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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
全国キャラバンという試みをやってみてわかったことはいろいろあります。
約1ヶ月で、100名近くの方の聞き取りを行うことが可能だということがその1つで、それで首都圏での聞き取りについても強化期間を設定してみようという話が出たことは以前書きました。
聞き取りそのものについてだけでなく、聞き取りを行えばついてくる証言レポートに関しても、いろいろなことがわかりました。

●必要な情報はメモを取っておいた方がいいということ。
今回、軍歴表が事前に届いていない場合が多かったため、年代や部隊名等の基本情報もその場で確認する必要がありました。ビデオには記録されているわけですが、メモをとっていないと、概要をまとめるときにビデオを見て、その部分を探さなければならなくなります。
短期間にたくさんの方を取材しますので、時間がたつと内容が入り混じって混乱する場合も出てきます。
概要をまとめるという作業は必ずやることなので、そのときに記憶を整理するきっかけとしても、メモが重要です。
他の方に質問した内容は、目の前の方にも質問したつもりになる場合があるらしいということが、反省の中でわかりました。質問したかどうかの確認のためにも、必要な情報はメモをとるべきでしょう。

●どのようなものが必要な情報なのか確認すべきだということ。
メモをとるにしても、そもそもはずしてはいけないポイントがわかっていなければ始まりません。
うっかりすると、必要な情報を質問しそびれるということも出てきます。
必ず聞かなければならない項目について、今回キャラバンに参加しなかったメンバー、保存の会の活動にこれから参加してくださる方々含めて、確認する必要がありそうです。

●レポートは、取材から間を開けずに上げた方がよいということ。
普段の取材では、聞き取りを無事完了すれば、あとの作業に期限はないので、証言概要をまとめるのが、わりと後回しになりがちです。
今回、全国キャラバンの証言集をつくる際に必要になるということで、編集に合わせた締め切りが設定されました。そのため、この前の週末には、参加メンバーがせっせと証言概要をまとめ、メーリングリストに立て続けに流していました。
取材そのものの回数も多かったですが、レポートも普段に比べてハイペースでたくさん上がったのです。
レポートを上げるメンバーも編集メンバーもかなり大変のようですが、日ごろからできるだけ取材を終えてすぐに概要をまとめるようにする方がいいということは、誰もが実感したと思います。

全国キャラバンをやってみたことは、たくさんのお話を伺うことができたこと以外にも、得るものが多かったといえるでしょう。
必ず聞いてメモするべき内容については、改めて意見交換をして、当ブログでもまとめようと思います。
北海道チームと競うように、東東北チームの証言概要がどんどん上がってきています。
8月17日(火)午前に東東北チーム第2班の取材レポートです。

◆◆◆

◎鎌田俊吉さん
1920(大正9)年12月生 89歳 
本籍地:宮城県(当時)
中国戦線~満州~シベリア抑留

1941(昭和16)年12月 徴兵検査 第1補充兵役に編入。
1942(昭和17)年9月 教育召集により歩兵第130連隊(仙台)に応召。
1942(昭和17)年11月 教育終了、引続き臨時召集。
1942(昭和17)年11月 歩兵第157連隊(佐倉)に転属後、第51兵站部隊(中国・漢口)に編入。
1942(昭和17)年12月 下関~朝鮮~満州を経て中国・漢口に赴任。
1943(昭和18)年10月 甲種幹部候補生を命じられる。
1944(昭和19)年1月 久留米予備士官学校に入学。
1944(昭和19)年8月 久留米予備士官学校を卒業。見習士官として原隊復帰。
1945(昭和20)年1月 少尉。第51兵站警備隊付。
1945(昭和20)年5月 第3独立警備隊に転属。
1945(昭和20)年6月 独立歩兵第25大隊に転属。
1945(昭和20)年7月 歩兵第373連隊に転属。500名を指揮する中隊長となる。
1945(昭和20)年8月 満州・奉天で終戦を迎え、ソ連軍に降伏。
1945(昭和20)年10月 シベリア抑留のため満ソ国境通過。ウズベキスタンの収容所に入れられる。
1948(昭和23)年7月 内地帰還のためナホトカ港出発。舞鶴港上陸。復員。

鎌田さんの所属していた第51兵站警備隊(呂6907部隊)は、軍需物資の保管・警備のほか、漢口と武漢の治安も担当していました。要するに「スパイ狩り」です。鎌田さんは、諜報部隊の連絡を受け、スパイを逮捕する分隊にいました。当初は兵隊として、予備士官学校卒業後は指揮官としてスパイ狩りに従事しました。自らの手でスパイを処刑したこともあったそうです。

久留米予備士官学校では、夜間でも活動できるよう夜目が利くよう訓練されたそうです。今でいうとレンジャー訓練に近いものでしょうか。ただ、特別な教育を受けたわけではなく、全員、そういう訓練をさせられたという話です。
同期にルバング島の小野田寛郎氏がいたとのことですが、直接面識があったわけではないそうです。

警備隊勤務時代は、物資を管理する側だったので物に不自由することはなかったとのこと。末期の昭和20年6月、歩兵部隊の指揮官として満州・奉天への赴任を命じられます。本渓湖で歩兵第373連隊の中隊長となり、500名の部下を預かる身となりますが、それまで警備隊勤務だったため、部下を持ったのはこれが初めてだったそうです。
ソ連軍へ降伏した後、シベリア抑留となり、ウズベキスタンに送られましたが、同地は乾燥地帯であり、シベリア抑留の一般的なイメージである「寒さ」はまったく経験しなかったとのことです。収容所の仕事は、レンガ作りが主だったのですが、予備士官を出ていた鎌田さんはその学識を買われ、化学実験室勤務となったため勤務も楽だったそうです。部下となったのは戦争未亡人となったロシア女性たちでした。
証言集の編集で参考にするためもあり、全国キャラバン「夏の陣」の証言レポートがどんどんメーリングリストに上がってくるようになりました。
8月24日(火)、北海道チーム第2班が伺った証言の概要です。

◆◆◆

◎大林明夫さん
1920(大正9)年9月27日生まれ
当時の本籍地 北海道

○4兄弟の二男(兄と弟は海軍へ、ご本人と4男は陸軍へ)
北電の発電所で働いていた。

●1942(昭和17)年1月 召集
 船舶工兵第11連隊(暁1750部隊)
・千島列島の小島で飛行場建設。3か月ほど。
島では道庁が多数の狐を飼育していた。これが兵隊の防寒具に使われていた。
・広島
・台湾・高尾 1か月ほど。
 内地の兵隊はそうでもないだろうが、北海道の兵隊は暑さにぐったりしていた。
・フィリピン 1か月ほど  演習など
・シンガポール 2か月ほど

●1942(昭和17)年末 ビルマのタンガップへ。
ダンカップを起点に沿岸部に兵などの輸送。
180メートルの沖に投錨し全速力で浜に乗り上げ人馬を降ろし。
沖の輸送船にとって返すピストン輸送の繰り返し。

ダイハツ(9t)では馬や戦車の移送、小艇(3t)で兵士を。
敵前上陸の繰り返しで上陸地点を決めるのは船舶工兵の役割だった。
 
明日死ぬか、明日死ぬかという緊張感の繰り返し。
兵隊の命をゴミと思っている。
上のものは部隊を机上の駒として動かす。
「この部隊をこっちに投げれ」と言ってるのを聞いて腹がたった。

○年次が立つと殴る自由、殴らない自由が出てくる。
○学校が良いだけで士官になった者の中には手の付けられない威張り方をする者がいた。兵隊は臭いのするようなものも食べているのに、すずめを焼いて食べたいからすずめを取りに行け、冬なのに西瓜が食べたいなどと言い応えられないと殴られる。
○一方兵隊でも1日に3人ぐらい殴らないと飯がまずいという同年兵もいた。
そんなに殴るなと言うと「殴らなければなめられる。お前らは成績も良くて上等兵になってるんだから頑張ればいいさ。こちらはずっと一等兵なんだから俺の好きにやるさ。」
「班長だって見てるぞ」と言うと「それがまたいいんだ」と言うから「だからお前は馬鹿なんだ、皆から馬鹿にされていることが分からないのか」と喧嘩になった。
○育ちの良い坊ちゃんみたいな初年兵がいて殴られると、「お母さん」と言って泣く。「何がお母さんだ」とさらに殴られる。
「いいからあんな子供を相手にするな。放っておけ」と言ったがやまずいつも顔を腫らして可哀想だった。
戦後親切にした御礼にその初年兵の家に呼ばれたが大変豪奢な家で驚いた。
こんな家の子が自分たちみたいな貧しい者に殴られていたんだなと思った。
○自分が殴ったのは1回だけだが、夜の古年兵も含め皆でやる掃除の時にいつも抜け出す者がいて、つけたら煙草を吸っていた。
編上靴で30発殴ろうとしたら26~7発目で気を失ったので止めた。 

○現地の人は人物をよく見ている。
きちっと接していればとことん世話をしてくれる。
連合軍の移動や規模など重要な情報をくれるようになった。
○一方一部ではあるが強姦や子供へのイタズラを行う者がおり、そういう噂はぱっと広がってとたんにそっぽを向かれるようになった。
男女の仲の情に負けたり、本人は恋愛関係のつもりで思いこんだりするのがきっかけでトラブルになることもあった。

○(ダンカップ付近で)日中はジャングルに隠れていたが、現地の人に見つかり通報されて突然連合軍の攻撃を受けた。
弾がヒューヒューと耳元を飛び流れ弾で隣の戦友が死んだ。
○いつも緊張の連続で軍装を解かないまま寝ることも多かった。
○食糧はビルマ人の家に行き軍票と代えたり盗んだりした。
○初年兵がマラリアにかかり大林さんの手を強く握って死んだ。
はずそうとすると1本ポキッと折れる音がした。

●ラングーンへの撤退
○病気や流れ弾で80人が30人になり、さらにバラバラの行動となった。
足を怪我し田んぼに1人倒れて意識を失っているいるのを現地の人が見つけて連れて帰り、手当てをしてずっと見てくれていた。
傷口に卵白を載せて手当をしてくれた。
 
●1945(昭和20)年9月20日 捕虜に。
○上記の連れ帰ってくれた人が通報して捕虜になった。
あのビルマ人のオヤジの野郎と思ったが、その人が命の恩人だと後で知った。
○その状況でも勝っているとばかり思っていたので、無条件降伏だと聞いて最初は信じられなかった。
ここまで来て勝っていると聞いて頑張ってきたのに、敗残兵と言われるのだろうなと思うと悔しくて仕方がなく、日本人全体に騙された気がした。
捕虜になって帰るなんて出来るわけが無いので自殺しなければいけないのかと思っていたが、ビルマ人に1人じゃないよと言われ、収容所へ行ってみると何千人も先客がいるので何だと思った。

ダンカップ→ジョホールバル病院。

●1945(昭和20)年6月23日 病院船で宇品に復員。

◆◆◆

キャラバン中は入院していらしたのですが、ご本人の強いご希望ともうすぐ退院という体調に、病院やご家族の理解もあり談話室で収録をしました。

自分が殴った方の話を伺うことは滅多にないのですが、テープではさらに具体的に話してくださっています。
また現地の女性と兵隊の関係もかなり突っ込んで話してくださいました。

一方ビルマでの足取りはダンカップ以外がどうもうまく聞き取れず力不足を感じる取材でした。
現在、全国キャラバン「夏の陣」の証言集の編集が進行中です。
編集・構成の担当が写真・原稿・資料を持ち帰り、ページ割をしながら打ち込みを行っています。
体験者の方からの原稿は断続的に届いており、届いた分については、基本的にそのまま証言集に載ることになります。

その原稿ですが、当ブログで紹介している聞き取りレポートとは、だいぶ内容が違っているものが多いようです。
レポートに間違いがあるということではなく、特に印象に残る部分が、話し手と聞き手では違っているということです。
ビデオに収録した証言は1時間半~5時間。証言集の原稿約800字に書けるのは、ごく一部となります。おそらくは、そこに書かれた内容が、体験者の方が一番残したいと思われる体験ということになるでしょう。
限られたスペースで、証言集それだけでは、体験の記録を残したとはいえませんが、ある意味、体験者の方の気持ちがはっきり表れているともいえます。記録映像全体と証言集との両方に触れると、その体験者の方が戦争をどのようにとらえてこられたのかがよくわかると思います。

聞き取りのレポートには、取材を行ったボランティアメンバーの視点が入っています。
聞き取りをしながらメモをとったこともあれば、メモをとるまでもなく強く印象に残ったこともあるでしょう。
いずれにしても、こちらは字数の制限がありませんから、証言集の原稿よりもたくさんのエピソードがまとめられています。
また、キャラバンに参加したメンバーは、これまでにも多くの聞き取りを行ってきていますので、自然に以前の聞き取りの内容と照らし合わせながら聞くことになります。体験者の方それぞれの経験は全て違いますが、ある程度共通する部分も含まれており、それは「やっぱりそういうことがあるのだな」と思いながら聞くでしょう。
一方、自分が耳にしたことのないエピソード等は、特に印象に残りますし、レポートにも残すものです。
また、同じお話を伺っても、聞き手それぞれで、印象に残るところは違ってくるはずです。

そういうわけで、同じ証言をもとにした文章でも、書く人によってだいぶ違った内容になります。
その点は、今後戦場体験を伝え残していくときに頭においておく必要があります。
やはり、概要や抽出されたエピソードを読むだけでなく、映像に触れて証言の全てを直接耳にする方がよいというのはもちろんですが、証言が聞き手にどのように伝わっているかを確認してみることも大切でしょう。
聞き手がどう受け止めるかは、その人の自由ですが、感じたことを話し合って共有してみることはときどきやった方がいいと思います。
同時に、映像として遺されたものも、その方の戦場体験全てではないということも忘れてはならないでしょう。

過去に起こったことを伝える側と受け取る側にはズレが生じるもの。
事実の記録が残っているとしても、歴史というのは絶対的なものではないのだと感じました。
これも、あくまでブログ係の個人的なとらえ方ですが。
証言集の編集も進行中のため、各班からキャラバン中の報告が上がってきつつあります。
今回も、北海道チーム第2班が伺った証言の概要です。
8月22日(日)午前の体験者の方のお話です。北海道チーム第2班の最初の聞き取りでもあります。

◆◆◆

◎若林弘さん
1926(大正15)年4月23日生まれ

■1943(昭和18)年末 南陽庁拓殖練習生に志願。
 弘前で筆記試験と口頭試問を受けた。
 全国で47名が採用、ほぼ1県に1人ずつだった。

■1944(昭和19)年  
○1月8日 門司に集合。
○1月10日
 エリー丸(5000トンの貨物船)で出航するも艦載機の攻撃を受け沈没。
 板につかまって泳いだが、海中に爆雷が落とされ、はらわたがちぎれそうなほどの水圧を受ける。
 夕方救助船に、近海だったので大部分は助かったが、熱い風呂に入っても震えが止まらなかった。
 1度帰郷させられる。
○3月下旬
 再度資金を作って集合し出航。
 ジグザグ航行で進むうち船団の船は攻撃で減っていった。
○4月22日 サイパンに補給のため寄港。
 船火事が出、パラオに向かうメンバーは別の船に乗り換えた。
 シラミがひどかったりタマネギの山が腐ったりしたが、サメ釣りなど楽しいこともあった。
○4月末頃 ペリリュー島近くで座礁。
 ダイハツがパラオ本島から来てそれに縄ばしごで降り、コロール島を経て翌日パラオ本島へ。
 コロール島の港には沈没船がたくさんある。
 4畳半の部屋が並んだ建物もあった。今思うと慰安所か?
南陽庁拓殖練習生。
○兵站部門を担う目的で集められていたと思う。
 木の伐採、ジャガイモの栽培など。
 皆出身県が違うので方言でお互いの言うことが分からず苦労した。
○南洋興発株式会社は引き揚げた後だったがパイナップル缶詰工場やカカオ畑があり、カカオは収穫が可能な状況だった 


■7月下旬 現地召集
高崎から来た第14師団歩兵第15連隊第1大隊(照7757)の通信部隊に配属。

○徴兵検査も受けていない。
○アメーバー赤痢で下痢が止まらず配属日を野戦病院で迎えた。
 野戦病院は水も飲ませてくれないので水枕の中の汚い水を飲み、よけいに下痢は治らない。
○ペリリューが占領されると米軍はサイパンに行ってしまい、パラオは戦局としては放置されたままになる。
○米は1945年初め頃無くなった。
 芋畑、蛇、黄色いトカゲ、シギ(飛べないで走るだけ)、カタツムリ(砂で洗う、そのまま食べると酔ってしまう)、ビンロジュ、椰子ガニなど。
○いびきをかき始めると死ぬのが近い。
 持っている食物を奪えるので皆狙っていた
○畑をやっている最中に爆撃で死ぬ者もいた。
 蛸壺を掘ったが利用する機会はなかった。
 グラマンに追われ立木の廻りをぐるぐる廻って逃げた。
 椰子の葉の家は逃げ込んでも燃えやすい。
○3回逃亡をした上等兵がいた。
 今考えればおかしくなっていたのかもしれない。
 小隊長が「介錯してやるから自刃せよ、家族のために戦病死として届けてやる」と言った。
 自刃しきれないでいるのを小隊長が首を落としてしまった。
 そこはしばらく誰も通らなかった。
 
■1945(昭和20)年8月15日 敗戦
○同年11月30日 召集解除。
 お前達は現地召集だから現地除隊だと言われ練習生組だけ残し、部隊はさっさと帰国してしまった。
 皆独り者で現地での生活基盤があるものでもないのに酷いと今でも憤っている。
 牛の塩漬け、卵粉、ひきわりコーヒーを貰う。

■1946(昭和21)年2月中旬 帰国へ。
 巡洋艦か駆逐艦か帰国船が来て、農耕などで現地に行ってた人と一緒に乗船した。
 途中グアムに寄港。煙草やチョコと扇子や浮世絵を投げて交換。
 10日ほどで横須賀着。
 真っ直ぐ航海出来るので行きの三分の一の時間で帰れた。
 体重は30キロになっていた。
 妻帯者と独身で貰える金額が違ったので妻帯者だと偽った。