたん爆撃。手榴弾の自決相次ぐ。白骨の隣に、ぶよぶよの死体。感覚が麻痺して、平気で歩けた。
・8月14日 朝からめずらしく定期便(定期的な爆撃)がない。伝単(ビラ)が振ってきた。無条件降伏をするようにとの呼びかけ。アゴス川、インワンタ川に合流しなさいとの内容。
「日本は負けんよな、と戦友と話した。俺たちは駄目でもいつか勝てるよな」と話していた。
やがて、日本が負けたと口伝いに伝わる。悔しかった。でも、生きて帰れる。

○9月6日武装解除。カンルバン捕虜。

○1946(昭和21)年12月1日帰国
戦場体験放映保存の会では、『戦場体験史料館つうしん』という会報を出しています。
年末年始頃に1回出る他は、不定期発行です。だいたい、総会やイベントの案内とセットになっています。
現在、第6号ができあがり、随時発送が始まっています。

第6号は、まるごと全国キャラバン「夏の陣」特集。
今回のキャラバンでお話をうかがった93名の方全員(匿名希望除く)のお名前が載っています。
A4版6ページと、いつもの1.5倍のボリュームです。それでもお一人に対して4行前後のスペースに一言エピソードを盛り込むのには、担当者はかなり苦心していました。
もっと詳しい体験については、証言集と当ブログ、そして収録された映像そのものでじっくりご覧いただきたいのですが、キャラバンの全貌が10分ほどでつかめるこの通信も、ぜひご覧いただきたいです。

会報ですので、会員の方に発送しています。
ご興味をお持ちになりましたら、この機会に、戦場体験放映保存の会にご入会いただければと思います。
戦場体験史料館には、そのまま置いてありますので、お越しいただければ、会員以外の方でもご覧いただけます。
会員になるのはすぐには決められないけど読みたい、という方もお問い合わせいただければ、お送りできると思います。ただ、年会費1000円の半分ぐらいは、この発送費用に使われているということはご理解のほどお願いいたします。

12月11日(土)には、池袋にて、全国キャラバン「夏の陣」の報告会とシンポジウムのイベントも開催しますので、そちらでご覧いただくのもお薦めです。

電話 03-3916-2664
※電話は、史料館開館日(火・木・土・日・祝日)の10時~17時受付
FAX 03-3916-2676
e-Mail senjyou@notnet.jp
※FAX、Mailは24時間受付
北海道・東東北が続きましたが、久しぶりに西東北チームからのレポートが上がってきました。
別働隊が、7月30日(金)午前に仙台市で伺った証言の概要です。
なお、この方は、ご友人の体験も紹介してほしいとおっしゃっているそうで、証言集には、ご友人の体験も掲載される予定です。

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◎小林利光さん
92歳
第三独立守備隊・独立守備歩兵第一五大隊
1918(大正7)年生まれ 福島県出身

1939(昭和14)年2月、日本大学を繰り上げ卒業後、満鉄に就職。撫順炭坑、大官屯火力発電所勤務となる。そこで在学中は延期されていた徴兵検査を受け、乙種合格。

1940(昭和15)年初め、扎蘭屯(じゃらんとん)に本部を置く独立守備歩兵第一五大隊(阿蘇大佐:のちにクエゼリン島で戦死)の、第一中隊(塚 大尉)に入隊。一中隊はチチハル近くの昂々鶏(こうこうけい)に駐屯していた。
抗日連合軍(朝鮮人で構成)と戦う。

1941(昭和16)年2月、上等兵に進級。扎蘭屯の大隊本部に移動。有線通信教育訓練に励む。

1943(昭和18)年3月末、除隊。満鉄に戻る。(その後部隊は海上機動第一旅団に改編され、マーシャル群島クエゼリン島に派遣。1944(昭和19)年2月、阿蘇部隊長以下そのほとんどが玉砕し戦死。)
満鉄のボイラー技師の仕事の傍らで撫順市の郊外にあった第三青年塾長なども勤める。青年塾は満鉄、東製油工場に勤める二十歳前の青年たちが200人くらい入っていた。東製油工場は油母頁岩(オイルシェールというらしい)から頁岩油を精製する工場。敗戦近くなると食べ物が少なくなり、青年たちが支給された作業着を売ったり、寮の電球を盗んだりして食べ物と交換するのですごい困った。さすがに電球はないと困るのでつけると、一時間以内にソケットごと盗まれた。

1945(昭和20)年2月、東京に出張命令が出る。七月ごろまで内地にいて、東京大空襲を経験。空襲がひどいので満州に帰ることに。

1945(昭和20)年7月、新潟から貨物船に乗って撫順へ帰る。

1945(昭和20)年8月、終戦。しばらく「留用」というかたちで満鉄の工場で働く。

1946(昭和21)年11月、留用解除で家族三人と共に引き揚げ帰国。


帰り際に「軍隊は楽しかったよ~」と笑顔でおっしゃっていました。竹トンボを何千本もつくっていたり、いろいろとおもしろい方でした。