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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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65年前の私たちの戦場体験を放映保存する
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戦場体験史料館までの道順
昨年の「沖縄の戦争展」で、参考として展示の一角に貼った年表です。
沖縄県平和祈念資料館 第15回特別企画展「南洋の群星が見た理想郷と戦」 図録に掲載されていた内容を手打ちしたものです。
7月の沖縄イベントでは、年表は展示しないことになったので、ここに参考までに掲載します。
展示では、パネルに関係のある出来事を注釈的につけるという形になる模様です。

◆◆◆

1565(永禄8)年 マリアナ諸島がスペイン領東インドの一部として植民地化される。
1898(明治31)年 米西戦争の結果、グアムが米領となる。
1914(大正3)年7月 第一次世界大戦勃発。
ドイツ敗退により、日本海軍がドイツ領南洋諸島を占領
12月 日本海軍臨時南洋群島防衛隊条例を発布、司令部をトラック島に置く。占領区域を5つに分ける。
1915(大正4)年1月 南洋占領諸島施政方針を制定。
1918(大正7)年1月 民生部を設置。海軍軍政から民政への移行が進む。
1919(大正8)年5~6月 日本の南洋群島C式委任統治の受任決定。ヴェルサイユ条約で確認される。
1920(大正9)年12月 国際連盟が「南洋群島に対する日本帝国の委任統治条項」に調印。日本は南洋群島の受任国となる。
1921(大正10)年11月 松江春次が南洋興発株式会社を設立。
1922(大正11)年3月 パラオ諸島コロール島に委任統治機関・南洋庁本庁を置いて民政に移行する。(以後、1944年まで統治) 
南洋群島全体を6つの行政区に区分、各支庁を置く(サイパン・ヤップ・パラオ・トラック・ポナペ・ヤルート)。
南洋興発株式会社が、沖縄から移民を募集。成年男子のみ540人がサイパンへ渡り、工場建設にあたる。 妻子の呼び寄せも始まる。
4月 島民児童を対象とした島民学校を「公学校」へ改名する。
1923(大正12)年 南洋興発株式会社が製糖業を許可され、本店を東京からサイパン島チャランカノアへ移す。
1926(大正15)年 南洋興発株式会社が新たにテニアン島の開発を請け負う。
1929(昭和4)年 旧南洋群島の沖縄県出身在留者が8,289人に達する。
1930(昭和5)年1月 テニアン島で製糖開始。
1931(昭和6)年9月 満州事変勃発(15年戦争始まる。)
大城商会が那覇~サイパン直行便を就航させる。
1932(昭和7)年 旧南洋群島の沖縄県出身在留者が15,942人に達する。
1933(昭和8)年3月 日本が国際連盟脱退を通告。以後、「海の生命線」として南洋群島の軍事基地化を進めていく。
1937(昭和12)年7月 盧溝橋事件勃発(全面日中戦争へ)。
1939(昭和14)年 旧南洋群島の沖縄県出身在留者が45,701人に達する。
1941(昭和16)年12月8日 日本軍がハワイの真珠湾を攻撃、太平洋戦争が始まる。
1942(昭和17)年6月5日 ミッドウェー海戦で日本海軍大敗する。日本は主力空母4隻と艦載機を失い、日米の空海戦力比が逆転する。
旧南洋群島の沖縄県出身在留者が54,854人に達する。
1943(昭和18)年2月1日 日本軍はガダルカナル島撤退を開始。太平洋の主導権が日本からアメリカに移る。
9月30日 「絶対国防圏」が設定される。
11月 南洋庁は機構改革を実施。 
戦時行政移行に伴い、支庁を西部・東部・北部の3支庁に統合。 
軍の命令で南洋庁は、老幼婦女子の「内地送還」を具体化、日本本土と台湾へ強制送還。
1944(昭和19)年2月~ 赤城丸、亜米利加丸他12隻が南洋群島海域で爆沈、引き揚げ者多数が被害に遭う。 
サイパン地区、パラオ地区の老幼婦女子の引揚げが強制される。
16~60歳の男性は基地建設と戦闘要員として強制在島。
2月23日 サイパン島・テニアン島等、マリアナ諸島が米軍によって初めて空襲される。(正午頃)
3月30日 米軍がパラオを空襲する(8時40分~17時30分)。
6月11日 米軍がサイパン島・テニアン島・ロタ島へ本格的な空襲をおこなう。
6月15日 米軍がサイパン島に上陸。
6月18日 サイパン島のアスリート飛行場が占領される。
6月20日 サイパン島では、仮設収容所に収容されていた日本人民間人がススッペキャンプへ移動させられる。
7月7日 サイパン島の日本軍玉砕。組織的抵抗終了。
7月24日 米軍がテニアン島に上陸。 
テニアンを占領した米軍は、日本人・沖縄県人・朝鮮人をチューロキャンプに収容。
8月3日 テニアン島の日本軍玉砕、組織的抵抗終了。
10月10日 10・10空襲
11月24日 マリアナ諸島より出撃したB29が初の本土空襲を行う。以後、本土空襲が本格化する。
1944(昭和19)年12月~1945(昭和20)年1月 テニアン島のチューロキャンプ内にテニアンスクール(日本人学校)が設置される。
3月10日 東京大空襲
4月1日 米軍が沖縄本島に上陸開始。
6月23日 沖縄戦の組織的戦闘終結。
8月6日 テニアン島から出発したB29爆撃機「エノラ・ゲイ」が広島に原爆投下。
8月9日 テニアン島から出発したB29爆撃機「ボックス・カー」が長崎に原爆投下。
8月15日 ポツダム宣言受諾。天皇による敗戦の玉音放送が行われる。
9月7日 南西諸島の日本軍が降伏文書に調印(沖縄戦の公式な終結)。
10月 旧南洋群島在島の軍人・軍属の強制送還
12月 米軍は居住10年未満のすべての外国人を、特別の許可がない限りマリアナ諸島から引揚げさせることを決定。
1946(昭和21)年1月~5月 民間人の内地送還開始。沖縄への帰還者は直接沖縄へ引揚げ、中城湾久場崎に上陸。
6月 沖縄への引揚げ終了(33,075人)
1947(昭和22)年 米軍の占領下におかれていたミクロネシアは、米軍を統治国とする国際連合信託統治領となる。
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援護関係のことを勉強する必要があると言いつつ、資料を購入するには至らない懐事情があります。
しょうけい館に通った方がいいんだろうかと思いつつ、ネットで見られる簡単なところからちょっとメモしていこうかと思います。

援護金の種類について、那覇市のHPから引用してみてみましょう。

◆◆◆

援護金の種類
.
1 障害年金
軍人、軍属、又は準軍属(一般邦人で軍命により戦闘等に参加した者)であった者が公務上の傷病により、一定程度以上の障害を有するにいたった場合に年金として支給されます。

2 遺族年金
軍人軍属が公務上の傷病等に起因して死亡した場合、または障害年金受給者が死亡した場合に、その遺族に年金として支給されます。

3 遺族給与金
準軍属の遺族、または準軍属であった障害年金受給者が死亡した場合に、その遺族に年金として支給されます。

4 弔慰金
軍人軍属等が公務傷病又は勤務関連の傷病により死亡した場合、死亡当時の3親等内の親族(死亡当時のその者と生計を同じくした者に限る)のうち最先順位者に、一時金として1度のみ支給されます。(10年償還の国庫債券にて額面30,000円又は50,000円)。

5 戦没者の遺族等に対する特別弔慰金
戦没者の死亡に関し、公務扶助料・遺族年金等を受ける権利を有している者がすべて失権している時に、3親等内の遺族に記名国債(10年償還)をもって支給される一時金です。申請時期は、戦後何十周年という機会に法律改正によって決められています。

6 戦傷病者の妻、戦没者の妻、戦没者の父母等に対する特別弔慰金
戦傷病者等の妻に対する特別給付金支給法、戦没者等の妻に対する特別給付金支給法、戦没者の父母等に対する特別給付金支給法により特別給付金が支給されます。記名国債(10年または5年償還)をもって支給される一時金で、10年または5年ごとの法律改正により申請時期が決められています。

7 対馬丸遭難学童遺族特別支出金
戦時疎開目的で対馬丸に乗船し、同船が昭和19年8月22日鹿児島県の悪石島沖で敵潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没した際に死亡した疎開児童の父母に対し、毎年支給されます。

◆◆◆

沖縄の場合なので、7の対馬丸遭難学童遺族特別支出金というのが特別なものとして目立ちます。
援護金の種類で分類すると、
・対象:本人、妻、両親、三親等以内の遺族
・給付時期:毎年、1回のみ、数年に1度
というので整理できそうです。

実際の整理は、国の法律などと照らし合わせてからやるのがいいでしょうか。
項目別の内容を簡潔にまとめてあったので、今回は那覇市のHPをもとにしてみましたが、こういう一目瞭然な形でまとめてあるものをいくつか探してみようかと思います。
ニューギニアの戦いの主な経過です。
5月2日から始まる「松村幸子さんの戦争展 夫と、父と、私の戦争」に合わせ、まずはニューギニアの戦いについて。

●1942年(昭和17年)
3月8日 - 日本軍が東部ニューギニアのラエとサラモアに上陸
5月8日 - 日本軍(南海支隊)はポートモレスビーを海路攻略するためラバウルを出港していたが、珊瑚海海戦の発生により海路攻略を中止
7月21日 - 日本軍の南海支隊先遣隊がポートモレスビーを陸路攻略するためブナに上陸
8月24日 - 日本軍(海軍陸戦隊)がニューギニア東端のラビの攻略を開始。攻略は失敗し9月初旬に撤退
9月16日 - 南海支隊がポートモレスビーの灯が見えるイオリバイワまで進撃したものの、米軍ガダルカナル島上陸部隊撃滅が頓挫したことを受け撤退を開始。ポートモレスビー陸路攻略を断念する。
11月9日 - 日本軍はニューギニアを管轄する第18軍を新設(これまでは第17軍がソロモンとニューギニアの両方を管轄)
11月中旬 - 連合軍がブナの攻略を開始
12月18日 - 日本軍がマダンとウェワクに上陸(日本軍がフォン半島の西側に初めて進出)

●1943年(昭和18年)
1月2日 - 日本軍のブナ守備隊が玉砕
1月中旬 - 日本軍がサラモア南西の山間部にあるワウの攻略を開始。攻略は失敗し2月に撤退
3月2日~3日 - ラバウルからラエに向かう日本の輸送船団が壊滅(ダンピールの悲劇)
3月18日 - 秋風事件
4月7日~14日 - い号作戦 (ソロモン諸島と東部ニューギニア方面で日本海軍が行った航空作戦)
6月30日 - サラモア周辺のオーストリア軍が積極攻勢に出るとともに、アメリカ軍がナッソー湾(サラモアの南30Km)に上陸。(連合軍のカートホイール作戦に基づく進撃の始まりで、同日、中部ソロモンでもアメリカ軍がレンドバ島に上陸)
8月17日~18日 - 連合軍がウェワクとブーツ(ウェワクの西)の日本軍飛行場を奇襲空襲。日本軍は約100機(半数以上)の航空機を失う
9月4日~5日 - オーストラリア軍がホポイ(ラエの東側)に上陸、アメリカ軍空挺部隊がナザブ(ラエの西側)に降下
9月11日 - 連合軍がサラモアを奪還
9月16日 - 連合軍がラエを奪還
9月中旬~10月末 - サラモア、ラエの残存日本軍(第51師団ほか)が山を越えてキアリに撤退(サラワケット越え)
9月22日 - オーストラリア軍がフィンシュハーフェン(フォン半島先端)に上陸
10月中旬~12月 - 日本軍(第18軍第20師団)はフィンシュハーフェンを攻撃するが失敗し撤退(12月19日に撤退命令が出る)
10月30日 - 西部ニューギニアを含めた豪北方面を第2方面軍の担当とする組織変更が行われる。第2方面軍の下に第2軍を新設
12月15日 - アメリカ軍がニューブリテン島西部(ダンピール海峡を挟んでフォン半島の対岸)のマーカス岬に上陸。続いてグロスター岬に上陸(12月26日)
12月25日 - 日本軍(第2軍第36師団)がサルミに上陸。12月27日に第36師団ビアク支隊がビアク島に上陸

●1944年(昭和19年)
1月2日 - アメリカ軍がマダンとキアリの間のサイドル(グンビ岬)に上陸(連合軍がフォン半島の西側に進出)
1月下旬~2月下旬 - キアリ等のグンビ岬以東の日本軍(第18軍第20師団、第51師団)が山の中を行軍してマダンに撤収
2月29日 - アメリカ軍がアドミラルティ諸島(ニューブリテン島の北西)に上陸。島の日本軍は玉砕し、アメリカ軍は5月6日に作戦終結を宣言。アドミラルティ諸島は連合軍の基地として整備され、さらに西へ進撃する連合軍の重要拠点になる。これで連合軍のカートホイール作戦の目標の「ラバウルの無力化」が達成される
3月25日 - 第18軍と第4航空軍を第8方面軍配下から第2方面軍配下とする組織変更が行われる(ダンピール海峡の制空、制海権が完全に失われラバウルからニューギニアを指揮できなくなったため)
3月中旬~6月 - マダン等のウェワク以東の日本軍が大湿地帯を行軍してウェワクに撤収
3月30日~31日 - ホーランジア上陸の準備として近隣の日本軍の航空、海上戦力を排除するためにアメリカ軍空母部隊がパラオを空襲
3月30日~4月3日 - 連合軍がホーランジアの日本軍飛行場を空襲。日本軍は100機以上の航空機を失う
4月22日 - アメリカ軍がホーランジアとアイタペに上陸(連合軍の飛び石作戦の始まり)
5月17日 - アメリカ軍がサルミ(ホーランジアとマノクワリの間)に上陸。翌18日にサルミの沖合のワクデ島に上陸
5月27日 - アメリカ軍がビアク島に上陸
6月4日 - 渾作戦でビアク島に向かっていた日本軍(海上機動第2旅団)がソロンに上陸(ビアク島に向かっていたが果たせず、ソロンに上陸)
6月20日 - 第18軍を第2方面軍配下から南方軍配下とする組織変更が行われる
7月2日 - アメリカ軍がヌンホル島(マノクワリの東方沖)に上陸
7月10日~8月 - 日本軍(ウェワクの第18軍)はアイタペを攻撃するが失敗し撤退(8月4日に撤退命令が出る)
7月30日 - アメリカ軍がサンサポール(マノクワリとソロンの間)に上陸

●1945年(昭和20年)
9月9日 - 日本軍(第2軍)が降伏
9月13日 - 日本軍(第18軍)が降伏


どちらかというと「大戦とその前後」を書くうちに必要になって来たので、各戦地の年譜をいつでも見られるようにしようと思いました。
といいつつ、今回のこれはwikipediaからの丸写しです。
1時間余り、家にある戦争関係の本をあさりましたが、どうも戦地ごとのちゃんとした年表を作れそうではなかったので、ネットの民の力を借りることにしました。
5月の展示では、こういう方面はどのくらい展示物としてあるのか、まだ私は知りません。
ともかく、まずは他力本願ですが、今後この方面は充実させたいです。まず自分のために。
昨日お知らせした特集の「島田実験所」というのを聞いて、保存の会メンバーは、だれも正確な情報を持ち合わせていませんでした。
番組を見ればわかることではありますが、ここは少々なりとも予習をしておくことにします。

島田実験所は、旧海軍の施設で、はじめは島田市の街中にあったようです。空襲の激化とともに、大井川沿いの牛尾山の山中に移転。工事中に崩落が起こって、施設そのものは完成しなかったけれども、実験は続けられたとのこと。
その実験で何を開発していたかというと、「最終兵器Z」。
マグネトロンというものを使って電磁波を発生させ、パラボラアンテナのようなもので敵の飛行機等へ照射、結果発熱、爆発させるといったもの。電子レンジと同じ原理ということです。

ということは、陸軍登戸研究所の「怪力線」と同じようなものということになります。海軍の方でも独自に開発していたのですね。
研究所では、湯川秀樹らも招かれて講義を行ったそうです。

この島田実験所、アンテナの土台らしきものなど、構造がわかる形で残っているのですが、大井川の改修工事で牛尾山ごと削られる対象となりました。そのために、初の発掘調査が行われることになったとのことで、番組もそのタイミングで制作されたということになるのでしょうか。
調査が行われることになったというニュースが出たのが昨年2013年の3月ごろで、報道陣に公開されたのが今年の2月ごろ?のようなので、時期的にはもう崖っぷちです。
ネットで調べている限りでは、現在どういう状況なのかというのはわかりません。
69年の歳月を経て解体に向かうというのもまた陸軍登戸研究所と同じような運命ですが、登戸の方は1棟が資料館として残されました。
島田実験所も、何かしらその本体を残す道があればと思うのですが、どうなったのでしょう。

つづきは番組で、ではないですが、そこに答えがあるのはたぶん確かです。
百人展in仙台情宣の旅の報告が続いたところで、今日7月10日が仙台大空襲の日です。
ここで、仙台大空襲について調べてみることにしました。

現在これを書いているのが0:00を回ってすぐですが、69年前のちょうどこのくらいの時間から、空襲が始まったのでした。そして、2時間ほどにわたって、焼夷弾の雨が降り注ぎます。その数、10,961発。市街は焼け野原となり、2755人が亡くなりました。
米軍は事前に、「仙台よい町 森の町 7月10日は灰の町」と印刷したビラを空から撒き、空襲を予告していたということが、wikipedia等に出てきます。明らかに人口密集地を狙った空襲だったとされています。

仙台市戦災復興記念展の名の通り、戦災からの復興が、大空襲と切り離せないものであるようです。
大空襲の際、仙台市電も破壊されたものの、車庫にあった車両は無事で、翌日から折り返し運転を行って、戦災復興の第一歩となったそうです。
その後の復興計画とその実行も特筆すべきものがあったということで、この辺りは、東日本大震災からの復興にも通じるものがあるような気がしました。

全国キャラバンに加えて百人展開催で、各地の戦災に触れることも多くなりました。
忘れてはならない日が、また増えました。