あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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援護関係のことを勉強する必要があると言いつつ、資料を購入するには至らない懐事情があります。
しょうけい館に通った方がいいんだろうかと思いつつ、ネットで見られる簡単なところからちょっとメモしていこうかと思います。

援護金の種類について、那覇市のHPから引用してみてみましょう。

◆◆◆

援護金の種類
.
1 障害年金
軍人、軍属、又は準軍属(一般邦人で軍命により戦闘等に参加した者)であった者が公務上の傷病により、一定程度以上の障害を有するにいたった場合に年金として支給されます。

2 遺族年金
軍人軍属が公務上の傷病等に起因して死亡した場合、または障害年金受給者が死亡した場合に、その遺族に年金として支給されます。

3 遺族給与金
準軍属の遺族、または準軍属であった障害年金受給者が死亡した場合に、その遺族に年金として支給されます。

4 弔慰金
軍人軍属等が公務傷病又は勤務関連の傷病により死亡した場合、死亡当時の3親等内の親族(死亡当時のその者と生計を同じくした者に限る)のうち最先順位者に、一時金として1度のみ支給されます。(10年償還の国庫債券にて額面30,000円又は50,000円)。

5 戦没者の遺族等に対する特別弔慰金
戦没者の死亡に関し、公務扶助料・遺族年金等を受ける権利を有している者がすべて失権している時に、3親等内の遺族に記名国債(10年償還)をもって支給される一時金です。申請時期は、戦後何十周年という機会に法律改正によって決められています。

6 戦傷病者の妻、戦没者の妻、戦没者の父母等に対する特別弔慰金
戦傷病者等の妻に対する特別給付金支給法、戦没者等の妻に対する特別給付金支給法、戦没者の父母等に対する特別給付金支給法により特別給付金が支給されます。記名国債(10年または5年償還)をもって支給される一時金で、10年または5年ごとの法律改正により申請時期が決められています。

7 対馬丸遭難学童遺族特別支出金
戦時疎開目的で対馬丸に乗船し、同船が昭和19年8月22日鹿児島県の悪石島沖で敵潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没した際に死亡した疎開児童の父母に対し、毎年支給されます。

◆◆◆

沖縄の場合なので、7の対馬丸遭難学童遺族特別支出金というのが特別なものとして目立ちます。
援護金の種類で分類すると、
・対象:本人、妻、両親、三親等以内の遺族
・給付時期:毎年、1回のみ、数年に1度
というので整理できそうです。

実際の整理は、国の法律などと照らし合わせてからやるのがいいでしょうか。
項目別の内容を簡潔にまとめてあったので、今回は那覇市のHPをもとにしてみましたが、こういう一目瞭然な形でまとめてあるものをいくつか探してみようかと思います。
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ニューギニアの戦いの主な経過です。
5月2日から始まる「松村幸子さんの戦争展 夫と、父と、私の戦争」に合わせ、まずはニューギニアの戦いについて。

●1942年(昭和17年)
3月8日 - 日本軍が東部ニューギニアのラエとサラモアに上陸
5月8日 - 日本軍(南海支隊)はポートモレスビーを海路攻略するためラバウルを出港していたが、珊瑚海海戦の発生により海路攻略を中止
7月21日 - 日本軍の南海支隊先遣隊がポートモレスビーを陸路攻略するためブナに上陸
8月24日 - 日本軍(海軍陸戦隊)がニューギニア東端のラビの攻略を開始。攻略は失敗し9月初旬に撤退
9月16日 - 南海支隊がポートモレスビーの灯が見えるイオリバイワまで進撃したものの、米軍ガダルカナル島上陸部隊撃滅が頓挫したことを受け撤退を開始。ポートモレスビー陸路攻略を断念する。
11月9日 - 日本軍はニューギニアを管轄する第18軍を新設(これまでは第17軍がソロモンとニューギニアの両方を管轄)
11月中旬 - 連合軍がブナの攻略を開始
12月18日 - 日本軍がマダンとウェワクに上陸(日本軍がフォン半島の西側に初めて進出)

●1943年(昭和18年)
1月2日 - 日本軍のブナ守備隊が玉砕
1月中旬 - 日本軍がサラモア南西の山間部にあるワウの攻略を開始。攻略は失敗し2月に撤退
3月2日~3日 - ラバウルからラエに向かう日本の輸送船団が壊滅(ダンピールの悲劇)
3月18日 - 秋風事件
4月7日~14日 - い号作戦 (ソロモン諸島と東部ニューギニア方面で日本海軍が行った航空作戦)
6月30日 - サラモア周辺のオーストリア軍が積極攻勢に出るとともに、アメリカ軍がナッソー湾(サラモアの南30Km)に上陸。(連合軍のカートホイール作戦に基づく進撃の始まりで、同日、中部ソロモンでもアメリカ軍がレンドバ島に上陸)
8月17日~18日 - 連合軍がウェワクとブーツ(ウェワクの西)の日本軍飛行場を奇襲空襲。日本軍は約100機(半数以上)の航空機を失う
9月4日~5日 - オーストラリア軍がホポイ(ラエの東側)に上陸、アメリカ軍空挺部隊がナザブ(ラエの西側)に降下
9月11日 - 連合軍がサラモアを奪還
9月16日 - 連合軍がラエを奪還
9月中旬~10月末 - サラモア、ラエの残存日本軍(第51師団ほか)が山を越えてキアリに撤退(サラワケット越え)
9月22日 - オーストラリア軍がフィンシュハーフェン(フォン半島先端)に上陸
10月中旬~12月 - 日本軍(第18軍第20師団)はフィンシュハーフェンを攻撃するが失敗し撤退(12月19日に撤退命令が出る)
10月30日 - 西部ニューギニアを含めた豪北方面を第2方面軍の担当とする組織変更が行われる。第2方面軍の下に第2軍を新設
12月15日 - アメリカ軍がニューブリテン島西部(ダンピール海峡を挟んでフォン半島の対岸)のマーカス岬に上陸。続いてグロスター岬に上陸(12月26日)
12月25日 - 日本軍(第2軍第36師団)がサルミに上陸。12月27日に第36師団ビアク支隊がビアク島に上陸

●1944年(昭和19年)
1月2日 - アメリカ軍がマダンとキアリの間のサイドル(グンビ岬)に上陸(連合軍がフォン半島の西側に進出)
1月下旬~2月下旬 - キアリ等のグンビ岬以東の日本軍(第18軍第20師団、第51師団)が山の中を行軍してマダンに撤収
2月29日 - アメリカ軍がアドミラルティ諸島(ニューブリテン島の北西)に上陸。島の日本軍は玉砕し、アメリカ軍は5月6日に作戦終結を宣言。アドミラルティ諸島は連合軍の基地として整備され、さらに西へ進撃する連合軍の重要拠点になる。これで連合軍のカートホイール作戦の目標の「ラバウルの無力化」が達成される
3月25日 - 第18軍と第4航空軍を第8方面軍配下から第2方面軍配下とする組織変更が行われる(ダンピール海峡の制空、制海権が完全に失われラバウルからニューギニアを指揮できなくなったため)
3月中旬~6月 - マダン等のウェワク以東の日本軍が大湿地帯を行軍してウェワクに撤収
3月30日~31日 - ホーランジア上陸の準備として近隣の日本軍の航空、海上戦力を排除するためにアメリカ軍空母部隊がパラオを空襲
3月30日~4月3日 - 連合軍がホーランジアの日本軍飛行場を空襲。日本軍は100機以上の航空機を失う
4月22日 - アメリカ軍がホーランジアとアイタペに上陸(連合軍の飛び石作戦の始まり)
5月17日 - アメリカ軍がサルミ(ホーランジアとマノクワリの間)に上陸。翌18日にサルミの沖合のワクデ島に上陸
5月27日 - アメリカ軍がビアク島に上陸
6月4日 - 渾作戦でビアク島に向かっていた日本軍(海上機動第2旅団)がソロンに上陸(ビアク島に向かっていたが果たせず、ソロンに上陸)
6月20日 - 第18軍を第2方面軍配下から南方軍配下とする組織変更が行われる
7月2日 - アメリカ軍がヌンホル島(マノクワリの東方沖)に上陸
7月10日~8月 - 日本軍(ウェワクの第18軍)はアイタペを攻撃するが失敗し撤退(8月4日に撤退命令が出る)
7月30日 - アメリカ軍がサンサポール(マノクワリとソロンの間)に上陸

●1945年(昭和20年)
9月9日 - 日本軍(第2軍)が降伏
9月13日 - 日本軍(第18軍)が降伏


どちらかというと「大戦とその前後」を書くうちに必要になって来たので、各戦地の年譜をいつでも見られるようにしようと思いました。
といいつつ、今回のこれはwikipediaからの丸写しです。
1時間余り、家にある戦争関係の本をあさりましたが、どうも戦地ごとのちゃんとした年表を作れそうではなかったので、ネットの民の力を借りることにしました。
5月の展示では、こういう方面はどのくらい展示物としてあるのか、まだ私は知りません。
ともかく、まずは他力本願ですが、今後この方面は充実させたいです。まず自分のために。
昨日お知らせした特集の「島田実験所」というのを聞いて、保存の会メンバーは、だれも正確な情報を持ち合わせていませんでした。
番組を見ればわかることではありますが、ここは少々なりとも予習をしておくことにします。

島田実験所は、旧海軍の施設で、はじめは島田市の街中にあったようです。空襲の激化とともに、大井川沿いの牛尾山の山中に移転。工事中に崩落が起こって、施設そのものは完成しなかったけれども、実験は続けられたとのこと。
その実験で何を開発していたかというと、「最終兵器Z」。
マグネトロンというものを使って電磁波を発生させ、パラボラアンテナのようなもので敵の飛行機等へ照射、結果発熱、爆発させるといったもの。電子レンジと同じ原理ということです。

ということは、陸軍登戸研究所の「怪力線」と同じようなものということになります。海軍の方でも独自に開発していたのですね。
研究所では、湯川秀樹らも招かれて講義を行ったそうです。

この島田実験所、アンテナの土台らしきものなど、構造がわかる形で残っているのですが、大井川の改修工事で牛尾山ごと削られる対象となりました。そのために、初の発掘調査が行われることになったとのことで、番組もそのタイミングで制作されたということになるのでしょうか。
調査が行われることになったというニュースが出たのが昨年2013年の3月ごろで、報道陣に公開されたのが今年の2月ごろ?のようなので、時期的にはもう崖っぷちです。
ネットで調べている限りでは、現在どういう状況なのかというのはわかりません。
69年の歳月を経て解体に向かうというのもまた陸軍登戸研究所と同じような運命ですが、登戸の方は1棟が資料館として残されました。
島田実験所も、何かしらその本体を残す道があればと思うのですが、どうなったのでしょう。

つづきは番組で、ではないですが、そこに答えがあるのはたぶん確かです。
百人展in仙台情宣の旅の報告が続いたところで、今日7月10日が仙台大空襲の日です。
ここで、仙台大空襲について調べてみることにしました。

現在これを書いているのが0:00を回ってすぐですが、69年前のちょうどこのくらいの時間から、空襲が始まったのでした。そして、2時間ほどにわたって、焼夷弾の雨が降り注ぎます。その数、10,961発。市街は焼け野原となり、2755人が亡くなりました。
米軍は事前に、「仙台よい町 森の町 7月10日は灰の町」と印刷したビラを空から撒き、空襲を予告していたということが、wikipedia等に出てきます。明らかに人口密集地を狙った空襲だったとされています。

仙台市戦災復興記念展の名の通り、戦災からの復興が、大空襲と切り離せないものであるようです。
大空襲の際、仙台市電も破壊されたものの、車庫にあった車両は無事で、翌日から折り返し運転を行って、戦災復興の第一歩となったそうです。
その後の復興計画とその実行も特筆すべきものがあったということで、この辺りは、東日本大震災からの復興にも通じるものがあるような気がしました。

全国キャラバンに加えて百人展開催で、各地の戦災に触れることも多くなりました。
忘れてはならない日が、また増えました。
昨日紹介した、沖縄キャラバン2012の石垣島での聞き取りの様子に関して、多少の補足を試みます。
「鉄血勤皇隊は中3からだと思っていた」「勤労動員では?」とのコメントを見て、気になりましたので。
報告をしているメンバーの方が、大戦全般についての知識は、ブログ係より相当あります。しかし、鉄血勤皇隊等については勉強会でもやっていないので、保存の会のメンバーみんなよくわからない面が多い状況です。昨日は、その辺をあえてそのままにしてメーリングリストを引用しました。

学徒隊に関する資料をあたってみると、八重山農学校及び八重山中学校の鉄血勤皇隊は、2年生以上の生徒で編成されたとされています。
両校の2年生以上、合わせて200名余り(正確な人数は不明)。通信班、対空監視班、迫撃班の3つに分けられ、さらに通信班は有線班、無線班、暗号班に分けられたとのこと。

というわけで、2年生からは普通に鉄血勤皇隊になったようです。
鉄血勤皇隊編成よりだいぶ先立つ1944年初頭から、飛行場建設や陣地構築のための動員が始まっており、そのころは国民学校の児童も駆り出されていたということです。
ちなみに、八重山農学校は1937年、八重山中学校は1943年の開校。開校したころはすでに戦時体制という状況であり、1944年には校舎は軍に接収されてしまいます。さらに、八重山高等女学校は、1942年に設立され1945年3月にようやく完成した校舎が、陣地の建築資材確保のために2ヶ月後には解体されたそうです。

昨日の報告で、通いの鉄血勤皇隊の作業内容が飛行場偽装や壕掘りということから、勤労動員ではないかという疑問が出ていることについてですが、両者を区別するおそらく決定的なポイントがあります。
それは、鉄血勤皇隊は2等兵であるという点です。階級章がもらえなかったところもあったようですが、そういう場合でも、それぞれの部隊の2等兵という扱いになっています。
今回お話を伺った方の証言にその辺りが出てきていたのかどうかはわかりませんが、確認してみるのがよいポイントでしょう。

護郷隊の場合も、2等兵として入隊しています。
この辺は、捕虜になったとき等、軍人か民間人かで分けられる際に影響する場合があったようです。

まさに、聞き取りのために覚えておいた方がよさそうな点ですが、実際お話を伺ってみて気がつくようなことでもあるなと思います。


参考資料:ひめゆり平和祈念資料館資料集4「沖縄戦の全学徒隊」

その他、内閣府沖縄戦関係資料閲覧室でいくつかの書籍を見てまとめました。
他の戦地についても、近くに資料館があるといいなあと思う今日この頃です。補足説明関係、もう少しいろいろな方面でやれたらいいなと。