あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
8月1日(日)は、山形市内での聞き取りです。
2手に分かれて、収録会と個別取材を行います。

●収録会
収録会会場:山形市中央公民館
体験者の方:
◎10:00~陸軍、志願、満州、満州で病気になる
◎14:00~少年飛行兵、特攻機の先導機を何回か務めた
◎14:00~ニューギニア

●体験者の方のお宅での個別取材

※確認が取れ次第、詳細をもう少し追記します。
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7月30日(金)の西東北チーム、本隊の様子です。
この日は、「みやぎ9条の会」のアレンジにより、仙台市内で個別取材と収録会を行いました。
体験者の方を探すにあたり、地元で戦場体験の記録をされている団体にご協力をお願いしている場合が多数あります。今回、「みやぎ9条の会」の方がそれに応えてくださいまして、体験者の方の紹介、会場提供等ご協力をいただけました。

体験者の方のお宅にお邪魔しての取材2件の後、お2人の方の収録会ということで、一日フルに使っての聞き取りとなりました。
体験者の方のお持ちくださったものも、大変興味深いものばかりでした。
昭和21年に戦時のことを思い出して書かれた手記(日記に近いもの)や、予科練に志願された方の志願前思い詰めていく時期の日記等、見せていただき驚きの連続だったようです。

また、第1回目の日比谷証言集会(2007年)に参加されていた保存会会員の方(仙台在住30代)が、飛び入り参加してくださったとのこと。
地元の孫世代の方との思いがけない出会いは、まさにキャラバン隊ならではの嬉しい出来事でした。

西東北チームは、翌31日(土)も、ひきつづき仙台での個別取材と収録会を行っています。
夜には、地元の方との懇親会。しっかり、仙台での出会いを楽しんできてほしいと思います。
西東北チームの旅も、これで半分の日程が終了しました。これから後半に入ります。
7月30日(金)の西東北チームの様子、宮城県岩沼市の別働隊からの報告です。
体験者の方のお話の概要です。

◆◆◆

◎大野隆 さん
○昭和19年3月 甲種合格で近衛歩兵第2連隊第1大隊第1中隊第1小隊入隊。
班長の世話をやらされたために私的制裁をされなかった。
・同年5月門司から1万トン級の輸送船(にっぽう丸)にて南方(行き先はしらされず)へ。
第1小隊だけが送られた。潜水艦対策で蛇行しながら船は進む。
・途中ビンタン島付近で大野さんが対潜監視員として、午前零時に前任者と交代した途端に敵潜水艦の魚雷が二本命中。船は横転し轟沈。
大野さんは対潜監視員として救命胴衣(十二時間はしずまないといわれた)を貸し出されていたために助かる。サメよけに赤い長いフンドシをつけていたが、足に絡み付いて邪魔なので破る。船の中ではシラミに悩まされたが漂流して全部とれた。
八時間漂流した後、駆逐艦に助けられ、シンガポールセレター軍港へ。
ブキテマ高地の兵営で1ヶ月すごす。この間、藤山一郎が慰問団としてきたのを大東亜劇場で見た。
・その後パレンバンの貨物廠で警備任務に。主にマラッカ海峡の海賊相手に警戒に当たる。
パレンバンは食事にも困らず楽しかった。また三八式ではなくオランダ銃(鹵獲品)が支給された。
アメーバ赤痢にかかかったが、貨物廠から炭をもらってきて回復した。アメーバ赤痢を克服したためか、それ以降はマラリアやデング熱には一切かからなかった。ダチョウの卵を茹でたりしてよく食べた。
・パレンバンの後はマレーのポートディクソン教育隊へ下士官教育を受けるため志願。
ポートディクソンには予備士官学校もあった。教育隊では水上訓練と称して敵前上陸の訓練や、刺突訓練といって爆雷を戦車に刺す訓練や急増爆雷をキャタピラが踏むように仕掛ける訓練を、日本の戦車をつかって行った。
結構朝鮮兵が教育隊にいた。別にいじめとかはなかったけど、びっくりした。板垣中将が視察に来たこともあった。
食料に困ることはなく、パパイヤやバナナなどは現地の商人(華僑もいたけど、仲良かった)がタバコと交換してくれた。タバコがお金みたいなものだった。南方のドリアンは最高。
○終戦後、シンガポールのチャンギー刑務所で武装解除。マレー半島のレンガモやクルアンなど五、六ヶ所を歩かされた後にレンパン島へ。
レンパン島は椰子もパパイヤも何もない島で、タピオカを作るなどしてしのいだ。食料には困ったが、1ヶ月後くらいに英軍が食料をくれるようになった。レンパンには英軍はおらず、船で来るので大発でとりにいった。
Kレーションなどが配給され、配給係になったので、わざと落として中身を拾ったり、夜中に集積場所を漁れた。チョコレートとタバコは必需品。ここでも食事に困ることは無かった。
○昭和21年10月、七千トン級の船(リバティ船?)で下関へと向かい復員。途中で恨まれていた人が海に投げ込まれることが何度かあった。

◆◆◆

西東北チームが出発してすぐ、河北新報をご覧になって、お電話くださった方です。
陸軍ですが、戦地に向かう途中船が沈んで漂流された体験をお持ちということですね。かなり具体的なお話が聞けたようです。

別働隊は、すでに帰途についています。再び青春18切符ローカル線の旅です。
携帯電話からこの報告を送ってくれたのですが、そのころにはもう列車の中だったのでしょうか。
仙台から離れた宮城県沿海部での聞き取りのため、急きょ送られた別働隊。お疲れさまでした。
7月31日(土)は、西東北チーム全員(3名)、宮城県での聞き取りとなります。
別働隊(1名)は、すでに帰途についています。

●西東北チーム本隊
取材場所:仙台市

10:00~2手に分かれて聞き取り。
◎体験者の方のお宅での個別取材(体験者の方1名)
◎収録会(体験者の方1名)
収録会会場:みやぎ憲法九条の会事務所。

13:30~収録会。
収録会会場:みやぎ憲法九条の会会議室
体験者の方2名

※体験者の方の略歴が確認できれば追記します。

15:30、映画『語らずに死ねるか!』観賞会(収録会参加者でDVDを観ます。)

夜、現地の方と懇親会
七ヶ浜生涯学習センター

七ヶ浜生涯学習センター

7月29日(木)の西東北チームからのレポート、今度は七ヶ浜町生涯学習センターで聞き取りを行った別働隊の様子です。
まずは伺ったお話の概要です。

◆◆◆

◎唐牛誠さん

○和歌山高等商業学校を六ヶ月の繰り上げ卒業後、富士電機で潜水艦の内装設計に携わる。(一ヶ月間のみ。このわずかな間で旋盤で金属を削るときの削りクズを大幅に減らす方法を考案)
○S18年11月1日、奈良県歩兵第153連隊へ現役入隊。
・三週間後、三江省富錦(フキン)の独立守備歩兵第25大隊の本部所属となり訓練。この間も班長が神戸高商出の人でしごきは一切なかった。
○一年後の19年12月、乙種幹部候補生の軍曹に。高商卒のため経理にまわされる。
○S20年7月、関東軍幹部教育隊に派遣を命ぜられる。
・8月8日ハルビン行きの客船(外輪船)に乗り、翌日ジャムスについたところで終戦を知る。
同地で編成中だった歩兵第365連隊第二大体に編入。この部隊は大隊長しかおらず、中隊長がいなかった。
・8月15日、中隊長がそろった時点でハルビンへ転進。
・その途中(16日)でソ連のアムール艦隊に遭遇。どっかの部隊が速射砲をぶっ放す。気づいた艦艇に返り討ち。
そのとき雨でぬかるんだ道の泥が左耳に入り聞こえなくなる(戦後医者に行ったら耳の骨が腐るほどのひどい中耳炎になっていたことがわかった。)。
・8月18日、武装解除され、第二十一収容所に抑留。
○S22年7月、高砂丸で復員。戦後教師に。

◆◆◆

せっかく公民館を借りての聞き取りになったので、もっとお客さんがあってもよかったかもしれない、というくらい、積極的にお話しくださったようです。

別働隊は、28日午後から青春18切符を利用して宮城県入りし、本塩釜の公園で1泊。(野宿!?)
現地の親切な方に、会場まで車に乗せていただいて、この収録に臨んだそうです。
聞き取りの後は、雨のため漫画喫茶に宿泊しつつ、この報告を送ってくれました。
見事なまでの貧乏旅行というか、さすが若者、というかんじですが、あんまり無理はしないよう、安全第一で旅をしてほしいと思います。
道中気をつけて、いい旅を。